同級会で帰郷した際に、同級生に車に乗せてもらったり、泊めてもらった。
彼は、同じ集落の同級生の男の子4人のうちの1人である。
小学生の頃に、4人で誕生日会をやってた記憶がある。
やっと、集落にテレビが入ってきた頃なので、世の中には誕生日会というものがあるということを、知ったのだろう。
持ちまわりで、それぞれの家でやっていた。
そんなに、ずっとやっていたわけでもない気がするするが、男の子4人でジュースを飲んで、カレーライスを食べていたと考えると、ちょっとほほえましい。
覚えているのは、彼が男の子4人兄弟の三男で、女の子の孫が欲しかったらしいおばあちゃんにオレンジ色のセーターを着せられていたことである。
卒業後、彼は建設関係の仕事について、ほとんど会うことがなかった。
再会したのは、私が就職して柏市で一人暮らしていた頃である。
彼は仕事の関係で浦安市に、住んでいた。
彼のアパートに行った時に、東京湾の埋立地に連れて行ってもらった。
埋立地といっても、ゴミ捨て場のように見えた。
そのあたりが、後に東京ディズニーランドや高級住宅地になったのだろう。
同級生と会っても、考えて見ると、お互いがどんな仕事をしているのか話したことが、ほとんどない。
私も、自分がどんな仕事してるとか、話した記憶がない。
ということは、いったい何を話してたのか、ということになるが、同級生ってそんなものかも知れない。
同級会の翌日は、彼のアパートに泊めてもらった。
仕事の休みをとって、付き合ってくれたのだ。
ちょうどその頃、秋田県のあたりに線状降水帯が発生して、空模様が微妙だった。
秋田県の中部のあたりは、かなりの降水量があってひどい洪水となっていたが、北部はそれほどでもなかった。
不安定な天気の合間をみて、出かけることにした。
安藤昌益の墓参りに、行くことにした。
5年前に、伯母の葬儀で帰郷した際に、墓参りをしようとしたことがある。
その時は、夜行バスで大館に着き、葬儀に出席した。
ホテルに泊まって、翌日夜行バスの出発まで時間があるので、大館の街をふらふらした。
高校時代に住んでいた町のあたりを歩いて、さて次はどうしようと、観光パンフレットを見たら、マップに安藤昌益の墓というのがあった。
とても簡単なマップなので、見た限りは近そうに思えた。
でも歩き始めると、それらしい案内板もなく、どうにも行きつけそうもなく、あきらめた。
今回は、どうしても行こうと、スマホで調べてみた。
大館市街からかなり離れたところにあって、とても歩いて行けるところではなかった。
温泉寺というお寺の墓地に、安藤昌益の墓はあるらしい。
ナビに入れようと住所をみると、「大館市二井田贄の里」となっている。
「贄の里」という地名を見て、あれ、と思った。
奥州藤原の最後の当主藤原泰衡が比内の領主河田次郎を頼りながら、裏切られ討たれたのが、たしか比内郡贄の柵である。
贄の字がつく地名は、そんなにあるとは思えないので、これが贄の柵の地なのだろう。
奥州藤原の終焉の地で、安藤昌益は生まれ亡くなったのか。
温泉寺は、大館盆地の南部を流れる米代川の支流犀川の流域にある。
大館盆地は、北に白神山地、東に高森山地、南に比内連峰がひかえている。
私の育った岩瀬川流域の狭さとは比べものにならない、広大な耕作地がひろがっていた。
安藤昌益は、このような村で育ったのだ。
かつて、比内の領主だった河田次郎の屋敷がこのあたりにあったはずである。
温泉寺近くにあった公民館の駐車場に車を停めて、安藤昌益の墓地を探した。
門を入るとすぐに、安藤昌益についての説明板があった。


説明板にある地図で、墓の位置を確認し、本堂裏にある安藤昌益の墓を見つけた。
安藤家の墓地の一角にあったから、子孫は在村しているのだろう。
墓石は古く、表面の文字は判読が難しかった。
なにしろ、亡くなってから、250年ほど経とうとしている。
花も線香も持っていないので、とりあえず手をあわせた。

