晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

地図はタイムマシン

明治初期に発行された「迅速測図地図」というものを見たくて、近隣の図書館の蔵書を検索していた。その結果、「迅速測図地図」は、松戸市立図書館と鎌ヶ谷市立図書館にあることがわかった。

柏市立図書館、流山市立図書館、我孫子市立図書館には、「迅速測図地図」のもとになった「フランス式彩色地図」が、蔵書としてある。

 

この数ヶ月、「フランス式彩色地図」を見るために、柏市立図書館に通っていた。

「フランス式彩色地図」については、このブログで何回かふれている。明治初期に日本陸軍が作成した、水彩絵具で彩色した手描きの二万分の一縮尺の地図である。地図というより絵画作品的なものだ。関東地方を中心に921枚作成され、すべての原図が保存されていた。平成になって、1991年日本地図センターから復刻出版された。

しかし、それに先立って1977年、「フランス式彩色地図」をもとに、実際に1色刷りで発行されていたものを復刻したものが、「迅速測図」として昭和礼文社から出版された。千葉県版は、全三巻で102枚の地図を復刻となっている。

 

そこで、鎌ヶ谷市立図書館に行ってみた。はじめてなので、利用者カードをつくる。図書館の利用者カードは、柏、我孫子、流山ときて、4枚目である。市外の利用者なので、貸出冊数の制限などあることの説明がある。

「迅速測図地図」千葉県版の閲覧希望すると、書庫から出して来てくれた。

古文書が入ってるような布張りの紙箱に、折り畳まれた地図が入っていた。

東葛飾のあたりは第一巻の西部版だった。地図は、24cm四方にきれいに折りたたまれて29枚入っていた。広げると、65cm×48cmになる。「フランス式彩色地図」の倍以上の大きさである。

付録として、千葉県全図がついていた。縮尺は、7万2千分の一だが、大きすぎて机の上でひろげられなかった。2メートル四方以上あると思う。

奥付を見ると、

発行 昭和52年7月20日

発行部数 300部

価格 12000円

版権所有  参謀本部陸軍部測量局

      大日本測量株式会社

昭和52年発行なのに、参謀本部ってどういうこと?
大日本測量株式会社も検索したけど見つからなかった。

 

一枚づつ広げて、見てました。

眺めていて、気がついたこと。

水戸街道が、「陸前濱街道」と表示されていた。陸前ということは、宮城県だから、仙台までってことかな。

松戸市の江戸川対岸が、東京府南葛飾郡と埼玉県北葛飾郡になっている。野田市の江戸川対岸は茨城県中葛飾郡、関宿の北に茨城県西葛飾郡がある。千葉県東葛飾郡とあわせて五つの葛飾郡、ことばでは知っていたが、はじめて地図で見た。

③ 金町と亀有の間を流れる中川が、「古利根川」と表示されている。なるほど、銚子の方へ流れを変えられる前は、これが利根川だったんだ。

船橋宿から少しで海がある。海がよく見えたんだろうな。明治のはじめは、まだ埋め立てられてなかった。

⑤ 流山の野々下村近くに「天刑星」という名の神社がある。なんだろう。不思議な名前だな。

⑥ 住宅の建物は、◾︎のような黒い四角い点で表示されている。これをよく見ていると、この点は適当に点点を打ってるのではなく、建物の位置や数は実態をそのまま表しているように思われる。集落の戸数や住居の配置が正確に把握できそうな気がする。

⑦ 一枚の地図にある神社や寺の数がとても多い。現在、日本には神社、寺がそれぞれ10万以上あるそうだ。人の住むところ、神社、寺がある。すごいことである。

今は、住宅地が新しくできたといっても、新しく神社ができることはない。神社があるということは、昔からそこに集落や村があったということである。だから、今はすごい住宅地でもほとんど神社のない地域がかなりある。

 

この地図は、明治10年代に測量したものをもとに、明治30年ごろに発行されたものを復刻しているらしい。

地図は、タイムマシンみたいだな。

 

 

マフィンおばさんのぱんや

「パン焼き入門」という話を、何週間か前に書いた。子どもが小さいころに、パン焼き器を買ってパンを焼くようになったこと。パン焼き器が壊れたが、新しいものを買い換えたことについてだ。

たしかに、パンは大好きでよく食べていた。でも、何がきっかけでパン焼き器を買おうなんて思ったんだろう。自分でも不思議だった。

考えていて、たぶんこれだろうという理由がわかった。

 

子どもたちが小さい頃、福音館書店の「こどものとも絵本」という絵本のシリーズが毎月届いていた。これを、毎日の読み聞かせで読んでいた。

このシリーズは、すべて新作の作品で、あとで、普通の絵本として書店に並ぶような作品がいっぱいあった。 

その中に、「マフィンおばさんのぱんや」があった。

子どものたちも、私もお気に入りだった。

 

マフィンおばさんのぱんやのお手伝いをしている男の子が

町の人たちも食べられるおおっきなパンを焼こうとして

内緒で、ジャムやチョコの入った

大きなパンを焼くと

パン屋の建物からはみ出してしまうパンができて

とってもおいしそうなパンのにおいがして

町中の人たちも出てきて

たいへんな騒ぎ

 

というようなお話だった。

 

福音館書店のホームページを見ると、

1996年発行 竹林亜紀さん 作  河本祥子  絵

となってる

説明はつぎのとおり。

 

マフィンおばさんのパン屋で手伝いをしていた男の子アノダッテは、ある夜、自分ひとりでパンをつくってみようと思いました。ふだん見て覚えたとおりのやり方で、町のみんなに食べてもらおうと大きなパンだねをこね、かまどいっぱいに押し込んで焼き出すと、パンはどんどんふくらんで、家の屋根裏までいっぱいに……。香ばしいパンのにおいがただよってくるような絵本です。

 

私は、これを読んであげているうちに、焼きたてパンを食べたくなり、

パン焼き器を買おうと思ったんだと思う。

私はパンが好きだけど、ご飯も好きである。

パンは、仕事が休みの日に食べる、

仕事に出かける日は、必ずご飯をたべる。

なんだか、よくわからないこだわりがあった。

パンは、休日のお楽しみだったのかな。

 

