晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

第二の故郷になった柏という町

私にとって、柏という町は六十数年のうちの半分くらい三十数年を過ごした町である。

我が家の子どもたちにとっては、生まれてからほとんどを過ごしてきた町だ。

長男だけは、隣の町で生まれて2歳になる前に引っ越してきている。

縁あって柏市に住むことになった私は、機会があれば柏市の歴史を調べていた。

私のように、他の地で生まれ育って柏市に住むようになった人は、どれくらいいるのだろう。

日常生活を送ってる分には、別にこの町の歴史を意識することはない。

でも、自由な時間があって、散歩する機会があると、歴史というものを知ることが楽しみになると思う。

 

2005年(平成17年)、柏市東葛飾郡沼南町と合併した。

これによって、人口38万人、面積115平方kmとなり中核市の要件を満たし、2008年に中核市に移行した。

これに先立つこと、2001年(平成13年) に我孫子市流山市を加えて合併研究会を発足させていたが、両市が相次いで離脱したものだった。

東葛飾地域では、周辺市町の合併により、政令指定都市を目指すべきとの議論がある。

東葛6市」野田市流山市松戸市柏市我孫子市鎌ヶ谷市からなる「東葛広域行政連絡協議会」が、研究会を設置したり、松戸市柏市で研究会を設立したりしている。

東葛飾南部の船橋市市川市も合併による政令指定都市を目指す動きもあり、それぞれの動向が気になるところである。

 

沼南町は、1955年(昭和30年)に風早村と手賀村が合併して発足した沼南村が、昭和39年に町制を施行したものである。

風早村と手賀村は、1889年(明治22年)の町村制施行により合併して発足したが、その時点では南相馬郡であった。

1897年(明治30年)に、南相馬郡東葛飾郡編入された。

風早村 ←  塚崎村,大井村,大島田村,蓑輪村,五条谷村,高柳村,藤ヶ谷村,藤ヶ谷新田,大井村新田,箕輪村新田

手賀村 ←  手賀村,手賀村新田,泉村,若白毛村,岩井村,鷲ノ谷村,金山村,柳戸村,片山村,布瀬村,泉村新田,岩井村新田,鷲野谷新田,片山村新田,布瀬村新田,染井入新田

手賀村の名前は、中心的な村であった手賀村や手賀沼から命名したのであろう。

しかし、風早村の「風早」という名はどこからきたのだろうか。

風早という地名は、私が調べた限りでは見つからない。

だから、なぜ風早村と命名したのかについては、もう少し調べて見なければならない。

確かに、中世の頃に「風早荘」という香取神宮領の荘園がこの辺りにあったようである。

荘域は、松戸市北部から流山市西部、さらに八潮市三郷市の周辺部となっており、旧沼南町あたりは出てこない。

千葉氏の系譜の東氏の一族東胤康が下総国風早郷に住んでたとの記録があるようだ。

しかし、その風早郷は松戸市本郷のあたりであり、風早氏を名乗っていて、その居宅跡に風早神社が残っている。

 

柏市は、1954年(昭和29年)に、柏町、土村、田中村、小金町と合併し、「東葛市」となった。

すぐに、小金町域は一部(根木内地区)を残して、松戸市に移管された。

また、富勢村は、一部が我孫子町に、一部が東葛市に編入された。

住民投票の結果、我孫子派、柏派がほとんど半々の同数だったので、分裂してそれぞれに編入ということになったようである。

東葛市は、柏市に名称を変えた。

 

柏町は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、千代田村・豊四季村組合が発足した。

千代田村 ←  東葛飾郡柏村、同郡戸張村、同郡篠籠田村、同郡松ヶ崎村、同郡高田村、印旛郡呼塚新田字落合、同郡柏堀ノ内新田(字一番割、水神前を除く)、同郡柏村、同郡中村、同郡下村、同郡戸張新田

豊四季村は、士族による新開墾地の村である事情のため村組合とした。 

1914年(大正3年)に、組合を解消し、千代田村とする。

1926年(大正15年)に、町制を施行し、柏町とすると。

 

土村は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、次の村が合併して土村が発足した。

増尾村、藤心村、逆井村、名戸ヶ谷村、今谷新田(現・今谷上町)、根木内村(一部は根木内新田を経て現・光ヶ丘)、小金上町新田(現・今谷上町)、酒井根村、中新宿村、塚崎新田、高柳村の11村の合併で成立したため、「十一」を「土」にしたものである。

私の住んでいる東中新宿は、中新宿村であったのだろう。

ここで、気がついたのは根木内村が合併して土村になったことだ。

根木内という地名は、松戸市に現在あって学校名にもなっている。

 

田中村は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、田中村・十余村村組合が発足した。

田中村 ←   若柴、花野井、大室、正蓮寺、小青田、船戸、大青田(利根運河北部を除く)、上三ヶ尾(利根運河南部)、下三ヶ尾(利根運河南部)、西三ヶ尾(利根運河南部)および青田新田飛

「田中村」の田中は、駿府国田中藩の飛び地であったことによる。

十余二村は、新開墾地である事情のため、村組合とした。

 

富勢村は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、次の村が合併して富村が発足した。

根戸村、宿連寺村、布施村、久寺家村、印旛郡呼塚新田、同郡根戸村新田、同郡松ヶ崎村新田、同郡柏堀ノ内新田字一番割および水神前

この時点では、南相馬郡であるが、のち東葛飾郡編入された。

布施村が圧倒的大村のため、新村名にもその名を望んだが、まわりの村々はそれを望まなかったため、音が通ずる「富勢」ということになったようである。

 

小金町は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、次の町村が合併して小金町が発足した。

小金町二ツ木村上総内村久保平賀村東平賀村殿平賀村大谷口村横須賀村中金杉村幸田村

 

明治22年の町村制施行による大合併によって、現在の市町村の原型になるものができたのだろう。

東葛飾郡は、それまでの10町2駅237村だったのが、9町28村まで減っている。

柏の歴史を考えるには、手賀沼の存在が大きかったと思う。

今の何倍かの大きさだった手賀沼は、水産物の宝庫であるとともに、水運の道でもあった。

次に、水戸街道である。

小金宿と我孫子宿に挟まれた寒村にすぎないと、記録にはあるが明治初期の古地図を見ると、街道に沿って住宅が並んでいる。

そして、江戸幕府の小金牧があった。

江戸時代、柏市域には48の村があり、田中藩本多氏に代表される大名領や旗本知行地・天領(幕府直轄領)が入り組み、これに名主を置かれていた。

私は、この時代の知識がないのでこれから調べてみようと思う。

以前に、「柏市史」を借りた時に、面白そうな資料が多くあったような気がする。

醸造用アルコールという不思議なもの

私は、もともとはビールが好きで晩酌はビールだった。

ビールは、1日のケジメだった。

それが、退職して夕飯のために台所に立つようになって、日本酒をちびちびやるようになった。

かつては、そんなに好きというわけでもなかった日本酒が旨いなあと思うようになった。

でも、料理しながら飲んでいると、けっこう飲みすぎてしまう。

そこで、最近は考えを変えた。

日本酒は、座ってじっくり飲むことにした。

 

日本酒を定期的に買うようなってから、ずいぶん経っている。

かつては、4合瓶を買っていた。

酒量が増えたので、一升瓶を買っていたこともある。

一升瓶はかさばるし、冷蔵庫にも入らない。

そこで、紙パックの大容量のものを買ったりしていた。

それだと、冷蔵庫に寝かして置ける。

でも、紙パックはなにか味気ない。

やっぱり、4合瓶くらいの方が酒造会社によってラベルの味わいもあるし、楽しみがある。

瓶も、色合いやデザインが微妙に違っている気がする。

 

