晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

難しくて面白い漢字の世界⑤ 法華経と般若心経

ウィキペデアという百科事典サイトがある。ウィキペデア自体は、世界で300以上の言語で執筆されているのだ、という。

その姉妹サイトに、ウィキソースという文書を収録しているサイトもある。

この中国語版が、維基百科そして維基文庫である。

維基文庫が、漢字書籍の宝庫であることは、以前にこのブログに書いている。

 

日本の歴史書は、ほとんどが漢文で書かれている。

古事記」、「日本書紀」はもちろん、江戸時代の「大日本史」や「徳川実記」なども漢文である。

漢文なので、中国や台湾のサイトにも収録されているわけである。

そんな日本の歴史書を検索していて、このサイトを見つけたのである。

このサイトのトップページにあるジャンル分けは、次のとおりである。

 

「典籍 | 史書 | 小说 | 诗歌 | 散文 | 演讲 | 歌词 | 經書 | 更多……」

 

典籍には、諸子百家と言われるものがならんでいる。

史書 小说 诗歌 散文 は、簡体字であるが、そのままである。

演讲は演説、歌词には、大学や中学の校歌や革命軍の歌などがある。

そして、經書が、宗教関係である。

道教 其它中国民间宗教 佛教 基督教 摩門教 摩尼教 伊斯蘭教 印度教 神道教 犹太教

道教、仏教、基督教、神道教は、そのままでわかる。

其它中国民间宗教は、民間宗教かな。

摩門教がモルモン教摩尼教マニ教、 伊斯蘭教はイスラム教、 印度教はヒンドゥー教、 犹太教はユダヤ教なのだそうだ。

仏教のページには、膨大な量の仏典があって、すでに電子書籍にしてあるのだが、作り直すことにした。

漢字だけのページを、まるごと日本語に翻訳することが簡単にできて、しかもその変換精度がかなり向上していることがわかったので、それを活用することにした。

そのための作業をしていて、考えた。

私にとって、身近な仏教の経典ってなんだろう。

考えてみた結果、「般若心経」と「法華経」だった。

 

私は、秋田県北部の農村に生まれて育った。

私がまだ秋田にいる頃に、父親の両親も、母親の両親も亡くなった。

それぞれの自宅で、お葬式をやっていたことを覚えている。

座敷の二間に祭壇を設けていて、農家の作業場が旅館の賄場のようになって、何十人分ものお膳が準備されていた。

私が住む村の近くにお寺はなかったので、かなり離れた村にある唯一のお寺からお坊さんが来ていた。

その後、秋田を離れて30年近く経って、隣村に嫁いでいた姉が亡くなった。

その頃には、葬儀のできるセレモニー会場もできていたが、姉の葬儀は自宅でやった。

やはり隣村のお寺からお坊さんがやって来て、お経の小冊子を配って、みんなでお経を唱えた。

そんなことをやったのは初めてで、住職さんが変わってそういうやり方になったらしい。

配られたお経が「般若心経」だった。

その時になって、お寺が曹洞宗という禅宗の寺院だったことが分かった。

 

もうひとつの「法華経」は、日蓮宗で使われる経典である。

妻の親戚の葬儀や法事に出席するようになったのだが、父方も母方も日蓮宗だった。

妻の父親は、十一人兄弟姉妹の末っ子だったので、高齢の伯母さんが多かった。

お坊さんにあわせて、大きな声でお経を唱える声に圧倒された。

鎌倉仏教の六つの宗派のうち、開祖が東国出身なのは日蓮だけだと思う。

そのせいか、関東には日蓮宗の寺院が多い気がする。

生誕の地である安房小湊には、何回か行ったことがある。

私の住む柏市に近い市川市は、布教時代にゆかりのある地であり、中山法華経寺もある。

 

それぞれの経典を、日本語に翻訳してみる。

「般若心経」は、「般若経」という600巻もある最大の経典のエッセンスのような最短の経典なのだそうだ。

次のように、始まる。

 

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄
舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、

無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得

 

翻訳すると、このとおりである。

 

釈迦は『大般若波羅蜜多般若心経』を説いた。
観自在菩薩が深い般若波羅蜜多を行じたとき、五蘊が皆空であることを照らし出し、すべての苦難を渡った。

舎利子よ、色は空と異ならず、空も色と異ならず、色は即ち空、空は即ち色である。

受、想、行、識もまた然りである。

舎利子よ、これらの諸法は空の相であり、生じず、滅せず、汚れも浄さもなく、増えも減ることもない。

ゆえに、空中には色もなく、受、想、行、識もなく、目、耳、鼻、舌、身体、意もなく、色、声、香、味、触、法もなく、眼界から意識界に至るまで無く、無明も無く、無明が尽くことも無く、老死も無く、老死が尽くことも無い。

苦、集、滅、道も無く、智も無く、得ることもない。

 

