十六日 こゝを出て大原ノ里につきたり。
此郷(サト)五月三日の夜みな灰となれど、芳賀慶明が家は河ノ辺に在れば事なしとて訪(ト)へば、よろこぼひて夜打更るまで月見語らひて、歌はいかにといへるに、
おもふどちこゝろのくまも夏ノ夜の月にかたらふ袖の涼しさ
歌ニッ三ッあれど、みなもらしたり。
二十日 こゝを、近き日出たゝまくいへば芳賀慶明ノ云、此暑サにいづこへか行べし、秋の来らば松嶋、雄島の月は往(イ)て見てまし。
夏のかぎりは、此川のべの家(ヤド)に在りて暑サを避(シノギ)ねなンど、いとねもごろ聞えける事のうれしう、こゝろおちゐぬ。
養蚕(カフコ)の多かるも、みな、まぶしのわらにとりすがり、外(ト)には太麦(フトムギ)刈(カ)りて、はつきに取りかけて乾(ホシ)、この雨間なくてと、いとなきをうれひあへり。
廿二日 河夏祓といふことを、
みそぎ川つみも流にはらひては水のこゝろのちりものこらず
廿四日 家に在りとある人々季忌宮(キノミヤ)精進(サウジ)せり。
けふ八幡ノ宮に詣(マウデ)て此寺に訪(ト)ひて、なにくれかたらふに住僧(アルジ)の云ク、享保のころならむか此寺に宥映上人とておはしき。
いと/\好キ人にてよめる歌多かる中に、
「露すがる鳴子の綱も長き夜の月ひきこぼす小田のますら雄」
といふ歌は、世に知られたる歌也といへる。
まことよしありし歌人とぞおもはれたる。
廿五日 牟婁峯山(ムロネヤマ)(室根山)に登らむとて、芳賀慶明をはじめ、人々うち群れて吹上といふ処にいたりぬ。
うベも風たち、あな涼しとて、人みな、なめらかなる苔のむしろに円居せり。
水無月のあつさもさらに夏衣裾ふきあげの風の涼しさ
といふを聞きて慶明。
分のぼる道をさかしみやすらへば風吹上のみねぞ涼しき
猶のぼれば、むかふ方遠からず君が鼻といふ山(室根山の東一キロ)あり、此山のさま、擲石(イシナゴ)うち重ねたらんやう也と人々見彳(タゝズ)む。
そを見やりて、うち戯て
いくばくの峰うちこえし雲印地(クモインヂ)勝チしか君がはなの高サは
とよみしを人々笑ふ。
尾越(ヲコヱ)峰こえ小竹(スヾ)かい分て、やをら御神(カミ)の鎮座(マセル)丹嶂(タヲリ)にいたる。
新山、本山とて神社(ミヤシロ)ふたつならびて、まことにかみさびたる処也。
そも/\此本山は、
「養老二(七一八)年戊午ノ九月十九日陸奥守鎮守府将軍従三位兵部卿大野朝臣東人建之」
と棟札に見えたり。室峯(ムロネ)ノ権現(ゴムゲム)とまをし、内には十一面観世音を祕(ヒメ)まつるといへり。
こは四十四代元正天皇ノ御即位の霊亀の元(ハジメ)(七一五)より三四年(ミトセヨトセ)を経て、天明の今年(コトシ)までは千歳(チトセ)余年(ヨトシ)やふるらむ。
また新山権現は九十四代花園院の御世
「正和二(一三一三)年癸丑のとし、陸奥ノ司葛西形部大夫清信建立」
とあり、内には聖観世音菩薩を斎(マツ)る。
幣(ヌサ)とれば心も涼しむろね山峰より尾よりはらふ山風
芳賀慶明。
かしこしなゐやび並居て諸人のあふぐも高し神の恵を
円仁大師護摩おこなひの跡とて、梵字彫(ヱリ)たる石苔(コケ)に埋れたり。
高キに猶のぼれば気仙郡の浦々、味(アヂ)(網地)、二タ渡リ、金花山なンど、雲のむらだてる中に見えみ見えずみ見やらるる、いはむかたなし。
人々棵子(わりご)、竹筒ひらきて坏とりぬ。かくて山を下ル。
山のなからばかり小高キ処あり、そこに白牛の臥(フセ)る形(サマ)して方解石あり。
