廿一日 あさとく山岨のみちをくれば、山谷の紅葉いとよし。こを、しばし見つゝたゝずみて、
うすくこき蜂の?の紅に山ははぐろの名に似ざりけり
瀬川(添川-東田川郡藤島町)、二か沢、添津、山崎、苅河(以上立川町)、かゝるところを過来れば、阿古谷稲荷と華表(とりい)に名のりたる前にぬかづく人あり。
いかなる神にておまし奉るといへば、このところこそ、みちのおくに名だかき、あこやの松にて侍れ。
いにしへはこゝもみちのおくにて、今は出羽とぞなりぬ。
その松もいまはくちて、かゝること木の松をうへてけるといひて、山みちにさりぬ。
ちいさき川をへだてて、さゝやかの祠のありける。いかなる神にてわたらせ給ふやらん、とはざるはくやし。
鳥海山いとよく晴て、のこるかたなう見やられたるに、
あまづとふしらふの雪の俤はつねさえなく鳥の海山
古杉(古関)邑、まはたで(廻館)村(東田川郡余目町)に入ぬ。
比里のうしろの沼を古川といひて、いにしへ最上川こゝにながれしとて人のおしへぬ。
余目(アマルミ)の里(余目町)のなにがしが宿にとまる。
くれうち過る頃より、かね、つゞみにはやしありくは、ぼうおくりなりけるといふ。
ぼうとは、ゑやみなどをいへり。
廿二日 つとめて新掘(酒田市)といふところより、いなにはあらぬとずして最上川のきしに至りて、こぎ出る舟をしばし/\といへど、さらに耳にも聞入ず過たりけるをねたくおもひて、こたへも波ばやに
渡しもりよべどつれなくもがみ川いなとこたへてくだすいなふね
やゝふねのよせたるにのりて、からくしてきしにあがりぬ。
三尺あまりの弓腰におびたる、老尼のめくらどちの、おなじどちの綱にひかれありくは、梓巫女なりけるとぞ。
馬いくらも曳行が、尾かみみな巻つかねたるは、ところのならはしとなん。
すぎやう(修行)者ふたり羽黒山にまうでのぼるといふに、阿古谷の神に手向ばやとて、歌ひとつ作りて此たよりにたぐふ。
まもります神にとはなんふた葉よりあこやの松のありし昔を
「みちのくのあこやのまつに木隠れて」と、ずしつゝ別たり。
此辺にてやあらんか、
「みちのくに近き出羽のいたしきの山にとしふるわれぞわびしき」
と聞えたる山は、いづことゝヘば、其板敷山こそ清川の里(東田川郡立川町)の川むかひにて侍れ。
こなたよりは見え侍らぬと、里の子のいへり。
酒田のうまやに入て、吹浦の関こへん料に、せき手(関手形)とりて行。
「袖の浦の波吹かへす秋風に雲の上まで涼しかるらん」
と聞えしは、宮の浦のこと也けれど、今はもはら、このさかたをさして袖の浦とのみいひならはせり。
此磯ちかく行ば、高波ひとつうち上たるに、みの笠いたくぬれたるをわびて、
旅衣なみにぬれたる袖の浦たちこそわぶれほすひまもがな
「忍がねしほひもしらぬ」とよみ給ひしは、洞院摂政さきの左をとゞの、新続古今恋の中に聞え給ひしは、まことに、みちひなき北の海のそこまで、おもひこし給ふことのめでたしとゝなふ。
路のかたはらにわらうだしきて、そが上に、あしながのわらぐつ、五色の紙のみてぐら、かはらけのさらに糸つらぬきて長箸そへたるは、もがさの神祭るとてその家にものして、村さとのはしに捨たる也けり。阿良太女(新田目)といふところにくれたり。
廿三日 雨にぬれて新田目を出るとて、おもひつゞきたり。
たび衣たつより袖はかはかぬに何あらためて露のおくらん
ほどなく十日町といふ村をくれば、みち芝とて?畜といふ草をあめにぬれてつみありくは、この草雷盆にすりくだきて米に交てにでくらへば、いみじきはらの薬也とてつかねとりぬ。
尾落伏邑(飽海郡遊佐町)なる劔竜肥山永泉寺のふる寺見んとて、此みてらにあないして入て、書つたへたる書を見れば、出羽国庄内飽海郡大泉圧遊佐郷尾落伏村のかゝる寺は、人皇四十八代天武天皇御宇白鳳の年、鳥海山とおなじころ、役正角の闢(ひらき)給ひしところなり。
それよりもゝいそとせ(百五十年)をへて嵯蛾天皇の御代、烏海山に手長、足長といふ毒蛇ありて、ゆきゝの人をとりくらひてけり。