 

地形と住宅開発

 私の住む「東葛飾」という千葉県北西部は、江戸川と利根川に挟まれた地域である。この辺を、車で走るようになって思ったのは、アップダウンが多いということだ。高台があってもそれほど続かず、低地になってまたすぐに高台になる。

私は、そういう地形を見たり、考えたりするのが好きだ。

それもあって、タモリさんの「ブラタモリ」を楽しみにしている。

タモリさんは、地形のみならず、地質などについても学者顔負けの博学である。

私は、かつて森だった高台や、川があったであろう低地や湿地を見て喜んでいるだけである。

この地域には、「谷」という字の使われた地名が多い。たとえば、名戸ケ谷、鷲野谷、藤ケ谷、鎌ケ谷、和名ケ谷など。

これは、今は、「や」というよみになっているが、本来は「やつ」「やと」だったと思われる。

「谷地」を調べて見ると、

 

〈やつ〉〈やと〉とも。関東,東北地方で低湿地のことをいう。台地,丘陵が浸食されてできた谷底の低湿地,砂丘間の低湿地など。      

                   百科事典マイペィデア

 

私が、東葛飾に住み始めた1976年、東京のベッドタウンとして大規模な住宅開発がひと段落したところだった。どこの団地も、日本全国から集まってきた人たちから成っていた。

日本住宅公団をはじめ、民間の建設会社が大規模に住宅開発を行っていた。その頃開発されていたのは、ほとんどが住宅向きの高台である。

私が、今住んでいる柏市光ヶ丘の地は、当時の日本住宅公団が、「郊外の広い土地に大規模な住宅を建設するという、新たな方針」に基づく最初の団地として建設したものだった。109棟全974戸で、1957年(昭和32年)に完成している。

私は、その団地に隣接する集合住宅に住んでいる。その頃の光ヶ丘団地は、西洋長屋的な庭つきの平屋建てと、庭付きの二階建てタウンハウス、そして、よくある外階段の三階建住宅からできていた。私は、西洋長屋が風情があって気に入っていた。

このあと、団地建設は次のようにつづく。

柏市では

豊四季台団地 1963年完成 3404戸 

大津ヶ丘団地 1977年完成 5240戸

松戸市では

常盤平団地 1962年完成 7605戸

小金原団地 1971年完成 7940戸

我孫子市では

湖北台団地 1971年完成 5378戸

しかし、私が移り住んだ頃には、大規模開発できる高台の土地が足りなくなったようだ。

当時私が住んでいた近くで、日本住宅公団が開発していた北柏ライフタウンは高台ではなく、低地のたぶん湿地帯だったところに開発中だった。私はそこを自転車で通勤してたが、まだ、住宅は建設していなかった。湿地の水抜き中だったと思う。その数年後、建設が始まった。

北柏ライフタウン 1980年完成 4990戸

同じ頃、勤務地に近い我孫子市でも大手民間会社が大規模な住宅開発をしていた。そこもやっぱり、低地の湿地帯だった。

そのような土地は、地盤が軟弱であり基礎工事も難しいと思われる。そのような土地に、かなり高層の建物を建設していた。

我孫子市の例では、後年、地盤沈下の問題が生じている。基礎工事で鉄筋をしっかり打ち込んであるので、建物は大丈夫だが周りの土地が沈下して、結果的に何十センチか建物が浮き上がったようになったのを、実際に見たことがある。

ここでは、日本住宅公団による大規模な住宅開発について書いたが、それ以外にも、大小の民間による住宅開発が行われていた。特に、低湿地の場合に充分な対応ができていたか心配である。

この東葛飾の土地は、江戸川と利根川そして手賀沼に囲まれている。過去は、どうだったかが大事だと思う。

東日本大地震の際に、液状化現象の生じた事例もある。今は、普通の土地に見えても 非常時には、いろいろな問題が生じかねない。

ここが、どのような土地なのかしっかりと把握しておかなければならない。

 

サトちゃんはお気に入り

 

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サトちゃんムーバー

日曜日は、孫娘の保育ディーだった。

おままごとが大好きで 、ずっと遊んでいる。

おままごとの相手も、気力体力が要る。

外に連れ出さなきゃと思い、誘ってみるが

本人は、おままごとを中断したくない。

好きな、ブランコやすべり台に行こうと言っても

「いかない!」

そこで、最後の手段

「サトちゃん、乗りに行こうか。」

「うん、サトちゃんだけ乗る!」

でも、外へ出てしまえば、いつものように

ブランコ、すべり台から、

遊び場、公園をひと通り周る。

スウィング遊具という、自分で揺れるやつ。

ジャングルジム。

コンビネーション遊具という、いろんな遊具が組み合わせてあるやつ。

梯子とかボルダリングで登って、すべり台で降りる。

そう言えば、先週も保育ディーで、鎌ケ谷市の貝柄山公園に行った。

そこには、かなり高度なコンビネーション遊具があった。

途中に、ネットブリッジというのがあって、ネットを渡る。

何回か、足を踏み外していた。

とっても気に入って、何十回も繰り返していた。

子どもの体力恐るべし。

 

そして、最後はお気に入りのサトちゃんムーバーだ。

薬局の前にある電動遊具である。

ゾウのキャラクターが、オリジナルソングに合わせてゆっくり揺れるだけである。

 

 みんな!
サトちゃんと一緒に はっしー

つよいんだゾゥ すごいんだゾゥ
はやいんだゾゥ かっこいんだゾゥ
空飛ぶ サトちゃん おひさま色
あさひるよる ルン元気お天気
サトちゃん飛べば 天気も元気
天気も元気! 元気!