確かに、日本語にはなっているが、読み下し文になっているだけで、漢字はほとんどそのままである。

五蘊、色、空、受、想、行、識と、それが何を意味しているかが、わからない。

むずかしい。

 

次に、「法華経」の冒頭部分である。

 

御製大乘妙法蓮華經序昔如來於耆闍崛山中。
與大阿羅漢阿若憍陳如摩訶迦葉無量等衆。
演説大乘眞經。
名無量義。
是時天雨寶華布濩充滿。
慧光現瑞洞燭幽顯。
普佛世界六種震動。
一切人天得未曾有。
咸皆歡喜讃歎。
以爲是經乃諸佛如來祕密之藏。
神妙叵測。
廣大難名。

 

日本語翻訳文は、このようになる。

 

大乗妙法法華経序文

昔々、如来は劫楽山におられました。

如来は阿羅漢、禅定、摩訶迦葉、その他数えきれないほどの偉大なる阿羅漢たちと共に、大乗経を説かれました。

それは無量義経と呼ばれます。

その時、天から貴重な花が降り注ぎ、空に満ちました。

智慧の瑞光は暗闇を照らしました。

六種の波動が仏界を揺り動かしました。

あらゆる人々、あらゆる神々は前例のない出来事を経験しました。

皆、喜び、讃嘆しました。

彼らはこの経文を、すべての仏の秘宝と考えました。

それは神秘的で、計り知れず、広大で、言葉では言い表せないものでした。

 

文章としては、読みやすいものである。

ただ、その内容を理解できるかは、また別の問題である。

 

これらの漢文書籍を、電子書籍に変換しようという暇なことをやっていて、不思議に思うことがいくつかあった。

ひとつは、中国人がインドという遠い異国のブッダという人の教え、思想に魅かれて、その文献を手に入れるために、長い年数をかけて旅したことである。

しかも、その膨大な経典を中国語に翻訳しているのである。

私が持っている中国人に対するイメージは、自分たちが偉大であるという中華思想を持っていて、他国の思想に敬意を払うことはないだろうという、ものである。

その頃の中国人は、違う人々だったのだろう、と考えざるを得ない。

玄奘三蔵は602年の生まれで、仏典をもとめて旅に出発したのは、629年のことで、西域を経てインドに入り、645年に657部の経典を持って帰国した。

大和朝廷が、遣隋使を派遣したのが、第1回が600年、最終が618年であり、その後随は滅亡したので、遣唐使となる。

 

もうひとつの疑問は、どうして日本人は、仏教の経典を日本語に翻訳しなかったのだろう、ということである。

中国人は、サンスクリット語で書かれた経典を、ひとつひとつ自分たちの言語に翻訳して、自分たちのものにした。

その方が、自然にブッダのことばを理解できるはずである。

どうして、同じようにことを、日本人はしなかったのか。

考えてみると、文字を持たなかった日本に、漢字といっしょに仏教は入って来てのだろう。

確かに、この時点では、無理だったのだ。

その後、カタカナやひらがなができたのだから、経典を翻訳するにことはできないことではなかったと思う。

もしかすると、やろうとしたが、普及しなかたのかもしれない。

だから、お経は今でも中国語である。

聴いていても、歌詞のわからない音楽を聞いてるようだ。

それに、慣れ過ぎてしまったのだろうか。

 

そして、三つ目の疑問点。

なぜ、インドと中国では、仏教が衰退してしまったのか。

ネットで検索すると、すぐにわかった。

インドでは、仏教が王族によって、あまりにも手厚く保護されたので、僧侶が一般民衆に布教をすることをしなくなってしまった。

その間に、民衆の中でヒンドゥー教が幅広く広がってしまい、仏教が居場所を失ったらしい。

中国においては、仏教は衰退したわけではないが、道教に飲み込まれたということだ。

寺院は無くならないが、教義的に変化してしまったのだろう。

日本でも、「本地垂迹説」によって神道と一体化して、同じ敷地に寺院と神社があったらしいので、似ている。

しかも、日本では明治維新の「神仏分離令」によって、神社から仏教色を無くそうとし、仏像、寺院の破壊など「廃仏毀釈」を行った。

中国では、文化大革命の際に、仏教僧院の大部分が破壊され、僧尼のほとんどが処刑、投獄されたというから、日本の比ではない。

その後古い寺院は改修されたり、新しい寺院も作られたが、多くは観光施設の役割を果たしてるに過ぎないということで、その意味では日本と似たものがあるような気がする。

 

手塚治虫の「ブッダ」を読んでいたのは、私が20代だった頃である。

1972年から1983年にかけて描かれたというから、大学生、そして就職した頃の時期だ。

最近知ったのだが、これは本来は、1950年代から1980年代にわたって、断続的に描き続けた「火の鳥」のうちの一篇として、企画されたものらしい。

火の鳥」の第一篇は、1954年発表ということで、私は中学生の頃に読んだ記憶がある。

これもまた、もう一度読んでみようと思う。

 

 

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