晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

はしわのわかば⑩ 菅江真澄テキスト

十二日 けふは石手堰(イハデキ)ノ神にまうで奉らまく、あるじ安彦(アビコ)中和(ナカマサ)を前(サキ)に北上川の岸づたひに行ヶば、雌嶋(メシマ)、雄嶋(ヲシマ)なンどいふこゝらの岩群(イハムラ)ありて、分ケやすからぬ路也。梢をよぢ蔓(カヅラ)をたぐりて、からうじてみやどころにいたりぬ。

そも/\此御神は式の神社(ミヤシロ)(延喜式内社)にして胆沢(イサハ)ノ郡の七社(ナゝノミヤシロ)の一社(ヒトツ)にて『三代実録』五巻ニ、貞観三年云々、

陸奥ノ国鎮守府正六位ノ上石手堰ノ神、並預官社」

云々と見え奉る御神也。

こゝに忍穂耳ノ尊を斎奉(イツキマツ)りて、いにしへはゆゑよしありて、宮造(ミヤツクリ)も大(オホ)キやかにおまし/\けむものかと察(オモハ)れたり。

今はさゝやかなる祠(ホグラ)の神にしませば、人みな、そことえ知り奉らぬはかしこき事かな。

むかし此北上河を加美川と云ひしも古(モト)神(カミ)川(ガハ)にして、此(コノ)河上(カワノベ)に石手堰(イハデキ)ノ御神鎖座(シズモリ)ませるよしをもて、加美河の名に流れけむものかと考(オモハレ)たり。御前(ミマエ)にぬかづきて、


   いはでゐの神の御前の涼しさはきしによるべの水清くして


安彦中和、おなじさま奉る。


   みたらしの清き流は絶ずなほめぐみも深きいはでゐの神


こゝにしばし休らふほどに、ゆくりなう雨ふれば、いそぎ皈るとて、


   タ立に菅の小笠もとりあへずみのしろ衣ぬれて涼しき


中和、しとヾにぬれて彳て、


   かきくれて外山をすぐるゆふだちの雨のあしときあとの涼しさ


くれちかづきて安彦がもとにつきたり。


十四日 つとめてこゝを出たつに、中和、近きわたりまでとて送りす。

妙見山黒石寺のこなたに休らへば、いと高き木のうれに幣(ミヌサ)、しらゆふ如(ヤウ)のもの付て、木のいたく茂りたる中より見えたるは山臥(ヤマブシ)の栖家(スミカ)にや。


   優婆塞(ウバソコ)が一夏(ヒトナツ)こもるおこなひのしるしを峰のまぶしにぞしる


かくて拈花山正法寺にまうでむとて其寺に至る。

けふは始祖(テラノミオヤ)無底禅師の斎忌日(トキビ)とて僧侶(ホフシ)あまたなみ居て、御読経(ミドキヤウ)のこゑどよめかして、此おこなひも、なからをへぬ。

此禅師の御弟子は無等良雄和尚とて、俗生(モト)は万里小路中納言藤房卿にて、出羽ノ国秋田ノ郡山内荘松原村の補陀洛寺ノニ祖たり。

開山は即(スナハチ)無底和尚也。無等良雄西来院を建て閑居し、又嶺梅院に住(スミ)て後(ノチ)寺を出て、至る処をしらずといふ。


   法の師の心の花もゑみのうちにひらけそめにし山ぞたふとき


しかして安彦中和を別るゝに、なかまさ。


   今しばしひきやとヾめんつまごとの緒絶の橋を過るたび人


返し。


   行がてにこゝちひかれて爪琴のをだえのはしをえやは渡らむ


ふたゝびとて別れて、夏山といふ処に来る。


   さらぬだにぬれしなみだのたび衣また夏山の露分て来ぬ


酒酤(サケウル)軒の胡床(アグラ)に人あまた居て濁酒(サケ)飲(ノミ)つつ、なによけむ、西根の池〔西胆沢ノ郡に在る大池也〕の鯉(コヒ)鮒(フナ)と鼻声(ハナゴエ)に唄ひ、今ひとりのあら男(ヲノコ)、顔は丹(ニ)塗(ヌリ)二王の姿(サマ)して、あな世ノ中や、ますこし飲(ホシ)けれど値(アタヘ)なし、はや腰鮒(コシブナ)〔腰銭をいふ。むかし銭を鮒形(がた)に鋳(つくり)たるよしをもはらいへど、是を考えるに、蝦夷人賃料をブンマといふ、ブンマの転(うつり)たるブナならんかし〕みながらつかひはたせりと酔(エヒ)哭(ナキ)すれば、後(シリ)なる翁、いかりはらだちて声高(コハダカ)にのゝしり、あのばか、あさましのやつかな。わがふところに金一分(ヒトキリ)あり、是とらすべし、なんぼも飲(クラ)へと投(ナゲ)やれば、酒店(サカヤ)の女、手の前へには銭すこしたうべ、かねひときりを、なじょにすべいと云ひつゝ提(ヒサゲ)にくみ出たり。