 

1分間ぐらいだが、本人はとても満足そうである。

今どき、一回10円という良心的な料金。

これが100円だったら、乗りたいと言うからと乗せていいものか考えるかもしれない。

お約束の3回乗って、満足して帰るパターン。

孫娘は、4歳の女の子である。

サトちゃんムーバーを卒業するのも近いかも知れない。

それはそれでさびしいかも。

長持唄

 私には、5歳上の姉と2歳上の姉がいる。

上の姉は、私がまだ秋田にいる頃に、隣村にお嫁に行った。

その頃は、自宅で結婚式をしていた。

嫁入り先から迎えが来て、それから迎えの一人が「長持唄」を唄った。そして、姉は、たぶん馬車に乗って嫁入り先に行った。

その時の「長持唄」は、今でも耳に残っている。

 

蝶よ 花よと
育てた娘 今日は 他人の
手に渡す

さあさお立ちだ お名残おしや
今度来る時ゃ 孫つれて

 

その何年後かに、従兄の結婚式があった。

結婚式は、町で一番立派な旅館で行われた。

時代は、変わっていた。

 

その後私は、郷里を離れ、千葉で就職した。

郷里を離れて12年くらいして、自分が結婚することになった。

妻は、当時千葉県に住んでいたが、東京で生まれ育って、親戚もほとんど東京にいた。

そこで、東京で結婚式をすることにして、公共の式場を探して、決めた。

秋田の親戚たちは、貸切バスを仕立てて来てくれた。

 

妻は、2歳年下である。

なので、ほとんど同じ時代に育っている。

でも、こども時代の話をすると、10年、20年違ううんじゃないかと思った。

私は、家族旅行など、一回もしたことがなかった。

牛車に乗って田んぼ仕事である。

妻は、家族みんなで御殿場や箱根に行ってたらしい。

私が、野山や川で遊んでた頃、妻はスケートを習っていた。

何か、時間の流れ方が違っている。

 

 日本は、広いなあと思うことが多い。

もちろん、地理的な広さもある。南北、東西に長いし。

都道府県制になる前は、それぞれが、国だった。

言葉や文化が、少しずつ違っている。

私の場合は、食文化の違いが気になる。

秋田は、なんでも甘いところがあった気がする。

こっちに来て、気がついたことだけれど、

お赤飯が甘かったし、天ぷらも甘かった。

今は、変わってるかもしれない。

今は、テレビやインターネットもあり、日本全国が同じ情報を共有している。

そのうちに、どんどん同質化していくのだろうか。

 

 

図書館へ行く

市立図書館が、現在休館中である。

システム入れ替えのため、11月2日まで休館ですとなっていたので、二週間ほど休むことになる。ホームページも使えないとなっていたから、大掛かりである。

棚卸しのための休館なら、毎年あるような気がするが、システム入れ替えというのは、よっぽど大きな変更があるのだろうか。

私は、気が向いた時だけ、図書館を利用している。

でも、毎日のルーティンに図書館を組み込んでいる人は、困ってるだろうな。

たまに、本館を利用すると、日課で来ていそうな人を多く見かける。家で、購読しているのとは違う新聞を読むために図書館に通ってる人は、けっこういそうな気がする。1日のうち、何時間かは図書館で読書とか。

私の場合、図書館分館が歩いて3、4分のところにあるのだが、閲覧スペースが、4人掛けのテーブルが1つと、3人掛けくらいのソファーが1つしかない。のんびり、読書という感じではないので、借りるために行くだけである。

もっと、閲覧スペースがゆったりしてたら、私も毎日のルーティンに組み込んでいただろう。

 

最近、流山市の「木の図書館」に何回か行っている。車で10分くらい、自転車で20分ちょっという距離である。「木の図書館」というのはおもしろい名前だが、他に中央図書館があって、もう一つは「森の図書館」と「こども図書館」である。

命名の由来は、はっきりはわからない。住所は、「流山市名都借」である。

でも、流山市には、「加」とか「木」という地名があったと思う。開拓地の関係だと思う。

「森の図書館」は、おおたかの森にあるからだ、とは思う。

「木の図書館」は、市役所支所の2階にあるこじんまりした図書館である。おもしろいのは、閲覧席が、窓側にカウンターになっている。飲食店でよくあるお一人様用の席みたいだ。

明るくて、外も見えるし、落ち着いた感じでよかった。

そこで、「目で見る柏の100年」という写真集を見つけた。大判で、説明文 1 写真 9 くらいの配分である。とても説明文がわかりやすく気にいってしまった。明治から昭和までの写真が豊富だ。どうやったら、こんなに写真を集められるのだろうな、というような写真がいっぱいある。きっと、地元の古い家などをまわってお願いしないと、こんなにいろいろな写真は集まらないだろう、と思う。

今まで、知らなかったことを知ることができる。言葉でしか知らなかったことを、写真ではっきりと見ることができる。

たとえば、柏駅に近くに豊四季台団地がある。それは、競馬場の跡地にできたことは知っていた。でも、飲食店がいろいろあって賑わっていた写真を見るとすごく現実味を帯びたものになる。

柏の葉は、今や東京大学のキャンパスやいろいろな公共施設、そしてマンション、広大な住宅地だが、アメリカ軍の通信基地があってそれが返還されたものだった。さらに、さかのぼると、日本陸軍の飛行基地があり、B29を迎え討つための基地として使用された。

これらを、写真で見ることができる。どんなに、文章で詳しく説明するよりも写真1枚で、一目瞭然である。

他の、近隣の市の同じような写真集もあったので、しばらく通うことになるだろう。

 

 

 

いなのなかみち⑥ 菅江真澄テキスト

十八日 永通がやに洞月上人とぶらひたまひて、砌に、としふる柿の樹の下の、風涼しう吹かたにむしろしいて、上人の、

 

   いにしへをこゝにうつして柿の本聖のをしへあふぐかしこさ

 

かくなんありて、われにもひたにいへれば、

 

   露斗恵もかかれ柿本すゑ葉にたどる身をもあはれと

 

この夕、蛍あまた紙の帒にいれて、窓におきたるを、

 

   おこたりの身をもおもへどおこたらず照す蛍の窓の光は

 

十九日 つとめて月の涼しう残たるに、うす雲のひきながれたるは、床尾といふ山也。

 