私は、それほど酒の味とか香りにうるさい人間ではない。

どちらかと言えば、違いの分からない男である。

まあ、よく言えば許容範囲の広い人間かもしれない。

そんな私が、唯一こだわっているのは、「純米酒」を買うことである。

純米酒」以外には、「醸造用アルコール」というやつが添加されているのを知ってしまったからである。

醸造用アルコール」というのがどんなもんかは、よく分からなかったが、混ぜものはいやだなと思ったのだ。

せっかく、米で作った酒なのに、焼酎みたいなのを混ぜることはないだろう。

なので売り場へ行っては、純米酒をさがしては手ごろな値段の純米酒を買っていた。

純米酒でも、高級なのは精米歩合などによって、純米大吟醸酒純米吟醸酒特別純米酒、そしてただの純米酒があるを知った。

ただの純米酒は、精米歩合の要件がない。

純米酒ではない日本酒、大吟醸酒吟醸酒特別本醸造酒本醸造酒には醸造用アルコールが添加されている。

 

醸造用アルコールというのがよく分からなかったので、調べてみた。

なんのことはない、やっぱりアルコール度の高い焼酎だった。

日本酒造組合中央会によると、

 醸造アルコールは、蒸留を繰り返すことでアルコール度数95%程度まで純度を高めたものです。原料はサトウキビから砂糖を製造する過程で生まれる廃糖蜜が多いですね。いわばサトウキビの搾りかすです。これを発酵させてから何度も蒸留するため、醸造アルコール自体は無味無臭になります」

ということである。

原料のほとんどは「粗粒アルコール」として輸入して、国内でさらに蒸留して純度を高めて使ってるらしい。

純米酒以外の日本酒は、醸造用アルコールという蒸留酒を添加しているので、厳密な意味で醸造酒ではない。

アメリカやヨーロッパに輸出する際に、醸造酒ではなく税率の高い混成酒として扱われるので、輸出されていないとのことである。

輸出されているのは、純米酒である。

欧米では、ワインにワイン以外のものを加えると、ワインとしては扱われない。

ところが日本では、米と麹と水以外に、醸造用アルコールを加えても日本酒として扱っている。

さらにそれだけでなく、酒粕や焼酎、ブドウ糖などの糖類、アミノ酸塩、有機酸、清酒などを加えて副材料としたものは、普通酒とされている。

 

ワインはブドウからつくったものであるということと同じように、日本酒は米からつくったものであるという基本的なことを大事にしてほしいと思う。

醸造用アルコールを添加するのは、品質を安定させ、香りを高める効果があるというのだが、説得力がないと思う。

それならば、醸造用アルコールを使わずに、それを実現する努力をした方がいいよ、と言いたい。

現に、純米酒があるのだから、それをもっと品質向上を目指す方が、現実的だと思う。

これが、米でつくった日本の酒だ、と胸を張れるものをつくってほしいなあ。

酒好きの人間は、そう考える。

 

 

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アルバイトを考える

アルバイトという言葉が、ドイツ語の「労働」や「仕事」を意味する言葉からきてるということは、ずいぶん前に知っていた。

そして、日本では雇用期間のない正規雇用に対して、雇用期間の定めがある契約による労働者を「アルバイト」と呼んでいることも知っていた。

これらは、いわゆるフルタイムであるが、それよりも労働時間が短いパートタイマーというものも現れた。

 

私は、アルバイトを高校の頃はやったことがなく、大学生になってはじめてやった。

アルバイトをやったのは、この4年間だけなのでよく覚えている。

夏休みの2ヶ月と冬休みの1ヶ月くらいにやっていた。

ということは、年間3ヶ月くらいアルバイトをしていたので、4年間で12ヶ月近く働いていたことになる。

当時の大学は、夏休みや冬休みの前後になると、やたら休講が多かった。

はるか半世紀も前の昔話と言われると思うが、でも比べて考えてみるとこの50年間がどんな時代だったかがわかると思う。

 

50年前のアルバイトを考えてみると、日当は3000円弱だった。

たぶん2800円くらいだったと思う。

卒業年次には、3500円くらいになっていた。

1日の勤務時間が、7時間だったので驚いた記憶がある。

勤務時間は8時間だとばかり思っていたのだが、昼休みを入れて8時間だった。

拘束時間が8時間で、勤務時間7時間とすると日給2800円の場合、時給が400円になる。

その頃、最低賃金は300円台だったのだろうか。

日給が3500円であれば、時給は500円になる。

現在、最低賃金が幾らかというと、横浜の神奈川県は、1,012円、東京都は、1,013円、千葉県は、925円である。

たしかに、コンビニやスーパーにはってある求人のチラシには、950円から1000円ちょっとになってた気がする。

 

就職してもらった初任給が、自分の記憶がたしかなら基本給が68,000円だった。

それまでのバイトで、日給3500円だったので月に70,000円くらいにはなってたので、こんなものなんだ、と思った。

現在の初任給がいくらかというと、同じような職種だと180,000円から185,000円というところらしい。

3倍にはなっていない。

アルバイトの日給が、現在どれくらいか調べてみたが、職種や地域で違うようだが、1万円前後というところらしい。

これは、かつての3,500円と比べると、3倍前後と言えるかもしれない。

 

私の記憶に残っているこの50年間の大きな変化は、中曽根内閣の行政改革小泉内閣郵政民営化、そして、労働者派遣事業の法制化である。

中曽根内閣が進めた行政改革のもっと大きな取り組みが、国鉄の民営化だった。

日本国有鉄道を12の会社に分割し、1987年(昭和62年)に民間会社にした。

同時に、日本電信電話公社日本専売公社も民営化している。

これによって、独立採算制の建前からくる赤字体質にけりをつけた。

中曽根内閣の行政改革では、他にも民間活力を活用するとして、それまで国や地方公共団体が抱えていた事業を民間に委託するようにした。

 

それから、小泉内閣郵政民営化を進めた。

 それまでの郵政三事業、つまり郵便、簡易保険、郵便貯金を2007年(平成17年)に民営化し、日本郵便、かんぽ生命、ゆうちょ銀行の三社にし、今まで払っていなかった法人税などの租税の徴収対象になった。

 

労働者派遣法は、1985年(昭和60年)に成立している。

そのなかで、労働者派遣を次のように定義している。

 自己の雇用する労働者を、当該雇用関係の下に、かつ、他人の指揮命令を受けて、当該他人のために労働に従事させることをいい、当該他人に対し当該労働者を当該他人に雇用させることを約してするものを含まないものとする。     第2条1項

 つまり、派遣事業者が雇用者なので、実際に労働するところとは雇用関係がないという曖昧な関係のなかで、働かなければならない。

しかも、特定の職種については、30日以内派遣(日雇)が可能というすごいことになっている。

 

私が、働き始めた頃は、「生涯雇用」と「年功序列賃金」がかなり当たり前だった。

「生涯雇用」は、労働者派遣が法制化されたり、雇用期間有りの労働者が増えていってあやしくなっている。

年功序列賃金」のようにそれまでの生活給的な賃金から、職務給などが導入されて、必ずしも生涯の生活を保障するものではなくなっている。

 

