晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

私にとっての未踏の地

広島でのG7に参加する各国の首脳が、原爆資料館を見学したというニュースを見た。

それぞれが、さまざまな思いを持って、見たことだろう。

私も、若い時に広島の原爆資料館に行った。

夏休みの2ヶ月間のアルバイトを終えた後の旅行だったから、9月になっていた。

前年に、アメリカ軍がベトナムから撤退していた。

広島と長崎の原爆資料館は、見ておくべきだと思ったのだろう。

たぶん、二十歳の夏だったので、もう50年前になろうとしている。

軍縮核廃絶の動きはその頃からあって、核兵器の総数は減っているかもしれないが、核保有国は確実に増え続けている。

今回のG7も、それぞれの国の思惑がある。

広島でやったという意義はあるだろうが、一筋縄ではいかない問題である。

 

学生時代の広島訪問のあと、私は九州を一周している。

貧乏旅行なので、ユースホステルに泊まっていた。

しかも、会員ではないので、誰でも利用できる公営のユースホステルである。

都道府県に、一つか二つはあった。

広島は、市の郊外の丘の上にあって、夜になると広島市民球場の歓声が聴こえた。

福岡は、山間部にある施設で、佐賀は虹の松原という海辺にあった。

長崎でも、原爆資料館を訪ねたが、ユースホステルがどうだったかは記憶がない。

熊本では、阿蘇山のふもと、鹿児島は桜島、宮崎は日南海岸だった。

九州最終日は、大分の日田を予約していたが、さすがに疲れていたのでキャンセルして、夜行列車で京都に向かった。

そこから夜行列車で郷里の秋田行きに乗るので、昼は市内観光のバスに乗った。

郷里では、ふるさとの山である田代岳に登った。

なんで、こんな無謀な計画をたてたのだろう。

やりたいことをあげていたら、こうなったのだろうな。

 

広島も長崎も、その後行ったことがない。

九州は、就職してから研修の大会参加で福岡には行ったことはあるが、他は全く足を踏み入れていない。

いつでも、どこへでも行ける時代になっているのに、現実はそんなものである。

新幹線と高速道路が、日本列島に張り巡らしされている。

さらに、国際空港やら地方空港やらが、大小合計で百近くもある。

それほど大きなわけでもない国なのに。

それなのに、私にとっては、西日本はほとんど未踏の地である。

四国はまったく行ったことがないし、山陰地方、近畿地方の南部は行ってない。

 

私が、今までどんな旅行をしてきたかを考えてみる。

まずは、山登りのための旅である。

20代の頃は、山仲間たちと2、3ヶ月間隔くらいで、登っていた。

一人旅のこともあるし、2人のこともある。

フルメンバーだと、四人である。

メンバーが世帯持ちになると、グッとペースが落ちて、登山後の温泉がメインになっていた。

深田久弥さんが選定した「日本百名山」というのがあるが、数えてみたら38の山に登っていた。

東日本の山は、かなり歩いていた。

私が働いていたころには、毎年必ず職場の旅行があった。

慰安旅行というやつだろうが、コロナを機会に、今はなくなったかもしれない。

おかげで、関東近県の温泉場には、けっこう行ってる。

あとは、仕事上の研修などのための、旅行である。

そして、家族での旅行がある。

 

48ある都道府県で、行っていないのはいくつあるだろうと、考えてみた。

四国には、まったく足を踏み入れていない。

YouTubeを見ていると、多くの外国の方もお遍路さんをやっている。

巡礼というのは、キリスト教イスラム教にもあるのだから、理解できるのだろう。

島根県鳥取県の山陰地方にも行っていない。

日本史の中で、特別な地域である山陰には興味がある

近畿地方の南部、和歌山、三重、奈良にも行ったことがない。

高校の修学旅行は、秋田でも京都奈良へ行ってたと思う。

高校生活からドロップ気味だった私は、修学旅行に参加してない。

奈良もそうだし、熊野古道も惹かれるものがある。

これだと、未踏の県は9県だけど、山口と大分はJRで通っただけで、下車していないか。

 

この文章は、G7をやっているころに書きはじめて、途中で中断していた。

そのうちに、ベレンスキー大統領も来日し、原爆資料館を訪問した。

そして、G7は終わってだいぶ経ってしまった。

ニュースを見ていた次男に、原爆資料館に行ったことがあるか聞いてみた。

広島も、長崎も、行ったことがない、という返事だった。

長男や三男も、行ってないかもしれない。

日本人のどれくらいの人が、資料館を見学してるのだろうと気になって、調べてみた。

広島原爆資料館のサイトによれば、昭和30年の開館以来の入館者の累計は約7600万人である。

コロナ過前の2019年の入館者は1,758,746人で、そのうちのなんと522,781人は外国人なのだ。

思ったよりも多くて、驚きだった。

G7の各国首脳も、開催地が広島でなければ、資料館を訪ねることはなかったかもしれない。

資料館内での、各首脳の様子は公開されなかった。

各国の国内事情を考慮してということだったので、それほど微妙な問題だということだろう。

主催者である日本だって、米国の核の傘の中にあるのが現実である。

今日のニュースによれば、ウクライナとロシアの状況は、変わりつつあるようだ。

どんどんと、先が見えなくなっていくようだ。

 

 

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けふのせはのゝ⑦ 菅江真澄テキスト

廿八日 あるじにいざなはれて、阿部(安倍)のふる館のあと見にとて行ぬ。

加志といふ処に、黒沢尻四郎政任のありしいにしへを偲ぶ。

北上河をへだてて、国見山のいとよく見やられたり。

国見てふ名はところ/″\に聞えたり。

神武の帝八十梟を国見丘に撃給ふのとき、

 

「かん風のいせの海の大石にや、いはひもとへるしたヾみの」

 

とながめ給ひしことどもありけるをおもひ出、はた

 

「やまとにはむらやまあれどとりよろふ、あめのかぐやまのぼりたち、国見をすれば」

 

とずしたり。

里人のいへらく

 

「音に聞くにみの山の霍公鳥否背の渡くり返しなく」

 

又いふ

 

「みちのくの門岡山の時鳥稲瀬のわたりかけて鳴也」

 

此ふたくさ、いづれをまことといひもさだめん、歌はれいの西行にたぐふ。

むかし和賀郡、江刺郡の境をあらそふこと、とし久しかりける。

その頃白狐、にぎてをくはへて駒が嶽にさりぬ。

これなん稲荷の神の、その筋をしへ給ふにこそあらめと、あらがへるものらが中うちなごみ、あなかしことかたりあひ、相去と鬼柳(ともに北上市)の辺まで水落をあらため、さかひには二股の木を植え、あるは炭を埋みたり。

これなん炭塚といふ。

さりければ、その川を稲荷の渡、あるは飯形瀬といひつるを、いまはいなせの渡といふ。

西行上人といひはやすうた

 

「みちのくの和賀と江刺のさかひこそ河にはいなせ山にまた森」

 

といふあり。

いなせの渡を岩城川〔同名ところ/″\におびたヾし〕といふ。

廿九日 きのふの夕つかたよりの雨、けふのあしたに猶ふりまさりてければ出たゝず。

この日三九日とて家ごとにいはひ、わきてすゑの九日なればといひて、茄子の羹ものくはざるはなし。

雨はいよゝふりくれて、つれづれとひとりともし火をかゝげて、人の書おける冊子どもありけるを見れば、いづれのおほんときならん、むつきのはじめつかた春日山に鹿の鳴たるは、いかなるためしにやあらんとけいし奉るよしを、この南陪(部)十二代にあたる政行の君、そのころ都におはし給ひて、

 

「春霞秋たつ霧にまがはねばおもひわすれてしかやなくらん」

 

