十日 けふもさるがう舞あり。
こよひまた一夜なンどあれど、風なぎたれば、此あたりの花のちり残るも見まほしく、また春のころ見し逹谷(タツコク)ノ窟(イハヤ)、桜原といふ処は名さへおもしろければ、ふたゝびとて平泉を出たつ。
むかし悪路王ひそかに都に登り、葉室(ハムロ)ノ中納言某ノ卿の御娘ひとところおはしけるを盗みとりて、此窟(イハヤド)に隠れ住けり。
都人あまた尋ね来つれど、一とせ花の盛に飲(ノミ)に呑(ノミ)て酔(ヱイ)ふしたるに、姫君桜原を逃出て、人にいざなはれ都に皈り給ひしよしを云ひ伝ふ。
また出羽ノ国雄勝ノ郡にも阿具(アグ)呂王が窟あり。
また此達谷(タツコク)が岩屋といふは達谷麿(タカヤマロ)が栖家(スミ)し窟(イハヤド)ならむかし。五串(イツクシ)村(達谷の西南ニキロ)に来る。此村名は五十櫛の(イグシ)こゝろもこもり祓串のよしもあらんか、美麗(ウツクシ)てふ名にして山水清く、飛泉(タキ)のさま、たぐひなう儼然(イツクシ)ければしかいへるにや。
厳美(イツクシ)ノ神ませり。
此神の神社(ミヤシロ)とてはあらねど、瑞玉山(ミヅタマヤマ)の奥に旧(フル)き宮地(ミヤドコロ)の跡残れり、今はそのあたりを水山邑(一関市瑞山)の山王が窟といふ。
此奥に平泉野といふ地(トコロ)あり。
大日山中尊寺の趾、高林山法福寺の蹟、栗駒山法範寺の跡、尼寺の趾、円位法師の庵の趾あり、骨寺の跡あり。此あたりの寺々を、むかし七十四代鳥羽院の御宇(オホムトキ)、天永、永久のとしならむか、此平泉野より今の関山にうつし給ひしかば、そこも平泉の里となれり。今の平泉に逆柴山といふ名あり、是も旧(モト)平泉に在る山(ヤマ)の名也。
骨寺の事、尼寺の事は選集抄に見えたり。そは、こと処につばらかに記(ノセ)たり。
五串の滝とて人みなめでくつがへる飛泉(タキ)にのぞめば、玉の滝、またの名を小松が滝ともいふあり。
京田滝、あたら滝、大滝、童子滝、はかり滝、魚屋滝(ナヤタキ)、麻一挊(ヲガセ)の滝なンど滝は平ラ飛泉(タキ)ながら、こゝら立するどき岩にせかれて、はざま/\に、しらねりかけたるがごと白淡涌キかへり、日影うつろひて紫の波うち寄る岸には、桃、山吹、柳、さくらの枝さし交りて、世にたとへつべうかたなし。なほあきたらず見彳(タゝズミ)て、
落滝の水いつくしく画(ウツス)ともいろどる筆のえやは及ばむ
ふたゝびこゝにいたりて、奥ふかく、ねもごろにたづね見まく、こたびは田面(タヅラ)の路を来に、しめ引はえたり。
水ナ口に立てぞ祈る時は来ぬ五串(イグシ)の小田にもゆるなはしろ
山ノ目の駅(ウマヤ)(一関市)に出て大槻清雄の家(ヤド)を訪(ト)へば、しばらくありて清古筆をとりて、
珍らしなけふに待えし時鳥聞もはつねのものがたりして
返し。
此宿に聞クもめづらしほとゝぎすけふをはつ音の人のことの葉
小夜すがら語らひふしぬ。
十一日 大槻の屋戸よりはいと/\近き配志和神にまうづ。
杜(モリ)の梢は花ちり若葉さし、まだ咲やらぬかた岨の木々もめづらし。
鳥居の額は土御門泰邦卿の真蹟(カキ)給ひしといふ、手風(テブリ)ことにめでたし。
そも/\此神社(ミヤシロ)は、斎(イツキ)奉(マツ)りしよしを云ひ伝ふ配志和ノ社ノ内は皇孫彦火瓊々杵ノ尊、左方は木花開耶姫命、右方は高皇産霊尊也。