私が、就職した頃は、毎年春闘があり、ストライキで電車が止まった。

今は、そういうことはないし、テレビや新聞でも取り上げられない。

労使のせめぎ合いで賃金が決まってたのだろうが、今はそういう話題が表に出てこない。

 

この文章は、働くこととその報酬の関係が、この50年間にどのように変わったかを考えよう、と思って書き始めた。

書いているうちに、ずいぶんといろんなことが変わってしまったことに気がついた。

全く違う社会とまではいかなくても、かなり違う社会にはなってしまった、と言えるかもしれない。

 

 

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住宅地図という地図について

ゼンリンという会社が発行している「住宅地図」というものがある。

ある程度の規模の書店だったら、地図コーナーにその地域近辺の市の住宅地図が置いてある。

かなり高価なので、個人の趣味用に買う人はいないだろう。

私のように地図好きでも、買えるような値段ではない。。

仕事上で必要な会社が、買うものだろう。

私も、勤めていた時は仕事上必要なので職場で購入していた。

毎年、最新の内容の新版が発売されていた。

なにしろ、「一軒一軒、一戸一戸の建物名称・居住者名・番地を大縮尺の地図上に詳しく表示」しているので、業種によっては必需品である。

WEBページには、こういう文章がある。

 

「商店・飲食店の配達や各種宅配・運送業の場所確認、不動産業の物件管理、銀行・保険など金融業務の顧客管理、自治体・官公庁・公共団体の住民サービスなど、ゼンリン住宅地図は日本全国、多様な業務で広くご利用いただいています。」

 

まったく、そのとおりだと思う。

 

今は、どれくらいかなと思い調べてみた。

柏市は広いので、2分冊である。

北部版が19,800円、南部版が30,800円もする。

縮尺はA4サイズで1/2000,1/4000、B4サイズで1/1500,1/3000で、値段は同じである。

なかなかの値段だが、一戸一戸の居住者名があるとなると、情報量としてはすごいものだ。

集合住宅については、巻末にまとまって居住者の表があったと思う。

この時世なので、これからはプライバシーなどが問題になってくるかもしれない。

 

創業者の大迫正冨氏の好んだ「善隣友好」ということばから、社名がつけられたそうだ。

軍事機密になりうる地図は、平和でなければ地図は作れない、という思いが込められている。

ゼンリンという会社は、別府市で観光案内を発行していたが付録の市街地図が好評だったので、1950年に地図出版にシフトし「善隣出版社」を設立している。

 

1954年に、福岡県小倉市(現北九州市)に移転し、現在も本社は北九州市にある。

以降、住宅地図の発行エリアを順次拡大を進め、1980年には全国47都道府県で住宅地図発行を開始した.

あわせて、地図のデータベース化も着手し、デジタル化を進めた。

住宅地図を扱う会社は、全国に10社くらいはあるようだが、限られた地域で活動していて、全国展開しているのは、ゼンリンだけである。

国土地理院の調査では、日本のような「住宅地図などの民間業者による大縮尺地図は、世界的にみて例外的な存在」であるとのことである。

 

定年退職後、何かアルバイトでもやろうかなと考えた時に、ゼンリンの松戸営業所で調査員を募集しているらしいというのを知って調べてみた。

残念ながら、その時には募集していなかった。

私のように、歩くのが好きで、地図が好きな人間には、おあつらえ向きの仕事だと思ったのだが、タイミングが合わなかった。

住宅地図は、最新の情報が必要なので常に全国で、1000人くらいの調査員が活動しているそうだ。

やはり、情報というのは目で見て確認することが重要なのだと思う。

それを考えていたら、明治時代に陸軍がつくっていた「フランス式彩色地図」を思い出した。

あれは、2人組の担当者が、目で見て土地利用の状況や、集落の住居の配置を、「桑」という漢字や、□という形で住居を一戸一戸を手書きで表示していた。

いくらデジタルの時代でも、情報を確認するのは人間である、ということなのだろう。

 

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住宅地図 サンプル

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フランス式彩色地図 柏市東中新宿付近


 

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国名について調べて見た④ 出羽国の考察

 これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしている。

 

令制国の国名が、どのように命名されたのか考えている。

私の郷里である秋田県は、令制国としては「羽後国」である。

しかし、これは明治元年に「出羽国」が分割され、制定された。

出羽国」は、「羽前国」と「羽後国」に分割されたが、京から距離で前と後に分ける前例に則っている。

この時点では、飽海郡秋田郡、川辺郡、由利郡、仙北郡、雄勝郡平鹿郡、山本郡が所属していた。

明治4年廃藩置県により、羽後国秋田県、岩崎県、本荘県、亀田県、矢島県、松嶺県となる。

これは、羽後国内にあった藩を廃止し、国直轄の県としたものである。

明治5年の第一次府県統合により、飽海郡は酒田県、残部が秋田県の所属となる。

 

それをさかのぼること、1000年以上の708年(和銅5年)に、越後国出羽郡を出羽国に昇格させ、さらに陸奥国置賜郡と最上郡を出羽国に譲渡した。

当時の出羽郡は出羽柵があった庄内地方であり、現在の山形県北西部であり、酒田市鶴岡市のある日本海に面した地域である。

置賜郡は、現在の山形県南部であり、米沢市山形市がある。

また、最上郡は、現在の山形県北東部であり、新庄市がある。

出羽国が発足した当時、支配地域は山形県全域である。

秋田県は支配地域ではなく、蝦夷の住む土地だった。

その後、927年(延長5年)に完成した延喜式では、出羽国は、出羽郡、田川郡、飽海郡の3郡となっており、中世以降出羽郡は田川郡に編入され消滅している。

 

さらに遡って、出羽郡について調べてみると、708年(和銅元年)に越後国に出羽郡を設置し、出羽柵を築造している。

越後国は、7世紀後半に越国が、磐船、淳足の2郡を分割して発足した。

淳足郡には、647年(大化3年)に淳足柵を、磐船郡には、648年(大化4年)に磐船柵を築造している。

大和朝廷は、蝦夷の住む土地に柵を作り郡を設置して、支配版図を拡大していく政策をとっていた。

淳足柵(新潟市)、磐船柵(村上市)、出羽柵(庄内)、と日本海沿いに前線を進めていくのをみるとよくわかる。

733年(天平5年)には、出羽柵は秋田村高清水岡(秋田市)に移される。

 

出羽国」の出羽ということばが何からきたのだろうというのが、疑問だった。

今まで調べたことから、「出羽郡」からきていることがわかっている。

そして、出羽郡が、山形県北西部であったこともたしかである。

今は、「でわ」と読んでるがかつては「いでは」と読まれていた。

令制国の国名で、「出」という字を使っているのは、「出雲国」だけのようだ。

出雲は「いづも」と読むので、「い」は、重なっている。

出雲には、「出雲国風土記」が残っていて、国名の由来が述べられている。

 

出雲と名付けるわけは、八束水臣津野命がおっしゃったことには、「八雲立つ」とおっしゃった。

だから、「八雲立つ出雲」という。

 

読んでも、わからない。

いろんな学者の方が、出雲の語源を解明しようとしている。

アイヌ語説やら、いろいろであるが、すべて「いづも」という音から考えている。

読んでもいても、よくわからない。

 

漢字に、意味があると考えている人はいない。

でも、私が思うのはやはり漢字には意味があるのではないか、ということだ。

「いづも」についても、ただ音を表す当て字なら、

「伊豆毛」古事記)、「伊弩毛」日本書紀

のようにできたはずなのに、そうはしていない。

漢字で音を表すなら、いくらでも漢字はある。

出と雲を選んだのは、それなりの意味があると思う。

 