とながめ給ひたるを人ごとにずしつたへて、はて/\は叡聞に達し、主上あさからずやめで給ひけん、松風といふ硯を政行の君にたばひ給ふ。

此松風の硯は、むかし本三位中将重衡受戒し給ひけるとき、法然上人にまゐらせられたるのちは、うちに在りたりけるを、こたび信(政)行にたうばりて、ながく南部のたからとはなりぬ。

硯の大さ、いつき(五寸)、むき(六寸)ばかりにして、青き石もてつくり、世にたぐひなき器なりけるとなん。

又いはく、この廿九代にあたり給ふ(南部)重信の君は、あやしう歌にこゝろざしふかく、天和三(一六八三)年五月七日、五月雨の晴ままち得て大樹公(将軍綱吉)ものになんまうで給ふに、五位下にてしたがひ給ふに、不忍池の辺に逍遙し給ふをりしも、雨一とをりふり過てけしきことによかりければ、重信やある、此ながめいかヾとありしかば、

 

「飛かねて上野の池の五月雨にみの毛もうすき五位のぬれ鷺」

 

公あさからずめで給ふのあまり、その夜四品になり給ふければ、重信の君、そが鳥の羽色の衣ぬぎかへて、たもとゆたかにかへり給ふたるなどありけるを、めづらしく見つつ、

家の風ふきもたゆまず水ぐきのあとさへ花と匂ふことの葉

三十日 けふも雨をやまず。

あるじの云、冬のすゑよりむつきのはじめに、この西なる後藤野といふひろ野の雪のうへに、狐の館(蜃気楼)見ゆ。

 

「七戸の三本木平(タイ)といふには、きさらぎの末つかた狐の柵ふるなりと」

 

これなん山市のたちけるを、後藤野にはきつねのたてといひ、さんぼんぎたひには、きつねのさくといふと也。

こしの海の海市を、狐の森といふたぐひ也けり。

或は地市ともいひけるものか。

かんな月の一日 晴たれば黒沢尻をいづ。

あるじも、いでそのあたりまでとて、ふたゝび政任のうし(大人)の館あと近く送り来りてけるに、かいやる。

冬来ぬと身にも時雨の零(ふり)そめぬわかるゝ袖をしるべとはして

しばしその筆をとこひて、あるじ、看山。

 

今朝ぞしる手をわかつとき日のさむみ

 

とかいて、いかがあらんと見せけるに、

袖にきのふの露氷る也

といひて別ぬれば、北上河をふねにてさし渡し行に、やなかけて鮏(さけ)とる人々水の辺にゐならぶが、いとさむげに河風吹ぬ。

男岡、国見山を見つゝ過れば、橘(立花)村といふあり。

 

   すむ人の衣手寒く立花の実さへ枝さへ霜やおくらん

 

寺坂を越れば門岡村(北上市)也。

南陪(部)を離れ、江刺郡に入て鎮岡神社をたづね、ぬさたいまつらんと鶴脚(鶴羽衣)、倉沢(江刺市)といふをへて、片岡てふ処に宿かりたるあかつき。

 

   ねられずよ枕に霜や岡の名の片しく袖の冴る冬のよ

 

 

 

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広葉樹と針葉樹

日曜日の朝に、「所さんの目がテン」という番組を久しぶりに見た。

この番組は、科学番組である。

身近なものを、いろいろ調べてみようというもので、ずいぶん昔から見てる気がする。

こどもが小さいころからなので、20年にはなるだろうと調べてみたら、1989年放送開始で30年経っている。

好奇心が旺盛で、なんでもおもしろがる所ジョージさんのブレない姿勢でもってると思う。

アシスタントの女性アナウンサーも、34年間で現在5人目なので、けっこう長い。

それに、実験プレゼンターという顔ぶれある。

 

今回は、広葉樹についてだった。

途中から見たので、正確なテーマはわからないが、日本最大の広葉樹の木材市場がある北海道で調査をやっていた。

どうも、広葉樹の木材の輸入量が減少しているので、日本国内の広葉樹が注目されているらしい。

それまでの広葉樹を輸出していた国々が、自国の自然資源の保護政策に転換したために、輸出量が減ってるということらしい。

広葉樹と言えば、針葉樹である。

スギやヒノキなどの針葉樹は、まっすぐで柔らかくて加工しやすいので、住宅用の木材に使われてきた。

これに対して、広葉樹は硬くて丈夫なので、家具などに使われてきた。

 

これらの樹木は、山に囲まれた農村で育った私にとっては、身近なものだった。

青森県との県境をなす白神山地を源流とする二つの川が南下して、秋田県北部を東西に流れる米代川に合流する。

二つの川のうちの一つの支流に沿って点在する村々がある。

水が豊富で水田がある農村ではあるが、山が迫っているので平野部のような広さの水田ではない。

水田だけでは成り立たないので、山間部で畑作もやっていた。

それに加えて、林業の存在も大きかったと思う。

我が家は、田畑を持ってはいたが、父親は「山師」をやっていた。

「山師」という言葉には、鉱脈を探す仕事や、そこから派生したらしい、投機師、詐欺師などの意味もあるらしいが、「山林の買い付けや伐採を請け負う人」という言葉本来の仕事であった。

このブログで、以前に「森林鉄道」のことを書いたことがある。

 

私の子供時代は、林野庁が日本中の山間部で植林事業をしていて、木材運搬用に森林鉄道を建設していた。

我が家の前も、田んぼを挟んで線路があって鉄道が走っていた。

バス路線が通る前の時代からである。

もちろん木材運搬用なので、乗ったことはない。

そのうちに、バスが開通し、自動車の時代になり、森林鉄道は廃止になった。

小学生のころだから、1960年代のことだ。

母親の兄さんや、私の姉の旦那さんは営林署に勤めていたのだから、営林署の存在感は大きかった。

考えてみると、山間の集落なのによろず屋のような商店が多かった。

小さな集落に2軒も3軒も商店があるところもあった。

そこから林道が分岐しているところである。

それだけ営林署に勤めている人たちが多くて、需要があったのだろう。

 

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ブログに「森林鉄道」のことを書いたのは、2年前だった。

その記事に書いていないことを、思い出した。

母親の姉が、上流の隣村に嫁いでいた。

その家の前にある畑のすぐそばを、鉄道の線路が通っていた。

我が家は、5,60メートルは離れていたが、ほんとに目の前だった。

そして、そこから数十メートルの所に、駅というほどではないが、停車場があった。

その真ん前にある製材所に木材を降ろすための停車場だった。

製材所はかなり大きくて、大勢の人が働いていた。

森林鉄道の終点は、町で唯一の国鉄の駅まで延びていたのだと思う。

国鉄の駅には、木材の積み込み用だと思われる巨大なクレーンの機械があった。

その近くには、もっと大きな製材所があった気がする。

町にとっては、木材というか、林業は大きな存在だったのだ、今になって思う。

 

父親が「山師」として国有林から払い下げを受けていたのは秋田杉であり、針葉樹である。

木材市場の暴落で事業失敗した父親が、炭焼きをやっていた時期がある。

姉と二人で、炭焼き小屋に泊まり込んでいる父を訪ねた記憶がある。

炭焼きで使う木材は、硬い広葉樹である。

その木材を炭焼釜に詰込んで、空気穴を残して密閉し、何日かかけて不完全燃焼させる。

子供時代の炊事や暖房は、まきストーブを使っていた。

燃料は硬い木材である広葉樹だった。

そのための大きなマキ小屋があって、マキを切ったり、割ったりするのは私の仕事だった。

その木材は、村の共有林で割り当てられた場所で手にいれたものである。

このことも、以前にブログに書いていた。

 

