これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。
息子が、小学校で使う郷土学習の副教材を見たときに思った。
自分も、こういう教材を使った勉強をしたかった。
私の小学校中学校時代は、こんなものはなかった。
副教材どころか、郷土学習の時間もなかった。
それが昭和30年代から40年という時代的なものだったのか、秋田県や田代町という地域的なものだったのだろうか。
だから、自分が育った秋田県というところが日本の地理や歴史の中でどんな位置付けにあるのかを、学んでいない。
まして、育った田代町という地域が、どのような所なのかも、知ることはなかった。
今、自分で勉強していると、驚くことが多い。
秋田県北秋田郡は、明治11年(1878年)の町村編制の施行により、それまでの出羽国秋田郡が北秋田郡と南秋田郡に分割され発足したものである。
北秋田郡が、鷹巣町など3町120村で、南秋田郡が秋田町など2町157村だった。
秋田郡は、天正18年(1560年)、豊臣秀吉朱印状によって、陸奥国比内郡を編入している。
比内郡は、概ねのちの北秋田郡と一致する。
比内郡、北秋田郡は、現在の秋田県の北東部にあたるが、16世紀までは、出羽国ではなく陸奥国であったということである。
山瀬村は、昭和31年に早口町と合併して、田代町となった。
山瀬村の「山瀬」というのは、明治22年の町村制の施行の際に、山田村と岩瀬村を合わせて発足したことから、それぞれの一字をとって命名したもので、よくあるパターンである。
田代町の「田代」は、町域の最高峰である田代岳の名称からとったものである。
田代岳は、その名のとおり頂上直下の九合目に120もの池塘がある高層湿原を持っており、伝説の白鬚大神を祀る田代山神社もあり、町名としてふさわしかったのだろう。
明治22年の北秋田郡発足の際に、3町120村だったのが、現在は上小阿仁村(かみこあにむら)1村だけになっている。
秋田郡がどのように発足したのかさかのぼると、延暦23年(804年)である。
出羽国の前線基地であった秋田城には、出羽国司の一人が出羽城介として赴任していて、後に秋田城介と呼ばれる。
秋田城自体は残ったが、制度が廃止され、秋田郡が置かれたのである。
陸奥国府は宮城県多賀城にあり、前線基地である紫波城(岩手県盛岡市)に鎮守府将軍が赴任していて、比内郡はその支配下にあったのだろう。
その後、陸奥国は「俘囚上頭」を称した奥州藤原氏の支配するところとなり、比内郡もその勢力下にあった。
三代目当主藤原秀衡は、出羽国陸奥国押領使、鎮守府将軍、そして陸奥国司を歴任した。
しかし、四代目当主藤原泰衡の時に、鎌倉の源頼朝は、泰衡が源義経の逆心に同心しているとして、追討しようとした。
そこで、泰衡は義経を襲撃し自害に追いやり、義経の首を鎌倉に送ったが、許されなかった。
泰衡は蝦夷ヶ島に渡ろうとし、長年の郎党である比内郡の領主河田次郎のもとに逃れる。
河田次郎は、泰衡を殺害しその首を頼朝のもとにとどけるが、頼朝は、主君を弑したのはゆるせないとし、河田を斬首した。
比内郡の贄柵は、大館市にあった二井田村のあたりだと思われる。
鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」は、日本における武家政権の最初の記録とされているが、その中に次のように書かれている。
読み下し文
文治五年九月小三日庚申。泰衡數千の軍兵(ぐんぴょう)に圍被(かこまれ)、一旦の命害を遁(のが)れん爲(ため)、鼠(ねずみ)の如く隱(かく)れ、退くこと鶃(げき)に似たり。
夷狄嶋(えぞしま)を差(さ)し糠部郡(ぬかのべぐん)へ赴(おもむ)く。
此の間數代(すうだい)の郎從(ろうじゅう)河田次郎(かわだのじろう)を相恃(あいたの)み肥内郡(ひないぐん)贄柵(にえのき)于(に)到る之處(のところ)、河田忽(たちまち)ち年來之舊好(きゅうこう)を變(へん)じ、郎從等泰衡を相圍(あいかこ)み梟首(きゅうしゅ)令(せし)む。
此の頚(くび)於(を)二品(にほん)に献(けん)ぜる爲(ため)、鞭(むち)を揚(あ)げ參向(さんこう)すと云々(うんぬん)。
原文
文治五年(1189)九月小三日庚申。泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴糠部郡。此間。相恃數代郎從河田次郎。到于肥内郡贄柵之處。河田忽變年來之舊好。令郎從等相圍泰衡梟首。爲献此頚於二品。揚鞭參向云々。
私は、日本の歴史に興味のある人間だが、特に自分の育ったので東北地方の歴史はおもしろいと思う。
それは、日本という国がどのようにして成り立っていったのか、ということとも深くつながっているだろう。
今回調べたようなことを、もっと早くに知っていれば、日本の歴史についての態度も違ったものになっていたかもしれない。
私のもう一つの関心の対象である菅江真澄という人も、北への興味から蝦夷地まで渡っている。
これが、私の興味とつながるものかどうかは、もっと調べていかなければならないだろう。