鶴田村(花輪町)の辺になみだ河といふめるは、あはぬ夜毎/\を根み、ながるゝなみだの顔をあらひたるより川の名におへりとも、又いつまで世にすみありつとも、あがおもふ女を見ることこそかたからめとや思ひけん、深き林に入て此男くびれ死けり。
又、その川に身をなげたるゆへ、なみだ川といふともいへり。
女も、ただ比男をのみ恋ひ、おもひやみて身はやせ、いたはり重く湯水のまれず、つゐに身まかりぬ。
翁うちおどろきふしまろびて、かくばかりおもひふかく、せちに契しなかと夢にもしりせば、あはせてんにとてくひなげけどいふかひなく、せんすべもなければ、親どもなく/\、男も女もひとつ塚の中に、男の立つる千束の錦木とともにこめつきて、其辺に寺を建て錦木山観音寺といひしとなん。
比男女の塚のもとにたゝずみて、なきたまに手向ばやと、五もとの木の枝の、すこしもみぢたるを折て莓(苔)の上にさし、紙に引むすびて、
錦木の朽しむかしをおもひ出て俤にたつはじのもみぢ葉
細布の胸あはさざりしいにしへをとヘばはたをるむしぞ鳴なる
といふ、ふたくさの歌をかいつけて、もとの田づらをつたひあぜみちをくれば、かの田の面の女休らひて、といふま、しばしとて芝生に在てものがたりを聞ば、中むかしの頃まで、ふん月のなかば、つかのうちにはたをる音の聞え、物見坂といふより見れば、かたちうつくしげなる女の、はたものにむかひ居て機をるを、ある士のあやしみて、此ふる塚の中に女あらん、ほり見てんと、こゝらの人に仰て鋤鍬立てほりこぼちてのちは、まぼろしに見えたりつるつかの俤も、さをなぐる音もたえはてにき。
さるころより、毛布をるわざはもはら絶うせたりけるといひ捨て、又鎌とりおりたち苅ぬ。
うべ「今は世に在るもまれなる奥布のもちひられしはむかし也げり」といふふるき歌思ひあはしたり。
この古河(十和田町)の村をさ、黒沢兵之丞といふものの家に伝て今もをるといへば、それが宿を尋て、あるじのものがたりを聞に、いまはさらに鳥の毛まぜてをることはえし侍らじ。
をりとして君に奉ることあるに、そのころは、家のうちと清らかに注連ひきはへて奉る。
その織る女も湯あび、いもゐして、うみそつくりて、をりいとなむとなん。
はたはりのいとせばきゆへ、衣にぬひてはむあらはるゝよりいふにや。
今も南部布とて村々よりせばき布をり出しぬ、此たぐひにこそあらめ。
いにしへのみつぎものには、きよらかに織て奉りたるならん、比黒沢がやに、そのかみよりつたへたるもゆへやあらん。
「道奥のけふのせばののほどせばみ胸あひがたき恋もするかな」
「おもへたゞ毛布のさぬのの麻衣きても逢見ぬむねのくるしさ」
とながめおけるも、みな比毛布郡のこの宿にをる布の、むかしをよみし歌のこゝろ也。
やをらこゝを出て、松の木村(十和田町)といふをくるに、石のおばしかた(陽形)をならべたる祠あり。
これや、しなの、越後、いでは、わきて陸奥にいと多し。
冠田村(十和田町)をへて涙川を渉る。
「おほ空にわたる鵆のわれならばけふのわたりをいかになかまし」
とよめるは、この流とも、又古川と神田のあはひのわたりをいふとも、たれしれる人なし。
鶴田(花輪町)を過て村の名をとへば、鉄砲とこと/″\しういらへたるとき、たはれうたつくる。
羽よはきつる田のひなは心せよ鉄砲村の近くありつゝ
花輪の里に出たり。
「わがことひとりありとやはきく」
とありけるはこと処にて、おなじ名のこゝにもあるにこそあらめ。
此里をはじめ、比あたりのわざとて紫染るいとなびあり。
これを染るに、かならずにしこほりてふ木の灰をさすといふ。
なにくれと子の字のみ付て物いふを聞て、おなじう。
野に出てひがしこにしこほりためて染るとぞきくかづのむらさき
かち染る餝摩(しかま)の里にひとしく、筑觜(つくし)、むらさいの野の外に、かく名の世に聞えたり。
こゝを離て木の下に休らひ、