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農業だったら、春に種をまき、苗を植えれば、夏や秋には収穫ができる。

すぐに結果がでて、何倍かになって、かえってくる。

林業はそういうわけにはいかない。

早くても子の代、やっと孫の代で何とかなるか、である。

一年でやっと、年輪が一本増えるだけなのだ。

とても、個人がやれる事業ではない。

100年、200年という単位で未来を見据えなければならないので、国家がやるべき事業だろう。

 

番組にもどって、広葉樹市場がなぜ北海道にあるかである。

木材の保管には、温度が重要なのだそうだ。

場合によっては、放水によって温度を下げる必要がある、とのことだ。

だから、気温の低い北海道、たしか釧路あたりだったかな。

 

 

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けふのせはのゝ⑥ 菅江真澄テキスト

十日大瀬河(石鳥谷町)といふに土橋かけたるを渡る。

この流は藤原朝臣盛方の、

 

「ほどもなくながれぞとまる逢瀬河かはるこゝろやゐせきなるらん」

 

とながめ給ひしは、これと、もはらいへり。

八幡(ヤハタ)(石鳥谷町)を過て宮部(花巻市)をくれば、花巻といふうまやあり。

むかしや牧のありけるやらんととふに、さはこたへず。

むかしは河岸に花多くありてちりうく頃、水にうづまかれてたゆたふよりいひし名とこたふ。

こゝに居る伊藤修といふくすし、けふは止りてとひたにいへれば、日たかう宿もとめたり。

夕暮ちかづくに旅人ふたりとぶらひ来るは、五瀬(伊勢)の国より国々めぐるとて、檍正唯、岩波良清とて歌よみ、はいかいする人也。

十一日けふも人々とともにまどゐして、あかず旅の思ひも忘れたり。

十二日この人たちことかたに出行を、名残猶やらんかたなう、いづこにてめぐり逢んと契てたゝばやといふ袖をひきて、此日斗はとておなじ宿に暮たり。

十三日けふはとて、ともにものしたるを、われ斗せめてはとて、山田のひたに止められて出たゝず。

正唯ふでをとりて、

 

   めぐり逢ふ月の例をかけておもひけふの別を夢いふな君

 

   とりが鳴東の奥はいとどしく別れまたくぞおもほゆるかも

 

といふ、ふたくさの歌作てわれに見せける返し。

 

   めぐりあふ月のためしはおもへどもけふの細布たち別うき

 

   別行ちまたもつらし鳥がなく東のおくをかなたこなたに

 

いはなみよしきよの句に、

 

   見とどけよ木々の錦のしたしみづ

 

となんありけるに、

 

   ひとりはらはん露のやまみち

 

とつけて、里のしりまで人々と友に送り出て帰るさに、あふげば早地峯(ハヤチネ)(東に見える)とて高きねに瀬織津比咩をまつると聞ば、ぬかづきぬ。

其近き辺に十握のみやといふありて、そこには日本武のみことの、みいくさひきゐ給ひしころの、みかりやのあとといひつたふあり。

この山より射はなち給ひしかぶらのひヾきに、みなをそりわなゝき、おかせるゑみしら、名残なうにげしぞきたりとか。

其箭のとどまりしみねを、的場山といふとかたるを聞つつ、修の家に至る。

くるれば、こよひの月見んと人々も集ひ来るに、とにあふぎて、

 

   明らけき月のこよひの初霜に手折わづらふ庭のしらぎく

 

十七日 この二三日は風おこりて、日記もせずふしくらすに、戌の貝ふくころ、とに声たかふよばふはいかにときけば、すは火のこと也。

とよめきさはぐに、はや、ちかとなりのやまでけぶり立わたり、なにくれの調度どももてはこぶにまじりて、われもこゝらのふみどもおひもち出て、あるじをたすけぬるほどに、枕とりしあたりもみな火かかりて、一ときのうちに、あまたのやは灰となりて夜なんあけはてぬ。

いみじきわざはひにあへりと、おしなべてうれへなきさはぎたり。

十八日 修はやのしりに、ゐくはところのよきやのあるにうつりて、われに、しばしはかゝるさはぎをな見捨そ、いましばしありてと、やの人こぞりていへば止りぬ。

遠きさかひよりこゝにすみつきたる老たる女、布前だれをし、頭はつゝみにかくしたるが来りてあるじに、薬たまへ、あが家のやまうどやいつかくよからん。

 

「糸はねの一筋もなでねべし、つづれやつこもささねべし。垣ねかいたま、猫けだ物がもぐりありく」

 

に、又おやこまきはやけたれば、此とし、いかヾくれんとうんじてさりぬ。

此物語きゝもしられねば、いかヾぞと居る人にとふに、このあたりでは、たヾ麻苧の糸をのみ糸はねといひ、引をなづるとはいへど、ことくには、えしり侍らじとかたはらよりこたふ。

ふるきこと葉にやあらんと、きゝつゝ戯れうた作る。

 

   糸なです綴奴もさゝずきてあれにあれたる垣ねかいたま

 

このかりやに日数へぬ。

村谷守中といへる人、情ふかう、うすき旅衣して夜寒の秋風いかヾしのぎてんと、綿あつ/\と入たる衣くれたりけるうれしさに、

 

「ものたうびしひとにをくる」

 

てふことを、もと末の上と下とにおいて六くさをつくる。

 

   もみち葉の色こそ増れきのふけふ時雨にけりな峰はいくたび

 

   のち山路見しは物かは語りあひおもなれてこし里はいくさと

 

   たち別れ行空もうしあすよりは独たどらんしらぬ山路に

 

   うらがるゝあさぢがや原ふみしだき野辺にやからん草の枕を

   

   ひたすらにかけてを通へ玉づさはをたへの橋の絶ず久しく

 

   しももやゝおくの細路ふみ分てけなんおもひは別とぞしる

 

廿七日 くすしをさむのやを出たつに、あるじ。

 

   しら雲の立へだたれる遠方をよそにのみ見て恋や渡らん

 

と、よみてくれたりける返し。

 

   ふたゝびと契おきても白雲のよそに隔る身をいかヾせん

 

行く/\紅葉のおかしかりなんなどいひて、守中。

 

   草枕うき旅かけて故郷に枪の衣きつゝ行らん

 

かくなんありける返し。

 

   ふる里のつとに見なまし唐錦枪色そふ人の言の葉

 

月見しこと、なわすれ給ひそとて、文英。

 

   草枕むすぶ旅ねの夢にても見し夜の月の影なわすれそ

 

と聞えし返し。

 

   友に見し月の円居のわすれじなしのびてもがな空にしのばん

 

ふたゝびとて、文英。

 

   別ても心へだつなながめやる空ははるかのさかひなれども

 

とぞありけるに、返し。

 

   わかれてはことこそたゆれ大空に通ふ心はへだてざりけり

 

又おなじ人々の句に、

 

   これよりや夢のうきはし時雨あり

 

   日うつりやかざしの笠に女蘿(つた)もみぢ

 

   人遠し撮折(つみおり)はぎにあきのかぜ 守中

 

   笠めせば君と秋との余波かな 至岳

 

   幾久(きく)に名をこめてはおしきわかれ哉 素綾

 

この人々送り出て、みちの左に鳥屋崎の城といふ、これなん琵琶の柵といひて、安陪(倍)頼時のつきそめ給ひしとかたり、又道のゆんでめてに、としふりたる槻と椋の生立るを筆塚とて、頼朝のむかはせ給ひしころほひより、生ひ立りし木にてありつなどいふを、

 

   治れる御世のしるしは筆塚にかきつもりにし年ぞしられぬ

 