   夏衣の床尾の峰はいとはやも明てかすかに有明の月

 

二十日 朝開のまどに、ひとりうちむかふ。

此里は、こと国よりもいと涼しく、あしたゆふべは、いまだあつ衣のみ重ねきて、やゝふと麦苅をさめ、まゆ引くわざすれど、蕎麦畑は今青みわたり、草木の花は、春のも夏のもその野山に咲まじりて、卯花、そり、しらになどは五月雨にうつろひ、みな月のもちに、布士ならぬ雪のたかねたかねをあふぎ、氷室は軒ばのやまにやあらんと、ひとりごちたるに、たけめせとて、くさびらもてありくあき人の衣、さと吹返す風は袖寒きまで吹通ふに、

 

   見るたびに涼しかりけり夏ぞともいざ白雪の消ぬたかねは

 

廿五日 松本の郷のくすし沢辺何がしは、十とせのむかし、その里の小松有隣、吉員など、月のむしろにかたらひし人なれば、ふみかいて、けふ、その処の祭見に行人にたぐへて、

 

   月にとひ花にとはんと思ひこしあだに十とせも過し春秋

 

といふ歌つかはしたる。夕つかた、返しもて来ぬ、雲夢。

 

   十とせあまりわすれやはする花にめで月に遊びし春秋のそら

 

甘七日 永通がやに人々あつまりて、うたよみくれて、いざかへらんと出たつに、いましばしと、あるじのとヾめしときうちたはれて、くすしよしちかのいはく、

 

   話りあふ言の葉草も水無月やあきの来ぬまにいざ帰りなん

 

庭のなでしこを見て、さみぞたかよし。

 

   やがて来る秋とはしれど此宿にとこなつかしくかたりこそすれ

 

となんありけるに、あるじにかはりておなじう。

 

   秋のくるおもひはさらに夏の田のいねとはいまだ穂にもいださじ

 

廿八日 熊谷がやの、しりにありけるい窟に入ぬ。しばし小坂くだれば、内ひろく、ほのぐらく、風ひやゝかに吹たり。

 

   夏とえもいはやのうちの涼しさはうき世にしらぬ風通らし

 

あるじの云、このいはやどは、六十のとし過しむかしに、ふと見つけたりけるが、いかなるわざにほりしともおもはへずと。

 

廿九日 船納涼といふことを、隆喜の句に、

 

   舟に聞く涼しき声やまつのかぜ

 

とありけるに、

   みの毛ふかれて眠る自鷲

 

と和句せり。このゆふべ夏祓を、

 

   心まで涼しがりけり御祓河あつさも波のよそにはらひて

 

ふん月の朔 ものにまうでんとて軒端の山にのぼれば、ようべの雨にや木々の雫ふかう、空もまたうちくもり風涼しう。

遠かたを見やれば、きちかうが原は青海原のごとく、みどりのむしろしきつかと。

うすうもみぢぬとも、又枯生とも見やらるゝは、苅残したる麦ばたけにや。

犀河の流は北南に、竜のわだがまるかたにひとし。

黒き森に白き幡の吹なびくは、みてらにや。

うちそむけば、青松山の止静堂の中まで見入たり。

まづ、みやしろのあるにぬさとりぬ。

このみねは、そのかみ、なにがしの守のすみたまひけるころ、城おとしてんと、谷々に兵あまたをふしかくして、水のとぼしきことをやはかりてん、よもやもをかくみたれば、水にうへて、のこりなうしにほろびなんと、まち/\てけるほどに、城の辺には、こゝらの馬引いでて高岡にならべて、よねもて水のやうに、ひたあらひにあらひしがば、兵等あふぎ見て、こは、わく泉やあらん、なせめそとて、かくみ、ときたりけるとなん。

さりければ其ときよりぞ、ところの名をも馬あらふとかいて、せんばとはよみ、今はたゞ洗馬といふめるなど語ぬ。

雲の中より峰遠くあらはれたるは、有明の山なり。

 

「夏ふがきみねのまつが枝風越えて月影涼しあり朝の山」

 

といふ歌も、こゝにいふながめとも、

 

「花の色は三月の空にうつろひて月ぞつれなきあり明の山」

 

とは、越にありとも、此山ともいふなりけり。

見るがうちに、なごりなう雲おほひて、

 

   心あらば秋風ざそへ村雲の中にへだててあり明のやま

 

   見るかげはそこともえこそ白雲にたちかくろひて有明の山

 

かくて此たかねをめてにくだりて、やはたのみやしろにぬさ奉れば、うなひめの袖に、すゞの実こき人て来るを、このとしもいたくなりしか、こはいかゞせん。

此竹の実の多くなるとしは、世のなりはひの、よからぬなどいふもうたてくて、

 

   ひろまへの風になびきてなるすヾや豊年のくるしるしなるらし

 

この帰さ観世音にぬかづくほど、雨なんふりこんとて、いそぎ行く野路に、女郎花の、木の下に一二本咲たるあり。

 

   講にかくうしろめたしとをみなへし草葉がくれの色や見すらん

 

二日 洞月上人の方丈のむろにとぶらへば、上人、こゝもまだうき世也けり。

此三とせのはどは、古見てふかた山里に、しるべばかりの草ふける庵に在て、月花のたよりもいとよかりければ、さながら心の月も、ひとりすみ渡るおもひしたるを、こゝらの人をみちびきて、青松山にすみねと人々のせちに聞えつれば、いなびがたく、ふたゝび世に出で此寺になどありければ、

 

   洞の中によしかくるともあらはれん世に明らけき月の光は

 

夕ぐれちかう、ものの音いたくひゞきたりけるに、ふみよみたるもとゞめて人々かうがへ、又かんだち[なる神をいへり]かといへば、さなん空のけしきともなし。

近きとなりの板しきに、臼やひきてんとてやみぬ。

又とひ来る人のいはく、今の音聞しか又なりぬ。

こはさきつ日より、浅間が岳いたくやけあがる音なりと、今通づし旅人に聞しなどいへり。

 

