菅江真澄
八幡の神籬にまうでて久斯美多万(奇御魂)をも拝み奉らまく、いで、そのみやしろへとおもふに声高う舟よばひせり。こは、かみ川の行かひやあらん、とく/\と人々のいへば、いそぎほゐにはあらずて、そのかたをよそに出たつ。しかはあれど、去年、さをととし…
十六日 あるじ常雄、しばらくのわかれなるべし、けふばかりはと、せちにとゞめかたらふゆふつかた、資福、盛芳、久武のぬしとぶらひ来て、余波やるかたなう、ふたゝびなどありて夜ひとよ語ぬ。 十七日 あしたの空かきくもりて、やがてふりくる雨によそふとて…
いわてのやま 寛政八年の夏のころ、みちのおくのくに胆沢の郡をたちて、松前に行のみち行ぶり也。南部路のことのもはらあれば、《いはての山》てふこともて、このふみの名とせり。馬門のせき屋より筆をとどむ。かくて津刈路に至りては《そとがはまつたい》て…
「いわてのやま」は、天明8年(1788年)6月半ばから、7月初めまでの日記である。 蝦夷地への渡航を思い立ち、南部領と津軽領の境のあたりである野辺地を目指す。 郷里の三河を出発して、信濃、越後、出羽と、蝦夷地を目指して津軽の地を踏んでから四年の月日が…
二日ひるはれて猶風とく吹ぬ。 三日 こゝを出て常雄のやにくるみちのなかに、わらふだしきて、みてぐら、みところにさしたるは、ものゝけある人を、けんざ(験者)のいのりて、かく、ちまたにまつる、みちきりといふもの也。かくて其やにいたる。 四日 あるじ…
廿一日 猶をなじところにくれたり。 廿二日 盛方とゝもに徳岡(胆沢郡胆沢村)にいかんとて野はらのみちにいづれば、こまがたの山しろう雪のふりそめたるをはる/″\と見やりて、あないみじや、きのふさえたるげにやあらんなどかたりつゝとなふ。 きのふみしゆ…
(天明六年 ― 一七八六)かんな月一日になりぬ。しりなる月(九月)うすつきたるもちひを、けふは煎てなめるためしなればとて家ごとにてせり。前屈といふ処の翁の年は、もゝとせ二とせのよはひをつみたるが、あが手づくりにしたるとて、はつよねの?米を、さ…
天明6年10月から12月までの日記である。 真澄は、天明3年春に、郷里から旅に出発しているので、旅に出て4年目、年齢は32歳になっていると思われる。 現在の岩手県一関市である陸中西磐井郡山ノ目の大槻宅に、滞在していた。 その間に、藤原秀衡の六百回忌が…
十六日 こゝを出て大原ノ里につきたり。 此郷(サト)五月三日の夜みな灰となれど、芳賀慶明が家は河ノ辺に在れば事なしとて訪(ト)へば、よろこぼひて夜打更るまで月見語らひて、歌はいかにといへるに、 おもふどちこゝろのくまも夏ノ夜の月にかたらふ袖の…
十二日 けふは石手堰(イハデキ)ノ神にまうで奉らまく、あるじ安彦(アビコ)中和(ナカマサ)を前(サキ)に北上川の岸づたひに行ヶば、雌嶋(メシマ)、雄嶋(ヲシマ)なンどいふこゝらの岩群(イハムラ)ありて、分ケやすからぬ路也。梢をよぢ蔓(カヅラ…
廿八日 あさてばかりこゝを出たゝむといふを聞て、姉体(水沢市)といふ処にをるくすし安彦ノ中和(ナカマサ)。 たび衣袖のわたりの別より涙の川のせく方もなし とある歌の返し。 なみだ川身もうくばかり旅衣袖の渡にくちやはてなん 盛方のもとより、 別ても…
三十日(ミソカ) をちかへり時鳥の鳴ヶば、 ほとゝぎすこゑなをしみそ庭に咲く花の卯月も明日はちりなむ 五月朔ノ日 あすは此家(ヤド)を出たゝむ、去年より馴むつびたる人々に、ふたゝびのたいめ、いかヾなンどおもふ曉郭公の鳴けば、 時鳥なみだなそへそ…
十九日 あるじ祥尚のいへらく、けふは此あたりの人々をこゝにつどはせて、くるゝまで楽しみあそばむ、こよひもこゝにありてなンどいへるほどもなう小幡ノ為香のとひきて、 数ならぬ身も橘にとひよればえならず袖の匂ひこそすれ とあればいらへて、 いつまで…
十二日 (宮城県)桃生ノ郡鹿股(カノマタ)(河南町鹿又)の有隣(アリチカ)ノ翁、ところ/″\尋ねわびて、けふも又あはでむなしく皈るなンど書て、 尋ねこしかひもなぎさにすむ鶴のこと浦遠く声ぞ聞ゆる とあるを見て、 たちあそぶ方こそしらね友つるのうら珍…
十日 けふもさるがう舞あり。 こよひまた一夜なンどあれど、風なぎたれば、此あたりの花のちり残るも見まほしく、また春のころ見し逹谷(タツコク)ノ窟(イハヤ)、桜原といふ処は名さへおもしろければ、ふたゝびとて平泉を出たつ。 むかし悪路王ひそかに都…