これを諸天万神めぐしとおぼし給ひて、梢にあやしの鳥をすませて、毒蛇居れば有哉と鳴き、あらねば無哉と鳴しとなん。
「武士の出さ入さにしをりせんとや/\鳥のうやむやの関」
「こしやせんこさでやあらんみちのくのとや/\どりのむや/\の関」
といふうたあり。
此せきの名を無哉/\、布耶/\、有耶無耶、伊耶無耶、母耶/\と聞えたり。
せき(関)のすヘ(据え)たりしふるあとは、三崎山の大師堂と女鹿(遊佐町)とのあはひをいふ。
慈覚大師、かの毒蛇降伏のため行ひありしといふ、其あとは、今いふ護摩の壇これなり。
かゝるをこなひのたうとさに毒蛇みなニツにやぶれて、頭は鳥海山の頂にと行、尾のつるぎはこゝに落たりけるとて、さる時より劔竜山といひき。
ところを尾おちぶし邑とよぶ。
又蛇体石といふ岩あり、その謂にやありけん。
はた文和(一三五二~五五)のころはひ本源道也といふ律師住給ひて、六百九十五年になりぬ。かくて、台密の両宗をこなはれしこと年久し。
又能登の国惣持寺(曹洞宗本山)なる峨山禅師の嫡嗣玄翁禅師、世中の名ある智識もとめ給ふとて国/\をへめぐり、此寺に至りて、比律師まみえ給へば、りし(律師)、玄翁のとこ(徳)にめでて、比りしを弟子とさだめて、りし寺をかくて玄翁禅肺にゆづり給ふ。
あくるとしの夏のころほひ、律師身まかりてより曹洞宗にながれたり。
玄翁禅師、水の辺にのぞみて、あがすがたをうつし、きだみなし給ふたる水鏡の御影とて、いと黒くすゝつけるを、とばりおしあけて拝みたり。
そのころ鳥羽の帝をおかし奉るきつね、下野国奈須野(那須野)の原の石となりて、空をとぶ禽、つちを走る獣、其石の毒にあたりてたふれ、はねをふためかして死うせ、ゆきゝの人もうちなやみければ、人皇百一代におまします後小松院の御時明徳二(一三九一)年庚午春、かまくらより惣持寺に、なすのゝ石の亡魂とぶらひてたうべと御つかひありしかば、まづ太徹禅師をつかはしたまふに、かの石の辺に、なにくれのしら骨雪のつもるがごとにみち/\て、そが前に近づき給へば、頑なる石の面に汗したりけるとぞ。
をりしも玄翁禅師、病ありて奈須(那須)の出湯に行てゆあみし給ふとて、この石にむかひて云、
「汝元来石頭、謂喚殺生石、霊従何来、受業報如是哉、去去、自今以後称弥仏、生真如全体」
といひて柱杖の石つきもて三たぴ撫で、会取せよ/\ととなへをはりたまへば、此石ふるひうごきて、たちまち三にやぶれてちりぬ。
かゝること、うたひもの(謡曲)にもしか聞えたり。
世中に石のたくみの石わるうつわを、比禅師の、みなをよぶこと、かゝるゆへにやありけん。後小松院、宣命給はりて大寂法王能照禅師と申奉る。
此能照禅師、応永三(一三九六)年丙子正月七日遷化し給ふ、おほん年七十二。その遣偈云、
「四大仮合七十二年、末后端的蹈飜鉄船」
と聞えき。
この寺の山内十景といふあるは、断巌古木、池橋新月、南滝遊魚、西渓鳴鳥、東嶺松風、北林竹雨、洞岸冷水、谷口石鼓、宝殿紫雲、丹山暮煙。
またこの山の七不思議といふは、一には開山禅師の木像、帳のうちに在して山のうちめぐり給ふ。
二には鎮守明神にしろき狐ありて、よしあしのさとしをせり。
三には、此寺に身にけがれある女通夜することあれば、わざはひをうく。
四には、たつのみやこより火ともして山をてらす、こころまめやかなる人これを見る。
五には、天狗この山を守りて其しるしをあらはしぬ。
六には池の蛙声なし。こは開山禅師みずきやう(御誦経)ありけるころ、池の蛙もろこゑに鳴てけるを、あなかまとのたまひしより、あまたありても鳴ことあたはじとなん。
七には盗人寺に入ば、えいでず。しかるゆやにや扉にかけがねをつくらずと、ひと巻のふみにかいのせたり。
比寺のふるきたからとて、簾のかけものあり。
たけ四尺、幅二尺、あしに鴈のかた、そがなかばには牡丹に胡蝶のつくり絵あらはれたるは世にめでたきもの也。
こは玉藻の前の調度にして、比寺にむかしより残りぬ。
玄翁禅師に給はりしものにやあらん。