晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

最後になるかもしれない同級会

8月、お盆が終わって、夜行高速バスで帰郷した。

同級会に出席するためである。

今回の会場は、「たしろ温泉ユップラ」というローカルな宿泊保養施設である。

私の郷里の町が大館市と合併する前にできたもので、和室や洋室もあるので、個人的に何回か利用したことがある。

温泉は、入浴料金450円で朝6時から夜10時まで使えるので、地元の人は銭湯のようにつかっているようだった。

私の同級生は、男子21人、女子15人、合計36人である。

そのうちの17名が、今回の同級会に集合した。

yuppura.jp

大広間で、宴会ということだったが、会場がセッテングしてくれたのは、テーブル2つで4列だった。

たった17人なので、テーブル一つで2列に変更してもらった。

最初に、故人への黙祷で始まった。

たった36人なのに、4人が亡くなっていた。

歳を重ねるということは、こういうことなのだな。

私は、18歳で秋田を離れたので、会う機会があった数人を除くと、同級生たちとはほとんど会っていない。

 他に連絡つかない何人かもあり、72歳ということで、体調を崩してという人もあるらしい。

首都圏在住は6人で、そのうち5人が出席していた。

自家用車だったり、新幹線だったり、夜行バスは、私だけのようだった。

今回は、宿泊できるものは泊まって、ゆっくり語り合おうということで、11人が宿泊した。

宴会が終わった後は、和室に移って、遅くまで飲んでしゃべっていた。

翌朝、私は洋室のベッドで目覚めたが、昨夜調子に乗って飲みすぎたせいで、何時くらいに寝たのか覚えていない。

 

ところで、私が生まれ育ったのは、秋田県青森県の県境を成す白神山地の南に位置する農山村である。

数年前に、ネットで郷里の村について調べているときに、次のようなマップを見つけた。

秋田県庁の地域づくり推進課が運営している「秋田のがんばる集落応援サイト秋田元気ムラ」というサイトにあった。

村おこしを頑張ってるところを、県が応援して、情報を発信しようということらしい。

私の郷里 大館市 越山のマップ

とてもよくできたマップである。

マップの下部に、国道7号線があるが、その部分を除いた全部が私の育った村である。

岩瀬川沿いに、七つの集落があった。

小学校中学校併設という学校だったので、これが小学校区であり、中学校区であった。

そして、マップの下の方にある「獅子踊り」のイラストのあるあたりが、私が生まれ育った集落である。

獅子踊りの他に、扇の舞や棒術のような演舞も伝えられていて、江戸の初期に村ができたらしいので、けっこう古い歴史の集落だったらしい。

マップの上の方には、五色湖というダム湖がある。

ダムができたのは1991年で、今は湖底に沈んでいるが、かつては集落があった。

同級生の家も、四、五軒あったはずだ。

マップの北から南に、岩瀬川という米代川の支流が流れている。

それに沿うように、森林鉄道が走っていた。

それが本線で、岩瀬川の支流にも、森林鉄道の支線もたしか、四、五本あった。

それは、私が中学生になる頃には、すべて廃線になってしまった。

木材の運搬は、トラックの時代になってしまったのだ。

廃線になってからも、線路はそのままだったので、下校の時に歩いていた記憶がある。

 

私の育った集落から、学校のある集落までは、車道を歩いていくと、1時間近くかかるくらい遠かった。

ところが、山道を使ってショートカットすると、30分くらいで行けた。

その道は、畑への仕事道なので、登山道のような細い道だった。

私の集落は、同級生が男の子4人だけだったので、幼稚園から中学卒業まで10年間、その道を通ったのである。

どんな大雨の日も、どんな大雪の日でも、休校になることはなかったな。

冬の間は、毎日が雪山登山だったわけだ。

 

 

   秋田のがんばる集落応援サイト秋田元気ムラ 越山編

 

同級会で、最新の名簿をもらった。

故人の欄に、私の従妹の名前がある。

従妹は、高校生の時に、白血病で亡くなった。

同じ苗字が多かったので、ずっと名で呼ばれていた。

高校生になって、苗字で呼ばれた時は、変な気がした。

首都圏在住は、6人いる。

神奈川、東京、群馬、それぞれ1人、千葉に3人である。

そのうち5人が参加したが、やはりこれが「最後かもしれない同級会」という気持ちがあったかも知れない。

 

高校入学の年に、隣町の大館市の市街に転居した。

生まれてから中学卒業までの15年間、この狭い範囲が「私の世界」だったのだ。

そして、高校時代の3年間を大館、大学時代の4年間を横浜で過ごした。

就職で、それまで足を踏み入れたことのなかった千葉に住むことになった。

今年で、50年目になる。

この間に、何度帰郷したことだろう。

帰るたびに、郷里の村は少しずつ変わっていく。

地面のアップダウンは無くなり、平らになり、道路は広く真っ直ぐになった。

そのせいか、村が小さくなったように思える。

最高の遊び場だった岩瀬川の河原は、もう遊び場ではない。

上流にダムができたせいで、大雨が降っても増水しない。

増水が河原を洗って、岩がゴロゴロして、絶好の遊び場だった。

ところが、増水しなくなって、河原は雑草が繁茂しまくっている。

子供どころか、大人も入れない状況である。

木に登って、桑の実やグミの実を食べたり、木の茂みに潜ってアケビを探すのが、楽しみだったけど、今の子どもたちはそんなことはしないだろうな。

考えて見ると、私という人間は、15年間の「小さな世界」での生活で、できあがったのだと思う。

 

 

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