歴史について調べていると、いろんなことに出会う。
それは、出来事だったり、人物だったり、場所だったりする。
それらは、それぞれが、点として独立して存在している。
それが、ある時に、点と点が線でつながったりする。
重なったり、交差したり、密接に関係していることが、明らかになることがある。
先日のブログで、3人の思想家を取り上げた。
安藤昌益、佐藤信淵、平田篤胤という秋田生まれの人たちである。
このうちの、佐藤信淵と平田篤胤は、生前すでに高名だった人物である。
ともに、江戸で多くの著作を発表し、評価されていた。
佐藤信弘は、著作は300部8,000巻に及ぶとされていて、いくつかの藩に招聘されたりしている。
平田篤胤もまた、多くの著作を残していて、名著出版から刊行された「平田篤胤全集」は全21巻に及ぶものであり、門弟は500人を越え、没後の門人を称するものは1330人にのぼったという。
これに対して、安藤昌益は違った存在である。
出羽国大館に生まれ育ち、その生涯のかなりの期間を陸奥国八戸で過ごした昌益は、晩年の何年かを郷里の大館に戻っている。
八戸では、多くの門弟に囲まれていたようだし、大館に戻ってからも村人から尊敬されていたようである。
しかし、それはあくまでも限られた地域でのことで、ほとんどの地方ではまったく知られてなかったと思われる。
明治31年(1899年)、第一高等学校校長在任中だった狩野亨吉が、安藤昌益の著書「自然真営道」の写本を見出した。
しかし、『岩波講座 世界思潮』に「安藤昌益」を発表し紹介したのは、昭和3年(1928年)のことであり、昌益の死後、150年以上が経過していた。
狩野亨吉は秋田藩大館城の城代家老である父の子として、大館で育っている。
維新後、内務省に出仕する父に伴って、幼くして上京している。
安藤昌益の墓が発見されて、彼の生誕逝去の地が大館であることがわかったのが、昭和49年(1974年)のことである。
安藤昌益を発見した狩野亨吉は、昌益がまさか自分と同じ大館の地で生まれ育った人間だったとは思いもしなかっただろう。
安藤昌益と狩野亨吉という大館にルーツのある二人の人間が、江戸・東京で出会ったと言える。
狩野亨吉は東京帝国大学哲学科に在学中に、英文科在学中の夏目漱石と親しくなり、後に第五高等学校、第一高等学校に在職中に同僚となっている。
京都帝国大学文科大学初代学長として在職中に、内藤湖南、幸田露伴、西田幾多郎、富岡謙蔵、桑原隲蔵らなどの少壮有為な人々を教授陣に招いた。
この人たちの中で、内藤湖南は秋田師範学校卒業という学歴ゆえに、採用にあたっては反対があったが、押し切って採用している。
内藤湖南は、慶応年間(1866年)陸奥国鹿角郡毛馬内村に、南部藩士の子として生まれた。
秋田県内で小学校訓導を務めたあと、上京しジャーナリストになった。
狩野亨吉と内藤湖南は、たぶん東京で出会い、京都で同僚となった。
明治時代、大館のある北秋田と鹿角郡は、ともに秋田県となっている。
江戸時代には、大館は出羽国秋田郡であり秋田藩であり、鹿角郡は陸奥国鹿角郡で南部藩であった。
さらに、戦国時代まで遡ると、大館のあるあたりは陸奥国比内郡であり、鹿角郡と同様に陸奥国だったのである。
豊臣秀吉が、それまでずっと陸奥国だった比内郡を出羽国秋田郡に編入したのだ。
ところで、狩野亨吉と内藤湖南について調べていて、共通点を見つけた。
狩野亨吉の父狩野良知は大館城代家老であって、尊王開国論者であり「三策」を執筆しているが、東北旅行をしていた吉田松陰がこれを持ち帰り、松下村塾から出版している。
内藤湖南の父内藤十湾もまた勤皇派であり、吉田松陰に強い影響を受けていたが、東北旅行中の松陰に実際に面会している。
戊辰戦争中に、陸奥国、出羽国、越後国の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成した。
これは、会津藩、庄内藩が朝敵とされたことに対して、赦免嘆願を目的としたものだったが、嘆願が拒絶されてからは、新政府に対抗する軍事同盟となった。
列藩同盟は、歴史の流れとして明治政府への対抗組織になってしまったが、発足の目的は違ったものだった。
各藩の内部には、多くの勤皇派を抱えていて、内情は微妙だった。
秋田藩は、すぐに尊王攘夷派が藩政を握り同盟を破棄し、新政府軍に参加した。
これに対し、南部藩が大館城を攻略した際に、自ら火を放ち、撤退している。しかし、新政府軍側の兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押しもどした。
この大館城攻城戦に、南部藩士だった内藤湖南の父内藤十湾が参戦して、私の郷里岩瀬川のあたりまで進軍し、そこで親友が戦死している。
大館城大家老だった狩野亨吉の父狩野良知は、明徳館詰役支配に任じられて庄内藩との戦闘に出陣し、由利郡の本荘藩領へ進軍している。
大館城落城の際に、幼少の亨吉は姉に背負われて弘前藩領まで避難している。
奥羽越列藩同盟から脱落した秋田藩は、四方を同盟藩に囲まれていて攻撃されたのである。
狩野亨吉と夏目漱石は、学生時代に知り合い親友となったが、その親交は生涯続いた。
漱石は狩野を「学長や教授や博士などよりも種類の違ちごふたエライ人に候」と尊敬していたし、漱石の葬儀の時、友人を代表して弔辞を読んだ。
漱石の「吾輩は猫である」に登場する苦沙弥先生は、狩野亨吉と自身をダブらせて描いたといわれている。
私は、小学生の時に「吾輩は猫である」を読んだ。
お年玉で初めて買った数冊の旺文社文庫の中の一冊だった。
吾輩という猫が、飼い主一家の有様を語るという設定の面白さもあり、けっこう気に入って読んでいた。
その後、漱石の代表作といわれるような作品は、文庫本で読んだのだが、あまり面白くなかった。
私の好みではなかったのだ。
苦沙弥先生の自宅には、さまざまな友人や知人が出入りする。
そのなかの水島寒月という元教え子である理学士が、寺田寅彦がモデルらしいということを、ずいぶんと後になって知った。
寺田寅彦という名前はよく知られている。
でも、いったいどんな人だろうというと、地球物理学者なのだそうだ。
彼は、明治11年(1878年)生まれで、昭和10年(1935年)に、57歳で亡くなっている。
作品は、100年も前のものなのに、文章はとても読みやすい。
内容は、音楽についてだったり、映画についてである。
音楽もクラシック音楽についてなので、蓄音機でレコードを聴いていたようだ。
ラジオについての随筆もあるし、コーヒーについても書いている。
ゴルフ、相撲、チューインガムなんてのもあり、「写真電送の新法」というタイトルを見て、やはり科学者だと思った。
これは、ファックス送信のことなのだろう。
青空文庫の作品リストには、作品番号が304まである。
57歳で亡くなったのを知って、若かったなと思った。
でも、漱石は50歳で亡くなっている。
宮沢賢治37歳、石川啄木26歳という享年を考えると、なんと短命だったことか。
歴史上の点は、他の様々な点とつながる。
そんなことをやっていると、きりがなく続いていく。