私の手元にある「菅江真澄全集」は、1981年に「未来社」が刊行したもので、第三刷である。
しかし、第一刷は1971年に出ている。
奥付を見ると、第一巻の定価は6500円であり、全巻十四巻を揃えるといい金額になった。
菅江真澄は、それほど知られた人物ではなかったが、それでも菅江真澄について書かれた書籍を探すとかなり見つけることができた。
菅江真澄の旅日記のテキストについては、すでに平凡社の東洋文庫として、「菅江真澄遊覧記」五巻が、1965年に刊行されていた。
私も、それを購入していた。
かつては、私も所有していたはずだが、もう手離しているので、今回図書館で借りてきた。
奥付を見ると、1980年に初版第15刷発行となっていて、定価は1500円、小型本であり250ページほどであるが、ハードカバーでしっかりした造りである。
これを見て驚いたのは、第1刷から15年間で、第15刷になっていることである。
どれくらいの部数を印刷していたのかわからないが、15回も印刷したということは、かなりの部数が売れたということになるだろう。
東洋文庫のシリーズは、本来箱入りで箱に書籍名が印刷されているので、箱から出してしまうと表紙には何もなく、書籍名や著作者名は背表紙に金箔で印刷されている。
「菅江真澄遊覧記1」(左)と「自然真営道 安藤昌益」(右)
編訳者として、内田武志氏と宮本常一氏の名前がある。
この書籍では、菅江真澄が残した紀行文の原文ではなく、現代語訳されたものが、掲載されている。
真澄の原文自体は、一部が解説の中で取り上げられているだけで、全文は載せられていない。
あとがきで、内田氏はこう述べている。
「原文は真澄独特の擬古文であって、このままでは理解しにくいので、現代語に訳することにした。」
役割分担については、訳稿を法政大学講師杉本圭三郎氏、注解は主に宮本常一氏と自然方面には妹内田ハチ氏、解説は本人としたが、最終的には内田本人が訂正加筆を行ったとしている。
なので、現代語訳の文章にも、かなり内田氏の手が加えられているものと思われる。
菅江真澄は、江戸時代後期の人だったので、擬古文といわれるような文章を書いた。
平安時代の和歌や文章を範とした文章を、その頃は雅文といったらしいが、教養ある人はそういう文章や和歌や、そして漢詩や漢文を書いたのだろう。
信濃、越後、出羽、陸奥、蝦夷と旅しながら、出会った人たちとの別れの際には、歌の贈答が続く。
古典についての教養が、共通語になっていたのだろうと思う。
たしかに、真澄の文章はとっつきにくいものだった。
それも、読み続けるうちに慣れてきた。
かつて読んだはずの現代語訳の文章はどんな感じだったのか、もう一度読んでみたくなった。
彼の紀行文の最も古い「いなのなかみち」は、次のように始まっていた。
この日本国内のすべての古い神社を拝み巡って、幣を奉りたいと、天明三年、のどかな春二月の末近いころ、父母に別れ、故郷を後に旅だった。
ふたむら山をよそにみて、三河路を離れ、美濃の中山をかたに眺め、信濃の国にはいったところまでしるした日記は、盗難にあって失ったので、いたしかたない。
同年三月半ばに飯田の宿駅についた。
応永のころであろうか、尹良親王が、このあたりから三河国に向かわれる旅のなごりに、さすがに思いひかれなさって、筆をとり、
さすらへの身にしありなば住もはてんとまりさためぬうきたびの空
と詠んで、千野伊豆守に賜わったとかいうことである。
その後尹良親王は、この国の浪合(下伊那郡浪合村)という山村の滝川の激しい流れのあたりで、
おもひきやいくせのふちをのがれ来てこの波あひにしつむべしとは
の一首をのこし、やがて亡くなったという。
この現代語訳の文章を読んだ限りでは、これがいつ頃の時代に書かれたものかわからない。
擬古文特有の長く続く文章も、読点が加えられているせいか、区切りがよくて読みやすく、違和感がない。
真澄の原文では、次のようになる。
このひのもとにありとある、いそのかみふるきかんみやしろををがみめぐり、ぬさたいまつらばやと、あめの光よもにあきらけき御世の、おほんめぐみあまねくみつといふとし、長閑き春もきさらぎの末つかた、たびごろもおもひたち父母にわかれて、春雨のふる里を袖ぬれていで、玉匣ふたむら山をよそに三河路を離て、雨にきる三野のなかやまをかなたに、みすずかる科埜の国に入つるまでの日記は、しら波にうちとられたればすべなし。
おなじやよひの半に飯田のうまやにつきぬ。
応永の頃ならん、尹良親王、このあたりより三河の国におもむかかせ給ふおほんたびの余波、しかすがにおぼしひかれ給ひ硯めして、
「さすらへの身にしありなば住もはてんとまりさだめぬうき旅の空」
とながめ給ひて、千野伊豆守にたうばりたりけるとなん。
かくて、ゆきよしのみこは、此国の浪谷といふ山里のあらき滝河の辺にて、
「おもひきやいくせのふちをのがれ来てこの波あひにしづむべしとは」
とて、やがてかくれおましまししとか。
そのみたまを、其里のしりなるたか山のすゑに神と祭りて、処の人、良翁権現とあがめ斎ひ奉れり。
これを読み比べて思うのは、同じ内容を述べていても、文体が違うと、まったく別のものになるのだなあ、ということである。
人の声や、話し方、ことば遣い、その違いによってに、人を認識するように、文章も同じなのだろう。
菅江真澄の紀行文のようなものについては、原文と現代語訳をあわせて掲載した方が親切かもしれない。
ただそれだと、文章量が倍になってしまうので、難しいのだろう。
ところで、これを読んでいて気がついたことがある。
原文では、故郷の三河を出て、信濃に入るまでの日記は、「しら波にうちとられたればすべなし」となっている。
私は、川を渡る際に、流れに失ってしまったのだろう、と思っていた。
現代語訳では、「盗難にあって失ったので、いたしかたない。」である。
「しら波」というのは、「盗賊」ということなのか。
考えていて思いついたのが、昔「白浪五人男」という歌舞伎の口上を見た記憶がある。
日本駄右衛門、南郷力丸、とかやって、最後に「弁天小僧菊之助」とか言っていた。
なるほど、後漢の末、西河の白波谷にこもった黄巾の賊を白波賊と呼んだというのがゆらいらしい。
内田氏によると、真澄は故郷について書くことを避けたのではないか、ということである。
たしかに、郷里三河についての記録をほとんど残していないらしい。
なにか、複雑な事情があるのかもしれない。