八日 つとめて、里の童を道あないとして、きのふの路をいさゝか分て、大金(オホガネ)といふ処の岨に、桜の二三本(フタモトミモト)たてるが朝風に吹さそふをうち見やり彳めば、童の小河に臨(ノゾミ)てものうかがふさま、何ならむとおもへば石斑魚(カジ…
六日 よむべの雨もなごりなう晴て、花かあらぬか、山のはごとにかゝる白雲いとふかし。 松井といふ処におもしろき飛泉(タキ)あり、けふはその滝見なむ、いざたまへとあるじ芳賀慶明のいへれば、やをらこゝを出たち、うちかたらひゆけば山吹が柵といふあり…
菅江真澄の旅日記のテキストを校正している。 菅江真澄全集十二巻のうち、日記の部分は、第一巻から第四巻までである。 数年前に、全集の原文をスキャナーで画像ファイル化して、更にOCRでテキストに変換した。 オンラインで、OCR変換してくれるサイトを使っ…
菅江真澄は、それほど知られている人ではない。 私の学校生活の中でも、彼の名や作品は教科書などでは扱われていなかった。 現在は、どうなのだろうか。 だから私は、二十代になって,菅江真澄の研究者である内田武志氏の新聞記事を読むまでは、その名を知ら…
近隣(チカドナリ)の翁の訪来(トイキ)て、都は花の真盛(マサカリ)ならむ、一とせ京都(ミヤコ)の春にあひて、嵐の山の花をきのふけふ見し事あり、何事も花のみやこ也とて去ぬ。 数多杵(アマタギネ)てふものして餅搗(モチツキ)ざわめきわたりぬ。 …
廿八日 毛越寺のふる蹟見なんとて田の畔づたひして、礎の跡なンどにいにしへをしのぶ。 廿八日 毛越寺の衆徒某二人、日吉(ヒエ)ノ山に登り戒檀ふみにとて旅立ければ、此法師たちに、故郷に書(フミ)たのむとて、 ふる里を夢にしのぶのすり衣おもひみだれ…
「是はもろこしのごかん(後漢)のめいてい(明帝)の御代に、かぶむと申ス老人にてさふらふ也」 と老翁(オヂ)、老嫗(ウバ)両人(フタリ)出(デ)て、己(オノ)がむすめの死(ミマカリ)し事をなげき、塚にをみなへし、おしこぐさの生たるを記念(カタミ)…
此事終(ハツ)れば、れいの優婆塞出(イデ)キて法螺を吹キ太鼓(ツヾミ)うてば、もろ/\の神供(ヒモロギ)をおろし、円居(マドヰ)しける衆徒(ホフシ)の前に居(スヱ)るをいなだき、神酒(ミキ)たうばりなンど、やゝ此直会(ナホライ)はてて、衆…
「忠衡密渡蝦夷ニ」といふくだりに 「其夜泉三郎忠衡は、郎徒共に暫く防キ矢を射させて後は館に火をかけ、自害の体にもてなし裏道より遁れ出て終蝦夷にこゝろざし、津軽ノ深浦へとぞ落行ける。 頃は六月廿日余り、深浦の港は兼て秋田ノ次郎が謀ひにて、交易…
また康元、正嘉のころならむ、相模守時頼、最明寺して落飾(スケシ)たまひて、法ノ名を覚了房道崇と号(ナノリ)て国々めぐり給ひ、こゝにもしばし杖を曳(ヒキ)とめられしといふ庵の跡あり。 また舞鶴(マヒヅル)が池も雪に翅(ツバサ)のふり埋れ、梵字…
四月(ウヅキ)ノ初午ノ日は白山神の祭にて、七歳男子(ナナツゴ)を馬に乗(ノセ)て粧ひたて、白兎(シロウサギ)の作り物あり。 此白兎は従者(スンザ)にてもろこしより神のぐし給ひしまねびといへり。 此処(コゝ)に斎奉(イツキマツ)る白山ノ神霊(…
二十日 けふは磐井ノ郡平泉ノ郷(サト)なる常行堂に摩多羅神の祭見ンとて、宿の良道なンどにいざなはれて徳岡の上野を出て、はや外(ト)は春めきたりなンど語らひもて行ク。 遠かたの田ノ面の雪の中にこゝらたてならべたる鶴形(ツルガタ)は、まことにあ…
白粉(シロイモ)の、さはにあらねば、近き世には山より白土(シラツチ)を掘り来(キ)て、三四日(ミカヨカ)も前日(サキツヒ)より、花白物(オシロイ)よ/\と肆(イチ)にうりもてありくを買ひ、水に解(トカシ)たくはひおきて是を塗(ヌ)る也。 む…
十二日 つとめて、小雪ふりていと寒し。 午うち過るころより若男等(ワカヲラ)あまた、肩(カタ)と腰とに「けんだい」とて、稲藁(ワラ)もて編(アメ)る蓑衣(ミノ)の如なるものを着(キ)て藁笠(ワラガサ)をかヾふり、さゝやかなる鳴子いくつも胸(ム…
夕づゝのかゆきかくゆきゆきくさまくら旅にしあればそことさだめず 雲ばなれ遠き国方(クニベ)にさそらへありき、ことしもくれて、みちのくの胆沢(イサワ)ノ郡駒形(コマガタ)ノ荘(サウ)ころもが関のこなた、徳岡(トクオカ)(胆沢郡胆沢村)という里…