三日 はし居の軒に、夕月の光ほのかにてれり。

 

   書月の三日の月影見てしより葉月の望ぞよみまたれぬる

 

五日 ある人の、回文の歌よめといひしとき、

 

   草花はさく野辺の生よしなの野の名しよぶのべのくさばなはさく

 

又神祇のこゝろを、

 

   むべぞかやよゝのよみかき音にかに遠き神代の世々やかぞへむ

 

 

雪国で育った私が体験したこと

何日か前に、十勝岳が雪景色だと、ニュースでやっていた。十勝連峰なら、若い頃に縦走したことがある。夏だったけど。

北海道は、冬に突入なんだな。半年近い冬の始まりだ。

そこで、雪国で育った私が体験したことを思い出してみた。

別世界みたいだけど、ホントの話です。

 

①    雪の中を山越えして登校

学校まで、自動車が通る道があったけど遠回りで1時間以上かかった。そこで、子どもたちは最短距離である山越えをしていた。山道があって、それだと30分くらいで行けた。

冬だと一晩で50cm以上も雪が積もることがある。そういう時は、上級生たちが雪掻きをしてくれた。幼稚園は、年長の1年間だけ行ってたが、5歳からそういうことをしていたことになる。保護者がついて行くなんてなかった。そういうものだったから。

毎日冬山登山。今考えると、すごいかも。

 

②    ランドセルはソリになる

春に近くなって、日中の日射しが強くなると積もった雪の表面が解ける。それが、夜になると急激に気温が下がって、雪の表面が凍る。凍って氷のようになる。

それを、堅雪(かたゆき)と言ってた。宮澤賢治の童話にあった気がする。凍った表面の下は、普通の雪だが、大人が乗って歩いても大丈夫だ。

山のどこでも歩ける。

山の斜面を、お尻ですべって遊んでた。ランドセルをソリにするともっとスピードが出て面白い。ランドセルは、傷だらけになった。

 

③    勉強部屋が零下10度

中学生の時、自分の部屋を確保した。でも、茅葺きの農家なので、暖房は囲炉裏と薪ストーブだけ。家の中は暖まらない。

自分の部屋がマイナス10度だったのを覚えている。

おしん」の世界と言えばいいのかな。「おしん」は見てなかったが。

そのせいか今でも、寒さには強い。冬でも、腕まくりしたりしてしまう。

そのかわり、暑さにはめっぽう弱い。

 

④    掛け布団の上に粉雪がつもる

昔の農家の作りなので、けっこう隙間がある。それで茅葺きだと断熱効果で夏は涼しい。

普通に雪が降る分には大丈夫だが、地吹雪になると、パウダースノーのような粉雪が隙間から入ってくる。

掛け布団の上がうっすらと雪が積もって白くなっているのを覚えている。でも、気温が低いので解けない。

 

 ⑤  食用油が凍る

その頃、冷蔵庫はないので食料は戸棚に入れていた。

すごく冷え込むと食用油が白く凍っていた。

冷蔵庫に入れただけでは凍らない。冷凍庫へ入れたら凍ると思う。

家の中が、冷凍庫のように冷えていたということだ。

 

おしん」は、山形だったけど、秋田と似たようなものだと思う。

まあ、私が育った時代のことです。今は、こんなことはないでしょう。

 

 

歴史を遡る

たいていの歴史の教科書は、はるか昔から始まって、現代に至る。

私の体験で考えると、日本史の授業は、中学校でも高校でも現代までたどり着いていない。

だいたい、昭和の途中で年度終了だった。

こんなことを言うと、いろいろと差し支えがありそうだが、もう半世紀近くも前のことだ。

今は、進度状況のチェックが厳しいだろうから、そんなことはないだろう。

そのせいかどうかはわからないが、私は大学で昭和史の講義を受けている。自分で、選択したのかな。

 

そこで私が考えるのは、歴史を遡って勉強していったらどうかな、ということだ。

現在から過去に遡れば遡るほど、物事は曖昧になる。資料も少なくなるし、記憶もはっきりしなくなる。それなのに、はるか昔のことを、さも確実に真実であるかのように記述してある。

そうじゃない教科書があってもいいんじゃないかな。現在から過去に遡っていく教科書。

私が考えるくらいだから、きっと偉い人は既に考えた人がいるだろう。

どこかで、チラッと聞いたような気がする。

 

この文を書いていて思った。

これって、法律についての考え方と同じかな。

私は、法律学科で勉強したのだが、法律を考えるときはまず現在の制度がどうなっているか。

それは、過去の制度でこんな問題があったので、このように変えられた。

こんなふうに、過去に遡っていく。

これを、歴史の勉強に当てはめると、まず現在がどのような現状、どのような時代であるかをおさえなければならないということだろうか。

それは、それでけっこう大変なことだよなあ。

 

歴史だけの問題でないかもしれないな。

人間の歴史、人生ってなるのかな。

でも、それを考えるときは、もうこんな考え方してるような気がするな。

香取神社  流山市向小金

久しぶりに自転車をベランダから引っ張り出して、流山市の「木の図書館」に行った。

帰る途中に、いつも車で通るときに気になっていた神社に寄ってみた。

向小金は、江戸時代初期に小金牧の一部を開墾して成立した新田である。その入植者の鎮守として香取神社がつくられた。元禄年間(1688年〜1704年)に創建された。

水戸街道沿いにあり、神社の前に一里塚があったが、昭和16年に削平された。今は、一里塚の記念碑が建てられている。

記念碑には小林一茶の句が刻まれている。

   下陰をさがしてよぶや親の馬

 近くに幕府が軍馬育成のための放牧場があるので、ここで馬の親子を見たのだろうか。

小林一茶は、この東葛飾に俳句をとおしての友人が多くありたびたび訪れていた。

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 千住を起点とする水戸街道は、新宿(あらじゅく、現在はにいじゅく)で佐倉街道と分岐する。江戸川を渡し舟で渡ると、松戸宿である。さらに北上すると、正規の宿ではない間の宿である馬橋、さらに進むと、八ケ崎で印西道の分岐、そして一里塚跡がある。

