先日、安藤昌益の墓参りについてのブログに、佐藤信淵という思想家も秋田出身であることを書いた。
尾藤正英氏は、佐藤信淵は、安藤昌益とともに、日本史上、他に類例のない思想家であると述べていた。
この二人が、私の郷里である秋田の生まれ育ちなのかと考えていて、そういえば平田篤胤という思想家も、たしか秋田出身だったと思いついて、この二人についても調べることにした。
佐藤信淵について調べてみると、なんとも波瀾万丈の生涯である。
波瀾万丈というのが、適切なことばかどうかわからないが。
とりあえず、ウィキペディアの記事から、彼の生涯を要約してみた。
明和6年(1769年)久保田藩領の出羽国雄勝郡で生まれ育つが、医師だった父が藩政批判の科で追われて、諸国遊歴の旅に出るのに幼少でこれに従う。
蝦夷地、東北地方各地を転々とし、下野国足尾銅山で技術指導していた際に、父が客死する。
16歳だった信淵は、学問修行のために、江戸に出る。
そこで、美作国津山藩の藩医である宇田川玄随に入門し、動物学・植物学・医学・本草学など蘭学の諸学を学び、および天文学・地理学・暦算・測量学を学んだ。
師の玄随の帰藩にしたがって津山に赴き、藩政改革のために献策し遇された。
その後、西国遊歴の旅に出て、薩摩国まで足を延ばしている。
江戸にもどり、諸学、特に兵学対外政策を学ぶが、なぜか上総国山辺郡に移り、農業に従事し、農学を研究している。
25歳で、再び江戸に出て医業を始め、妻を迎え、母を呼び寄せている。
39歳の時に、徳島藩に兵学顧問として招かれ、海防について献策した。
阿波国での2年の滞在の後、江戸にもどり、さらに上総国での著述の生活に入る。
45歳にして、再び江戸に出て、幕府神道方の吉川源十郎に入門し神道を学び、47歳で、7歳年下の平田篤胤に入門し国学を学んでいる。
そして、綾部藩や盛岡藩に招かれて、勧農策などを講じている。
また、老中首座だった水野忠邦に認めれられて、諮問に応ずるために「復古法概言」を著した。
これは、流通を直接統制し、流通過程への徴税によって、富国策とするものだったが、忠邦の失脚によって実現しなかった。
そこで、佐藤信淵という人を考えてみる。
彼は、ただの農学者ではなく、とても幅広く様々な学問と取り組んだ人である。
47歳で、7歳年下の平田篤胤の門下となったように、その年齢になってから、新しい学問に挑戦しているのである。
信淵の著書は、大久保利通によって評価されたと言われ、明治政府の国防国家体制のあり方を先取りしていたようである。
それは、明治15年に、朝廷から正五位を追贈されている事実に、あらわれている。
次に、平田篤胤について調べてみた。
平田篤胤という名前は、よく知られている。
平田神道ということばもあるし、復古神道といことばも知っているが、その著作を読んだことはない。
安永5年(1776年) 出羽国秋田郡で、久保田藩士大和田氏の四男として生まれた。
20歳で、脱藩・出奔し、国許を去る。
江戸に出た篤胤は、大八車引、飯炊きなど、さまざまな仕事をしながら、最新の学問、とくに西洋の医学・地理学・天文学を学びつつ、旗本某氏の武家奉公人となる。
25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となった。
知的関心は広く、蘭学を吉田長淑に学んだり、対露危機に関しては、情報収集を行っていた。
本居宣長の著書を読んで、国学に目覚め、宣長の後を継いだ長男の本居春庭に入門している。
山村才助による総合的地理書『訂正増訳采覧異言』や、地動説や万有引力などを紹介している志筑忠雄による『暦象新書』を読むことで、世界認識を変えつつある篤胤は、宣長の国学に出会う。
宣長は、仏教や儒教などによる漢意を排して、文献学的かつ考証学的な姿勢に徹していた。
文化元年(1804年) 篤胤は、「真菅乃屋」を号して自立するとともに、私塾を開き、後に医業を兼業する。
3人だった門人は後にの500を超える。
以後、篤胤は膨大な量の著作を次々に発表していった。
天保12年 幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、著述差し止めと国許帰還(江戸追放)を命じられる。
同年秋田に帰着し、久保田藩より15人扶持と給金10両を受け、再び久保田藩士となる。
江戸への帰還を望んだが、かなわず、失意のうちに天保14年、68歳で病没した。
昭和18年(1943年)没後100年に、従三位が追贈されている。
平田篤胤について調べてみて感じたのは、なんと幅広く研究した人だろうということだ。
師と仰いだ本居宣長は、仏教や儒教の影響を極力排除しようとした。
しかし、篤胤は日本の古典や古伝承はもちろん、インドや中国の古記文献に関する研究もかなりの部分を占めている。
しかも、対露危機に関し関心を持っていた彼は、ロシア情報を獲得するためにロシア語辞書を編纂していた。
復古神道ということばから受けるイメージとは、かなり違った人物だったような気がする。
コトバンクの記載は、次のとおりである。
[1776~1843]江戸後期の国学者。国学の四大人の一。秋田藩士。旧姓、大和田。号、
安藤昌益、佐藤信淵、平田篤胤、この三人の経歴をたどっていると、いくつかの共通点があることに気がついた。
ともに、出羽国で生まれ育っている。
安藤昌益と平田篤胤は、出羽国北部、後の羽後国秋田郡であり、佐藤信淵は、羽後国雄勝郡である。
生年は、安藤昌益が元禄16年(1703年)で、没年が宝暦12年(1762年)あり、その7年後、明和6年(1769年)に佐藤信淵が、さらに7年後安永5年(1776年)に平田篤胤が生まれている。
つまり、江戸時代の中期から後期にかけてのほとんど同時期に、この三人は活動している。
また、ともに成長してからは、生地を離れて八戸、江戸などに移り生活している。
安藤昌益は、大館が出生地であることは確かだが、その子が勉学のために八戸から江戸へ上京したことが記録として残っているので、昌益も江戸に滞在した可能性はある。
昌益が、八戸で町医者として活動していたことは、八戸藩の記録に残っていて確かであり、信淵や篤胤も医者として活動していた時期がある。
この時代に、学者や研究者として生計を立てるのはかなり、難しいことだったろうから、医者というのは勉学を続けるには適切な手段だったかも知れない。
ところで、私が疑問に思うのは、どうして江戸時代のこの時期に、このような思想家が出羽国という日本の北端の地方から生まれたのだろう、ということである。
思いあたるのは、江戸時代という日本の歴史の中でも特別な時代だったこと。
参勤交代という制度がもたらしたものがあると思う。
大名が交代で江戸に出仕する義務があり、その正室と後継ぎは江戸に住まなければならなかった。
全国の300近い藩は、江戸に屋敷を設けることになる。
秋田藩の場合は、宝永年間には、上屋敷が下谷に、中屋敷が鳥越に、下屋敷が深川にあった。
そこには、藩士だけではなく、いろんな職種の者も住んでいたのだろう。
出羽国から江戸に出て、佐藤信淵は美作国津山藩の藩医であった宇田川玄随に入門しているし、平田篤胤は旗本某氏の武家奉公人をしている時に、備中松山藩士の平田藤兵衛篤穏の目にとまり、その養子となっている。
江戸の屋敷で働いている親戚知人を頼って、地方から江戸に出た若者が働く場や、勉学に励む場が、あったのだろう。
100万人を越えていたという江戸の人口は、このような大名屋敷や、幕府の旗本御家人などに関わる人たちで、成り立っていたのだろう。
そして、秋田(久保田)藩という藩の性格である。
一国一城が原則だった江戸時代において、秋田藩は例外として、大館城と横手城という支城を認められていた。
安藤昌益は、城下町だった大館に生まれている。
秋田藩は、表高20万石、実高40万石と言われたが、阿仁鉱山という当時産銅日本一という鉱山があり、鉱山経営立て直しのため、平賀源内を招聘している。
その際に、蘭画の指導も行い、秋田蘭画が成立している。
これには、将軍吉宗の蘭学の奨励が、背景にあるようなので、蘭学をはじめとした学問に対する開かれた姿勢があったのかもしれない。
そういえば、私がこのブログに連載している旅日記の著者である菅江真澄は、秋田藩の保護を受け、藩内の地誌の編纂を依頼されていた。
平田篤胤は、後に尊王攘夷運動に影響を与え、佐藤信淵は明治政府に影響与えたと言われる。
安藤昌益が理想とした農業を中心とした無階級社会というのは、どんな位置付けになるのだろう。