送り来つる人々は、豊沢川(花巻市)の橋をふみ過ぎて、こゝに扇堀とて、人にふたゝび逢んあふぎてふ名のよければ、このきしべよりみな帰りけり。

十二町目(花巻市)といふ村中に、対面ぜきといへる細きながれあるより、稗貫、和賀と郡はへだつなど、処の人のをしへたり。

成田村(北上市)を過て岩田堂、二子(北上市)、この二子に、あやしのあみだぶちを八幡といはひたり。

飛馳(トバセ)森といふなるは、天正十八年の春のころほろびたる、和賀主馬のかみと聞えたりし城址なり。

此主馬の君の遠つおやは、多田薩摩守頼春の末也。

頼春の君は、伊藤入道祐親の女満幸の前のうめるころ、祐親入道都より帰来て此ちごを見て、こは、たがぞ男やあらんととへるに、まんかうの前のまゝ母ぎみ、見たまへ、此子は蛭が小島のにゐ島もりがうませたる、おほん孫にてさふらふなり。

瓜なんふたつにはやしたらんがごとに能似たりと、にくさげに足もてかいなで、こなたにおもむけてけり。

すけちか、なに頼朝の子なるか。

平氏への聞え、又つみんと(罪人)のたねといひ、たすくべうもあらじと、はらぐろにのゝしり、水深き淵に捨べし、とく/\といへれば、すべなううしなひ奉りしとこたへて、斎藤五斎藤六と、曾我太郎祐信等とこゝろをあはして、このをさなき君を、人しらずたすけまゐらせはぐくみたてて、頼朝、あめがしたをまつりごち給ふのときをまち得て、君、信濃の国善光寺にまうで給ふをりしも、みちすがら、このわか君のうへを申いづれば、頼朝公、になうめでよろこび給ひて、梶原をめして、いづらの国にか二三万石のところやあらん、とらせよとのたまふに、みちのくならで、かきたる城もあらざるよしをけいすれば、それにとのたまひしかば、住給ひしとなんいひ伝ふ。

斎藤五斎藤六は、のちに小原八重樫と名のりて、此末今も南陪(部)にいと多しといふ。

其城の址に、夏と秋とふたゝびなる栗の樹も侍ると村長が話るに、日影かたぶき、早地峯をむかふに風いと寒く、見る/\、

 

   冬ちかみあらしの風もはやちねの山のあなたや時雨そめけん

 

黒沢尻(北上市)といふうまやにつきて、昆といふ何がしがやに泊る。

 

 

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国名について調べてみた17 安房国と総国

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。

 

ひさしぶりに、車で遠出をした。

行き先は、いろいろ考えたのだが、房総半島にした。

ゴールデンウィークということで、どこへ行っても混雑はまぬがれない。

房総半島は、むかしから行ってるし、だいたいの様子は知っている。

妻の実家が、九十九里山武町にあった頃は、そこを拠点に、半島を南下していたのだが、その頃は外房の海の道を使うことが多かった。

その後、館山自動車道ができたので、内房のルートを使う機会が増えた。

どちらにしても、海側の道は渋滞すること多く、特に帰宅時に苦労した記憶が残っている。

そこで、今回は内陸の道路を使うことにした。

 

今回の目的地である房総半島の南部は、令制国で言えば「安房国」(あわのくに)である。

律令制の時代、私の住む千葉県は、「安房国」と「上総国」と「下総国」の三国からなっていて、明治維新まで続いた。

令制国の制度が導入されるまで、この地域は「総国」(ふさのくに)という多くの国造の領域があったらしい。

国造というのは、古くからその地域を治めてきたきた地方豪族を朝廷が任命したものらしいが、律令制度によって国司が派遣されるようになって、名誉職になっていった。

阿波・長狭・須恵・馬来田・伊甚・上海上・菊麻・武社・下海上・印波・千葉というのが、この地域にあったとされる国造の国である。

令制国として、「上総国」と「下総国」が成立し、のちに「上総国」から阿波国造と長狭国造の地域を分けて「安房国」として成立させた。

この時点で、平群郡、安房郡、朝夷郡長狭郡の四郡からなっていた。

 

高速道路は使わず、内陸を南下するということで、自宅から千葉ニュータウン、酒々井、八街という、かつて山武町の実家へ通った頃のコースを走った。

八街から、東金、茂原と方向を変える。

いつもは、九十九里浜の南端である太東に出て、そこから外房の海岸線を行くことが多かった。

茂原からは、そのまま内陸の県道を進み、「むつざわ道の駅」というまだ新しい施設に寄った。

思ったほどの渋滞もなく、昼前に到着したのでそこで昼食にした。

最近、関東近辺の道路地図を新しいものにした。

なんと、「道の駅」が増えたことだろうと、思う。

かつて、まだ小さい子供たちを連れてくるまで出かけると、トイレ休憩できるところが、ほとんどなくて、苦労したものだ。

道の駅は、数えるほどしかなかった。

駐車場とトイレという、最小限の道の駅だった。

たぶん、そのころには考えもしなかっただろう「プラスアルファ」が、道の駅にはあったのだ。

 

宿泊は、千倉にした。

この街は、今までに何度も通り過ぎているが、泊まったことはない。

初めて寄った時に、「鯨のタレ」というのを見かけて、いったいなんだろうと思った。

クジラの干し肉というか、ビーフジャーキーのようなものだった。

江戸時代からある伝統的食品なのだから、鯨漁をやっていたということだ。

宿の住所は、南房総市となっていた。

たしか、むかしは「丸山町」だったと思うが、平成の大合併で「南房総市」になっている。

千倉の中心地に、「北朝夷」と「南朝夷」という地名があった。

安房の国の四郡の「朝夷郡」の「朝夷」である。

朝夷郡は、長狭国造の領域であり、長狭国造の中心は鴨川のあたりだったらしいので、この千倉のあたりもその勢力範囲内だったのだろう。

 

房総半島の南端の市町村が合併を進めていたことは、ニュースで知っていた。

そして、その中心だった館山市が離脱して、その他の町村で「南房総市」となった。

南房総市」という名称には、違和感があった。

「房総」というのは、「安房」と「総」ということで、「安房国」と「総国」、つまり「上総国」「下総国」であり、千葉県全体をさす名称である。

南房総」だと、千葉県の南部ということになる。

実際には、南部ではなく、南部の南端部分である。

律令制度下で、令制国の下部組織であった「郡」は、明治維新後の廃藩置県によって、令制国が消滅したあとに、都道府県に引き継がれ、郡役所も置かれた。

安房国の四郡、平群郡、安房郡、朝夷郡長狭郡も、そのまま残ったが、明治30年には、安房郡が他の三郡を編入したので、旧安房国安房郡となった。

それを考えると、「南房総市」ではなく、「安房市」でもよかったのではないかという気がする。

 

合併の経過を調べてみたら、「安房」という名称は出ていないようだった。

当初、千葉県から示された合併案は3案あった。

1案は、旧安房国=旧安房郡をすべて対象にしたもので、旧長狭郡である鴨川市和田町天津小湊町を含んでいた。

しかし、早い段階で旧長狭の市町は合併を断念した。

次に、2案に基づいて、旧長狭郡以外の市町村で協議が続いた。

新市の名称について、館山市は「館山」を、その他の町村は「南房総」を主張し、折り合いがつかず館山市は、合併協議会から離脱している。

合併協議会は、旧安房郡の1市8町で構成されていたが、その後鋸南町も離脱し、富浦町、富山町、三芳村白浜町、千倉町、丸山町、和田町の7町で「南房総市」を成立させた。

結果的に、安房郡は鋸南町の1町だけとなり、存続している。

 

