八日つとめて寺林(岩手郡玉山村)、河口(岩手町)をへて、巻堀(玉山村)といふ村に斎ふ金勢大明神といふかん籬あり。
こは名にたかふ、石の雄元の形あまた祠にをさめたるはいかにととふに、近きころ盗人とりうせたるを、もとめいだし奉りてのちは、此里のこと処のやにと人のこたふるを聞て、其処にあないさすれば、一間の小高きところの机のうへに、黒がねのなゝき斗のおばしかたをふたつ、みなくさり付たるをいやし奉る。
あるじにゆへをとへば、むかし、粟生の草ひきやる女のたぶさにさはるものあり。
あやしの形なればとり捨たるに、ふたゝびしかせり。
さりければとり持かへりて、道祖神といはひたいまつりしがはじめといふ。
実方朝臣の見たまひしはここにや、又こと処にや。
渋民〔むかしは枯杉といひし処といふ〕邑(玉山村)に来けり。
長根といふところに千本松とて、ひともとの根より、いくもとも生ひたてる木のかれたるがつれなし。
生ひ初し松は一本をいく本か過しちとせの数にたちけん
此したつかたに、ぞうり、わらんづ、すべてはなをもなきふみものを木の枝にかけたるは、わらはやみやめてとねぎごとして、いゆれば、かくなん人ごとにかくるといふ。
女あまたうすつくを見れば、鍵銭とて、ぜに、みそ斗に鍵あまたを緒につらぬき腰に付たるが、杵とるほうし(拍子)に鳴りぬ。
又声をそろへて
「はちのへの、とのご達は、にちやうさいた能さいた、おらもなたと鎌、にちやうさいた、能さいたな」
「十五七が、沢をのぼりに笛をふく、峰の小松がみななびく」
とうたふを聞て、
栄行みねの小松に笛竹のちよもこもれとうたふ一ふし
左に姫が嶽といふ山あり。
右にいや高きねのありけるを、がんじゆさんといらへたるは、
「とへば名をいはての丘ともしるべきを奥の不尽とはこれをいはわし」
と、円位上人(西行)もながめ給ふと、里の子らがあだしごとにつたへき。
巌鷲は岩手をかいあやまれるにやとおもへど、鷲の形したる岩ありなど、
「口なしの一入そめの薄杷いはての山はさぞしぐるらん」
といふ名たかきをなど、かく、まち/\にはいふらんかし。
このあたりは、
「誰れをともいはての野辺の花薄招きにまねく秋の夕ぐれ」
「とにかくに人に磐手の野辺に来て千種の花をひとり見るかな」
といふ、ふるき名どころにやあらん。
此みねに雲のをるもねたく、
紅葉するいろこそ見えねかゝりてはそれといはての山の白雲
磐井の郡、あるは信夫の郡にも此山のありといふは、
「別路はけふをかぎりとみちのくのいはてしのぶに沾る袖かな」
と、師氏のながめありけるより、しかいへるにや。
そのむかし岩木山に安寿姫をまつり、此たけには津志王丸をまつる。
又いふ、岩木ねはづし王のみたまをいはひ、此たけに安寿女のみたまをあがめまつれば、安寿山といはんをあやまれるなど、後の世の人のくさ/″\にいふに心まどひぬ。
まほなることやいかに、知る人にとはまほし。
此あたりにたゝら山といふなるは、
「陸奥の吾田多良真弓(あだたらまゆみ)つるすけてひけばか人のわれを事なさん」
と、よみけるところにこそあらめ。
夕霧にこめて見やられず。
われもかく心ひけばかあだたらの真弓の紅葉いかにそむらん
森崗(盛岡)に出たり。
とみうど軒をつらね、里ひろうにぎはゝし。
北上川の辺に宿かりつ。
舟橋あり。
かみ河のひろ瀬の面に舟をひし/\とならべて、行かふ人も上弦の光にあらはれたり。
ふなはしの数もしられて行かひのあらはれ渡る月の夕影
九日 けふのいはひに、菊のふゝみたるを折て朝とく出たつ。
いざ今日の例にぬれんとしら露もはらはでかざす菊の一枝
はたち斗も小舟を早瀨にうかべ、中洲に柱立て、かなづなを引はへつなぎ板をしいて、うまも人もやすげにわたりぬ。
此はじめは毛詩大明の篇に、造舟為梁となんありけり。
晋の杜預といふ人、富平津といへる水ひろきながれ舟をならべて浮橋としけるを、武帝、觴をあげてめでくつがへり給ひしとなん。
佐埜のふなはしとりはなしと、ふるき言の葉にいひわたり、あるは越の国にありとのみきけど、いまだふみも見ざれば、めづらしく、たゝずみわたる。
このあたりの業には、なべてあまどころとて、黄精をむしたヾらかし、あるは膏のごとにしてうるめり、いみじき薬也。
月花のたよりよからん泉郎のかる見るまへてふ名こゝに在けり
やをら十日市町となんいふを過る。
大槻の観音と人のたふとめるは、聖武のみかどのおき奉り給ふといひ伝ふ。
日詰(紫波町)といふ処あり。
これなん、清衡の四男樋爪太郎俊衡入道の館の址は、五郎沼のひんがし北に在といへば、処の名にもいふならん。
路のかたはらの石ぶみに志賀理和気神社とかき、裏に赤石明神とえりたり。
しかりわけの神(延喜式内社)は、斯波郡にひとつのかんがきといふは、此おほん神なればまうで奉る。
又祠を北上の河の涯近くひんがしにそむけて立るは、此みな底に夜毎夜毎に光る石あるをとりて、神とはまつりしとなん、庵よりほうしたち出て話る。
桜町といふ村(紫波町)あり。
春も又こゝにとはなん山ざくらまちて梢の紅葉をぞ見る
西なる吾妻峯(アツマネ)といふ麓に、志和の稲荷といふ神あり。
いにしへの鹿猟分(しかりわけ)の社こそ、此神の瑞籬を申奉りけめと、をしゆる人ありき。
しかはあれど、行みちしれざればとどめつ。
このおほん神や、倭日向建日向八綱田命にておましますときけば、よみて奉る。〔天註-姓氏録云、軽部、倭日向建日向八綱多命之後也。雄略天皇御世献加里乃郷、仍賜姓軽部君。同云、豊城入彦命男倭日向建日向八綱田命。続日本紀云、入彦命子孫東国八腹朝臣各田居地賜命氏〕
八束穂に秋の田の実やみのるらんこは鹿かりの神の恵に
かくて細きながれをたくな(滝名)河とてわたれば、ゆふべになりぬ。
行水や海士のたく繩くり返すいとまも波にくるゝ秋の日
くれて、石鳥谷(トヤ)(稗貫郡石鳥谷町)といふ里に宿つきたり。