出羽についても、同じように考えていいのじゃないかな。

白鳥などの羽ではないか、と考えがあるようだ。

この地方にある出羽三山羽黒山には、羽黒神社ではなく、出羽神社があるそうだ。

「いでは」という音の響きと「出」と「羽」という漢字から、導き出されるものがあるような気がする。

 

 

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日の下に新しいものなし

太陽の下に、新しいものなどない。

 

というようなことばを、ずいぶん前に聞いたことがあった気がする。

人間なんて、みんな似たようなものだ。

人間が考えることなど、自分では画期的な新しい考え方だと思っても、ずっと昔に遡ればすでに誰かが考えている。

そんなことばだと、思っていた。

 

最近、誰のことばだろう、時になって調べてみた。

旧約聖書」にある言葉らしいことがわかった。

私が、思っていたのとは、全く違った意味合いのようである。

 

コヘレトの言葉

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。

日の下には新しいものはない。

 

私が考えていたような、人間が頭の中で考えてどうのというような、せせこましいことではない。

宇宙や地球の節理とでもいうようなことについて述べている。

すべてはくりかえすのだ、ということか。

人間の都合がどうかではない。

 調べていると、芥川龍之介が「侏儒のことば」という著作で同じようなことを述べていることがわかった。

侏儒の言葉」は、私が初めて買った芥川龍之介の書籍である。

旺文社文庫で、ほかの数冊と一緒に買っている。

お年玉を、思いがけずいっぱいもらったので買ったのだ。

他に、「ロビンソン・クルーソー」、「十五少年漂流記」、「坊っちゃん」あたりのだった。

芥川龍之介なら、他にもありそうなのにどうして「侏儒の言葉」だったのだろう。

侏儒の言葉」はエッセイ集で、内容も難しく、小学生が読むようなものではない。

この文章も、覚えてはいなかった。

きっと、ページ数や文章が短編からなってることで選んだのかもしれない。

旺文社文庫は今はもうないが、1965年創刊となってるので当時はまだ創刊まもない頃である。

 

太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。

しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。

天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖いえども、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕はらんでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。

宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。況いわんや我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中に吾われに向ひて光る星あり

しかし星も我我のように流転を閲けみすると云うことは――兎とに角かく退屈でないことはあるまい。

 

数行くらいを抜き出そうとしたが、何回も読み返さないと理解が難しいと思ったので、今後も読み返すために、該当の箇所をぜんぶ書き出すことにした。 

 

結局、私が考えていたようなことは、次のような中国の諺が近いと思われる。

 

この世に新しい物はない、すべては諸子百家に言い尽くされている。

 

人類にとっては、もうすでに誰かが考えたことで新しさはないかもしれない。

でも、ひとりの人間にとっては、すべては新しいものだともいえる。

過去に誰かが考えたものであっても、それに出会うことができるとは限らない。

 

 

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ロックの時代② サークル・ゲーム

ロックの時代は、フォークの時代でもあった。

フォークロックということばもあるように、その境界はなくなっていった。

ボブ・ディランが、アコースティックギターエレキギターに持ち変えたら、聴衆から大ブーイングがおこった、という事件もあった。

フォークは純粋で、ロックは商業的みたいな考え方と、ボブ・ディランは闘っていた。

歌い継がれる伝統的なフォークソングではなく、自分が歌いたいものを自分でつくって、自分で歌う人が現れる。

シンガーソングライターと言われる人たちが、どんどん出てきた。

 

英語の曲をよく聴いていたので、英語というものが身近なものになっていた。

歌詞が雑誌に載っていたりすると、歌詞を日本語に翻訳したりもしてた。

英語の曲を聴いていなかったら、英語はもっと近寄り難い別世界のものになっていたかもしれない。

その頃の日本のテレビでは、英語だけでなくフランス語やイタリア語で歌う歌手が番組に出たりしていた。

今よりも、シャンソンカンツォーネが身近だったのだ。

フランスのシャルル・アズナブールやアダモ、イタリアのジリオラ・チンクェッティやダニエル・ビダルなどが、日本でもヒット曲を出していたのだから。

考えてみると、ラテンやカントリーそしてハワイアンと、世界のさまざまな音楽が幅広く聴かれていて、存在感があった。

 

Carol King    It’s Too Late 

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キャロル・キングは、10代から作曲家として活躍していたそうだ。

ニール・セダカの「おおキャロル」は、その頃の彼女のことを歌ったものらしい。 

1970代になって、ピアノを弾きながら自作の曲を歌うパフォーマーとなった。

この曲が収録されたアルバム「つづれおり」(Tapestry)は、彼女にとって2枚目のアルバムであり、最大のヒットだった。

https://www.youtube.com/watch?v=06GRMBi4jEk


www.youtube.com

 

Phoebe Snow   Potery Man

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フィービー・スノーは、4オクターブを超えるといわれる声を持っている。

彼女の歌は、さまざまな音楽の要素をふくんでいる。

フォーク、ブルース、ジャズ、クラシックなどを感じさせ、聴いていると、別世界に連れて行ってくれる。

https://www.youtube.com/watch?v=7OxTVxGhHFM

 

 Melanie   Look What They've Done To My Song Ma

ja.wikipedia.org

ギターを持ってしゃがれ声で歌う彼女は、この当時日本でもっとも人気のあった女性歌手のひとりだったと思う。

「レイダウン」、「心の扉を開けよう」(Brand New Day)などヒット曲も多かった。

この曲は、日本では「傷ついた小鳥」というタイトルで発売された。

歌詞の内容をよく知ってなかったのだが、今回歌詞を見たら自分が作った曲を変えてしまうレコード会社に対する不満を歌った曲だった。

小鳥は、自分が作った曲のことだった。

Melanie Safka - Look What They've Done To My Song Ma - YouTube

 

Laura Nyro  Eli‘s Coming 

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ローラ・ニーロは、3オクターブの音域を持ち、ポップ、ブルース、ロックなどを混合した力強く情感的なヴォーカルスタイルのシンガーだった。

彼女は、多くのアーチストに曲を提供して、たくさんのヒット曲を生み出している。

フィフス・デメンション、ピーター、ポール&マリー、スリー・ドッグ・ナイトなどが、あげられる。

この曲は、スリー・ドッグ・ナイトがとり上げている。

https://www.youtube.com/watch?v=iX5AanHQS1g

 

Buffy Saint-Marie    Tne Circle Game

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バフィー・セントメリーは、カナダ生まれの北米先住民ミックマック族の家系のシンガーソングライターである。

日本では、映画「いちご白書」の挿入歌「サークル・ゲーム」を歌っていたので、名前も知られていた。

曲はジョニ・ミッチェルの作詞作曲だった。

映画は、大学紛争を扱ったもので、1970年に公開された。

 

We can’t return
We can only look behind from where we came
And go round and round and round
In the circle game

 

Buffy Sainte Marie-Circle Game - YouTube

 

これらの曲に、私は高校生の時に出会った。

フィービー・スノーは、大学生になってからだったかも知れない。

 

 

