六日 よむべの雨もなごりなう晴て、花かあらぬか、山のはごとにかゝる白雲いとふかし。
松井といふ処におもしろき飛泉(タキ)あり、けふはその滝見なむ、いざたまへとあるじ芳賀慶明のいへれば、やをらこゝを出たち、うちかたらひゆけば山吹が柵といふあり。
そが下ッかたに杉の一ト群ラ生ひたてる地(トコロ)あり。
そこなむ、国ノ守吉村公誕生(アレ)給ひたる御館(ミタチ)の跡なるよしをいへり。
其君そこにて、
「よしや吹けとても散り行花ならば嵐のとがになしはてて見ん」
といふ秀歌なンども、こゝにおましましての事となもいへる。
此歌は、しるしらぬ男女、野辺に草刈る童までも、花見ればずンじありきぬ。
亀峯山長泉寺といふ寺あり。
山門の左右の柱に、
「嶺上松逞万年青操、前渓水長千古流」
こは梅嶺禅師とて、あが父母の国、三河の宝飯(ホイ)郡新城(シムシロ)といふ郷(トコロ)より産(イデ)て此寺の住持たり。
山門の聯も梅嶺の筆蹟(テナリ)。
また百十五代中御門院の御世享保元年丁ノ酉の秋、庭の菊を見て、
「あさなあさなおく露霜のきえやらでませに色そふ庭のしらぎく」
とありしかば、此歌めでたしとて当今の御日記にとめられたるよし、都人のもはら物語にせしよし。
そのころ在りし翁の口語とて残りぬ。
かめの峯尾上も長き泉寺うき世に引ぬ清きながれ江
とて彳めば、桜の枝ごとに斑鳩(イカルガ)の、ひじりこきと鳴也。
また紅衣着(アケベコキイ)と方言(ナクトイフ)ところありまた信濃ノ諏方(訪)束間(筑摩)のあたりにては、此曬(イカルガ)の蓑笠着(ミノカサキイ)と囀󠄀(サヤヅレ)ば、かならず雨ふるといふ。
ひじりこきとは、いづこにも鳴ぬ。
「いかるがよ豆うましとはたれもさぞひじりこきとは何を鳴らん」
と『著聞集』にも見えたり。
花鳥の色音にあかで春よりもおもひ夏野の道ぞたのしき
かの滝のもとに来たる。
水は岩にせかれて、三ツに分(ワカ)れて落滝つ。
巌のはざまに、いと古リたる松たてり。
月出が比良といふ山の麓に寺あり、岩松山経蔵寺といふ。
此滝のもとにありて、
岩がねの松のみどりも花の色もちらでぞかゝるきしのたきなみ
慶明。
峰の松松井の水にうつろひてなみもみどりに落る滝つせ
芳賀氏、此月出山をもよみねといへれば、いらへて真澄。
あきたらずこゝに暮なば山陰を月出やまちて又花も見む
夕ぐれて皈りたり。
六日 きのふまでは、ひむがし山、にし山、八瀬、大原の花の盛にこゝろひかれ、また江刺(エサシ)、胆沢(イサハ)の山々に咲出(ヅ)る花のしら雲も心にかゝりて、此ころ、花の情の浅からざりし芳賀慶明のやどを出たつ。
あるじ、花ちらば、とく帰り来てましなンどありて、
夏衣うらなく語る言の葉もいひこそのこせ今朝の別れに
返し。
いひ出ん言葉もさらに夏衣かさねてこゝにとはむとおもへど
また清雄といふ人あり、此ぬしの句に、
今のやうにふたゝび風の薫れとや
今しばとて、近き花のもとまで送りしける人々を別るとて、
みちのべの桜よ花のことの葉よ花にわかるゝ旅ぞものうき
かくて行/\田の畔の路をたどる。馬の毛を、しのゝ長串にさしてやきくろめ、又、わらを束ね切りやいて是も串につらぬきて、田のあぜごとにさしたり。
そは鹿おどしといふ。
古歌に、
「あすよりはやきしめ小山田のわかわさのねを鹿もこそはめ」
是(コハ)、焼標(ヤイシメ)にこそあンなれ。
桜鳥(むくどり)といふが、いたく花に群れて遊ぶを、
むら鳥の羽風にちらん花の枝(エ)もやきしめはえよ小田のますら男
葉山権現とまをす神ます其山の麓に、桜の多かるを見つゝし行クとて、
匂はずば花ともえこそ白雲の夏のはやまにかゝるとや見む
渋民(大原の西六キロ)といふ処を経て猿沢(渋民の西北六キロ)といふいふ村に来れば、ある、ふせるがごとき軒近う、花のいと/\おもしろう咲たり。
こを見まくほりして、あなこうじたり、道遠き国の旅人也、しばしは休らはせてよといへば、よき事、休らひてといへれば、いとうれしく、
つかれしをかごとになしてとひぞよるしらぬあるじの花を見んとて
此邑を出れば、路のかたはらに観福寺といふさゝやかの寺あり。
其寺の傍(ソバ)に高き岩ども群(ム)れ立(タテ)る処あり、それに虹(ニジ)のごとき橋(ハシ)を掛(カ)て観音を安置(マツ)る。
其堂の前に至れば、こゝらの岩の面々(オモ/\)に阿羅漢(アラカム)尊者(ソムザ)、また仏菩薩(ブチボサツ)の名号(ミナ)を彫(シル)し、また古歌(ウタ)、詩(カラウタ)もゑりたり。
また西行法師なンど、むかし今の世人をもゑりたり。
いかなるよしにかと問へば、唯うち戯れてせし事といへれど、もともあやしきもの也。
莓(コケ)むして見えねど、苔(コケ)をはだくれば、苔の下に、あらゆる人の面像(オモテガタ)出(イヅ)るといへり。
昔よりせし事と見えたり。半行(ハンギヤウ)坂(サカ)といふあり、此地(コゝ)は榛生(ハギフ)ノ荘(サウ)にして萩生坂(ハギフサカ)なるを、人みな訛(アヤマリ)りて、もはら蓁生坂(ハムギヤウサカ)とはいふとなん。
此坂の辺リに骨石、またの名を糸巻キ石とて、筆の管(ツカ)の太(フトサ)にて二三寸(フタキミキ)、あるは四五寸ばかりにて、そのさま、糸なンど引纏(マト)ひたる紡車(イトグルマ)の繆管(クダ)のごとし。そを掘(ホ)り得(ウ)れど全(ヨキ)はまれ也、もとも奇品石(アヤシノイシ)といへり。
此あたりは東(ヒムガシ)山田河津(東磐井郡東山町)とて紙漉産(イダス)、みなその業(ナリワヒ)ある家ども也。
誹諧(ハイカヒ)ノ祖(オヤ)、ばせをの翁の『おくの細道』なンどいへる日記は、此東山より漉(スキ)づる紙を四ッ折リとしてかゝれけるものにして、今はこを刻冊(ヱリマキ)としつれど、そを、いにしへざまに作れり。
翁も、みちのく紙といふ名にめでてかゝれたるものならむかし。
見渡す峰の雲(クモ)、麓の雲はみな桜也。村々の垣根は山吹の色に埋れ夕日かげろふなンど、又たぐひなきおもしろさ、また横沢といふ処にいと/\大なる窟(イハヤド)あり、そを籠(カゴ)山といへり。内、間広(マヒロク)て、石鐘乳(イハダルヒ)といふものところ/″\に掛(カゝリ)たり。遠く桃の咲残りたるなンど、見ぬもろこしの、桃源の画(カタ)みしにひとし。
こは春も見し処也。此夕為信の家に泊る。