さらに、進むと小金宿に入る。根木内城趾の脇を過ぎて行くと、この香取神社である。

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この先を、水戸方向に行くと次は柏であるが、当時は一農村に過ぎない。さらに進むと今よりはるかに広い手賀沼が見え、我孫子宿に至る。そこで、成田道が分岐する。

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境内はそれほど広くはない。また、社殿もこじんまりしたものである。

しかし、境内はきれいに掃き清められて、社殿も造りがしっかりして立派なものである。

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国名について調べてみた 千葉と茨城

私は、姓氏や苗字とか地名とかが、とても気にかかるところがあって、すぐに調べないではいられなくなったりする。

ここで言う国名は、世界の国々の名前ではなく、 日本の律令制に基づいて設置された地方行政区分である令制国(りょうせこく)や律令国(りつりょうこく)の国名である。

今回は、明治初期に作られた「迅速測図地図」というのに興味を持って見てるうちに、葛飾郡印旛郡相馬郡などや下総国を調べるようになったのがきっかけでした。次々と、興味深いことがみつかりました。

 

令制国が成立したのは、大宝律令が制定された大宝元年(701年)である。奈良時代には、大きな改廃がなされたが、その後平安時代から江戸時代までのあいだはほとんど変更がない。

明治維新により、明治元年(1969年)に、陸奥国の五分割、出羽国の二分割、北海道11カ国の新設があった。陸奥国は、陸奥国陸中国陸前国磐城国岩代国の5カ国、出羽国は、羽前国羽後国の2カ国であり、北海道は、渡島国後志国胆振国日高国石狩国天塩国、北見国、十勝国釧路国根室国千島国の11カ国である。

 しかし、国司が廃止されたため行政的な地理区分の意味はなくなった。江戸時代にあった大名や旗本が、肥後守ーーーや上総介ーーーという名乗りはあり得なくなったのだ。

令制国数は、68カ国であった。現在の都道府県数と、そこまで大きな差はない。

 

いろいろやってみて、やっぱり自分の住む千葉県と隣県である茨城県について調べる必要を感じた。

令制国の成立した頃の、千葉県と茨城県は一体として考えた方がいいようである。

 

安房国上総国下総国常陸国がこの地域の令制国だ。

上総国下総国は、令制国以前の国がそのまま令制国となっている。

しかし、安房国常陸国は、多くの国を統合して成立した。

安房国は、阿波国、長狭国、須恵国、馬来田国、菊麻国、伊甚国、上海上国、武社国、下海上国、千葉国、印波国の11カ国を統合してできた。

常陸国は、茨城国、筑波国、新治国、久自国、仲国、高国(多珂国)、道口岐閉国の7ヵ国を統合してできている。

この国数の多さはどういうことか考えてみる。中央の勢力が充分に届いてないような地方は、広い範囲に国数は少ない。たとえば、陸奥国とか越国だ。

ということは、国数が多いということはそれだけ中央の勢力が浸透していたということではないだろうか。

 

千葉県と茨城県は、一体として考えた方がいい、理由は「香取海」があったからである。

当時、下総国常陸国のあいだには、霞ヶ浦印旛沼手賀沼を全部含む巨大な内海があった。著者名も書籍名もはっきりとは覚えてないが、そういう本を読んだことがあった。

ウィキペディアでは、こうなっている。

香取海(かとりのうみ)は、古代の関東平野東部に太平洋から湾入し香取神宮の目前に広がっていた内海を指す。江戸時代前まで下総・常陸国境に存在し、鬼怒川(および小貝川・常陸川)が注いだ。現在、利根川が流れる。 

そういうわけで、香取神宮鹿島神宮もこの香取海に臨んで建てられていたのだ。

かつて、香取神宮鹿島神宮のような神宮を名乗るものが、どうして千葉県や茨城県にあるのだろうと不思議に思っていた。

神宮を名乗るのは、「日本書紀」では、伊勢神宮石上神宮出雲大神宮だけである。それが、平安時代に成立した「延喜式神名帳」では、大神宮(伊勢神宮内宮)、鹿島神宮香取神宮になっている。

いったい、この間に何があったのだろうか。

考えてみると、やっぱり中臣氏藤原氏の存在しか考えられない気がする。中臣氏藤原氏が、権力の中枢にいたからである。

鹿島神宮香取神宮を調べてみると、どちらも神職は在地の中臣氏と中央の大中臣氏が担っていた。しかも、中臣氏が奈良に藤原氏の氏社の春日大社を創建する際に、鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)を勧請した。

鹿島神宮香取神宮はともに、それぞれ常陸国鹿島郡下総国香取郡を全郡神領としていた。

中臣氏藤原氏の本拠地といっていい存在だった。

安房国の名前が阿波国とつながるように、千葉には白浜、勝浦のように中央と海でつながっていたことを裏付けるものが残っている。

 

こいうことは、歴史の時間に習わなかったな。

はるか昔のこと、ああだこおだと言ってもしょうがないけど、面白いなあと思ってるうちに時間は過ぎてゆく。

 

樽づくりを見る

さいころ、おじいちゃんが樽をつくるのを見ていた記憶がある。

母屋の隣にある薪小屋で、おじいちゃんは座って樽をつくっていた。

わたしは、ずっとそれを見ていた。

スギかなんかの木材を細長い長方形にしたのを、何枚もつくりそれをさらに削って曲面をつけていた。きれいに、表面にカンナをかけていた。底になる丸い板も、何枚かの板材を合わせて作った。

それから、竹を割ったもので螺旋状に束ねて輪っかにしたものを、二つ作った。

細長い板材を円形に並べて、外側から竹で作ったワッカをはめた。タガをはめる、というやつだ。

ずっと見ていて、飽きなかった。

樽と書いてしまったが、樽はフタをする保存用のものを言うらしいので、桶だったかもしれない。

冬には、ワラで雪靴を作っていた。雪靴は、ブーツ型とスリッパ型があった。ブーツ型は外用で、スリッパ型は土間用である。ワラなので暖かい。でも、暖かくなって雪がとけはじめてぬれると冷たくなる。

