晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

国名について調べてみた15 東海道と水戸街道

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。

 

「元水戸街道」を歩く機会があった。

「元水戸街道」というのがあるのは、今年になって初めて知った。

水戸街道といえば、現在は、国道6号線が「新水戸街道」であり、その旧道が「旧水戸街道」である。

国道6号は、直線的に水戸まで続き、旧道はそれにまとわりつくように、つかず離れずで続いていて、ときには重なっている。

水戸街道は、江戸幕府水戸徳川家との連絡用に整備した街道である。

その水戸街道の経路を整備する前に使われていたのが、「元水戸街道」であるという。

私の住むあたりを通っていて、小金宿と我孫子宿の間を、大きく迂回していた。

 

江戸幕府は、全国支配のために、江戸と各地を結ぶ基幹街道である「五街道」を整備した。

さらに、それ以外の主要な街道として「脇街道」(脇往還)を整備した。

水戸街道」は、「奥州街道」の脇街道であり、水戸以北は「岩城街道」となり、岩沼宿で「奥州街道」に合流した。

五街道は、基幹街道だけあって、江戸から放射状に作られている。

これを見ていたら、律令制の頃の「五畿七道」のことを思い出した。

ja.wikipedia.org

五畿七道」は、広域的な、行政区画であるとともに、畿内から、放射状に伸び、国府国府を順に結ぶ駅路の名称でもあった。

五畿」は、「畿内」ともいわれ、大和、山城、摂津、河内、和泉からなり、京都の周辺国である。

「七道」は、「東海道」、「東山道」、「北陸道」、「山陽道」、「山陰道」、「南海道」、「西海道」から成るが、明治2年、「北海道」が新設され、「五畿八道」となった。

五畿七道」が、色分けされた全国地図を見ると、「七道」が、都から放射状に形成されていることがわかる。

国府国府を結ぶことで、できているので結果的に、線状に延びたものになる。

 

江戸時代の「東海道」は、京都から江戸までである。

しかし、江戸時代以前の「東海道」は、武蔵国下総国を経由して、常陸国が終着だった。

たとえば、五畿七道東海道は、次のようになっている。

伊賀国伊勢国志摩国尾張国三河国遠江国駿河国伊豆国甲斐国相模国安房国上総国下総国常陸国

伊賀国からはじまって、次からはきれいに太平洋沿いに続いている。

これは、まさに「海道」である。

甲斐国だけが内陸になって、相模国から東京湾を渡って、安房国である。

そのために、現在の千葉県中部が「上総」で、北部が「下総」となっていて、都からの近さで、上と下を使い分けている。

当初の「東海道」には、「武蔵国」は入っていない。

武蔵国」は、現在の埼玉県と東京都であるが、武蔵国南部は湿地帯が多く、開発が遅れたのだろう。

この頃の「武蔵国」は「東山道」とされていた。

国府は、東京都府中市という内陸部にあり、東山道武蔵路という枝道が設けられていて、上野国新田から南下し、武蔵国府のある府中に至り、そこから同路を北上し、下野国足利に進んでいた。

 

相模国府」がどこだったかは、海老名市、平塚市、大磯町などの説があり、はっきりしていない。

三浦半島の走水から、浦賀水道を渡り、富津あたりで上陸し、北上し市原市にあったとされる上総国府に向かう。

館山市のあたりにあった安房国府に向かうには、富津から南下する分岐路があった。

上総国府からは、市川市にあった下総国府への分岐路が続いていた。

上総国府からは、東海道の終点である常陸国府には、さらに北上する。

この時代、現在の千葉県と茨城県の間には、広大な「香取海」という内海があった。

霞ヶ浦印旛沼手賀沼などをすべて含むものだっただろう。

成田市あたりの下総国荒船駅で渡船し、香取海を渡り、稲敷市あたりの常陸国榎浦津に上陸し、石岡市にあった常陸国府に向かうというコースだったらしい。(香取道)

 

しかし、771年に所属が変更され、「武蔵国」は、「東海道」とされた。

武蔵国南部の開発が進み、相模国から武蔵国を経由して、下総国という経路が可能になったのだろう。

武蔵国府から、隅田川を渡り下総国に入り、さらに市川市にある下総国府に向かった。

市川市には、国府台という地名が今も残っていて、江戸川(江戸時代以前は利根川)を見下ろす高台にある。

江戸川サイクリングの時には、その高台の下を走るが、短大や高校などのある学園地区になっている。

そこから、市原市にあった上総国府を経由して、香取道を使っていたのが、805年には上総国府を経由せずに、下総国府から直接北上して、常陸国府により最短距離で行く経路になっている。(相馬道)

この相馬道は、鎌倉時代には、「鎌倉街道」と呼ばれた。

この経路については、ウィキペディアの記事によれば、

柏市我孫子市(布佐)・利根町を通り、そこから当時の常陸川・鬼怒川の香取海への河口付近を渡船し、鬼怒川北岸台地の馴馬・長峰・若柴付近(竜ヶ崎市)から常陸国へ入った。」

となっており、我孫子宿と取手宿のあいだで、常陸国側に渡った水戸街道の経路とは、かなり違っている。

下総国府の付近には、国府附属の駅ではないかと推定される「井上駅」があったようである。

そこから、現在の松戸市を経て、次の駅である「茜津駅」に向かう。

「茜津駅」は、柏市の藤心周辺にあったと思われるが、津ということから、川や沼の船着場があったのかもしれないし、当時は香取海という巨大な内海があったはずで、それに関係があるかも知れない。

柏市の「柏サッカー場」の近くには、「あかね町」という地名が現存するので、なんらかのつながりはあるのだろうか。

そして、「於賦(おふ)駅」が、下総国の最後の駅である。

その駅が、どの辺りにあったかは明確になっていないが、相馬郡に「意部郷」というのがあったのはたしかであり、我孫子市の新木や布佐のあたりではないかと思われる。

 

これらのことを考えると、江戸幕府が水戸への街道を整備しようとした時に、それまでの下総国府のあった市川市経由ではあまりにも、遠回りなので、最短経路を考えたのだと思う。

江戸から北東に向かい、北千住を経て金町で、江戸川を渡り、さらに北東に経路を取り、従来の東海道に接続したのではないだろうか。

その接続したのが、柏市の「茜津駅」のあたりだったのではないか、と思う。

それと同じ頃に、我孫子宿と取手宿の間も、最短になる道筋に変更し、藤代を通る経路になったらしい。

それが、「元水戸街道」であり、小金宿と我孫子宿の間がかなり迂回して遠回りになっているので、直線的に最短距離の経路にしたのが、「旧水戸街道」であろう。

 

 

 

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp