晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

けふのせはのゝ④ 菅江真澄テキスト

五日 とのしらみゆけば、女戸おし明て、こは水霜〔露をしかいふなり〕しろ霜まじりふりたりとて、真柴折くべ物にるにあたりて、出たつよそひす。

けふは末の松山見にいかんとおもひて、とく/\と出ぬ。

梨木坂のこなたよりは二戸郡といへり。

保登(戸)沢、石神、中斎(中佐井‐以上安代町)、駒ヶ嶽(駒ヶ嶺‐浄法寺町)をへて、浄法寺村とて椀、おしきやうのものをつくりいだすをわざとせり。

むかし、浄法寺なにがしといふ人しるよしして住給しなど語る。

吉祥山福蔵寺に入て活竜上人とかたらひて、こよひは比寺一夜をとありけれど、こゝろせけばこの寺をまかんでて、石淵(岩淵)、岡本などいふ村々をも過るに、老たるほうし、しりよりゆくりなう声をかけていはく、いづこにか旅人は行ぞと。

こたへて、世にありとある、かしこきところをこそたづね奉り侍れ。

老ほうし、さらば、こゝにも桂清水とてたふときところあり。

いで、をしへ申べしとて、としふる桂木の根より水細くわき出るにほぐらをたてり。

是なん、むかし円仁だいしの夢のみさかありて、もとめ給ひしとかたり、はた、みてらの観世音は行基菩薩の作給ひて、そのいにしへは聖武天皇の建給ひて、そのかみは、いかめしき堂ども多かりつるなど、御前にぬかさげて語るを聞て、水月の意を、

かしこしないく世桂のかげそへてながるゝ水の月やすむらん

山路はる/″\とわけ来て、金葛といふ村(二戸郡二戸町)にやどかり、うすき衣をかたしきて、いもやすからぬに、あれたる板戸のひまより夜半の秋風寒く吹入て、はだへをおかすに、いとどふしもつかれず。

風なひきそ、衣重ねきてよと、あと枕のかたくへなどし給ひし父母のふかき情を、いまはたおもひ出て、たヾなみだがちに夢もむすばず。

あなさむし衣織ぬふ人もがなくずのかづらや糸によらなん

六日 筑館(月館)、十日市、中沢(中里)、一戸の里(以上一戸町)のはづれよりしばしゆけば、「をのがつま波こしつとや恨むらん末の松山雄鹿鳴也」と、家隆のながめ給ひしをずして麓に到る。

今は浪うち坂といひ、波うち峠といふ。

上れば、土の中よりわれから、波間かしはそなど小貝ほりて、つとにとひろふ旅人あり。

この山越れば福岡の郷に出るといふ。

 

「おもひこそ千嶋のおくをへだてねど」

 

とありける壺の碑は、坪といふ村に埋れてあり。

 

「しほかぜこして鵆鳴玉川」

 

は閉井郡也。

徒膚(十府)の薦いづてふ処は、外ヶ浜辺にも、また此あたりにも、宮城野の辺にもありといふ。

此末の松山を仙台路にも在けるは、夫木集に、

 

「波にうつる色にや秋の越えぬらんみやぎが原のすゑのまつ山」

 

といふ歌のあればいふにや。

しかはあれど、本中末と、そこにはあらじかし。

この浪うちは、近き辺に中山といふすく(宿)あり。

これなん中の松、本の松は盛岡に在りとかたる人もありき。

いづれやまめならん。

ふたゝび二戸にかへりくとて、多かる薄に風落ちわたるを、

 

   風吹ばこゆてふ浪と見ゆるまでなびく尾花か末の松山

 

栖穴(沢田?)村、白子坂、荷坂、宮口(女鹿ロ)、小沢(小鳥谷―以上二尸町)に来けり。

こゝにこの夜をといへば、やのあるじの女、よねてふものをひとつぶも持ねば、やどすことかなうまじとて、ゆるすべうもあらねば、ひと夜斗はものくはでもやあらんかし、みち遠く足つかれたればと、ひたにいへば、さらばやどりねとて、やをら粟の飯に、しほづけの桃の実そへてくれたり。