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九十九里浜へ行ってきた

久しぶりに、九十九里浜に行ってきた。

孫娘を預かる日だったので、我が家の4人と孫娘とで出かけた。

柏から九十九里浜の中央あたりの本須賀海岸まで、70km以上あり、2時間はかかる。

我が家の息子たちが小さい頃、九十九里浜はホームタウンといってもよかった。

妻の実家が、十数年間山武郡山武町というところに転居していた。

月に、2回ほどは通っていたと思う。

山武町は、成東町の隣であり、九十九里浜まで30分ちょっとで行くことができた。

山武町の実家をベースにして、九十九里を中心に銚子方面や安房方面に出かけていた。

 

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九十九里浜を初めて見た時の感動は、忘れることができない。

九十九里浜は、それまでに見た海岸の砂浜とは、全く違っていた。

こんな、すごい、すばらしい砂浜があるんだ、と思った。

何がすごいかと言ったら、砂浜の広さとなだらかさである。

遠浅で、勾配の小さな砂浜が波打ち際から堤防まで100m以上はある。

波で濡れた砂は、なめらかでほんとにきれいである。

走っても足が砂に沈むことはない。

それが、南北66kmにわたって続いているのである。

九十九里ではなく、十七里くらいだ。

北は、屏風浦の南端の刑部岬、南は太東岬であり、霞んでいるが見ることができる。

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北方の刑部岬方向を望む

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南方の太東岬方向を望む

今回は、蓮沼海浜公園という千葉県の施設で、展望台に登ったあと、公園遊具で遊んだ。

展望台は、ビル6階分くらいの高さで、すべて階段でエレベーターはなかった。

津波シェルターを兼ねているので、そういう仕様になっているのだろう。

孫娘は、元気に階段を登っていた。

下りは、階段を数えながら降りていた。

ぜんぶで、136段だそうである。

かなり、上り甲斐、下り甲斐があった。

 

海岸に出ようとしたら、海岸への車道は海水浴場設置期間外ということで閉鎖されていた。

徒歩で行ったが、津波対策と思われる5、6メートルの堤防が作られていた。

南浜海水浴場の近くの砂浜だった。

九十九里浜は、5市4町1村あるらしいので、それぞれの市町村に何十という海水浴場がある。

かつて、実家が山武町にあった頃来ていたのはそこよりも南方の本須賀海岸にある白幡海水浴場だった。

孫娘は、久しぶりの海で波の音におびえていた。

去年も、海には来たはずなのに、こわがっておんぶしていた。

帰る頃には、慣れてきて裸足で駆けまわっていた。

むかし、よく貝殻やシーガラスを拾ってたのを思い出して、探してたらハマグリの貝殻がいっぱいあった。

こんなに、ハマグリの貝殻は見たことがない。

つがいのままなのが、あっちにもこっちにも転がっている。

異常発生でもしたのだろうか。

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その辺りは、ちょうど九十九里浜の真ん中あたりなのだが、成田空港への航空機の進入経路にあたるらしく定期的に航空機が頭上を通って行く。

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航空機が成田空港へ向かう

帰ろうとして、車でちょっと走ったら、「海抜1.7m」という看板があった。

確かに、海から離れても同じように低い土地がずっと続いている。

走っても走っても、平地である。

やっと、鉄道や国道の通ってるところまで、10kmくらいある。

きっと、鉄道や国道を作る時に、ある程度の標高の場所を探したら、あんなに海岸から遠くなってしまったのだろう。

帰ってきてから調べたら、それでも標高10mもない。

堤防は、5、6メートルだったけど、あれを超える津波が来たらどうなるのだろう。

巨大津波だったら、簡単に堤防は越えるだろうけど、あんなに平地が続くのだから、そのあとはどうなるのだろう。

津波自体の容量というのか、ボリュームというのか、それ次第ということになるのだろうか。

ちょっと想像できない。

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海面が9m上昇するとこうなるらしい

もちろん、津波と海面上昇は全く違うものである。

 

 

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問題をすりかえること

ネットの掲示板のような、いろいろの人たちが一つのテーマについて語るようなサイトを見ていると、あれっと、違和感を感じることがある。

書き込みというか、発言の内容が一つの流れができているようになると、必ず一人、二人とその流れを変えようとする発言が出てくる。

テーマとは全く関係のない内容の発言である。

ネットの世界だけではなく、テレビなどの討論会のような場面でも、討議の対象から外れたところへ話を持っていこうとする人は現れる。

 

現在は、ディベートというものがあって、学校でもやってるらしい。

我々の世代は、そんなものはまったくなかった。

時代は、学生運動やらなんやらで騒々しかったのに、討論とか討議について学ぶということを、ちゃんとやってなかった。

どうして、私たちは討論や議論などの技術を身につけることなく、ここまで来てしまったのだろうか。

ディベートという言葉を知ったのも、ずいぶん後になってからだ。

 

西洋における技術の一つとして定着継承されていた古代ギリシャ古代ローマ以来の議論・討議の技術は、日本では教育の中に位置付けられなかったということだろうか。

ディベートは、公的な主題について、異なる立場に分かれて議論することをいうのだそうだ。

公的な主題について、当事者間の意見対立を前提としない、単なる意見交換はディスカッションである。

単なる議論ならば、主題の特定は必要ではなく、公的である必要もなく、意見の対立を前提とすることもない。

 

ディベートには、教育活動としての教育ディベートがあるという。

教育ディベートでは次のような制約があるのだそうだ。

三者によって勝敗を決定する。

参加者の意思に無関係に役割(肯定側否定側など)を分担する。

議論において守るべきルールを設定する。

「勝敗を決定する」で、びびってしまった。

三者が、勝敗を決定するって、できることだろうか。

ちょっと、近寄りたくなくなった。

そういう経験をしてなくてよかったかもしれない。

 

もともと、「問題をすりかえる」ということが気になって書き始めてたので、検索してみた。

そしたら、「論点のすり替え」というウィキペディアの項目が出てきた。

読んでいて、なるほどと思った。

それ自体は妥当な論証だが、本来の問題への答えになっていない論証を指す。

つまり、間違ったことは言ってないが、今話し合っている問題の解決の役には立たない、ということだろうか。

 関連した項目として、こんなものも出てきた。

「そっちこそどうなんだ主義」(Whataboutism)というもので、相手の論点に直接反論せず、相手の言動が主張と矛盾していると指摘して、相手の論点の信用をなくそうとするもの、ということだ。

日本語では、「お前だって論法」とか「そっちこそどうなんだ論法」というのだそうだ。

笑ってしまうが、いろんなところで目にするような、耳にするようなやり方である。 

 

こういうことを、お互いに、もう少し勉強していれば、会議や話し合いをもっと効率よく進めることができたのかな、という気もする。

 

 

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旅をする人たち

旅や旅行というのは、見物・保養・調査などの目的のために、居所を離れてよそのよその土地へ行くこと、だそうだ。

辞書によっては、「ひととき」とか「一時的に」という言葉が入っているものもある。

 つまり、一定の居所があることが前提で、そこを離れてよそに出かけてまた居所にもどってくることが、旅や旅行であるといえる。

それでは、定まった居所がなく、またはそこへ戻ってくるつもりもないような場合は、なんというのはだろうか。

 

元禄2年(1689年)、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅に出る。

西行や能因らの歌枕や名所旧跡をたどり、下野、陸奥、出羽、越後、加賀、越前など彼にとって未知の国を巡った。

全行程約600里(2400km)、日数約150日の大旅行である。

すでに、芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で、東海道を西に向かい、伊賀、大和、吉野、山代、美濃、尾張、甲斐をまわり、さらに木曽、甲斐を経て江戸に戻っている。