また神明ノ御社をはじめ八幡ノ社、鎌足ノ社、安日ノ社、神星ノ社、土守ノ社、かゝるみやしろ/\にぬさとりくま/″\見ありくに、菅香梅とて、よしある梅も青さして、こゝにも老姿(ウバ)杉とて千年(チトセ)ふりけむ、枝のなからに山桜の寄生(ヤドリキ)ありて花いたく咲たり。
なほ木(コ)のもとにふりあふぎて、
いつまでもちらでや見なむ杉が枝の花もときはの色にならはヾ
此処(コゝ)に菅神の御子ひとゝころさすらへ給ひしよしを云ひ伝ふ。
むかしは梅のいと/\多かる地(トコロ)にて乱梅山といひ、蘭梅山と書(イ)ひ、また梅が嶺といひ梅が森といふ。泰邦卿の歌に、
「みちのくの梅もり山の神風も吹つたへこしわが心葉に」
此御神は『文徳天皇実録』四巻、仁寿二年八月乙未云々「辛未陸奥国伊豆佐咩ノ神〔宮城郡、式、伊豆佐売神ませり〕登奈孝志神〔気仙郡、式、登奈孝志神ませり〕志賀理和気ノ神〔斯波ノ郡、南部にませり〕並加正五位下ヲ、衣多手(キヌタテ)〔気仙郡、式、衣太手(キヌタテ)ノ神マセリ〕石神(イハカミ)〔桃生ノ郡、式、石神ませり〕理訓許段神〔気仙郡、式、理訓許段ノ神ませり〕配志和ノ神〔磐井郡、式、配志和ノ神ませり〕儛草ノ神〔磐井郡、式、儛草ノ神ませり〕並ニ授ヲ」云々と見え恵恵マツ)らむ、安日ノ社は、神日本磐余彦天皇の官軍(ミイクサ)をそむき奉りし長髄彦(ナガスネヒコ)の兄なる安日、其御代に津軽の十三ノ湊に流(ナガ)さる。
其後(スエ)阿陪(倍)ノ頼時出たり。
貞任、衣が柵(タテ)にすめり。
此梅森山霊地にして、おのが館もいと近ければ、上祖(トホツミオヤ)の安日を神と斎奉(イツキマツリ)りけむものか。
神星ノ社はしらず。
また貞任の男(コ)高星二歳(フタツ)のとき、乳母がふところに抱て乱レを避(サケ)て、津刈(ツガロ)の藤埼に隠れてそこにすめり。
高星子あり、月星といふ。其塚ども河岸にありしかば、崩(コボレ)うせて水ナ底に棺(ヒトキ)の落たるが井桁の如(ヤウ)に見ゆれば、そこを井戸淵(ブチ)といひしが今は名のみ也。
また河越某なる畠の字(ナ)に高星殿、月星殿と、近きまで云ひしといへり。
阿倍ノ高星の旧跡(アト)は藤崎に残れり。
土守ノ社はゆゑよしもあらむ、いとふるめける神ノ号(ミナ)也。
また津軽の妙見ノ社の枝神五十嶋(イガシマ)ノ社あり、蝦夷を斎(マツ)るといふ。是(ソ)は斉明紀(ミフミ)に在る問■(少+免)(トヒウ)ノ蝦夷胆鹿嶋、■(少+免)(ウ)穂名といふ、其功(イサヲ)あるをもて葬し、塚に祠や建けむ。伊賀志麻といふ夷ノ名今も有なり、いがしまとは物の余(アマ)る事にて、十有(イガシマ)某(イクラ)といふ詞也。
蝦夷人名を付るに、其童(ヘカチ)、又女童(カナチ)が癖を見て付れば、世にいふ醜名(シコナ)多し。
又問(トヒ)■(少+免)(ウ)といへるところ、同津刈(軽)の比良内(ヒラナイ)〔夷語(エゾコトバ)のヒルナヱのうつりたる也〕の藻浦といふ処の畠字(ハタナ)になりて、いまそこを太夫と云ひ、その近きに蛇口(ジャグチ)といふ蝦夷住し処といふ。
かゝる事をおもへば、恐(カシコ)き事から、神に勲位のおましませるがごと、忠誠(イサヲ)ある人とらは神と、むかしは斎(マツリ)たらむかし。
いざ皈りなむとて出たつに、人あまた居ならびてうたうたひ酒のむを見て、
夫木集「もろ人の岩井の里に円居してともに千とせをふべきなりけり」
と清古ずンじつゝ語らひ連て、大槻のもとにつきたり。