かつて、昭和の大合併というものがあった。

私が生まれた昭和28年ころから始まって、それまで1万ちかくあった市町村が、3年後には4,000ほどに減ったらしい。

合併で問題になるのは、新しい市町名である。

今私の住む柏市もその頃に周辺の町村が合併して、誕生したらしい。

柏町が、土村、田中村、小金町と合併したわけだが、江戸時代は水戸街道沿いの集落に過ぎなかった柏町に対して、小金町は古くからの宿場町であった。

それを配慮してか、市名は「東葛市」と郡名からとっていたが、すぐに小金町が松戸市編入された。

そこで、わずか2か月後に、「東葛市」は「柏市」になった。

合併によって誕生した市町村の名称には、時々頭をかしげてしまうことがある。

平成の大合併で、岩手県に「奥州市」が誕生した。

水沢市」と「江刺市」、そしてその周辺の町村からなる新市である。

「奥州」は「陸奥国」の別名であるので、確かに「奥州」にあることは間違いない。

しかし、陸奥国は、青森県岩手県宮城県福島県、さらに秋田県の一部を含むとんでもなく広い領域の令制国であった。

市の名称として、ふさわしいものと考えて決めたのだろうが、不思議である。

そういえば、山梨県に「南アルプス市」も誕生した。

これもまた、決定するときに、何かが欠けてしまってる気がする。

房総丘陵 ウィキペディアより

房総半島への長距離ドライブをして、感じたことがある。

今までは、外房も内房も海岸沿いで、それほどアップダウンがなかった。

今回は、内陸のコースだったので、山越えだった。

房総丘陵」という言葉は、知っていた。

鹿野山だったか、マザー牧場だったか、「九十九谷」といわれる山々の展望を見たこともある。

実際に、「房総丘陵」を走ってみて、なるほどと思った。

この山々があるので、「上総国」から「安房国」を分離させたのだ。

房総丘陵は、最高峰でも嶺岡愛宕山の408mなので、高度はそれほどではない。

ところが、アップダウンの山道が延々と続く。

カーブの連続で、先が見えず、集落も信号もない道が何キロも続く。

ドライブのトレーニングみたいだなと思った。

車が少なく、対向車もそれほどないので、それほどたいへんではない。

 

私は、ふだん車を運転する機会は比較的多い。

自宅の周辺は、交差点や信号も多く、何百メートルもノンストップで走ることはあまりない。

千葉県北部は、下総台地北総台地と呼ばれるゆるやかな台地の地形である。

郊外を走ると、高台と侵食された谷が交互にあらわれるが、のんびりしたものである。

帰ってから、あらためて航空写真を見た。

千葉県は、北部の台地と南部の丘陵がはっきりとしている。

そして、東部にみごとな九十九里浜

陸の孤島と言われかねないけれど、それもいいところかな。

 

 

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浮世絵と江戸時代

ここ数週間、浮世絵関係のサイトを、まるごと電子書籍に変換するということをやっていた。

かなり膨大なファイル数で構成されているサイトなので、やはり思ったよりも時間がかかった。

ひとつは、「浮世絵文献資料館」である。

その名のとおり、浮世絵についてのサイトではあるが、あくまでも「文献資料」が中心である。

https://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html

「浮世絵文献資料館」というタイトルの下に、次のような説明がある。

ここでは江戸~明治時代の随筆や書誌類に記された浮世絵に関する資料を紹介しています 編集 制作・加藤 好夫」

加藤好夫さんという方が、個人的に運営されているらしい。

更新履歴によると、2005年に開設されて、その後着々と収録文献を増やしている。

このサイトの特徴のひとつが、文字サイズの異常な小ささである。

そんために、ページあたりの情報量は、とても多い。

 

江戸時代や明治時代の文献を収録しているサイトは、他にも多くあるだろうと思う。

しかし、このサイトのもうひとつの特徴は、文献をそのまま収録することなく、浮世絵に関する事由や人物に関する文章を抜き出して、整理・分類しているのである。

ウェブサイトは、さまざまな種類のファイルが、多層的にフォルダに収められている。

そこを考慮しながら、電子辞書作成用のファイルに手直ししなければならない。

やっていて、ふとおもしろい記事に目が止まった。

 

文化十一年(1814)
『塵塚談』〔燕石〕小川顕道著
「当戌年十月より、浅草観音境内奥山へ、頓智なぞと云看板をかけ、盲坊主、廿一二歳と見ゆる者出たり、見物一人に付、銭十六文づゝにて入る、見物人より謎をけるに、更にさし支る事なし、解かずと云事なし、若解せざる時は、掛し人へ、景物に蛇の目傘などをくれる事也、故に見物の人、景物を取らんと、なぞをかける人多し、たま/\解ざる謎出る事も有由、此者の才覚、頓智成事を感心、驚ざる者はなし、奇なる盲者にて、奥州二本松の産なる由、検校保己一が類の奇人と云べし」
 
他にも、街談文々集要(石塚豊芥子編)や、増訂武江年表(斎藤月岑著)にも収録されているが、そこでは年齢が違っている。
 
頓智なぞといふ看板を出し、十八、九歳の盲坊主高座にありて、見物より謎をかけさせて即座にとく。」

 

浅草観音というのは浅草寺のことだろうか。

その境内に、どんな謎の難問にも答える盲目の坊さんがいて、見物料十六文を集めている。

年齢は、二十一というもの、十八、九歳だろうというものもあるが、奥州二本松出身といのは一致している。

テレビもネットもない時代だけれど、まるでワイドショーで取り上げられそうな話題である。

 

ほかにも、こんな事件もある。

浮世絵絵師宮川長春についての記事である。

 

新増補浮世絵類考(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
「宮川長春 宝永、正徳頃の人、尾州宮川村の産にして、土佐家の門人といふ。江戸に住して一家をなす。長春一子両国に住す。宝暦、明和の頃、日光御修復有之。狩野家の内画の御用相勤候ものゝ受負を、長春が倅勤しが、賃銀は日光表にて遣すべきぬ旨約し渡さゞりければ、催促に及しより事起り争論になり、長春が倅短慮にて狩野家のもの四人迄殺害せしかば、公の御沙汰となり御調の上、長春が倅は死罪、長春流罪、狩野家にて御用勤し家は断絶なりしとなり。」
 
宮川長春は、生まれが天和二年(1682)、没年が宝暦二年(1752)の人である。
この記事によると、日光東照宮の修復工事を請け負った狩野家から、下請けをすることになった宮川長春は、息子に勤めさせた。
ところが、日光で支払われるべき賃金が支払われず、息子が催促に行ったが話がつかず争論となった。
その結果、息子は狩野家の四人を殺害した。
息子は死罪、長春流罪で、お家は断絶という、かわいそうな話である。
狩野家当主名や宮川長春の息子の名は伏せられている。
下請けの契約が守られないという、現在もありそうな事件だ。
マスコミが、大騒ぎになるだろう。
 
もうひとつの浮世絵サイトは、画像中心のサイトである。
「『浮世絵・錦絵』などを見る」は、個人サイトではなさそうである。
「みんなの知識 ちょっと便利帳」という超巨大サイトの一部らしいが、どこが運営しているのかわからない。
浮世絵だけにかかわらず、絵画のほとんどはすでに著作権が消えている。
だから、世界中の美術館では絵画のデジタルデータを公開していて、ダウンロードもできる。
浮世絵は、絵画ではなく版画である。
同じ作品が、何百枚もある。
どれが本物で、どれが複製ということはない。
何万枚ということはないだろうが、何千枚はあるかもしれない。
だから、世界の名の知れた美術館では、北斎歌麿などの浮世絵を所蔵している。
同じ作品のそれぞれの美術館の所蔵品を並べたコーナーがある。
同じ作品なのに、色合いが微妙に違っている。
摺り具合や、保管状況の違いがでてくるのだろうか。
 