をのれらは栗のみくひぬ。

ことしも又、はたつものみのりよからず、わびしき世中とうちなげきて、これもて枕にとて、米はかる桝とり出てふさしむ。

いぬれば風はげしく吹に、ふる郷の夢もなごりなうやぶれて、

 

   露なみだますほの薄枕にてかりねの床の風ぞ身にしむ

 

ものの音したるに又めざめて聞ば、とりもいまだなかぬに、やの翁火いたくたきて何ならん磨ぬ。

枕もたぎて見れば、炉のへたにをのまさかりを、ひのわれ(氷の割)のやうにとぎならべたり。

こは、この離家に在てわが命やほろびん、又おびやかし、かねあらばとらんとやするか、衣やとらん。

さりければ、いかヾしてこゝをばのがれんとためらひ、みじかきさびたち(錆太刀)を身にそへ持たるに、たましゐをこめて、ひそみたちてひかへたるをやしりたりけん、ひげかきなでて、くま/″\に光る眼をとばせ、白髪ふりみだしたるは、ふりさへおそろしきに、と(外)より人のけはひして戸あららかに引あけて、あら男二人かしらは布につつみ、はちまきして、けらといふみのきて、そのくびに、はびろのまさかりをさして、がまのはぎまきして炉の中に足さし入て、寝たるはたぞ、旅人といふ。

ひとりかといひて、其こたへはあらで、夜あけぬまにといふに、いよゝ心おちゐず、おそろしさいはんかたなし。

翁声たかう、みな来り、兄な/\とよばふ。

さらにこたへねば、春木〔樵木おしなべて春に刈れば伐れば、しかはる木といふ〕の大なるして、板しきも通れと二うち、三うち打て、兄おきよ/\といふに、おき出て、こてさし、はぎまきしておなじさまによそひ、門より歌うたひていざなはれ出行に、あきれたり。

ことしらざればあやしみたり。

おき出て、人はいづこにととふ。

こたへて、山に行たり。

まだ夜ふかしといひつゝふせば、こはいかにぞや、かばかり人はうたがふものかは、あがこゝろより鬼も仏もをのづから作り出んは、いとやすげなるものかと、はぢらひてふしぬ。

七日飯いでたり、おきよといふにうちおどろけば、よべの人々ゐならびて薄墨色の飯をくひぬ。

われも、れいの女郎花を椎の葉の露ばかりなめて、雨ふるに出たつ。

高屋鋪(敷)、笹目子、小縶(繫)、日行(火行)、中山のうまやに到る。

錦着て帰るとや見ん旅人のわくる紅葉のなかの松山

摺糠、馬羽松〔馬不食とむかしはいへり〕(以上一尸町)といふ処あり。

頼義のおほん馬の料の糠くちすたれて、うまのはまざれば捨たる処の名なるとなん。

御堂(ミドウ)といふ村(岩手郡岩手町)に来り、こゝにをさめたる観世音ぼさちは、うまやどの皇子のおき給ふとも、はた、御堂は田村麻呂のたて給ふともいひつたふ。

北上山と鶏栖(とりい)に額あり、御前にいさゝかの泉あり、これ北上河〔いにしへは上川とうふ〕源也。

ねがひある人は、この水にかうより打とて、紙をさき、かうひねりをして水の面になぐ。

かなふべきはしづみ、うけたまはぬは浮きたヾよへるとぞ。

ふがね、かいらげなど行に旅人の云、こたび八戸のほとりは水あふれ、なか/\のさはぎ也と。

さればこそ玉川、みやしま見んことをとどめつれとかたりあひて、くら/″\に沼宮内(岩手町)とて、がまのはぎまきつくりあきなふ里に宿とふ。

鴈の鳴たるに、

 

   雲井路をゆきやわぶらんおもひやるわれも夜寒の衣かりがね

 

 

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