本土寺を後にし、小金城址「大谷口歴史公園」に、向かうことにする。
小金城は、千葉氏の家老であった原氏の重臣高木氏の居城である。
高木胤吉は、天文6年(1537年)、小金城を築き根木内城から移り、その後、胤辰、胤則と3代53年の居城となった。戦国末期には、この小金城を拠点に、現在の松戸、市川、船橋、沼南、柏、鎌ヶ谷、我孫子を支配し下総国有数の領主となったといわれている。
城は、標高20メートルほどの丘陵地帯に、古利根川、中川、荒川流域などの低地帯を一望できる場所にある。城域は、東西800メートル、南北700メートルにおよび、当時下総国北西部最大の平山城だった。平山城は、平野にある山や舌状台地などの丘陵の地形を利用して築城されたものである。
「大谷口歴史公園」に、到着した。
現在、広大な城域のうち保存されているのは、大谷口歴史公園として残っている金杉口の遺構と馬場曲輪の一部、達磨口の虎口の遺構、そして城域の鬼門を守るために根木内城から移されたとされる大勝院である。
金杉口から、馬場曲輪に登ってみる。
まわりは、ぐるりと土塁で囲まれている。
曲輪から降ると、畝堀と障子堀の遺構が残っている。
次に、虎口の遺構である達磨口に移動する。
車道を歩いていると、大勝院の裏門があった。
かつては、城の鬼門を守っていた大勝院は、幼稚園を経営していた。
立派な門柱の上に、ミニーさんが立っている。
もう一方は、ドナルドくんだった。
その隣に、達磨口があった。
駅方面にむかって、坂を登って行くと、この辺りが大手口だったと思われるが、遺構と思われるものはない。
小金城には、大手口、達磨口、金杉口、大谷口の四つの虎口があったといわれている。
大きな通りを歩いて行くと、遠くに寺院の建物が見えたので、その方向に進んでみる。
大勝院の本堂だった。
大勝院は、教学道場として多くの学僧を輩出してきた。また、地元の師弟教育にも力を注いできており、幼稚園経営もその延長ということらしい。
小金城の遺構は、大谷口を入ると「本城」、「中城」、「馬屋敷」、「外馬場」、さらに「馬場山」、「番場」、「中郷」などがあり、1960年代までは、森林の中にほぼ完存していたという。その写真は、「日本城郭大系」(1980年刊行)に残されているらしい。
しかし、その後の住宅開発でほとんどが失われた。
隣の根木内城もその頃に、国道のために分断され、大部分を失っている。
高度経済成長期には、それまで完全な形で残っていたであろう城址の多くが失われてしまったことを考えると、なんとももったいないことである。