津軽から矢立峠を越えて、秋田藩に入り大館の街を通り、山中の沢尻という宿で、「そとがはまかぜ」の日記は終わっている。
大館は、私の郷里であるが、天明5年(1785年)というから250年も前に、菅江真澄が通り過ぎたと思うと、感慨深いものがある。
大館は、秋田藩の支城があった城下町である。
津軽藩や南部藩との国境に近い大館は、一藩一城の江戸時代に、例外的に支城の設置が許された。
しかし、真澄の日記には大館の街についての描写はまったくない。
沼尻の宿に泊まったのは、8月25日である。
「けふのせばのの」は、その翌日の8月26日からはじまっている。
真澄は、当時南部領だった鹿角郡を通過し、9月初めに二戸郡から、盛岡に着く。
さらに、花巻、黒沢尻を経て、10月1日に、仙台藩江刺郡の片岡に到着するまでの日記である。
日記の名前の「けふのせばのの」は、漢字にすると「毛布の狭布」である。
「毛布」(けふ)は、鹿角の地が古くは、「けふの里」と言われていたことからきている。
「狹布」(せばのの)は、この地の特産の反物で、通常のものより幅が狭く、細布ともいわれ、鳥の羽を織り込んだものが、上物とされたらしい。
「古代、奥州から調・庸の代物として貢納された幅の狭い白色の麻布。」
12世紀の書物『無名抄』には、こうある。
「けふの細布と云は、みちのおくに鳥の毛にして織ける布なり。多からぬものにて織なれば、はたはりもせばく、ひろも短ければ、上に着ることはなく、小袖などのように下に着るなり。」
他の国ではただ布というのに、陸奥出羽に限って、狹布というので印象的だったようだ。
原本は、大館市立粟森記念図書館蔵である。
小型本、全三二丁、図絵一丁ニ図。
和本の一丁というのは、表裏で一丁なので、64ページということになる。