みなひぢを曲(マゲ)て、はなうち鳴らすぞ多かりける。


   味酒(ウマザケ)にゑふればうさもなつ山の木陰涼しくひぢ枕して


此夜は田河津(タカウヅ)(東磐井郡東山町)に出て宿かる。


十五日 けふは、あまづつみせでいでたつ。此あたり、野にも山にも水乞鳥(あかしょうびん)いと/\多し。

狭衣に水恋鳥のおもひし給ふといへるも此鳥の事也。嗚声あはれげに聞えたり。こゝを行/\思ひつヾけたり。

 

   雨晴れてまた袖ぬらすうすごろも水こひ鳥の声のあはれに


此あたりは前(サキ)にも見し処也。猿沢ノ村(大東町)なる中津山忠(タヾシ)といふ人の家(モト)に宿づく。

童ども小麦(コムギ)の茎(カラ)を束(ツカ)ねて牛馬(ウマウシ)の形を作り、桃の木にて弓を造りひきまがなへて、さゝやかなる篠の矢をはぎ、それをその馬うしに添へ五穀の苗を負せ、また粢(シトギ)をつくりて是秣として、うち群れ手ごとに曳(ヒキ)ありく。

としごとの、けふのためしといへり。

日高ければ大原寺にまゐりて葉山ノ社の来由(ユヱヨシ)を問へば、寺の優婆塞いらへていへらく、神はかしこくも、なぎ、なみ二柱の御神(オホカミ)、八幡ノ御神をいつきまつりて、いとふるき神社(ミヤシロ)也。

いにしへ気仙ノ郡に菅原ノ中納言某ノ卿とておはしけるが、都の名処(ナドコロ)ゆかしがらせ給ひて、大原、小原、八瀬、東山などをうつし給ひしころより、奥の棄山と云ひし処也。猿麿大夫も此猿沢より出生(イデ)られし処とて、家居の跡さだかに残れり。

今そこを鶴が嶺ノ大権現とまをし奉りて、内には弥陀、薬師、観音安置(スヱ)まつる。

また小無山(ヲバヤマ)の観世音は円仁大徳の作仏也。其菩薩(ボサチ)堂もあばれはてしとき、此山の麓に小丁といふ翁夫婦(イモセ)すめり。ひねもす此山に登りて木の実(ミ)、草(カヤ)の実を採(ト)り、草の根を掘りてくひものとして世をわたり、いつも観世音を拝奉(ヲロガミ)る事久し。

あるとき山鳴り谷ひヾきて、円仁大師の加持寒泉(ミヅ)たちまち涌キ上ガり、あやしの光かヾやふ。

小丁おどろきてこれを見れば、黄金(コガネ)ノ仏(ミホトケ)あらはれませり。

其くがねのみほとけをおのが家にもり奉り来て、柴棚を構へてすゑ奉りて、あけくれ、あなかしこ、我に子一人たまへて、いつも、いもせ、あけくれ祈れば、二人の夢に、汝がせちなるこゝろざしにまかすべし。見おどろき、いよゝぬかづきいのり奉れば、七十に近きいもせの中に男子(ヲノコヾ)ひとり産(モテ)り。恐(カシコ)さ尊さ身にあまり、名を大夢とつけたり。大夢、をとなしうなりぬれば、かゝる尊きみほとけを、かゝるきたなき、おのが埴生(ハニフ)におき奉らむ事恐(カシコ)しとて、此処にうつし奉りしとなむ。

また七十五代崇徳院の御宇(ミヨ)保延二(一一三六)年丙辰のとし、名取ノ郡の旭(アサヒ)ノ神子(ミコ)、補陀洛山(フダラクセム)の菩薩(ボサチ)をうつしまつりし処也。

今は寺めぐりになずらへて、廿六番の札うちぬ処也。陸奥守藤原準房ノ卿の歌とて、


歌人の言の葉山の名も茂りもるゝかたなき誓ひうれしき」


名取の老女の事は『新古今集』に見え、また謡曲(ウタヒモノ)にも作りて世にいちじろく、人知れる女也。あやしき事あり、此山に鉏(スキ)鍬(クワ)たつれば小蛇(サゝカヤノヲロチ)いくらともなう出(イヅ)るは、いかなるよしにか、さらに知れる人なし。

むかしよりしかりと、いひ伝ふといへり。

 

 

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