これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。
私は、小学校の高学年になる頃だったので、歴史好きの私は、今年は誰を描いた物語らしいというのは、知っていた。
中学生になった年は、村上元三原作の「源義経」で、主人公を尾上菊之助さんが演じた。
とても、評判良くて、マスコミでも取り上げられていた。
ところが、私は大河ドラマをまったく見ていない。
唯一の例外が、「独眼竜政宗」である。
その頃は、結婚して長男がまだ小さかったが、妻とこのドラマを見ている。
まだ新人だった渡辺謙さんの政宗の記憶はあるが、その他のそうそうたる登場人物については覚えていないので、たぶん一年間を通しては見なかったのだと思う。
愛姫の少女期が、後藤久美子さんだったのは、なぜか覚えている。
今年の大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」ということで、鎌倉幕府の成立から、源頼朝の死後の状況を描いていくものらしい。
しかも、三谷幸喜さんの脚本なので、面白いものになるのだろう。
と言いながらも、私は今回もまったく見ていない。
そして、思うのは、自分がなんとこの時代についての知識をもっていないということを、自覚せざるを得ない。
せいぜい、「義経記」や「源平盛衰記」をちょっとかじった程度なのだ。
この時代のことを調べていて、思いがけないことを知った。
歴史に詳しい人にとっては、常識的なことなのだろうが、私は初めて知っておどろいてしまった。
西国の戦国大名と言ったら、毛利氏や島津氏が思いうかぶ。
この両氏が、源頼朝によって所領を与えられ、各地に配置された武士団だったということである。
毛利氏も島津氏も、それぞれ土地土着の武士だと思っていた。
律令制からの令制国のことを調べていると、鎌倉幕府の成立がいかに大きな出来事だったかがわかる。
たとえば、私の育った東北で考えると、奥州藤原氏を滅亡させた後、鎌倉幕府は関東の武士団を送り込んでいる。
出羽国の北部の比内郡の領主となった浅利氏は、甲斐国八代郡浅利郷を本拠としていたが、戦国末期に、安倍氏の末裔を称する檜山安東氏によって滅ぼされる。
その隣の鹿角郡は、鹿角四頭といわれる成田、奈良、安保、秋元の各氏が支配していて、元々は成田、奈良、安保は武蔵国、秋元は下総国を本拠としていた。
さらに、陸奥国糠部郡を一族で支配していた南部氏は、浅利氏と同様に甲斐国巨摩郡南部郷を本拠としていた。
ところで、毛利氏の祖となる毛利季光は、鎌倉幕府政所別当大江広元の四男であり、父から相模国愛甲郡毛利荘の所領を受け継ぎ、毛利を名字とした。
「毛利」は、「もり」と読まれていたが、のちに「もうり」と読まれるようになった。
大江氏は、中原姓を称した下級貴族だったが、鎌倉に降って源頼朝の側近になったものである。
毛利季光は、宝治合戦に際して、三浦泰村に与して三人の息子とともに敗死した。
四男毛利経元は、この乱に関与せず、安芸国吉田荘と越後国佐橋荘に所領を持ち、存続した。
越後国佐橋荘を経元の嫡子基親が、安芸国吉田荘を四男時親が継承した。
安芸毛利氏は、室町時代には有力な国人領主として成長し、山名氏や大内氏の家臣となった。
そして、戦国時代には毛利元就が一代で、大内氏や尼子氏を倒して、山陰道山陽道10ヶ国と九州北部の一部を領国とする戦国大名となるのである。
島津氏の祖である島津忠久は、本姓が惟宗(これむね)氏である。
平家追討の際には、比企能員の手勢に加わっていて、恩賞として伊勢国波出御厨須加荘地頭に任命されている。
さらに、頼朝の推挙により摂関家領島津荘の下司職に推挙され、その後島津荘の惣地頭に任ぜらている。
忠久は、広大な島津荘を本貫とすべく、「島津」を称するようになる。
大隅国、薩摩国、日向国の守護にも任ぜられるが、比企能員の乱に連座したとされ、守護職を没収されているが、和田合戦の働きによって薩摩国を回復している。
島津氏は、鎌倉に在住していたので、薩摩には家臣を下向させていた。
島津家の当主が、薩摩に在住するようになるのは、四代目島津忠宗からである。
西国の戦国大名の中に、他にも関東から移住した者がいないか、それぞれの出自を調べてみたが、毛利氏と島津氏の他には見つからなかった。
島津氏は、薩摩の守護だったが、毛利氏は、安芸国吉田荘という小さい範囲の領主から、下剋上の世界を生き延びて大大名になっている。
長門国の毛利と薩摩国の島津は、江戸時代においても、存在感を持っていた。
薩摩と長州、この二国が、明治維新の立役者となったことを考えると、感慨深いものがある。