伊勢神宮参拝や、明石、吉野への旅は「笈の小文」としてまとめられ、江戸への復路は「更科紀行」となった。

奥の細道」は、その延長上にあるといえる。

旅には、門人の河合曾良を同行させており、江戸へ戻ることを前提としており、それまでの旅と同様に、紀行文を著作するための旅であった。

 

天明3年(1783年)、菅江真澄は故郷三河を離れている。

この時点で、この旅がどの程度の期間になると、考えていたのだろうか。

信濃  1783年5月〜1784年7月   1年3月

越後  1784年7月〜9月       3月    

庄内  1784年9月         1月    

秋田  1784年9月〜1785年8月     11月

津軽  1785年8月〜10月      3月

陸奥  1785年10月〜1788年6月  2年9月

津軽  1788年6月〜7月        2月

蝦夷地 1788年7月〜1792年10月 4年4月

下北      1792年10月〜1795年3月 2年6月

津軽  1795年3月〜1801年11月 6年5月

秋田    1801年11月〜1829年7月 27年9月

それぞれの、土地での滞在期間を概算してみた。

こうしてみると、長く滞在してるのは、信濃の1年2月、陸奥2年10月、蝦夷地4年3月、下北2年5月、津軽(3回目)6年8月である。

40代後半に秋田に再度来て定住し、合計28年10月となる。

真澄は、それぞれの土地で知人宅に寄留し、自分だけのための住居を確保しようとした形跡はない。

長期的な計画を持っていたようには思えず、その時その時の事情で、住む場所や移動先を考えていたように思われる。

 一定の住居や生業がなく、諸方をさまよい歩くことを、「漂泊」という。(精選版日本国語大辞典)

帰るべき住処のあった芭蕉は旅人であり、いつも仮の宿にあった真澄は漂泊の人と、言うべきであろうか。

 

住居があるが、それがなかなか定まらず、住居が転々とすることは何と言うのだろうか。

私は、住居が転々としていた時期がある。

高校生くらいから、就職後現在の住居に移るまでの、十数年間である。

今までの、住所を数えてみたら、10箇所もあった。

思ったより多くて、自分でも驚いてしまった。

順番に、数えてみた。

1  秋田 生まれ育った村   15年

2  秋田 大館市の親戚宅に下宿   3月

3  秋田 大館市街       3年弱

4  横浜 港北区日吉      1年

5  横浜 港北区綱島      3年

6  千葉 我孫子市       1年半

7  千葉 柏市         1年半

8  千葉 松戸市東平賀     5年

9  千葉 松戸市牧の原     2年半

10 千葉 柏市        36年

あらためて見てみると、自分のことながら、なんだかふらふらしてたんだなと思う。

 

就職の時点では、秋田へのJターンも考えて受験していたので、結果次第ではどうなっていたかわからない。

合格して、秋田に帰っていたらその後は、大きく違っていたはずである。

そんなに、先のことを深く考えていたわけではない。

その都度その都度、できることをやっていたら、結果的にこうなってしまっただけである。

人間のやることは、だいたいこんなものなんだろう。

 

 

