十日大瀬河(石鳥谷町)といふに土橋かけたるを渡る。
この流は藤原朝臣盛方の、
「ほどもなくながれぞとまる逢瀬河かはるこゝろやゐせきなるらん」
とながめ給ひしは、これと、もはらいへり。
八幡(ヤハタ)(石鳥谷町)を過て宮部(花巻市)をくれば、花巻といふうまやあり。
むかしや牧のありけるやらんととふに、さはこたへず。
むかしは河岸に花多くありてちりうく頃、水にうづまかれてたゆたふよりいひし名とこたふ。
こゝに居る伊藤修といふくすし、けふは止りてとひたにいへれば、日たかう宿もとめたり。
夕暮ちかづくに旅人ふたりとぶらひ来るは、五瀬(伊勢)の国より国々めぐるとて、檍正唯、岩波良清とて歌よみ、はいかいする人也。
十一日けふも人々とともにまどゐして、あかず旅の思ひも忘れたり。
十二日この人たちことかたに出行を、名残猶やらんかたなう、いづこにてめぐり逢んと契てたゝばやといふ袖をひきて、此日斗はとておなじ宿に暮たり。
十三日けふはとて、ともにものしたるを、われ斗せめてはとて、山田のひたに止められて出たゝず。
正唯ふでをとりて、
めぐり逢ふ月の例をかけておもひけふの別を夢いふな君
とりが鳴東の奥はいとどしく別れまたくぞおもほゆるかも
といふ、ふたくさの歌作てわれに見せける返し。
めぐりあふ月のためしはおもへどもけふの細布たち別うき
別行ちまたもつらし鳥がなく東のおくをかなたこなたに
いはなみよしきよの句に、
見とどけよ木々の錦のしたしみづ
となんありけるに、
ひとりはらはん露のやまみち
とつけて、里のしりまで人々と友に送り出て帰るさに、あふげば早地峯(ハヤチネ)(東に見える)とて高きねに瀬織津比咩をまつると聞ば、ぬかづきぬ。
其近き辺に十握のみやといふありて、そこには日本武のみことの、みいくさひきゐ給ひしころの、みかりやのあとといひつたふあり。
この山より射はなち給ひしかぶらのひヾきに、みなをそりわなゝき、おかせるゑみしら、名残なうにげしぞきたりとか。
其箭のとどまりしみねを、的場山といふとかたるを聞つつ、修の家に至る。
くるれば、こよひの月見んと人々も集ひ来るに、とにあふぎて、
明らけき月のこよひの初霜に手折わづらふ庭のしらぎく
十七日 この二三日は風おこりて、日記もせずふしくらすに、戌の貝ふくころ、とに声たかふよばふはいかにときけば、すは火のこと也。
とよめきさはぐに、はや、ちかとなりのやまでけぶり立わたり、なにくれの調度どももてはこぶにまじりて、われもこゝらのふみどもおひもち出て、あるじをたすけぬるほどに、枕とりしあたりもみな火かかりて、一ときのうちに、あまたのやは灰となりて夜なんあけはてぬ。
いみじきわざはひにあへりと、おしなべてうれへなきさはぎたり。
十八日 修はやのしりに、ゐくはところのよきやのあるにうつりて、われに、しばしはかゝるさはぎをな見捨そ、いましばしありてと、やの人こぞりていへば止りぬ。
遠きさかひよりこゝにすみつきたる老たる女、布前だれをし、頭はつゝみにかくしたるが来りてあるじに、薬たまへ、あが家のやまうどやいつかくよからん。
「糸はねの一筋もなでねべし、つづれやつこもささねべし。垣ねかいたま、猫けだ物がもぐりありく」
に、又おやこまきはやけたれば、此とし、いかヾくれんとうんじてさりぬ。
此物語きゝもしられねば、いかヾぞと居る人にとふに、このあたりでは、たヾ麻苧の糸をのみ糸はねといひ、引をなづるとはいへど、ことくには、えしり侍らじとかたはらよりこたふ。
ふるきこと葉にやあらんと、きゝつゝ戯れうた作る。
糸なです綴奴もさゝずきてあれにあれたる垣ねかいたま
このかりやに日数へぬ。
村谷守中といへる人、情ふかう、うすき旅衣して夜寒の秋風いかヾしのぎてんと、綿あつ/\と入たる衣くれたりけるうれしさに、
「ものたうびしひとにをくる」
てふことを、もと末の上と下とにおいて六くさをつくる。
