晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

野球について考えてみた

夏の甲子園が終わった。

宮城代表の仙台育英高校が優勝した。

テレビのニュースでは、優勝旗が白河の関を越えた、とやっている。

「どうして、こんなに騒いでいるんだろう」と、妻が言った。

私も、そう思う。

でも、東北の人間である私には、東京の人間にあまりそういうふうに言われたくない気持ちもある。

 

東北の代表校が、甲子園の決勝まで進んだのは、今回で13回目だそうだ。

104回目の大会で、やっと優勝旗に届いたわけである。

1915年の第一回全国中等学校優勝野球大会の決勝は、京津代表の京都二中と東北代表の秋田中だった。

秋田中は、準々決勝で東海代表の三重四中を、準決勝で東京代表の早稲田実業を破っている。

決勝では、京都二中が、2-1で勝って、最初の優勝校になった。

私は、小学校中学校と、野球部に所属していた。

マネージャーとして、スコアブックの記入や記録の整理を担当していた。

そのせいか、甲子園の第一回大会の準優勝校が、秋田中であったことは、かなり早い時期に知っていた。

 

高校に進学した年に、青森県代表の三沢高校が決勝に進んだ。

この第51回目の大会が、東北の代表校として二校目の決勝進出である。

松山商業との決勝は、延長で決着がつかず、翌日再試合となった。

太田幸司投手が、連投したが、力尽きて敗れた。

高校一年の夏休みに、この試合を見ていた記憶がある。

 

考えてみると、この頃の東北地方には私立高校が少なかったと思う。

秋田県でも、私の住む大館は、秋田市に次ぐ経済圏だったのに、私立高校はまったく無かった。

私の記憶だと、県内に私立大学系の私立校が2校だけだった。

だから、高校受験には選択肢がなく、予備校に通って翌年再度受験するしかなかった。

しかし、高度経済成長とともに、私立高校が増えたのだろう。

その後、私立高校である宮城県代表の東北高校が1回、仙台育英高校が3回、青森県代表の光星学院が3回決勝に進んでいる。

公立高校では、1971年の福島県代表の磐城高校、2009年春の花巻東高校、そして、2018年の秋田県代表の金足農高であり、この2018年は第百回の大会だった。

 

野球というのは、ほんとにスポーツなのだろうかと考えることがある。

スポーツであるとすれば、他のスポーツととても違っているスポーツである。

たとえば、野球の試合というのは、時間が決まってるわけではなく、攻撃守備を規定の回数行うものである。

実際にやってみると、野球の試合は、拘束される時間に比べて、運動量がとても少ない。

投手や捕手などの特定のポジションのものだけに、運動量の負担が偏っている。

ボールを使用するスポーツであるが、ポジションによっては、一つの試合でボールを処理する機会が全くないこともある。

他には、野球のようなスポーツはないように思える。

スポーツではない、なにか他のものなのかも知れない。

 

野球が、その国のプロスポーツの中で、最も人気のあるスポーツである国は、日本だけらしい。

野球の人気のある国は、韓国、台湾、キューバなどあるが、最も人気のあるのはサッカーらしい。

日本だって、Jリーグがあるから、ほんとに野球が一番かわからないが、動員数だと野球が多いのだろうか。

プロ野球発祥の国であるアメリカにいたっては、アメリカンフットボール、バスケットに次いで、3番目のスポーツでちょっと古臭い過去のものになりつつあるらしい。

それでも、充分な存在感があるのだから、たいしたものである。

 

「運動神経のいいやつは、他のスポーツに行くから、なかなか人材が集まらない。」

少年野球の指導をしている方から、こんな話を聞いたのは、50年も前のことである。

その頃は、衛星放送もないし、インターネットもなかった。

いまは、状況はもっと進んでいるだろう。

 

YouTubeを見ていたら、ベン・バーランダーさんという野球評論家が来日して、日本の野球を取材しているビデオがあった。

彼は、大谷翔平選手が、どのように育ってきたのかが知りたくて、日本へ出かけてきたという。

ベン・バーランダーさんは、2年前まで大リーガーであり、ジャスティン・バーランダーという大リーグを代表するような名投手を兄としている。

そういう人が、「大谷マニア」と言われるくらいに、大谷選手にのめり込んでいる。

それが、私には不思議だった。

でも、彼が大学2年生で野手に専念するまでは、投手と打者の二刀流だったことを知って、なるほどと思った。

大谷選手がオールスターゲームに出場した時に、出場した選手が何十人も大谷選手と写真を撮りたがったということが、あったそうだ。

野球を始めた少年時代は、運動神経のいい子は、投げれば投手、打てば4番5番という、チームの中心選手である。

オールスターゲームに出場するような選手の多くは、そんな少年時代だったはずだ。

それが、成長するにつれて、当たり前のように、投手か打者かに専念するように、選択しなければばならない。

そんな少年時代の記憶がある選手にとって、大谷選手は、あり得ないような存在なのだと思う。

ベン・バーランダーさんにとって、「大谷翔平」は自分の夢そのものなのだと思う。

 

バーランダーさんは、横浜スタジアムと東京ドームで、日本のプロ野球を体験する。

それから、大谷選手の少年時代を知るために、岩手にむかい、水沢リトルリーグのチームや花巻東高校を訪ねる。

ビデオは、すべて英語で、字幕を出しても英語なので、なかなか難しい。

その中で、こんなことを言っている。

「日本では、なかなか英語を話す人に会えず、カルチャーショックの連続だ。

翔平はアメリカでは、これと反対のカルチャーショックの毎日なのだろう。」

彼は、想像力の豊かな人なのだろう。

以前に、ある想像力のない評論家が、次のようなことを発言をして炎上していた。

「大谷選手は、素晴らしい選手だが、英語を話さず通訳がいる。

大リーグを代表する選手が、英語を話せないのはどんなものだろう。」

 

このあと、彼は日本ハムファイターズのホーム、札幌へ行くらしい。

 

 

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