晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

霞ヶ浦は香取海だった

正月に、楯縫神社にお参りした際に、置いてあったパンフレットを持ち帰った。

社殿の脇に、きれいに整理されていた。

内容がおもしろいそうだったので、10種類ほどあったのを、すべていただいてきた。

帰ってから、読んでみた。

おもしろかったパンフレット

「神社のおはなし」、「神さまと暮らす」、「神社参拝のかたち」

氏神さまと神宮大麻」、「厄を祓う」、「お正月」

「はじめての古事記」、「はじめての日本書紀

神社入門としては、充分であり、すべてが神社本庁の発行であった。

神社本庁」は、「本庁」という名が官公庁ぽいが、伊勢神宮を本宗とする宗教法人で、神道系の宗教団体では最大の組織らしい。

神社広報 まほろ

そして、神社広報「まほろば」という定期発行らしき冊子があった。

表紙と巻頭のインタビュー記事は、相川七瀬さんのものだった。

ロックシンガーの相川七瀬さんが、なぜ神社なのだろうと、読みはじめた。

彼女は現在大学2年生で、神道について学んでいるのだという。

大阪出身の相川さんは、地元の神社の熱心な氏子だった祖父の影響もあり、神社を身近に感じて育った。

私が、記事の中でおもしろいと思ったのは、春日大社についての話である。

「子供の頃は遠足といえば、奈良県で、『春日さん」は子供の頃から近い存在でした。」

大人になって、古事記などを読むようになる。

春日大社の神様がなぜ鹿島神宮(茨城県)や香取神宮(千葉県)にもお祀りされているのかな、と疑問に思ったのです。」

子どもを出産した頃に、鹿島神宮香取神宮に参拝するようになる。

相川さんは、お祭りなどへの関わりを通して、日本の文化や伝統について関心が深まっていったようだ。

 

私も、鹿島神宮香取神宮春日大社の関係については、調べたことがあって、ブログにも書いたことがある。

私は、「令制国」というものに興味があって、「国名について調べてみた」というシリーズで書いている。

令制国」は、律令制度下の国名だから、1000年以上も前に制定されたものだ。

明治維新後の廃藩置県によって、都道府県の制度になったので、すでに過去のものになっているはずなのだが、法的には廃止はされていないらしく、旧国名ということで、いろんなところで使われている。

「国名について調べてみた」の1回目に取り上げたのは、下総国常陸国についてだった。

私の疑問は、平安時代には、「神宮」と呼称されたのは、伊勢神宮香取神宮鹿島神宮だけれども、三社のうち二つがどうして東国にあるのだろう、というものだった。

その頃の東国は、陸奥国との前線ではないにしても、補給基地のようなところではなかったんじゃないだろうか。

確かにその通りだろうけれど、それだけではなかった。

私が調べてみてわかったのは、次のとおりだ。

 

春日大社は、768年に藤原氏の氏社として奈良に創建したものだ。

その際に、鹿島神宮から武甕槌命を、香取神宮から布都主命を勧請して祀っている。

鹿島神宮香取神宮神職は、中臣氏藤原氏が占めており、東国は藤原氏の本拠地と言って良かったのかもしれない。

「神郡」という郡全体をを特定の神社の所領とされた所が、全国に八か所あった。

そのうちの三カ所が、東国にあったのである。

常陸国鹿島郡鹿島神宮下総国香取郡香取神宮、そして安房国安房郡の安房神社である。

安房神社は、阿波から移住してきた忌部氏が創建している。

つまり、その頃の実力者であった藤原氏の力によって、この両社が高い社格とされた。

 

この頃の、常陸国下総国の間には、現在の霞ヶ浦手賀沼印旛沼を含む一帯に、「香取海(かとりのうみ)」という広大な内海が広がっていた。

そして、両神宮はその内海への地勢的に重要地に鎮座していて、大和朝廷の軍神として信仰された。

ということは、蝦夷進出のための輸送基地でもあったということと無縁ではないだろう。

 

楯縫神社の社伝には、次のようにある。

普都大神は、葦原中国平定の後、木原で甲楯を脱ぎ、高来里で登天した。」

また、昨年の正月にお参りした成田市台方の真賀田神社の起源は、社伝にはこうある。

「東征中の日本武尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源である」

日本武尊の東征はともかく、普都大神の葦原中国平定となると、なぜこの常陸国の地なのだ、と思わざるを得ない。

しかし、この頃の香取海の状況を考えると、これらの神社はともに、水面から20メートルばかりの標高の台地上に位置していて、船によって移動していたとすれば、納得できるものである。

当時の香取海と古墳の分布状況 ウィキペディア香取海」より

これを見ると、常陸国下総国は、香取海によって遮られていたとも言えるし、香取海によって繋がっていたとも思える。

この地図には、古墳の所在地も表示されている。

香取海の水際に多く存在しているようである。

千葉県は、古墳の数が、都道府県では、兵庫、鳥取、京都に続いて第4位である。

ところが、前方後円墳に限れば、2位の茨城県455基を引き離して、ダントツの1位で733基である。

これって、いったいどういうことなのだろう。

私が、学校で習った日本史はこんな感じじゃなかったな。

香取海だって、教科書にはなかった気がするし。

本当のところは、どうだったのだろう。

歴史は勝者がつくるということになるのかな。

 

 

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