もみち葉の色こそ増れきのふけふ時雨にけりな峰はいくたび
のち山路見しは物かは語りあひおもなれてこし里はいくさと
たち別れ行空もうしあすよりは独たどらんしらぬ山路に
うらがるゝあさぢがや原ふみしだき野辺にやからん草の枕を
ひたすらにかけてを通へ玉づさはをたへの橋の絶ず久しく
しももやゝおくの細路ふみ分てけなんおもひは別とぞしる
廿七日 くすしをさむのやを出たつに、あるじ。
しら雲の立へだたれる遠方をよそにのみ見て恋や渡らん
と、よみてくれたりける返し。
ふたゝびと契おきても白雲のよそに隔る身をいかヾせん
行く/\紅葉のおかしかりなんなどいひて、守中。
草枕うき旅かけて故郷に枪の衣きつゝ行らん
かくなんありける返し。
ふる里のつとに見なまし唐錦枪色そふ人の言の葉
月見しこと、なわすれ給ひそとて、文英。
草枕むすぶ旅ねの夢にても見し夜の月の影なわすれそ
と聞えし返し。
友に見し月の円居のわすれじなしのびてもがな空にしのばん
ふたゝびとて、文英。
別ても心へだつなながめやる空ははるかのさかひなれども
とぞありけるに、返し。
わかれてはことこそたゆれ大空に通ふ心はへだてざりけり
又おなじ人々の句に、
これよりや夢のうきはし時雨あり
日うつりやかざしの笠に女蘿(つた)もみぢ
人遠し撮折(つみおり)はぎにあきのかぜ 守中
笠めせば君と秋との余波かな 至岳
幾久(きく)に名をこめてはおしきわかれ哉 素綾
この人々送り出て、みちの左に鳥屋崎の城といふ、これなん琵琶の柵といひて、安陪(倍)頼時のつきそめ給ひしとかたり、又道のゆんでめてに、としふりたる槻と椋の生立るを筆塚とて、頼朝のむかはせ給ひしころほひより、生ひ立りし木にてありつなどいふを、
治れる御世のしるしは筆塚にかきつもりにし年ぞしられぬ
送り来つる人々は、豊沢川(花巻市)の橋をふみ過ぎて、こゝに扇堀とて、人にふたゝび逢んあふぎてふ名のよければ、このきしべよりみな帰りけり。
十二町目(花巻市)といふ村中に、対面ぜきといへる細きながれあるより、稗貫、和賀と郡はへだつなど、処の人のをしへたり。
成田村(北上市)を過て岩田堂、二子(北上市)、この二子に、あやしのあみだぶちを八幡といはひたり。
飛馳(トバセ)森といふなるは、天正十八年の春のころほろびたる、和賀主馬のかみと聞えたりし城址なり。
此主馬の君の遠つおやは、多田薩摩守頼春の末也。
頼春の君は、伊藤入道祐親の女満幸の前のうめるころ、祐親入道都より帰来て此ちごを見て、こは、たがぞ男やあらんととへるに、まんかうの前のまゝ母ぎみ、見たまへ、此子は蛭が小島のにゐ島もりがうませたる、おほん孫にてさふらふなり。
瓜なんふたつにはやしたらんがごとに能似たりと、にくさげに足もてかいなで、こなたにおもむけてけり。
すけちか、なに頼朝の子なるか。
平氏への聞え、又つみんと(罪人)のたねといひ、たすくべうもあらじと、はらぐろにのゝしり、水深き淵に捨べし、とく/\といへれば、すべなううしなひ奉りしとこたへて、斎藤五斎藤六と、曾我太郎祐信等とこゝろをあはして、このをさなき君を、人しらずたすけまゐらせはぐくみたてて、頼朝、あめがしたをまつりごち給ふのときをまち得て、君、信濃の国善光寺にまうで給ふをりしも、みちすがら、このわか君のうへを申いづれば、頼朝公、になうめでよろこび給ひて、梶原をめして、いづらの国にか二三万石のところやあらん、とらせよとのたまふに、みちのくならで、かきたる城もあらざるよしをけいすれば、それにとのたまひしかば、住給ひしとなんいひ伝ふ。
斎藤五斎藤六は、のちに小原八重樫と名のりて、此末今も南陪(部)にいと多しといふ。
其城の址に、夏と秋とふたゝびなる栗の樹も侍ると村長が話るに、日影かたぶき、早地峯をむかふに風いと寒く、見る/\、
冬ちかみあらしの風もはやちねの山のあなたや時雨そめけん
黒沢尻(北上市)といふうまやにつきて、昆といふ何がしがやに泊る。