世の中にでは、常識では考えられないことがおこる。
まあ、私の常識と、世間の常識は同じではないだろうし、日本の常識と世界の常識もちがうだろう。
今、日本を混乱させている米の問題も、私からすると不可解である。
補助金を出して減反によって生産量を調整してるような国で、突然米の値段が2倍になるって、どういうことなんだろう。
どうも、政府は米の流通過程を、ほとんど把握できていないように思える。
まさか、把握してないふりをしているのではないと思うが、どこまで信じられるのかわからない。
私は、ご飯は好きである。
でも、パンも好きで、自分でパンも焼く。
もちろん、パン焼き器がやってくれるのだが。
麺類も好きで、日本そば、ラーメン、焼きそば、どちらかというと、カタ焼きそば、揚げ焼きそばは、よく食べる。
だから、三食ごはんでなければ、というわけではない。
でも、選択範囲に、お米は必要である。
ずいぶんと前に、「食という難儀なもの」という文章を書いた。
調べてみたら、4年前のことになる。
このタイトルは、「難儀(なんぎ)」ということばを使いかったのだ、と思う。
農村で育ったのだが、大人たちがこの「難儀」ということばを使っていた。
どうして「米」について書いたのかというと、米の単位である「石」というのが、人間が1年間に食べる量であるということを、知ったからだったと思う。
もしかすると、すでに知ってはいたが、それを思い出すきっかけがあって、書いたのだろうか。
宮澤賢治の「アメニモマケズ」をとりあげているので、これがきっかけかも知れない。
結論としては、たしかに一石は人間一人が、一年間に必要とする米の量だった。
1石=10斗=100升=1000合であり、米1000合である。
そして、朝昼夕と、1合ずつ「ごはん」を食べたとして、計算してみる。
3合✖️365日=1095合 となる。
つまり、1石9升5合である。
まあ、だいたい1人1石ということになる。
宮澤賢治の「アメニモマケズ」では、「 一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ」となっており、1日4合である。
これで、計算すると、
4合✖️365日=1460合となり、人間1人1.46石必要である。
1日4合というのは、量的にかなり多くて、茶碗ではなく丼の感じだろう。
賢治は、街育ちだったが、農学校の先生だったので、農民の感覚ということだろうか。
米4合とすれば、加賀百万石が養えるのは百万人ではなく、目減りして七十万人弱になる。
私の郷里秋田は、たしか二十万石だったな。
もちろん、人間食べるだけではなく、それ以外にいろいろと経費はかかるので、計算どおりにはならない。
大名や旗本などは、「石」だったが、それよりも下級の武士たちは、「扶持(ふち)」を支給されてたはずである。
調べてみたら、こうなっていた。
「主君から家臣に給与した俸禄。江戸時代には、一人1日玄米5合を標準とし、この1年分を米または金で給与した。(デジタル大辞泉)」
支給された俸禄から、食糧分を差し引いた残りで、生活の経費を賄ったわけである。
なかなかに、たいへんなことである。
私は、農家育ちなので、米の問題になると、過剰に反応してしまうところがあるかも知れない。
父は、農業の他に山師という本業を持っていたので、兼業農家だったことになる。
兼業とは言っても、畑作とともに稲作もやっていた。
水田は二ヶ所、畑は、記憶によれば四ヶ所くらいにあった。
水田は、二ヶ所とも、自宅から遠く離れた所にあった。
我が家で飼っていた牛が引く牛車に揺られて、家族みんなで遠くの水田まで、田植えや稲刈りに出かけた。
雪国なので、馬や牛は人間が住む家の同じ屋根の下に、家族のように暮らしていた。
もちろん、土間を挟んでいる。
それが、幼い頃の記憶である。
米について、他にもこのブログにいくつか文章を書いている。
過去に遡ったら、ふたつほど見つかった。
「どぶろく特区と自家醸造」は、自分が育った秋田県北部が、全国一の「密造酒地帯」だったということを知った時の驚きを描いたものである。
密造酒=どぶろくであるが、我が家でも造っていたので、身近な存在だった。
それが違法な行為らしいのは、子どもながらに知ってはいた。
でも、今考えてみても、自分で造れる「どぶろく」ではなく、高価で手の届かない「清酒」を買って飲めというのは、無茶な話である。
その頃の農家には、ほんとに限られた現金収入しかないのだから。
その頃の記憶をたどったら、「どぶろく」を「米」と物々交換していたことを思い出した。
「どぶろく1升」=「米1升」だった。
