晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

難しくて面白い漢字の世界④ 漢字文化圏の国々

ウィキペディア」の中国語版である「維基百科」の関連サイトの「維基文庫」が、中国の古典書籍の宝庫であることを、先日書いた。

これを、このところ眺めていたが、中国の古典だけではなく、中国の周辺の漢字文化圏の国々に関わる書籍も数多く収録されているのである。

先日、漢字について書いたときに、ユニコードという文字コードの中の漢字に関する集合について、「CJKV統合漢字」と呼ばれていると書いた。

もちろん、これは、漢字を用いている言語、中国語、日本語、朝鮮語ベトナム語の頭文字から取られたものである。

それぞれの言語において、漢字との関わり方は、大きく異なっている。

中国との関係が深かった朝鮮やベトナムの歴史書は漢文で書かれて残っている。

 

ベトナム語は、かつては日本語と同様に、漢字を応用した独自の文字チュノムを使って、漢字と混ぜて表記していたという。

それでも、フランスの植民地になったこともあり、ラテン文字が使われるようになっている。

同じように、朝鮮語においても、表音文字であるハングルを作り出した。

上流社会はもっぱら漢文を用いて、ハングルは下流社会で使われていたようだ。

しかし、ベトナムも朝鮮も、第二次世界大戦後に、漢字の使用を禁止していて、漢字は使っていないようである。

日本もまた、漢字から表音文字であるカタカナとひらがなをつくりだして、漢字とともに使うようになった。

 

「維基文庫」の史書の部の中心をなすコンテンツは、中国の各王朝の正史である。

司馬遷の「史記」が、最初にあって、

そこからずっと降って、最後の方に周辺国の歴史書が並んでいる。

さらに、周辺国の下の方に「越南」(ベトナム)、「朝鮮」とあって、次に「日本」がある。

でも、これで終わりではなく、「琉球」、「南洋」と続く。

南洋のリストに、「蘭芳年冊」とあるが、「蘭芳」というのは、中国からの移民が18世紀ボルネオに作った共和国ということである。

中国語を母国語としない国々が、漢字とどのように付き合ってきたかを考えると、興味深いものがある。

とは言っても、ベトナムも朝鮮も漢字とは決別していて、いまだに漢字を使っているのは日本だけである。

漢字を捨てたとは言っても、ベトナム語朝鮮語も語彙が漢字語から来ているものが、圧倒的に多いようである。

それは、日本語のことを考えてみても、わかる気がする。

もしも、日本語をひらがなとカタカナだけで表示してみたら、どういうことになるか。

表意文字の漢字からできた言葉を、表音文字のひらがなで書いてあったら、たぶん理解が難しい。

同音異義語で、あふれてしまうだろう。 

ベトナム語朝鮮語は、どうなっているのだろうか。

 

私は、名字、苗字など、人に名前に興味があるので、世界各国の状況を調べたことがある。

ベトナムも朝鮮も、姓は中国式である。

朝鮮では、高句麗新羅百済三国時代に、唐の姓を採用したが、それまではまったく違うものだった。

「世界各国姓事情」のサイトから、最初の部分をコピーした。

阿首至(アシュチ)、夷他(イタ)、夷呑奚(イドンケイ)、伊羅麻酒(イラマス)、

久取柔利(クスヌリ)

そういえば、日本書紀とか古事記だったかに出てる半島からの帰化人の名前は、こんな感じだった気がする。

まだ中国式ではなかったな。

いくら、漢字と決別しようとしても、名前まで元に戻すことは難しいのだ。

 

周辺国の歴史書のリストを眺めていた。

台湾の項に、「台湾通史」、東北の項に、「渤海国史」、

蒙古に、「蒙古秘史」(元朝秘史)、越南に、「越史略」、朝鮮に、「三国史記」。

書名は見たことがある気がするけれど、読んだことなどない。

つい、ダウンロードをしてみた。

全文漢字なのに、そんな気になってしまったのは、中国語から日本語への翻訳が、ブラウザで可能なことに、しばらくまえに気がついたからである。

使いものになるかどうかはわからないが、やってみる価値はありそうだ。

 

こんなことをやっていて、思い出したことがある。

学生時代に、中国語を勉強しようとしたことがあった。

第二外国語を選択する必要があったのだが、私は中国語を選んだ。

第一外国語は、必修なのでもちろん英語にした。

第二外国語は、必修ではなかった。

国語学部のある学校だったので、フランス語とかドイツ語、そのほかにもあったかもしれない。

でも、私は迷わずに、中国語を選んだ気がする。

どうしてだろうかと考えると、「時代」だった気がする。

その頃は、日中関係が、今では信じられないくらいに良好だったと思う。

日中国交回復がいつだったのか、調べてみたら、1972年9月に田中首相が北京を訪問し、日中共同声明を発表してからである。

私が入学したのは、1972年4月だからその時点では、日本は中華民国(台湾)と国交があったわけで、正確には「国交回復」ではなく、「国交正常化」である。

 

その頃の私は、西洋史にはあまり興味がなかった。

フランス語やドイツ語について考えてみることもなく、中国語に決めた。

ところが、必修ではない中国語は、すぐに諦めてしまった。

田舎から上京したばかりの、新入生にとっては負担が大きかったのだと思う。

二回か、三回講義に出ただけで、終わってしまった。

中国語について、私の記憶に残っていることは、ほとんどない。

中国語では、

「父親はパーパで、母親はマーマである。」こと。

四声という声調があって、音の高低がある。

「マーマ マ↘︎ マ↗︎」

これで、「母が馬に乗る」だったと思う。

 

もしも、私が中国語の講義を、しっかりと二年間受けていたら、どの程度のものを身につけていたのだろう。

まあ、今さら考えてもしょうのないことである。

今は、翻訳機能というPCの力を借りて、やってみることにしよう。

 

 

 

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