晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

国名について調べてみた16 陸奥国と征夷大将軍

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。

 

今年のNHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」であり主人公は「源頼朝」かなと思っていた。

しかし、このドラマは歴史書吾妻鏡」をベースとしてつくられていて、得宗家初代の「北条義時」が主人公として展開していくのだという。

私は、大河ドラマを見ないが、ドラマ化されるとその舞台となった時代や人物そしてゆかりの地域などが光を浴びる。

テレビなども、歴史番組だけではなく、さまざまな番組に取り上げられることになる。

大河ドラマを見ない私にとっても、いろいろと新しく知ることがあったり、考える機会になる。

 

鎌倉幕府が成立した頃のことを考えていると、実際のところどんなものだったろうとか、どうしてそうなったのだろうと、思うことがある。

もしかすると、ドラマを観ていれば、解消されるような疑問なのかもしれない。

とりとめのないことを、考えてみた。

その疑問を挙げてみると、三点ほどある。

①  源頼朝は、なぜ「太政大臣」ではなく、「征夷大将軍」を望んだのか。

②  「征夷大将軍」という職名にある「夷」とはなんであったのか

③  鎌倉幕府成立までの戦いは、ほんとに「源氏」と「平氏」の戦いだったのか。

 

源頼朝は、なぜ「太政大臣」ではなく、「征夷大将軍」を望んだのか。

源頼朝が、「征夷大将軍」となったことで、その政庁が「幕府」と呼ばれるようになった。

平清盛は、「太政大臣」として、朝廷の最高機関である「太政官」の最高官職にあった。

頼朝は、征夷大将軍に任命される2年前に、権大納言・右近衛大将に任ぜられたが、すぐに辞任している。

どちらの職も、朝廷における公事の運営上重要な地位にあり、京都に所在する必要があった。

頼朝は、鎌倉を離れたくなかったのだろう。

自らの権力基盤が、関東武士団のバランスの上にあることを、自覚している頼朝としては鎌倉を離れる訳にはいかなかった。

 

征夷大将軍」という職名にある「夷」とはなんであったのか

征夷大将軍」は、東北地方の蝦夷征討を指揮するための臨時の官職であるというが、奈良末期に大伴弟麻呂が任命されている。

同様な官職には、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征討大将軍などがある。

当時の東北地方には、朝廷の支配が及ばず、奥州藤原氏の独立した地方政権となっていた。

とは言っても、奥州藤原氏は「鎮守府将軍」の地位を得ていて、陸奥国出羽国において軍政を行なっていた。

この状況を考えると、頼朝にとって「征夷」の対象は、奥州藤原氏であったろう。

しかし、奥州合戦によって奥州藤原氏が滅亡した後も、征夷大将軍の地位にとどまっている。

律令制による令制国成立の頃に、常陸国から分離した「陸奥国」は、現在の福島県および宮城県南部あたりまでであり、それより北部は蝦夷の地であった。

しかし、その後出羽国を分離し、奥州藤原氏陸奥国及び出羽国を支配していて、東北地方のほとんどは、その支配下にあった。

残る「蝦夷地」は、現在の北海道であるが、令制国の制度下では空白の地域であった蝦夷地に、江戸幕府は「松前藩」を置いた。

しかし、北海道と命名され「渡島国」など12国が置かれたのは、明治2年である。

明治政府は、「屯田兵」などによって、北海道の警備と開拓を行った。

そういう意味では、「征夷」はその時点でも続いていたと言える。

足利氏の室町幕府と徳川氏の江戸幕府も「征夷大将軍」を踏襲するが、「征夷」は意識されていなくて、「武家の棟梁」としての官職とみなされていたのだろう。

ところで、織田信長権大納言・右近衛大将に就任し、死後に太政大臣を贈られている。

 

ところで、「蝦夷」(えみし)とはなんだとなると、わからない。

蝦夷は、アイヌであるという説もあるそうだ。

私は、千葉県の北西部に住んでいるが、この辺りの地名にはアイヌ語からきてるのではないかというものが多い。

そう言えば、私の生まれ育った秋田にもそんな地名があったし、東日本には多いらしい。

菅江真澄は、江戸時代に北日本を、歩いて旅した人である。

その旅日記の、たしか南部藩の村だったと思うが、その村には「えみし」の末裔だという家系があって、そのことを村人から聞いたことが書かれていた。

江戸時代の後期のあたりまで、そういう記憶が村人に残っていて、語られていたのである。

 

 鎌倉幕府成立までの戦いは、ほんとに「源氏」と「平氏」の戦いだったのか。

平清盛の一族を滅ぼして、鎌倉幕府が成立する。

確かに、頼朝の従兄弟にあたる木曾義仲(源義仲)が入京し、平家を滅亡に追い込む源義経は弟である。

しかし、頼朝の権力基盤である東国武士は、ほとんどが「藤原氏」や「平氏」の系統である。

「北条氏」も真偽はともかく、「桓武平氏」を自称している。

上総国下総国安房国に勢力のあった「千葉氏」は桓武平氏の系統だったが、「宝治合戦」で、三浦氏に連座したとされ、棟梁平秀胤は滅ぼされ、従った房総平家も処分された。

しかし、その後勢力を回復している。

常陸国に勢力のあった「佐竹氏」は、頼朝と同じく「清和源氏」の系統であり、朝廷から上京することを求められたとき、鎌倉を奪われることを恐れ、鎌倉を離れなかった。

結局のところ、平氏と源氏の戦いという単純なものではなく、朝廷の中枢に深く食い込み貴族化した平清盛の一族と、東国に土着した武家が己の権益を守ろうとする東国武士の集団の戦いだったのであろう。

 

鎌倉幕府の三代将軍実朝の死によって、源氏の血統は断絶する。

京から、公家の名門「三条家」の頼朝の妹の曾孫という男子を迎えて、将軍職に就かせる。

将軍は形骸化し、実権は「執権」の北条氏が握ることになる。

足利氏は、征夷大将軍として、京の室町に幕府を開く。

よく考えると、「征夷大将軍」の政庁が京にあるということは、おかしい。

「征夷」は、どこにいったのだということになる。

天皇が任命する臣下であるはずの将軍と、天皇との関係が逆転していく。

江戸幕府では、幕府は江戸にあり、天皇は京にあり、並立ではなく、管理下におかれた。

形式的には最高権力者であるはずの天皇が、現実にはそうではないという状況が続いていくのである。

それは、たぶん、明治、大正、昭和と続いたものである。

 

 

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