その頃は、考えもしなかったけれど、1升の米から、何升のどぶろくができるものなのだろう。
これを、現在の価格に換算してみた。
米1升が1.6キロくらいで、10キロ4000円で計算してみたら、640円になった。
これだと、現在売っている最も安価な清酒の値段に近い。
この記事を書いた頃は、10キロ4000円のものもあったが、現在はこの2倍以上になっている。
なんという、ことだろう。
もうひとつの、米についての文章が、「八郎潟と手賀沼」である。
これは、私の郷里秋田県での、八郎潟干拓事業と並行して始まった米の減反政策について、考えたものだ。
全国から、大規模農業を目指す農民が、続々と入植していた。
ところが、入植が始まってすぐ、米の減反政策が始まり、そのうちに入植は中止となる。
一旦、再開するが、結局は取りやめになっている。
そして、米を作らなかったら補助金を支給するという、不思議な減反政策を続けることになる。
そんなトンチンカンな農政のツケが、今まわってるのか。
今頃になって、米価が安すぎたとか、訳の分からない話が出てくる。
問題は、そこではないだろう。
これからの、この国の稲作をどうするのか、ということだろう。
八郎潟干拓により、米の生産量を増大しようという試みが失敗したのは、米の消費量が減少したからである。
干拓事業が進行していた1962年が、日本人の米消費量が最大だった時期だという。
1人あたり118.3kgだったのが、年々減少して、2022年には50.9kgなので、半分以下になっている。
それでも、1人が1年で、あの5kg入りのビニール袋の米を、10袋分食べると思うと、すごいと思う。
我が家や稲作をやっていた頃は、ほとんどすべて人力であり、せいぜい馬や牛が使えるくらいだった。
それが、日本の高度経済成長とともに、農業も機械化されて行く。
田圃の真ん中にあった我が家から見える風景も、どんどんと変わっていったのである。
そのうちに、我が家は村を離れ、街に引っ越した。
稲作を考えると、馬や牛がやってたことを、荷物運搬のためのトラックになり、田畑を耕すには耕運機が必要になる。
人間が総出でやっていた田植えや稲刈りは、田植え機と稲刈り機という高価な機械がやるようになる。
もう、小規模な兼業農家が稲作をすることはできないし、専業農家でもよっぽど大規模でなければ、高価な農業機械を維持して行くことはできない。
現在の日本の農村が、いったいどういうことになっているのか、私にはよくわからない。
村を離れてから、60年にもなるし、その後数えるくらいしか、村を訪ねていない。
私にとっては、最も身近な農家だった父の実家も、今は無人になっている。
かつて、米消費量が減って、余剰米が問題になった時に、普通ならば、余った分は輸出すればいいんじゃないかと考える。
ところが、日本米は値段が高すぎて、輸出どころではない、ということだったようだ。
でも、今なら日本米は美味しいからということで、他国でも売れる、と聞いたことがある。
今でも、国内ではブランド米から、複数産地米など、値段は大きな幅がある。
私は、米についても、選択対象が多い方がいいと思う。
世の中には、私のように、それほど米の産地や味にこだわらない、とりあえずまあまあ食べられればいい、という人もいる。
値段が高くても、美味しければ買いたい人もいる。
安ければいい、という人は当然いるだろう。
とにかく、選択可能な範囲が広いのがいいと思う。
この文章を書いていて、思い出したことがある。
子どもの頃、陸稲の畑を見たことがある。
「おかぼ」と呼ばれていた。
稲は、ほとんどが水田で作られている水稲で、陸稲はめったになかった。
最近、カリフォルニア米などというのを聞くが、カリフォルニアに水田があるのかと思ったので、調べてみた。
カリフォルニア米は陸稲らしいことが、分かった。
種まきも、セスナやヘリコプターからやるらしく、日本の田植えとは全く違うようだ。
ただ、日本から持ち込んだ水稲の種を使う農民もいるようなので、一緒くたにはできない。
いずれにしても、日本の米とは別物である、と思う。
食に対する感覚は、人それぞれ多様なので、米についても選択肢は多い方がいい。
そこから、日本の稲作が将来どのようにあるべきか、考えなければならない。
テレビのニュースを見ていたら、日本の米の流通過程には、なんと卸業者が五重の構造になっているということだった。
「五重」というのは、もはや想像を絶するする世界である。
このわけわからんものを、とりあえずはなんとかしなければならないのだろう。
担当大臣が、現在これに立ち向かっている、ということになるのだろうか。