真白(マシロ)なる処、いと/\上品(ヨキ)石也。此皈さ、龍なる山里に休らへば家の妋人(トジ)、こは、につかぬものから、ひとつめせとて、蕎麦(ソバムギ)の餅(モチヒ)とうだして進(スゝ)む。
人みなたばむものは、なにゝまれたうびてむとて、ひたくひに喰へば、未嫁(ヲトメ)、桶にしたみこのせて酸酒(モロミ)うち入れて、かいやりしぼり漉(コシ)て、大ひさげに盈(ミタラ)して、是また、のみねとてもちづれば打ゑみて、いざ一坏(ヒトツキ)の濁(ニゴレル)酒を飲(ノム)べくとて、居ならびて飲(ノミ)ぬ。
門田には田草(タグサ)とり/″\にうたひ、また畔(アゼ)に休らひ、けふりうち吹(フキ)つゝ語らふを聞ケば、此田もやゝ穂に出(デ)なん、小楢(コナラ)の葉のはや二度(フタゝビ)耄(ホケ)たり、今(イマ)一度(ヒトタビ)開葉(ホケレ)ば、いや穂に出(デ)なん。
此年(コトシ)は秋世の中ならむ、藤天蓼(マタゝビ)の葉(ハ)粢(シトギ)白厚(アツクシテ)いと/\多しといふを聞て、稲作(タノミ)良(ヨカラ)ば、民家(オラ)はなにのうれたき事かあらん。
あな楽し、飲(ノメ)や唄(ウタ)へと又手をうちてうたふに、はてしなければ、日も山に入りてくらければ、手火炬(タヒマツ)ふりて大原に皈る。
廿七日 小林(大原の西一キロ余)といふ山里の良善院ノ清隆法印を訪(トフ)らへば、法印はふるき器財(タカラ)もたる家(ヒト)にて、なにくれとうだし、また古仏(フルキホトケ)いくはしらもをがませ、又石弩(イハヤノネ)あまたありける中に、品(シナ)よげなるを五六(イツゝムツ)贈られ、また大なる雷斧石(カミノヲノシ)をも、つとにせよとて贈られしが、此石半分(ナカラ)砕(クダケ)しかば、
此屋戸はいく万代になる神の斧の柄さへもくだす山里
こゝを出て、くら/″\になりて芳賀のもとに来る。
廿九日 水無月も、けふをかぎりにくれ行となもいへる。
都都喜石(ツツキイシ)(続石―大原のすぐ西)ノ神にまうでぬ。
こは阿倍比羅夫、あるは虫麿朝臣などの寄附品(ヨセラレタリシ)ものもありて、むかしは栄し処也。
黒麿の歌とて云ひ伝ふ歌あり。
「よき事を万代かけて続(ツヾ)き石の神の恵も大原の里」
しかいへれど、その時世の風(フリ)ともおもほえず、いにしへ貞観のころ、山城国大原野の大明神を斎(イツキ)奉(マツ)りし処といへり。
また寺を続石山大原寺といひて開祖は円珍(智証)大師にして、藤原清衡豊田の館より平泉へ移(ウツ)り来て、吾館の鬼門を守護(マモリ)給(タマ)へと誓願(ネギゴト)せしは此神社(ミヤシロ)也。本地(ウチニ)は薬師如来を斎(マツ)りて円仁大師の作(ツクレル)也。
此石神はいと/\古キ御神也、さりけれど石神といふもいと/\多し。『文4徳天皇ノ実録』四ノ巻(ミマキ)に、仁寿二(八五二)年八月乙未云々、
「辛未、陸奥国云々、衣太手(キヌダテ)ノ神、石(イハ)ノ神、理訓許段(リクヨダ)ノ神、配志(ハシ)和ノ神、儛草(マフクサ)ノ神、並ニ授ル従五位下ヲ」
云々と見えたり。〔天註——『三代実録』には衣多宗ノ神、理計段ノ神とあり、異本をもて誤字落字を補ふ〕
治れる御代いつまでもつヾき石なほうごきなく神や守らむ
良善院の清隆法印をふたゝび訪(ト)へば、さけ、さかなもとめ、あるじめけば、人々語らふ。
雨のいたく零(フ)り出れぱ、此ほどかれ/″\なる田もありて水ほしく思ふ処へ、よき雨かなと人みなよろこびあへり。
夕ぐれ近うなりて雨も晴たりしかば、河ノ辺に出て手あらひロそゝぎて、
みそぎ川あめにみかさもますかヾみ秋うつしよる波の涼しさ
れいのごと、くれて芳賀のやどに皈る。