絵画の画像を収録したサイトは、数多くある。
浮世絵も、同様である。
そのほとんどは、浮世絵絵師ごとに作品が並べられている。
このサイトは、浮世絵師ごとの分類のほかに、さらにテーマごとに分類されている。
たとえば、葛飾北斎のコーナーは、30ほどに分類されているが、そのなかに「北斎漫画」の区画がある。
日本の「マンガ」の起源を語るときに、「鳥獣戯画」とともにあげられる。
絵手本として発行したスケッチ集ということだが、なんと4000ものスケッチが15巻に収められている。
いろんな職業や、表情・動作など見てるだけでおもしろい。
これも、江戸時代が町民文化の時代だったからだろうか。
武士だけの文化だったら、こんなものは生まれなかっただろう。
江戸時代の士農工商の人口割合は、農85%、士7%、工商などの町民が8%というところだったらしい。
ところが、江戸の街に限れば、武士とちょうみんの割合は、半々だったという。
 
私は絵心があるわけでもなく、絵も描かない。
でも、絵をみるのは好きだ。
そんな私にとっては、好きな音楽、本、そして絵もネットで楽しめるのは、うれしいことだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

けふのせはのゝ⑤ 菅江真澄テキスト

八日つとめて寺林(岩手郡玉山村)、河口(岩手町)をへて、巻堀(玉山村)といふ村に斎ふ金勢大明神といふかん籬あり。

こは名にたかふ、石の雄元の形あまた祠にをさめたるはいかにととふに、近きころ盗人とりうせたるを、もとめいだし奉りてのちは、此里のこと処のやにと人のこたふるを聞て、其処にあないさすれば、一間の小高きところの机のうへに、黒がねのなゝき斗のおばしかたをふたつ、みなくさり付たるをいやし奉る。

あるじにゆへをとへば、むかし、粟生の草ひきやる女のたぶさにさはるものあり。

あやしの形なればとり捨たるに、ふたゝびしかせり。

さりければとり持かへりて、道祖神といはひたいまつりしがはじめといふ。

実方朝臣の見たまひしはここにや、又こと処にや。

渋民〔むかしは枯杉といひし処といふ〕邑(玉山村)に来けり。

長根といふところに千本松とて、ひともとの根より、いくもとも生ひたてる木のかれたるがつれなし。

 

   生ひ初し松は一本をいく本か過しちとせの数にたちけん

 

此したつかたに、ぞうり、わらんづ、すべてはなをもなきふみものを木の枝にかけたるは、わらはやみやめてとねぎごとして、いゆれば、かくなん人ごとにかくるといふ。

女あまたうすつくを見れば、鍵銭とて、ぜに、みそ斗に鍵あまたを緒につらぬき腰に付たるが、杵とるほうし(拍子)に鳴りぬ。

又声をそろへて

 

「はちのへの、とのご達は、にちやうさいた能さいた、おらもなたと鎌、にちやうさいた、能さいたな」

 

「十五七が、沢をのぼりに笛をふく、峰の小松がみななびく」

 

とうたふを聞て、

 

   栄行みねの小松に笛竹のちよもこもれとうたふ一ふし

 

左に姫が嶽といふ山あり。

右にいや高きねのありけるを、がんじゆさんといらへたるは、

 

「とへば名をいはての丘ともしるべきを奥の不尽とはこれをいはわし」

 

と、円位上人(西行)もながめ給ふと、里の子らがあだしごとにつたへき。

巌鷲は岩手をかいあやまれるにやとおもへど、鷲の形したる岩ありなど、

「口なしの一入そめの薄杷いはての山はさぞしぐるらん」

といふ名たかきをなど、かく、まち/\にはいふらんかし。

このあたりは、

「誰れをともいはての野辺の花薄招きにまねく秋の夕ぐれ」

「とにかくに人に磐手の野辺に来て千種の花をひとり見るかな」

といふ、ふるき名どころにやあらん。

此みねに雲のをるもねたく、

 

   紅葉するいろこそ見えねかゝりてはそれといはての山の白雲

 

磐井の郡、あるは信夫の郡にも此山のありといふは、

 

「別路はけふをかぎりとみちのくのいはてしのぶに沾る袖かな」

 

と、師氏のながめありけるより、しかいへるにや。

そのむかし岩木山に安寿姫をまつり、此たけには津志王丸をまつる。

又いふ、岩木ねはづし王のみたまをいはひ、此たけに安寿女のみたまをあがめまつれば、安寿山といはんをあやまれるなど、後の世の人のくさ/″\にいふに心まどひぬ。

まほなることやいかに、知る人にとはまほし。

此あたりにたゝら山といふなるは、

 

陸奥の吾田多良真弓(あだたらまゆみ)つるすけてひけばか人のわれを事なさん」

 

と、よみけるところにこそあらめ。

夕霧にこめて見やられず。

 

   われもかく心ひけばかあだたらの真弓の紅葉いかにそむらん

 

森崗(盛岡)に出たり。

とみうど軒をつらね、里ひろうにぎはゝし。

北上川の辺に宿かりつ。

舟橋あり。

かみ河のひろ瀬の面に舟をひし/\とならべて、行かふ人も上弦の光にあらはれたり。

 

   ふなはしの数もしられて行かひのあらはれ渡る月の夕影

 

九日 けふのいはひに、菊のふゝみたるを折て朝とく出たつ。

 

   いざ今日の例にぬれんとしら露もはらはでかざす菊の一枝

 

はたち斗も小舟を早瀨にうかべ、中洲に柱立て、かなづなを引はへつなぎ板をしいて、うまも人もやすげにわたりぬ。

此はじめは毛詩大明の篇に、造舟為梁となんありけり。

晋の杜預といふ人、富平津といへる水ひろきながれ舟をならべて浮橋としけるを、武帝、觴をあげてめでくつがへり給ひしとなん。

佐埜のふなはしとりはなしと、ふるき言の葉にいひわたり、あるは越の国にありとのみきけど、いまだふみも見ざれば、めづらしく、たゝずみわたる。

このあたりの業には、なべてあまどころとて、黄精をむしたヾらかし、あるは膏のごとにしてうるめり、いみじき薬也。

津軽町、上野、見前(紫波郡都南村)といふ処のあれば、

月花のたよりよからん泉郎のかる見るまへてふ名こゝに在けり

やをら十日市町となんいふを過る。

これより郡山(紫波郡矢巾村)といふ。

大槻の観音と人のたふとめるは、聖武のみかどのおき奉り給ふといひ伝ふ。

日詰(紫波町)といふ処あり。

これなん、清衡の四男樋爪太郎俊衡入道の館の址は、五郎沼のひんがし北に在といへば、処の名にもいふならん。

路のかたはらの石ぶみに志賀理和気神社とかき、裏に赤石明神とえりたり。

しかりわけの神(延喜式内社)は、斯波郡にひとつのかんがきといふは、此おほん神なればまうで奉る。

又祠を北上の河の涯近くひんがしにそむけて立るは、此みな底に夜毎夜毎に光る石あるをとりて、神とはまつりしとなん、庵よりほうしたち出て話る。

桜町といふ村(紫波町)あり。

 

   春も又こゝにとはなん山ざくらまちて梢の紅葉をぞ見る

 

西なる吾妻峯(アツマネ)といふ麓に、志和の稲荷といふ神あり。

いにしへの鹿猟分(しかりわけ)の社こそ、此神の瑞籬を申奉りけめと、をしゆる人ありき。

しかはあれど、行みちしれざればとどめつ。

このおほん神や、倭日向建日向八綱田命にておましますときけば、よみて奉る。〔天註-姓氏録云、軽部、倭日向建日向八綱多命之後也。雄略天皇御世献加里乃郷、仍賜姓軽部君。同云、豊城入彦命男倭日向建日向八綱田命。続日本紀云、入彦命子孫東国八腹朝臣各田居地賜命氏〕