たけくまにあらぬ花回の松陰もひとり行身のたづきとぞなる
大里村にいたりて、作山誰とかいふ宿にとまる。
廿八日 うらぶれて、おなじ旅館に居る。
遠かたの、山の尾こと/″\に雲のいづるやと見やるは、銅ふくけぶりなりけるとか。
その山より来るわらは、あぢかのごときものに茸あまた入て、馬の歯つぶれてふくさの実を、ひたにくひ/\行たりけるを見て、
「あなうまのはつぶりくらふ童かな」
とうちたはれたり。
廿九日 夜辺よりの雨つれ/″\と、晴行けぢめも見えねば家にをるに、菊池何某といふ村の長とひ来てかたる。
なが月一日 いまだあまもよの空なり。
川水やふかからんとて、やのぬしせちにとどめれば、けふもおなじ宿に在て近きあたりを出ありくに、福用山大徳寺に遊びて、恵音といふ僧としばしうちものかたらひ、此かへさ、やのをさなき童のあるにとらせばやと、物あきなふやに入て、くだものかはんとあぐらによれば、年高き翁ふみどもやりて、つづらこ、あるははこやうのものを、しぶのりもてぞはりける。
なさけふかからんふみもやとうかゞひ見る中に、錦木山観音寺由来話としるして、黒うすゝづける冊子あり。
それしばしといへば翁ゆるしぬ。
ひらき見ればこはいかに、そのすぢ/\は正しからざれど、大化のむかしに恵正法師のかい残せるに、遠きいにしへを忍びてこゝにのす。
当国之大守、敏達天皇第五之宮、瑞褵皇子之御建立也、
其源者、人皇捨三代成務天皇之御宇、奥州黎民、動干支戌度度也、
其来由者、地理不分明、而民争奪境、小者無勝、大者結党、而闘争、
故置郡司、正邪正、北奧州五郡者、大已貴命廿六代之苗裔、狭名大夫、
同帝三歳御下向当国、置吏長、分地理之上下、定町数限堺、令開塘溝、
教農耕之道、自是農夫等、悦伏、而無争堺、民人伏、帝褒美其勲功、
改豊岳里、狭名之以狭字、称号狭郡、狭名大夫、居官三捨七歳、
仲哀天皇二年、於狭郡豊岳之邑薨、狭名大夫八代之後流、
攻子女、得工布絹、或時織始毛布、民間之児女習之、而色雑鳥毛織毛市、
其頃同郡草城里長之子、某、恋慕政子女、而立錦木三歳、既及千束、
政子女、初程有慙、人恐父心、重月而見彼皃、吾故不似初、
面痩恨声入身中、如為砭身、乍在身者古河里、心者在草城里、而業即荒、
父大海云、先祖文石不幸而落民間、家貧再雖在民間、自狭名大夫八代家名、
人知之、嫁里子耻家名、先祖不孝之至也、制之不許嫁、長子自是伏病床、断鍼薬飲食、
推古天皇七歳、七月十日、遂早世、政子女、哭泣無止、心胸大痛暈到、
而同月十五日、誘引無常風、命葉忽落、大海悲嘆余、乞長子之亡骸、
同穴政子女、而以千束之錦木共埋之、故号錦木塚、
其後、敏達帝之皇子、第五之宮者、臣守屋之女、岩手姫御子也、
故除皇子之列、奉成庶人配流奥州当国之部、吏猪人依蘇我馬子下智、
為奉弑北奥之部、吏有麻呂、竊奉迎五之宮、造奉恭敬、
猪人初、五郡之官司等、来豊岳里、敬伏、
三十六代、皇極天皇元、壬寅之歳、
〔天註‐‐皇極天皇元年は舒明天皇卅七年にあたりて己丑にして壬寅にあらず〕
五之官七捨三歳、配流有勅免、
而上京、在配所五十二年、比時当国之産物、毛布細布三百反、砂金百両、献之、
自是為貢物、帝曰、大職官鎌子、朕、拍父七人、叔母十人、幸五之宮残命、
父大兄皇子、為再会之念、御落涙甚、
其時鎌子、毛布細布之由来、達叡聞、押御感涙流、狭名者、在往昔。
又云 勲功臣旦而名也命哉、至政子女家断絶、
堪痛哭、草創一宇之堂、慰亡魂、賜正観音一軀、御長一尺八寸、
求法之僧善信、自百済国持来木像也、誠以難有勅願也、
同四年、五之宮造立一寺所賜之、安置観世音称号錦木山観音寺、
孝徳天皇大化乙巳歳、八月、導師、恵正法師敬白」
とかいたり。
からふみのまねびふかからぬ人の、はかなう作なせるもんじやうながら、そのことばつばらにしるく、遠き千とせのむかしまでそれと偲ぶに足れり。