天明5年(1785年)、菅江真澄は、8月3日出羽の山本郡八森から津軽藩に入る。
この年の4月まで、出羽国雄勝郡に約5ヶ月滞在していて、その日記が「おののふるさと」である。
滞在中に親しくなった人々に別れを告げて、旅を続ける。
後の著作の内容により、横手、角館、阿仁鉱山、萩形、久保田、追分、男鹿、能代、岩館と移動したと思われるが、その間の日記は発見されていない。
同様に、信濃から、越後に入り、さらに出羽国へと旅を続けてきたのだが、やはり、越後国での日記も見つかっていない。
秋田と津軽の境である木蓮寺から、深浦、鯵ヶ沢、五所川原を経て、弘前に入り、黒石、浪岡をすぎ、同月18日に青森に至り、蝦夷に渡ろうとするが、天明の飢饉により松前藩から逃げてきた人々を見て渡航をあきらめる。
真澄のこれまでの経路を見ると、故郷の三河を出たあと、信濃国を北上し、越後国に入り日本海沿いに、出羽国に入り、さらに北上し、津軽藩青森を目指している。
出発当初から、蝦夷地が最終の目的地だったのではないかと思わせる。
しかし、天明の大飢饉の最中であり、津軽では至る所でその惨状を見たりしている。
大鰐温泉から矢立峠を越え、秋田藩長走、扇田村に宿泊し、十二所を越え鹿角との境の沢尻村で滞留した。
隣の鹿角は、南部藩である。
日記は、ここで終わる。
この日記の表題となっている「そとがはまかぜ」は、真澄自筆と思われる原本では、「楚頭賀濱風」となっている。
これは万葉仮名なのだろうか。
旅の最初の日記である「いなのなかみちは」は、「委寧能中路」というように、同じような仮名の使い方である。
この表題に使われている「そとがはま」は、「外ヶ浜」のことである。
外ヶ浜は、津軽半島から夏泊半島にかけて津軽海峡と陸奥湾に面した地域を指す古来の地名である。
歌枕として、多くの歌人によって詠われていたようなので、真澄にとっては感慨のあるものだっただろう。
みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風 西行
みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた 藤原定家
原本は、26丁、図絵はない。
私の郷里の大館市立粟森記念図書館に所蔵ということなので、一度目にしたいものである。