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わかこゝろ⑦ 菅江真澄テキスト

  いくとせかこゝろにかけて姨捨のやまにこよひぞ見つる月かげ     僧洞 月
 
  あくがれてをばすて山にみる月のくまなきかげやよもにめづらん     永 通
 
  名にたかき姨捨山にこよひみん月のむしろにまどゐあかして       啓 基
 
  をば捨の山のまどゐに見る月のさやけきそらにかたるいにしへ      富 女
 
  うちむかふこゝろのくまもなかりけりをばすて山の月のひかりに     義 親  
 
  こよひ見るをばすて山にてる月のふけゆくまゝにしのぶいにしへ     直 堅
 
  くまなさよなぐさめかねしむかしさへ月にぞしるき姨捨のやま      秀 雄
 
  いとゞ猶あらしの音も身にしみて姨すてやまに月ぞすみぬる      僧藍 水
 
  余所よりも月のながめのいや高きこよひ名だたるをばすての山      備 勝
 
  いく秋も光かはらでをばすての山にさやけき月やながめん        勝 女
 
  影清く光を見てしをばすてのやまのはいづるあきの夜の月        当 特
 
  名に高き姨捨山の秋の月さやけき影は世にたぐひなき          静 有
 
  さやけさはたぐひあらじな名にたかき姨捨山の秋のよの月        景 富
 
       月 出 山
  あらはれてみねのいくへのやまかつらあかつきかけて出る月かげ     秀 雄
 
  うき雲はよそに尽してふく風のきよき高根をいづる月かげ        直 堅
 
  うちむかふ更級やまの高ねよりくまなくいづる夜半の月かげ       永 通
 
  おほ空の星の光もいろきえてやゝさしいづる山のはの月         洞 月
 
  庭の面にふりしく雪と見るほどに山のは晴ていづる月かげ        藍 水
 
  待つけて山のはいづる月かげにすそ野のすゝきつゆごとにみゆ      備 勝
 
  いくゆふべこよひの空をまちつけて山のはいづる月のくまなさ      義 親
 
  名にたがき姨捨山をいづるより空すみはるゝあきのよの月        静 有
 
  かげばかりほのめく空にいろ見せてやゝしのぼるやまのはの月      当 特
 
  山たかみ木末をはらふ夕風にさそはれいづる月のさやけさ        景 富
 
       山 月 明
  さしのぼる空にさやけき月かげの光にしるし遠のやま/\        永 通
 
  夜とともにまつかひありてやまのはの月ぞさやかにすみのぼりぬる    洞 月
 
  ながめやる遠山烏のをのへよりみねもふもとも月にさやけき       秀 雄
 
  てりのぼるこよひの月の影すみて光も清きさらしなのやま        直 堅
 
  村雨のはれ行あとの雲間よりもれてさやけきやまのはの月        藍 水
 
  月もやゝ山のは出てめに近きちくまのながれ光てりそふ         備 勝
 
  幾秋をふる露霜にさらしなやさやかに木々もみねの月かげ        義 親
 
  名にたかき姨捨山にてる月はわきてさやけきあきの夜の月        景 富
 
  秋風に空吹はれてやまのはをさやかに見せていづる月かげ        静 有
 
       月 前 風
  秋風にみねのうき雲ふきはれて空すみのぼる月のさやけさ        景 富
 
  久堅の空ふきはらふあき風に光さやけき月をこそ見れ          当 特
 
  ひさかたの空はかはらぬ風ふきていとゞてりそふ秋のよの月       静 有
 
  やま風にそら行雲のかげきえてさやかに更るあきのよの月        直 堅
 
  うしやこよひ月にふりくる時雨かとまがふいほりの軒のまつ風      洞 月
 
  いでぬまも声あらはれて月影にかぜのやどりのまつをこそ見れ      秀 雄
 
  吹風にむら雲だにもかげ消えていとゞさやけきあきのよの月       永 通
 
  萩が枝のした葉の露も月澄て玉吹こぼす野辺の秋風           藍 水
 
  更級のみねの秋風吹はれていでぬる月の光さやけき           備 勝
 
  吹はらふ風のたよりを松が枝の葉ずゑをもるゝ月のさやけさ       義 親
 
       月 前 恋
  またじとはおもひ捨てもまたれぬる月にこととふならひある世は     永 通
 
  うき人もこよひの月にあくがれてしたふこゝろは空にへだてじ      直 堅
 
  人くやと契らぬ宵もねやの戸の月のながめのこゝろまよひに       秀 雄
 
  更級や姨捨山の月見ても猶したはるゝ人のをもかげ           洞 月
 
  うかりける人をまちわびうちむかふ月もなかばの空をすぎぬる      藍 水
 
  姨捨の月のこよひぞあはれけふ猶恋しきはふるさとのそら        備 勝
 
  契ても此夕ぐれはいかゞせんさやけきつきにうしろめたさは       義 親
 
  まちわびし夜半こそふくれいましばしさやけき月になぐさみぬとも    当 特
 
  こぬ人をまつもかひなきこよひかなそらにふけ行月もうらめし      静 有
 
  まちわびし袖のなみだの露ながらうつるもつらし夜半の月かげ      景 富
 
       寄 月 祝
  幾世々を姨捨山にてるかげは猶ひさかたの月ぞえならぬ         洞 月
 
  いくちよの秋もつきせじたのしみもなかばにあらぬもち月のかげ     秀 雄
 
  言の葉にむすべる露の玉鉾の道あきらけきみよの月かげ         直 堅
 
  神世よりかはらぬ空の月かげは猶行すゑのかぎりしられぬ        永 通
 
  くもりなき秋の最中の月かげやよろづ代うつすかゞみなるらん      藍 水
 
  いくとせもかぎりしられじ姨捨のやまの名てらす秋のよの月       備 勝
 
  くもりなき御世のためしぞ久かたのそらにかゝれる月のひかりは     義 親
 
  かしこしなくもりなき世はいとゞ猶月にちとせの秋ぞまたるゝ      静 有
 
  あふげたゞかしこきみよのあきらけき月のめぐみの空につきせじ     当 特
 
  がぎりなくてらすこよひの月かげはくもらぬ御世のしるしなるらし    景 富
 
 

 

果物は丸ごと食べたい

住宅の庭にある樹木の枝が、道路まで飛び出ているのをよく見る。

枝には果実をいっぱいつけているものもある。

道路まで飛び出した枝から、熟した果実が道路に落ちていたりする。

排気ガスを浴びて育った果物を、収穫して食べようとは思わないのだろうな。

柿とか柑橘系が、多いような気がする。

私は、農村いや農山村かな、そんなところで育ったので農家の近くにある果実とか野山の果実を食べて育った。

だから、樹木に果実がついいたままだと、気になってしょうがない。

 

最近、キンカンの実がついてる木を見かけた。

こんな木を一本欲しいな、と思う。

集合住宅で庭もないし、ベランダには無理だけど。

キンカンは、皮ごと食べられるのが魅力である。

私は、果物は皮ごと食べたい人なのだ。

リンゴでも、ナシでも、カキはもちろん皮ごと食べたい。

家族は嫌がるので、普段は遠慮している。

皮と実の間に、うまさがあると思っている。

テレビで、国産のバナナで皮ごと食べられるものがあると言ってた。

 

でも、店で売ってる果物はどういう育て方をしているかわからない。

農薬もいっぱい使ってるだろうし、ポストハーベストというのもある。

やたらと、口に入れるべきではないのはわかっている。

 

キンカンくらいなら、ベランダの鉢で育てられるかなと考えたりする。

ホームセンターへ行ったら、のぞいてみようかな。

我が家は、3階建ての集合住宅の2階である。

転居の時、1階の選択もできたが、庭付きは手入れが面倒そうでやめた。

確かに、我が家の下の1階の庭の樹木は、毎年どんどんのびるのでベランダを越えそうで、手入れがたいへんそうである。

やっぱりそういうことが好きな人でないと、狭い庭でも持て余してしまうかもしれない。

 

このブログを書き始めた頃、「野生の果実」という記事を書いた。

そこで、私が好きだった野生の果実を五つあげた。

ぐみ、アケビ、くわ、スグリ、梅。

ぐみは、日本では10種類以上あるそうだが、店先に並ぶことはないので、ぐみの木が身近にあった人しか知らないだろう。

 

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お菓子のグミは、ガムから来てるらしいので全く別物である。

英語名は、silberberryというそうだ。

赤色の実なのにどうしてだろうと考えてみた。

実の全体に小さい白っぽい点々がいっぱいある。

それが銀色に見えないこともない、そういうことかな。

ユーラシアから東南アジアに分布ということなので、このへんでも育ちそうだ。

 関東には自生しないとあるけど、ほんとに見かけない。

 

クワ(桑)は、光ヶ丘団地を建て替える前は、団地の中で見かけた。

クワの葉は、カイコのエサなのだから関東あたりにはいっぱいあってよさそうだが、ほとんど見かけない。

やっぱり、養蚕をやってたような地方に行かないとないのかな。

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 アケビは、蔓性なので育て方が難しそうだ。

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 梅はいくらでも売ってるし、スグリが育てやすそうかな。

スグリは、種類が3種類あるらしいが、私が食べてたのは、セイヨウスグリかな。

他に、フサスグリとクロスグリというのがあるのか。

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いづれにしても、自分で育てれば心配はない。

鉢で育てられれば、なんとかなるだろう。

挑戦してみようかな。

 

 

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ロックの時代① 孤独の影

ウッドストック・フェスティバルというのが、私が高校生だった頃に、アメリカで開催されて映画にもなった。

のちに、世界中で開かれるようになるロックフェスティバルの先駆けだったと思う。

その頃、私のお気に入りのバンドだったクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルというバンドもこのフェスティバルに参加していた。

でも、映画では登場しなかった。

ずいぶん後になって、このフェスティバルの完全版というDVDが出たので、レンタルで借りて見たが、やっぱり収録されてなかった。

ところが数日前、このフェスティバルでの彼らのライブの動画を、YouTubeで見つけた。

やっぱり、YouTubeは宝の山かもしれない。

私には、このYouTubeというものの仕組みがよくわからない。

著作権の問題は、どうやってクリアしているのだろう。

まあ、リンクを貼るくらいは大丈夫だと思うので、自分のための覚書として、整理しようと思う。

ついでに、その頃聞いていた曲を探してみると、ほとんど出てきた。

音楽だけより、映像があった方が面白いのでライブ映像を探した。

 

Creedence Clearwater Revival      Born on the Bayou

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ウッドストックで彼らは、11曲演奏したらしいが、5曲ほど見つかった。

このステージで、最初にこの曲を演奏している。

この曲は彼らの2枚目のアルバム「Bayou Country」(1969年)に収録されていた。

彼ららしい、カントリーとブルースのテイストのある曲調で、私の大好きな曲の一つだった。

Creedence Clearwater Revival - Born on the Bayou WOODSTOCK 1969 - YouTube

 

Joe South   Games People play  (孤独の影)

ja.wikipedia.org

この曲も、1969年に発売され、日本では「孤独の影」となっていた。

さまざまなアーティストがカバーしていて、ベンチャーズも演奏している。

彼は、ソングライターであり、ギタリストとして優秀なスタジオミュージシャンでもあったらしい。

印象的なギターの音色から始まる曲は、魅力的だった。

https://www.youtube.com/watch?v=5znh58WITU8

 

Tony Joe White    Polk Salad Annie

en.wikipedia.org

1968年に発表され、翌年にヒットした。

さらに、その頃カムバックして絶好調だったエルビス・プレスリーがレパートリーに入れたことのより、誰でも知ってる曲になった。

男っぽい声と、ギターは、渋くてかっこよかった。

https://www.youtube.com/watch?v=MCSsVvlj6YA

https://www.youtube.com/watch?v=JyXHxh3Sye0

 