 

   八束穂に秋の田の実やみのるらんこは鹿かりの神の恵に

 

かくて細きながれをたくな(滝名)河とてわたれば、ゆふべになりぬ。

 

   行水や海士のたく繩くり返すいとまも波にくるゝ秋の日

 

くれて、石鳥谷(トヤ)(稗貫郡石鳥谷町)といふ里に宿つきたり。

 

 

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時代は変わる

ボブディランが、「時代は変わる」という曲を作ったのは、1964年だそうだ。

私は、その曲をサイモンとガーファンクルの歌で聴いた。

サイモンとガーファンクルは、同じ1964年の自分たちのデビューアルバムで、この曲をカバーしている。

私が初めて聴いたのは、1970年くらいで高校生の頃だから、それから5、6年後だ。

ボブディランのオリジナルも、その頃聞いたと思う。

「時代は変わる」

原詩は、The times They Are a-Changin' である。

アルバムのジャケットの写真の彼は、ほほがこけていてほっそりして、その後の彼のイメージとはまったく違っている。

そして、歌詞は社会と大人たちへのストレートなメッセージである。

 

この春、孫娘が小学校に入学した。

21世紀、2023年である。

1953年生まれの私が、入学したのは1960年だった。

ずいぶんと年月が、経過したものだ。

すべてのものは、大きく変わってしまった。

変わっていないのは、小学生のランドセルくらいかもしれない。

こんなことを考えていて、ボブディランの「時代は変わる」を思い出したのだ。

彼は、この曲で、水の底に沈みたくないのなら、泳がなければならない、と言ってる。

アメリカの社会が、公民権運動やベトナム戦争などで、変わりつつあるのにそれを直視しようとしないことへの憤りが、この曲を書かせたのだろう。

 

孫娘がちょうど一歳の時に、まだ健在だった私の母と一緒に、親子四代で郷里の秋田に旅行した。

計算してみたら、長男は1992年に小学校に入学している。

1960年から1992年まで、32年経過しているのだが、考えてみるとなんと大きな変化があったことだろうと思う。

ボブディランに曲を書かせた要因のひとつだったと思われるベトナムでの戦争は終わった。

私が生まれた頃にあった朝鮮戦争に続いて、在日米軍基地はそのための補給基地だったわけである。

小学校、中学校、高校、大学と、日本は高度経済成長の時代だった。

そして、私が就職した頃に、日本列島改造論によって始まったバブル景気である。

結婚の頃に、そのバブルははじけてしまい、長男の誕生くらいから、長期低落の経済が始まる。

これとは関係ないだろうが、ソビエト連邦が内部崩壊するのも、その頃である。

ベトナムでの戦争の原因だった東西の冷戦が終わる。

高校生の時に、ベトナムの抵抗組織だった「ベトコン」の記録映画を映画館で見た。

その頃の映画は、中編、長編の二本立てに、短編のニュース映画という感じだった。

現在の日本では、多くのベトナムの若者たちが働いていて、日本への観光客も増加しているらしい。

なにか、不思議な気がする。

 

自分が小学校に入学したころのことは、あまり覚えていない。

ただ、はっきり記憶にあるのは、入学式の後、母親と歩いて帰ったことである。

アスファルト舗装されていない車道を、ふたりで歩いて帰った。

雪解け後の、歩きにくい泥道を、和服の母親とまだ雪の残っている山々を見ながら歩いた。

孫娘の入学後の様子が、SNSの写真動画共有サービスで届く。

学校生活に馴染めるか心配だったが、楽しそうで安心した。

先日の動画では、柏市立図書館の電子図書館を利用していた。

パソコンで、「絶滅危惧種図鑑」というおもしろそうな本を見ていた。

そういえば、図鑑のようなのが好きみたいと、ママが言ってた。

両親とも働いているような家庭では、電子図書館は便利だろう。

家にあるのはラジオくらいだった私の時代と違って、パソコンもスマホもゲーム機も生まれた時からそばにある。

当たり前に使える道具なのだ。

 

 

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ブログの記事が消えた

先日、「どんなににんきのあるものでも寿命はある」という記事を書いた。

朝、公開して一時間後くらいに読み直そうと開いたら、記事の内容が消えていた。

文章を削除した記憶はないので、調べてみたがバックアップもなく、どうしようもなかった。

とりあえず、はてなのサポートデスクに、文章を復元できないかというメールを送ったのだが、いま持って何の音沙汰もない。

記憶をもとに、再度文章を書こうとも思ったのだが、今回は何度か書き足したので、いつもの倍近い長さになっていた。

私の場合、通常は1200字くらいをめどに書いている。

2000字もの文章を、記憶を頼りに書くことを考えると、意欲が無くなってしまった。

 

私のブログは、思いついたこと、考えたこと、行動したことを書くだけの、落書きのような文章である。

自分のための「覚書」である。

この年齢になるまで、個人的な文章をほとんど書いたことのない私が思いつきで始めたことである。

落書きのようなものではあるが、自分が考え書いたもので、それなりに愛着もある。

それが消えてしまうのは、ショックだし、かなしいものがある。

これまでにも、下書きの段階で、更新したはずの文章が更新されていなくて、残念な思いをしたことが何回かある。

たしかに、「保存しました」の表示を確認して画面を閉じたのに、次回開いてみたら更新されていなかった。

それが、ブログのシステムの問題なのか、どうかはわからない。

私にとっては、この「はてなブログ」が初めてのブログである。

他はどんな流儀になっているのだろうか。

 

ところで、このところブログの更新のペースが、とても落ちている。

原因は、わかっている。

電子書籍の作成に、時間がとられている。

別に先を急ぐわけではないのだから、のんびりやればいいのだ、と思う。

でも、性格的に気を入れてやってしまう。

好きな作業だから、やっていて楽しいのだろう。

ダウンロードしたウェブページを手直しして、電子書籍作成アプリに都合のいいようにして、試しに大丈夫かやってみる。

そんなことを、ひたすら繰り返している。

今、手がけているのは、浮世絵に関するサイトのものである。

ひとつは、浮世絵に関する文献が中心のサイト。

もうひとつは、浮世絵の画像中心のサイト。

同じ浮世絵を扱っていても、その内容はまったく違っている。

それを楽しみながら、言ってみれば「他人のフンドシで相撲をとる」といったところだ。

まあ、自分だけの楽しみなのでいいだろう。

やりながら、最近思っているのは、江戸時代というのはなんてすごい時代だったのだろう、ということ。

きっと、他には類のないことかもしれない。

 

ここで、気をとりなおして、またブログを書こうと思う。

コロナ禍になって、四回目の春である。

たぶん、「四回目」で間違っていないはずだ。

孫娘が、この春小学校に入学した。

保育園育ちなので、学童保育での生活になる。

とりあえずは、学校も通常の生活を取り戻したのだろうから、喜ぶべきだろう。

それでも、毎日かなりの数の感染者がいる。

コロナ禍が始まった頃、日本では毎年インフルエンザで、1万人くらいの死者がある、といっていた。

でもニュースにはならないということだったのだろう。

この後、コロナとはどう折り合いをつけるのだろう。

そして、ウクライナの戦争から、一年である。

これは、ほんとに戦争なのだろうか、とおもう。

ウクライナは、悲惨な戦場である。

ロシアは戦場にならないのだろう。

ロシアが戦場になったら、すべては終わりなので、誰もそのことは言わないのかな。

 

 