安藤昌益という人を知ったのは、20代の頃である。
中央公論社が、「日本の名著」と「世界の名著」という業書を、中公バックスというソフトカバーの廉価版として刊行していた。
日本の名著は全50巻、世界の名著は全81巻だったが、その中から興味を惹くものを選んで、少しずつ買い揃えていた。
最終的には、40巻くらいになったと思う。
その中に、「安藤昌益」の巻もあった。
どうして、この安藤昌益という人を知ったのかは、おぼえていない。
安藤昌益という人は、日本の思想家の中では異色の人であろう。
温泉寺の案内板には、こう書かれていた。
「安藤昌益は江戸時代中期の思想家で、封建制度を否定した最初の人物とし有名である。」
ネットで調べると、コトバンクにはこうある。
「[1703~1762]江戸中期の社会思想家・医者。出羽の人。封建社会と、それを支える儒学・仏教を批判。すべての人が平等に生産に従事して生活する「自然の世」を唱えた。著「自然真営道」「統道真伝」など。」
蔵書処分の時に、中公バックスも処分した。
今、手元に中公バックス「安藤昌益」がある。
数年前に、読み返したくなって、Amazonで買ったものだ。
日本の名著第19巻で、昭和59年2月初版発行となっていて、定価1200円である。
内容は、編者野口武彦氏による解説「土の思想家 安藤昌益」と著作「自然真営道」と「統道真伝」の現代語訳である。
安藤昌益の墓が大館市市史編纂室の職員によって発見されたのは、昭和49年であるが、その事実が野口氏の解説文には、反映されていなかった。
八戸で医師として活動していたのは確かだが、何処で生誕し、亡くなったのかは不明であると述べている。
江戸出生説もあるが、文章に濃厚に東北の方言の痕跡があることや、門弟が昌益の経歴について、「倭国羽州秋田城都の住なり」と記していることを、指摘している。
しかし、昌益の生誕の地、逝去の地が大館であるという記載はまったくなかった。
だから、私は安藤昌益が、私の育った大館にゆかりのある人物であるとは、全く思いもしなかった。
中公バックスの「安藤昌益」の著作は、現代語訳されたものだっったので、原文を読んでみたいと思ったことがある。
図書館で探してみたら、岩波書店からか刊行された「日本思想大系」という業書の第45巻「安藤昌益 佐藤信淵」に収めらていることがわかった。
我孫子市立図書館から借りて読んでみたが、中国古典をベースにした文章は、私にはあまりに難解だった。
ただ、解説文に何か引っかかるものがあって、頭に残っていた。
後になって、読み返したくなって、これもAmazonで探した。
ページ数650、ハードカバーで箱入りにも関わらず、送料込みで759円で買えた。
1977年第1刷発行となっている。
編者の尾藤正英氏が、この巻に安藤昌益と佐藤信淵の二人を収録した理由について、述べている。
「この二人の思想には、単に東北地方出身者の、土のにおいのする思想家ということばかりでなく、もっと深く思想の本質にかかる面で、ある種の共通のものがあるように思われる。空想家といおうか、ユートピアンといおうか、ともかく現実離れした理想社会のあり方を大胆に、しかもきわめて具体的に描き出して見せた点で、この二人に比肩できる思想家は、日本史上にはほとんど類例がないと考えられるからである。」
佐藤信淵という人については、秋田出身の農学者ということくらいしか知らなかったのだが、どうもいろいろな意味で、かなりとんでもない人だったようだ。
安藤昌益の著作の原文を読んでみたいと、手に入れた「日本思想大系」だけれども、原文は漢文ということで、読解の便をはかるということで、漢文とともに訓読体も収録されている。
いわゆる読み下し文というやつで、漢字とカタカタで表示されている。
漢文はさすがに、敷居が高いが、訓読体になると、日本語になっていて、漢字があるので意味がつかみやすい。
1ページ読むにも、ずいぶんと時間がかかりそうだが、のんびりとやっていこうと思う。