高校生の頃が、もっとも一生懸命に音楽を聴いていたと思う。

音楽雑誌とラジカセを頼りに、音楽を聴き、カセットに録音をしていた。

自分の音楽感性が繊細だっただけではなく、1960年代から1970年代にかけては、すばらしいアーティストや曲がたくさんあって、今から見ても、今聞いても色褪せない。

今回書いた3組に、私は1969年高校1年の時に出会っている。

「ロックの時代」と大げさなタイトルをつけてみた。

それまで「ロックンロール」といわれていたのが、単に「ロック」といわれるようになった。

音楽については、これまでにたくさん文章を書いている。

音楽は、やっぱり文章だけでは伝わらないと思うのでリンクを貼ってみた。

 

 

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頭髪と制服について考える

この数年、高校野球の世界では坊主頭でないチームが話題になっているらしい。

最近は、ほとんど野球を見ないので知らなかった。

最近になって知ったのだが、私の郷里の秋田代表のチームも坊主頭のチームではなかったようだ。

でも、監督が頭髪自由を提案したら、髪を伸ばすのは恥ずかしいという声があったそうだ。

まわりがみんな坊主頭だから、髪伸ばすのが恥ずかしいって、かなり重症だよなあ。

令和の時代になっても、坊主頭ではないチームは少数派なんだな。

 

私が、秋田の山奥の中学校の野球部の一員だったのは、50年以上むかしのことである。

野球部は、他の部もそうだが頭髪自由だった。

制服もあったけれど、標準服というのかな、普段は自由だった気がする。

ずいぶんむかしなので、記憶が曖昧だ。

入学式、卒業式、それに記念撮影の時は着ていた。

小学校と中学校は、違ってたかな。

高校も頭髪自由だったが、野球部は坊主頭だったと思う。

頭髪自由だけど坊主頭を選択していたのか、坊主頭強制だったのかはわからない。

私は、新聞部だったので、関係なかった。

そういえば、高校は制服があったので、生徒会で制服廃止の討議してた。

何回も、全校集会をやって、全校投票の結果制服廃止が僅差で否決されたんだった。

制服自由の理想派より、服装自由になったら面倒だという現実派のほうが、ちょっと多かった、ということだったのだろうか。

その頃、制服を廃止した高校が全国にかなりあるらしい。

私が今住んでる市にもその頃制服廃止した県立高がある。

妻と話してたら、妻の通ってた都立高は服装自由だったらしい。

まあ、半世紀前の話だけど。

そんなわけで、私は、中高大と坊主頭にしなければならない、ということはなかった。

 

就職して千葉県にやってきた。

私の住むことになったのは、千葉県北西部の東葛飾という地域である。

その頃、この地域では中学校の男子は坊主頭だった。

私にとっては、かなり衝撃的だった。

昭和51年(1976年)である。

今どき、坊主頭なんだ、という感じだった。

小学校では坊っちゃん刈りだった男の子たちが、坊主頭にされていた。

もっとも、我が家の息子たちが、中学校へ入学する頃には頭髪自由になっていた。

 

坊主頭強制は変だと思うが、坊主頭禁止もおかしいと思う。

頭髪自由で、自分で選べるのがいいんじゃないかな。

今は、坊主頭強制は、表向きないだろう。

でも、一応頭髪自由だけど、坊主頭にせざるを得ない、というのがいちばんおかしい。

たぶん、今はそういう状況なんじゃないのかな。

たぶん高校のいろいろある運動部で、坊主頭のパーセントが高い上位に野球部は入るだろう。

私は、野球部に4年間在籍して、野球に愛着を感じながらも、なにか野球について古い体質を感じてしまい、遠ざかっている。

それは、プロ野球についても同様である。

 

プレジデント・オンラインというネットの記事で、慶應義塾高校野球部監督の森林さんという方が、このことについて話していた。

高校野球は坊主頭」という固定観念を変えられなければ日本の未来はない、と題する記事だった。

そのなかで、最近甲子園に出場している次の三校は坊主頭でない、と校名をあげている。

旭川大、秋田中央、花巻東

この三校が、北日本の高校であるのは単なる偶然ではないように思える。

 

 

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セピア色の風景

数年前に、母が亡くなった。

父は、もう30年くらい前に亡くなっている。

アルバムのようなものを作ろうとして、二人の写真を整理してきた。

ほとんどは、スキャンしてデータ化した。

ところが、二人の若い頃の写真がほとんど残っていない。

たしか、黒い台紙のアルバムがあったはずなのだが。

昔は、何かの記念とか行事の際に、写真館で撮影してもらっていたのだろう。

父や母の写真も、学校の卒業とかに撮ったものとか、そうゆうものだったと思う。

だから、枚数はそんな多くはなかった。

今のように、手軽にスナップはとれなかった。

 

その黒い台紙のアルバムが、見つからない。

たぶん、引っ越しの際になくしてしまったのだと思う。

考えられるのは、郷里の村から大館の街に移った時、そして大館から横浜に移った時のどちらかである。

ないものはしょうがないので、あるもので作ろうと思う。

今は、アルバムの元になる写真さえあれば、手軽に製本したアルバムが作れる。

孫娘のスナップを元にしたアルバムや、友人との旅行のアルバムは作ったことがある。

写真屋さんでも扱ってるみたいだけど、私はネットでやった。

印画紙や製本のグレードを選ぶことができるので、友人に配るくらいの手軽なものから、保存用のしっかりしたものまで、目的にあわせてつくれる。

いつまで作ろうと決めてなかったので、先延ばしになっていた。

そろそろ、とりかかろうと思う。

 

白黒写真から、カラー写真に変わっていったのは私の記憶では高校生くらいである。

ということは、1970年頃ということになる。

白黒写真の色があせたのをセピア色と言ってたが、現像の際の水洗いが十分じゃないとなるようにいわれてたけどほんとだろうか。

そういえば、カラー写真も初期の頃は何年もしないうちに色あせてたような気がする。

知らなかったけれど、「セピア」はイカ墨のことだそうだ。

イカ墨は耐水性があるので、インクや染料として使われていて、その色をセピアと言ってたらしい。

 

 

 私が、初めてカメラを買ったのは、学生になってアルバイトをして旅行に行くことになったからだった。

オリンパスペンという入門用の、シンプルなやつだった。

その頃のカメラは、フィルムは35ミリの普通のものを使うが、ハーフサイズに対応というのが多かった。

24枚どりのフィルムで48枚も撮れるので、旅行から帰ってもまだ余っていた。

写真というものがかなり贅沢なものなので、自分でフィルムを現像して、印画紙に焼き付けもやる人が多かったらしい。

母親の兄さんもそういうことをやってたらしいし、小学校の担任の先生は遠足などがあると自分で現像焼き付けして、クラスのみんなにただで配っていた。

そのかわり、写真のサイズは小さかった。

年の離れた伯父さんが、カメラや8ミリを持っていて、札幌から帰ると写真を撮ってくれたのでスナップ写真が少しは残っている。

 

今は、フィルムは不要なので、いくらでも写真を撮ることができる。

消そうと思えば消せるが、そのままで保存していることが多い。

だから、膨大な量の写真のデータがハードディスクに保存されている。

ほとんど、プリントしていない。

突然、ハードディスクが壊れたら悲しいことになる。

当然、バックアップをとっておくべきだと思うが、なかなかマメにできるものではない。

プロの人たちは、それを当たり前のように、毎日やってる

どうすれば、毎日それができるか。

システム化しなければ、ならないのだな。

 

 

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