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けふのせはのゝ④ 菅江真澄テキスト

五日 とのしらみゆけば、女戸おし明て、こは水霜〔露をしかいふなり〕しろ霜まじりふりたりとて、真柴折くべ物にるにあたりて、出たつよそひす。

けふは末の松山見にいかんとおもひて、とく/\と出ぬ。

梨木坂のこなたよりは二戸郡といへり。

保登(戸)沢、石神、中斎(中佐井‐以上安代町)、駒ヶ嶽(駒ヶ嶺‐浄法寺町)をへて、浄法寺村とて椀、おしきやうのものをつくりいだすをわざとせり。

むかし、浄法寺なにがしといふ人しるよしして住給しなど語る。

吉祥山福蔵寺に入て活竜上人とかたらひて、こよひは比寺一夜をとありけれど、こゝろせけばこの寺をまかんでて、石淵(岩淵)、岡本などいふ村々をも過るに、老たるほうし、しりよりゆくりなう声をかけていはく、いづこにか旅人は行ぞと。

こたへて、世にありとある、かしこきところをこそたづね奉り侍れ。

老ほうし、さらば、こゝにも桂清水とてたふときところあり。

いで、をしへ申べしとて、としふる桂木の根より水細くわき出るにほぐらをたてり。

是なん、むかし円仁だいしの夢のみさかありて、もとめ給ひしとかたり、はた、みてらの観世音は行基菩薩の作給ひて、そのいにしへは聖武天皇の建給ひて、そのかみは、いかめしき堂ども多かりつるなど、御前にぬかさげて語るを聞て、水月の意を、

かしこしないく世桂のかげそへてながるゝ水の月やすむらん

山路はる/″\とわけ来て、金葛といふ村(二戸郡二戸町)にやどかり、うすき衣をかたしきて、いもやすからぬに、あれたる板戸のひまより夜半の秋風寒く吹入て、はだへをおかすに、いとどふしもつかれず。

風なひきそ、衣重ねきてよと、あと枕のかたくへなどし給ひし父母のふかき情を、いまはたおもひ出て、たヾなみだがちに夢もむすばず。

あなさむし衣織ぬふ人もがなくずのかづらや糸によらなん

六日 筑館(月館)、十日市、中沢(中里)、一戸の里(以上一戸町)のはづれよりしばしゆけば、「をのがつま波こしつとや恨むらん末の松山雄鹿鳴也」と、家隆のながめ給ひしをずして麓に到る。

今は浪うち坂といひ、波うち峠といふ。

上れば、土の中よりわれから、波間かしはそなど小貝ほりて、つとにとひろふ旅人あり。

この山越れば福岡の郷に出るといふ。

 

「おもひこそ千嶋のおくをへだてねど」

 

とありける壺の碑は、坪といふ村に埋れてあり。

 

「しほかぜこして鵆鳴玉川」

 

は閉井郡也。

徒膚(十府)の薦いづてふ処は、外ヶ浜辺にも、また此あたりにも、宮城野の辺にもありといふ。

此末の松山を仙台路にも在けるは、夫木集に、

 

「波にうつる色にや秋の越えぬらんみやぎが原のすゑのまつ山」

 

といふ歌のあればいふにや。

しかはあれど、本中末と、そこにはあらじかし。

この浪うちは、近き辺に中山といふすく(宿)あり。

これなん中の松、本の松は盛岡に在りとかたる人もありき。

いづれやまめならん。

ふたゝび二戸にかへりくとて、多かる薄に風落ちわたるを、

 

   風吹ばこゆてふ浪と見ゆるまでなびく尾花か末の松山

 

栖穴(沢田?)村、白子坂、荷坂、宮口(女鹿ロ)、小沢(小鳥谷―以上二尸町)に来けり。

こゝにこの夜をといへば、やのあるじの女、よねてふものをひとつぶも持ねば、やどすことかなうまじとて、ゆるすべうもあらねば、ひと夜斗はものくはでもやあらんかし、みち遠く足つかれたればと、ひたにいへば、さらばやどりねとて、やをら粟の飯に、しほづけの桃の実そへてくれたり。

をのれらは栗のみくひぬ。

ことしも又、はたつものみのりよからず、わびしき世中とうちなげきて、これもて枕にとて、米はかる桝とり出てふさしむ。

いぬれば風はげしく吹に、ふる郷の夢もなごりなうやぶれて、

 

   露なみだますほの薄枕にてかりねの床の風ぞ身にしむ

 

ものの音したるに又めざめて聞ば、とりもいまだなかぬに、やの翁火いたくたきて何ならん磨ぬ。

枕もたぎて見れば、炉のへたにをのまさかりを、ひのわれ(氷の割)のやうにとぎならべたり。

こは、この離家に在てわが命やほろびん、又おびやかし、かねあらばとらんとやするか、衣やとらん。

さりければ、いかヾしてこゝをばのがれんとためらひ、みじかきさびたち(錆太刀)を身にそへ持たるに、たましゐをこめて、ひそみたちてひかへたるをやしりたりけん、ひげかきなでて、くま/″\に光る眼をとばせ、白髪ふりみだしたるは、ふりさへおそろしきに、と(外)より人のけはひして戸あららかに引あけて、あら男二人かしらは布につつみ、はちまきして、けらといふみのきて、そのくびに、はびろのまさかりをさして、がまのはぎまきして炉の中に足さし入て、寝たるはたぞ、旅人といふ。

ひとりかといひて、其こたへはあらで、夜あけぬまにといふに、いよゝ心おちゐず、おそろしさいはんかたなし。

翁声たかう、みな来り、兄な/\とよばふ。

さらにこたへねば、春木〔樵木おしなべて春に刈れば伐れば、しかはる木といふ〕の大なるして、板しきも通れと二うち、三うち打て、兄おきよ/\といふに、おき出て、こてさし、はぎまきしておなじさまによそひ、門より歌うたひていざなはれ出行に、あきれたり。

ことしらざればあやしみたり。

おき出て、人はいづこにととふ。

こたへて、山に行たり。

まだ夜ふかしといひつゝふせば、こはいかにぞや、かばかり人はうたがふものかは、あがこゝろより鬼も仏もをのづから作り出んは、いとやすげなるものかと、はぢらひてふしぬ。

七日飯いでたり、おきよといふにうちおどろけば、よべの人々ゐならびて薄墨色の飯をくひぬ。

われも、れいの女郎花を椎の葉の露ばかりなめて、雨ふるに出たつ。

高屋鋪(敷)、笹目子、小縶(繫)、日行(火行)、中山のうまやに到る。

錦着て帰るとや見ん旅人のわくる紅葉のなかの松山

摺糠、馬羽松〔馬不食とむかしはいへり〕(以上一尸町)といふ処あり。

頼義のおほん馬の料の糠くちすたれて、うまのはまざれば捨たる処の名なるとなん。

御堂(ミドウ)といふ村(岩手郡岩手町)に来り、こゝにをさめたる観世音ぼさちは、うまやどの皇子のおき給ふとも、はた、御堂は田村麻呂のたて給ふともいひつたふ。

北上山と鶏栖(とりい)に額あり、御前にいさゝかの泉あり、これ北上河〔いにしへは上川とうふ〕源也。

ねがひある人は、この水にかうより打とて、紙をさき、かうひねりをして水の面になぐ。

かなふべきはしづみ、うけたまはぬは浮きたヾよへるとぞ。

ふがね、かいらげなど行に旅人の云、こたび八戸のほとりは水あふれ、なか/\のさはぎ也と。

さればこそ玉川、みやしま見んことをとどめつれとかたりあひて、くら/″\に沼宮内(岩手町)とて、がまのはぎまきつくりあきなふ里に宿とふ。

鴈の鳴たるに、

 

   雲井路をゆきやわぶらんおもひやるわれも夜寒の衣かりがね

 

 

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