 おじいちゃんは、母のほうの父親だったが、若い頃は国鉄の工場で樽職人だったらしい。当時は、もう隠居していた。静かで穏やかなおじいちゃんだったなあ。

母の実家は、いちおう農家だがそれほど農地を持ってなかったので、兼業していた。

母の兄さんは、営林署に勤めて山の仕事をしていた。でも、職人の血統らしく、自宅の新築だか増築だかをするときに、自分でやってしまったらしい。

 

日本は、歴史的に職人を尊ぶ伝統があるようだ。

鎌倉時代室町時代には、「職人歌合」などに職人の姿絵とともに実態が残されている。

江戸時代には、大陸から帰化した陶芸、鍛治職人は士分として遇された。

「職人芸」ということばは、職人の持つすばらしい技術に使われる。

また、「匠」ということばは、優れた技術を持つ職人に使われるともに、後進の技術者に対し、技術を披露し、指導するなど尊敬に値する立場の人に対しても使われている。

 

ドイツに「マイスター制度」があるように、日本には「技能検定制度」がある。地方公共団体が、独自にマイスター称号を授与することも行われているようだ。

日本という国は、むやみに古いものを捨てない国だと思う。

新しいものに飛びつかないで、とりあえず今あるものをより良いものにしようとする。

それが、新しいものと古いものが混在することにつながっていると思う。

よく外国から笑われるFAXも、それなりの存在意味がある。デジタルではできない、アナログにしかできないことがある。

 

 

 

 

 

 

深田久弥の日本百名山

山に登らない人でも「日本百名山」ということばは知ってるかもしれない。

文筆家で登山家だった深田久弥の山岳随筆集「日本百名山」は、1964年新潮社から出版された。それに先立って、1959年から1963年まで、朋文堂の「山と高原」に毎月2座づつ連載された。当初より百名山の選定を考えて連載したものであり、自身が登った標高1500m以上の山をその対象とし、山の品格、山の歴史、個性的な山の三点を条件に、深田氏が選んだものである。

1500m以上としているが、それ以下でも選定された例外があること、自身が登ったことがない故に対象外となった山があること、品格、歴史、個性など主観的な選定基準であることを考慮すると、この百名山は、あくまで「深田久弥日本百名山」である。

新潮文庫版の「日本百名山」では、解説で串田孫一氏が、「読者が自分で百名山を選定する際のたたき台として使えることもこの本の魅力」と述べている。

 

その後、「日本百名山」が、独り歩きしてしまう。あたかも「日本百名山」が権威あるものであるかのように、「日本百名山」を登ることを目的にする人たちのがあらわれる。「日本百名山ブーム」になって、百名山だけに、登山者が集中することになってしまった。NHK衛星放送で「日本百名山」がシリーズ化して放送されたのも大きいかもしれない。

深田氏は、「避衆」登山を好む人だったが、意図しない方向に向かってしまった。串田孫一氏が述べたような態度で扱うべきだったが、百名山を権威あるものにされてしまったのである。

日本百名山」を補完するかたちで、深田クラブが「日本ニ百名山」を、日本山岳会が「日本三百名山」を選定している。

さらに、田中澄江さんが「花の百名山」を出版した。

百名山ブームは、全国各地にも及び、いろいろな百名山を、出版社、新聞社、山岳団体、自治体などが選定している。

例えば、北海道百名山    山と渓谷社

    東北百名山     東北山岳写真家集団

    関東百名山     山と渓谷社

    甲信越百名山    山と渓谷社

    関西百名山     山と渓谷社大阪支局

    中国百名山     山と渓谷社大阪支局

    四国百名山     山と渓谷社大阪支局

    九州百名山     山と渓谷社

さらに、青森110山     東奥日報

    やまがた百名山   やまがた百名山選定委員会

    うつくしま百名山  福島テレビ

まだまだあるので、以下省略。

 

かつて、三省堂から「コンサイス山名辞典」というのが出ていて買ったことがある。名前がついてる山はほとんど載っていると思う。

それは、収録数13000座だった。なぜか、山は数を数えるのに、「座」を使う。劇場や仏像と同じ扱いらしい。

都道府県が、百名山を選定すればそれだけで、4700座になる。三百名山で、「コンサイス山名辞典」をクリアできそうである。

 

これらの百名山は、登山する人が選定する百名山である。山頂からの展望がよいなど、「登山の対象としておもしろい」が主眼となっている。

 私が、あるといいなと思う「百名山」は、山に登らない人が選定する百名山である。

もしかすると、もうすでにあるかもしれない。

「町から見た百名山」とか「眺めて美しい百名山」である。

これなら、誰でも選定に参加できるし、みんなが楽しめるだろう。

 

付け加えると、

私の郷里の白神山地田代岳は、「日本百名山」に選定されていません。「日本三百名山」にも、入っていません。

 やはり、標高1178mがネックなのだと思います。

田中澄江さんの「花の百名山」にも入ってないのですが、NHKBSで放送された時は、なぜか入ってました。なんらかの事情で、他の山と入れ替えられたのだと思います。うれしくて、録画しました。

頂上直下の9号目の高層湿原にある100を超える大小の池塘に咲く「ミツガシワ」の花が選ばれたのです。展望のいい高層湿原は、他にそんなに無いと思うので、貴重です。

私は、日本百名山を踏破するつもりはありません。

自分の百名山も選定する気もありません。登山記録もろくに残していません。

それでも、数年前に日本百名山のリストで自分が登った山をチェックしたことがあります。

38座でした。

北アルプスより西の山は登ったことがないことを考えると、けっこう登ったかなあ、と思います。

こんな感じで、いいんじゃないかな。

 

