これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。
「元水戸街道」を歩く機会があった。
「元水戸街道」というのがあるのは、今年になって初めて知った。
水戸街道といえば、現在は、国道6号線が「新水戸街道」であり、その旧道が「旧水戸街道」である。
国道6号は、直線的に水戸まで続き、旧道はそれにまとわりつくように、つかず離れずで続いていて、ときには重なっている。
水戸街道は、江戸幕府が水戸徳川家との連絡用に整備した街道である。
その水戸街道の経路を整備する前に使われていたのが、「元水戸街道」であるという。
私の住むあたりを通っていて、小金宿と我孫子宿の間を、大きく迂回していた。
江戸幕府は、全国支配のために、江戸と各地を結ぶ基幹街道である「五街道」を整備した。
さらに、それ以外の主要な街道として「脇街道」(脇往還)を整備した。
「水戸街道」は、「奥州街道」の脇街道であり、水戸以北は「岩城街道」となり、岩沼宿で「奥州街道」に合流した。
五街道は、基幹街道だけあって、江戸から放射状に作られている。
これを見ていたら、律令制の頃の「五畿七道」のことを思い出した。
「五畿七道」は、広域的な、行政区画であるとともに、畿内から、放射状に伸び、国府と国府を順に結ぶ駅路の名称でもあった。
「五畿」は、「畿内」ともいわれ、大和、山城、摂津、河内、和泉からなり、京都の周辺国である。
「七道」は、「東海道」、「東山道」、「北陸道」、「山陽道」、「山陰道」、「南海道」、「西海道」から成るが、明治2年、「北海道」が新設され、「五畿八道」となった。
「五畿七道」が、色分けされた全国地図を見ると、「七道」が、都から放射状に形成されていることがわかる。
国府と国府を結ぶことで、できているので結果的に、線状に延びたものになる。
江戸時代の「東海道」は、京都から江戸までである。
しかし、江戸時代以前の「東海道」は、武蔵国、下総国を経由して、常陸国が終着だった。
伊賀国、伊勢国、志摩国、尾張国、三河国、遠江国、駿河国、伊豆国、甲斐国、相模国、安房国、上総国、下総国、常陸国。
伊賀国からはじまって、次からはきれいに太平洋沿いに続いている。
これは、まさに「海道」である。
甲斐国だけが内陸になって、相模国から東京湾を渡って、安房国である。
そのために、現在の千葉県中部が「上総」で、北部が「下総」となっていて、都からの近さで、上と下を使い分けている。
「武蔵国」は、現在の埼玉県と東京都であるが、武蔵国南部は湿地帯が多く、開発が遅れたのだろう。
国府は、東京都府中市という内陸部にあり、東山道武蔵路という枝道が設けられていて、上野国新田から南下し、武蔵国府のある府中に至り、そこから同路を北上し、下野国足利に進んでいた。
「相模国府」がどこだったかは、海老名市、平塚市、大磯町などの説があり、はっきりしていない。
三浦半島の走水から、浦賀水道を渡り、富津あたりで上陸し、北上し市原市にあったとされる上総国府に向かう。
館山市のあたりにあった安房国府に向かうには、富津から南下する分岐路があった。
上総国府からは、市川市にあった下総国府への分岐路が続いていた。
上総国府からは、東海道の終点である常陸国府には、さらに北上する。
この時代、現在の千葉県と茨城県の間には、広大な「香取海」という内海があった。
成田市あたりの下総国荒船駅で渡船し、香取海を渡り、稲敷市あたりの常陸国榎浦津に上陸し、石岡市にあった常陸国府に向かうというコースだったらしい。(香取道)
しかし、771年に所属が変更され、「武蔵国」は、「東海道」とされた。
武蔵国南部の開発が進み、相模国から武蔵国を経由して、下総国という経路が可能になったのだろう。
武蔵国府から、隅田川を渡り下総国に入り、さらに市川市にある下総国府に向かった。
市川市には、国府台という地名が今も残っていて、江戸川(江戸時代以前は利根川)を見下ろす高台にある。
江戸川サイクリングの時には、その高台の下を走るが、短大や高校などのある学園地区になっている。
そこから、市原市にあった上総国府を経由して、香取道を使っていたのが、805年には上総国府を経由せずに、下総国府から直接北上して、常陸国府により最短距離で行く経路になっている。(相馬道)
この経路については、ウィキペディアの記事によれば、
「柏市・我孫子市(布佐)・利根町を通り、そこから当時の常陸川・鬼怒川の香取海への河口付近を渡船し、鬼怒川北岸台地の馴馬・長峰・若柴付近(竜ヶ崎市)から常陸国へ入った。」
となっており、我孫子宿と取手宿のあいだで、常陸国側に渡った水戸街道の経路とは、かなり違っている。
下総国府の付近には、国府附属の駅ではないかと推定される「井上駅」があったようである。
そこから、現在の松戸市を経て、次の駅である「茜津駅」に向かう。
「茜津駅」は、柏市の藤心周辺にあったと思われるが、津ということから、川や沼の船着場があったのかもしれないし、当時は香取海という巨大な内海があったはずで、それに関係があるかも知れない。
柏市の「柏サッカー場」の近くには、「あかね町」という地名が現存するので、なんらかのつながりはあるのだろうか。
そして、「於賦(おふ)駅」が、下総国の最後の駅である。
その駅が、どの辺りにあったかは明確になっていないが、相馬郡に「意部郷」というのがあったのはたしかであり、我孫子市の新木や布佐のあたりではないかと思われる。
これらのことを考えると、江戸幕府が水戸への街道を整備しようとした時に、それまでの下総国府のあった市川市経由ではあまりにも、遠回りなので、最短経路を考えたのだと思う。
江戸から北東に向かい、北千住を経て金町で、江戸川を渡り、さらに北東に経路を取り、従来の東海道に接続したのではないだろうか。
その接続したのが、柏市の「茜津駅」のあたりだったのではないか、と思う。
それと同じ頃に、我孫子宿と取手宿の間も、最短になる道筋に変更し、藤代を通る経路になったらしい。
それが、「元水戸街道」であり、小金宿と我孫子宿の間がかなり迂回して遠回りになっているので、直線的に最短距離の経路にしたのが、「旧水戸街道」であろう。