千葉県の中の東葛飾

下総国が成立した頃の葛飾郡は、今の埼玉県、東京都、茨城県、千葉県にまたがっていた。その後、いろいろ変遷を経て、明治には、埼玉県北葛飾郡、東京都南葛飾郡茨城県西葛飾郡茨城県中葛飾郡、千葉県東葛飾郡となった。現在、郡名として残っているのは、埼玉県北葛飾郡だけである。そのほかは、町村の市昇格や市町村合併により消滅した。

郡名としてはなくなったが、地域名としてはまだ残っており、いろいろな施設名や組織名に使われている。

東葛飾は、西側を江戸川を境にして埼玉県、東京都と接している。北側は、利根川を境に茨城県と接している。

JR常磐線が、東京都の上野駅から、松戸市柏市我孫子市を通り茨城県に伸びている。さらに、福島県の太平洋側を経由して宮城県岩沼駅が終点である。

 

私は、柏市に住んでいる。

我孫子市が勤務先だった時に、毎月千葉市まで出かけなければならない時期があった。

千葉市までは、柏まで出て柏から船橋まで東武鉄道で、船橋でJRに乗り換えて千葉まで1時間ほどかかる。しばらく、その経路で行っていた。

そのうちに、思いついた。

成田経由でも、行けるんじゃないか。 

JR成田線で成田まで行く。そこで、千葉行きに乗り換える。

かかる時間は、同じようなものである。しかし、車窓からの眺めはだいぶ違う。

ずっと、田園風景である。旅行気分で楽しめた。

農村風景は、地方によってかなり違う。

成田や佐倉あたりの農村は、里山があってそれを後ろにして農家の建物が並んでいた。家の前には、広い田圃があって見下ろす感じである。

そういうことを、何年かやっていた。

 

千葉市は、県庁所在地である。でも、遠い。

かつては、パスポートや運転免許のために行かなければならなかった。

運転免許を取るのは大変だった。免許センターが、千葉市の郊外にあって遠かったのだ。朝早く出かけて、夕方遅く帰ってきた。でも、免許証もっらたからまだいいけど、ダメだったらめげてしまう。

それに比べて、東京は近い。

柏から、上野まで快速で35分である。東京文化会館でコンサートがあったとしても、上野駅を出たら目の前である。

東京メトロの千代田線も出ているが、乗り換えなしで都心まで行ける。

松戸市の矢切から渡し舟が出ていて、柴又帝釈天の裏に着く。

 

チバラギということばがある。あまりいいイメージで使われてないようだが、この地域が茨城とつながりが強いことから来てるだろう。

下総国には、結城郡猿島郡と岡田郡、そして相馬郡があったが、今は茨城県になっている。当時は、鬼怒川が、常陸国下総国との境だった。

だから、チバラギということばがあっても不思議ではない。

 

 

 

 

 

どぶろく特区と自家醸造

秋田県北部は、日本一の密造酒地帯であった。」

という文章を読んだ時、仰天した。

書店で立ち読みしていたと思う。

たしかに、子どもの頃から、まわりでどぶろくを作っているのは知っていた。我が家でも、つくることがあった。ポコポコ発酵していた。

それが、どうもやってはいけないことらしいことも、知っていた。

でも、自分が育った所が日本で最もどぶろくを作っていたとは思わなかった。

毎年?、税務署がどぶろくの摘発のために村をまわっていた。

「酒調べ」(さかしらべ)と、言っていた。

摘発は、川の下流の村から順にやっていくので、下流の村から上流の村に連絡が入るのだ。

「今、うちの村に酒調べが来てるぞ。」

そしたら、税務署員が家に入らないように留守にしたり、現物を何処かに隠してしまう。

そういう話は、よく聞いた。

たぶん、税務署も情報があっての摘発ではなく、交通取締のような年中行事だったと思う。

あんまり、どぶろくを見つけられて捕まった、というのは聞いたことがない。

 ウィキペディアを調べたら、「密造酒」の項目に次のように書かれている。

 

 日本では明治時代に政府が、税収の3割にのぼる酒税の徴収を行うため、酒税法によって清酒の生産を厳しく管理した。しかし農村部(特に秋田県北部などの東北地方)では日常的にこれらどぶろくが作られ、家庭内で消費されていた。

 

 この頃の秋田県北部は、ほとんどが米作農業である。農家は、米の収穫時の年一回しか収入がない。毎月の収入はないのに、高価な清酒を買えというのは無理がある。米はあるから、どぶろくなら家でつくれる。麹だって売っていて買える。

昔からやってることだし、自分の米でどぶろくつくって、自分で飲んで何が悪いのだ。というのが言い分だろう。国は、税収を確保するために酒税法を後から作っただけのことである。

 

私の記憶だと、どぶろく一升は米一升だった。物々交換していた。

今の価格にすると、どんな感じなんだろう。

米一升は、金額にしていくらか計算してみる。

米一合は、計ってみたら160グラムだった。ということは、米一升は1600グラム、つまり1.6キログラムである。

米10キログラムを4000円とすると、米1キログラムは400円である。

そうすると、米一升1.6キログラムは、640円ということになり、

どぶろく一升は、640円である。

これだと、どぶろくもまあまあの値段である。

これは、あくまでも今の価格で考えた場合で、当時の米や清酒の価格で考えたらまた変わってくるだろう。

 

2002年の行政構造改革によって、地域振興の観点から行政構造特別区域が設けられ、どぶろく製造が認められるようになった。いわゆる「どぶろく特区」である。全国にかなりの数の特区ができた。私の郷里秋田県を例にすると次のとおりである。

しかし、製造免許取得要件は「農林漁業体験民宿業その他酒類を自己の営業場において飲用に供する業を併せ営む農業者」となっており、一般の人々が自家製造できるというものではない。

 1980年代におこなわれた「どぶろく裁判」では、「自分の造った酒を自由に飲む権利」が憲法で保障された国民の権利であることを主張したが、最高裁判決は、「製造理由の如何を問わず、自家生産の禁止は、税収確保の見地より行政の裁量内にある」というものだった。

どぶろく特区」もこの延長上にあるものであり、あくまでも地域振興のための政策である。

自家醸造の道は、まだまだ遠そうである。