晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

バンドメイド そして ビートルズのルーフトップ・コンサート

YouTubeを見ていたら、バンドメイドが新しいMVを発表したらしく、いろいろなリアクションビデオがアップされていた。

いつ、公開されたのかなと日付けを見たら、今日(1月13日)の日付けである。

そんなに、注目されているのか、と思った。

もしかすると、少し流れが変わってきてるのかもしれない。

ビデオを見ると、内容的にはworld仕様になっている。前回の、"Different"や"Dragon Cries"もそうだった。プロデューサーが変わったのだろうか。

よくこんな、凄くて面白いメンバーが5人集まったものである。

今までのバンドメイドが海外でやったライブの映像を見ると、どれもかなり小さな会場でやっている。クラブというのかな。

でも、今回のバンドメイドの新しいMVに対する反応はほんとに度を越えているような気がするので、もしかするとバンドメイドは化けてしまうのだろうか。

 

このリアクションビデオを何本か見ていたら、Beatlesの"Rooftop Concert Footage"というのが、出てきた。

時間が、22分となっていて、どうも映画「レット・イット・ビー」の最後のほうで使われたビルの屋上でのライブらしいので見てしまった。

ライブは、アップルレコードのビルの屋上で行っている。

もともと、映画制作のプランがあって、レコーディングを兼ねて行なわれたらしい。

ライブは、"Get Back"から始まっている。

そして、"Don't Let Me Down"

"I've  Gotta Feeling"

"One after  909"

"Dig A Poy" 

ビートルズが演奏している映像は、ほとんど見たことがない。

武道館での来日公演を、見たことはある。

この映像を見て驚いた。"Get Back"で、ジョン・レノンリードギターを弾いていた。

本来のリードギタージョージ・ハリスンは、たんたんとリズムを刻んでいた。

ジョージが連れてきたビリー・プレストンがキーボードを弾いていた。

ジョン・レノンがリードを弾くとは思わなかったので予想外だった。

この頃の、ビートルズはバラバラ状態で、ジョージが脱退宣言したりして解散寸前だったらしいので、そうなったのかもしれない。

ビルの屋上から突然聞こえたきたビートルズの曲に対する、ロンドンの人たちの反応がおもしろい。1月なので、みんなコートやジャンパーなどを着込んで地味な印象だ。

ビルの窓や屋上から音楽を聞く人たちもいる。

今から半世紀前の映像である。みんな俺より年上だな、と考えたりする。

このライブが行われたのは、1969年1月だったが、映画が公開されたのは翌年1970年の5月である。

 

1969年1月には、中学3年で、受験生で、東大の安田講堂の攻防をテレビで見ていた。

1969年9月に、"Abbey Road"が発売されて、私は高校1年だった。

このアルバムには、"Come Together"や"Something"が収録されている。

翌年1970年5月にビートルズにとって最後のオリジナルアルバム"Let It Be"が発売された。

屋上ライブでレコーディングされたものの他に、"Let It Be","The Long And WindingRoad"などが収録された。

同時に、映画"Let It Be"も公開された。

日本では、1970年8月に公開されたので、音楽少年であり、毎月映画館に通う映画少年でもあった私は、街にある3館あるうちの洋画専門館で見た。

大館という地方都市で映画館が3館あった。もしかすると、もっとあったかもしれない。私の知ってるのは、街の中心部だけである。

私の生まれたもっと小さな街には、映画館が二つあったのだから、大館にもっとあってもおかしくない。

 ビートルズの最後に発売されたアルバムは、"Let It Be"であるが、その前に発売された"Abbey Road"よりも前にレコーディングされている。

だから、正確にはビートルズの最後のアルバムは、"Abbey Road"である、ということになる。

 

久しぶりに、ビートルズを聴いたのだが、ジョンとポールのボーカルのハモりは面白いなと思った。

解散した頃、ジョージが27歳、ポールが28歳、リンゴとジョンが30歳になるかどうかだった。

ジョージは、エリッククラプトンと一緒に来日したことがあって、その公演を見に行ったことがある。

こうして考えると、自分のなかにこの4人はずっといるような気がする。

お気に入りはジョンだったが、ポールのクラシカルなところや、ジョージのナイーヴな感覚、リンゴの他にはないカントリーテイスト。その4人がつくり出すもの。

他のミュージシャンとは、ちょっと違ってる。

もう一度くらい、4人がそろって演奏するのを聞きたかったな。

 

 

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ひとり旅

旅をするようになった頃、友人を持たなかった私はひとり旅をしていた。

夏の長期のアルバイトの後に、4、5日か1週間くらいの旅行をしていた。

初めての旅行は、能登半島だった。なぜ能登半島だったのか、思い出せない。

たぶん、たいした理由はないだろう。

ただ、旅行したかっただけだと思う。

次の年は、北海道に行った。

夜行列車で青森へ行って、そこから青函連絡船で函館へ、そこで観光バスに乗った。

その日は、大沼公園ユースホステルに泊まった。

翌日は、年がずいいぶん離れたいとこが札幌にいて、泊めてもらった。

 

翌年は、少し旅行にも慣れてきたので長期で行くことにした。

広島と長崎の原爆資料館に行くことを目的にした。

学生たるものは見ておくべきだと、考えたのだと思う。

確かに、行って良かったと思った。

広島のユースホステルは、広島市街から離れた山の上にあって、夜になったら広島市民球場の歓声が響いてきたのを覚えている。

そのあと、福岡、佐賀とユースホステルに泊まり、伊万里焼の窯元を見学した。

コースはよく覚えてないが、平戸にも行ってる。

そして、長崎の原爆資料館を見た。そして、キリシタンの殉教に関する何かを見たと思う。

 

今になって、考えてみるととんでもなく、無謀な計画を立てている。

次に、阿蘇山ユースに泊まって、阿蘇山に登った。

ロープウェイで火口付近までは行けたが、噴煙が激しく火口めぐりはできなかった。

翌日は、鹿児島から連絡船で桜島に渡って、桜島ユースに泊まった。

桜島は、とんでもない所だと思った。

ユースホステルのまわりは、巨大な岩がゴロゴロしていて、噴火に対する避難用シェルターがいくつかあった。

そして、次はやはり海辺にある日南海岸ユースだった。

どんなところだったかなと思ってネット検索したら、猪崎鼻という眺めのいい岬にあったようだ。1999年に閉鎖されたらしい。

県営だったのを、 日南市に譲渡し改装し再生したがうまくいかず、今は民間の飲食店になっているようだ。

九州最後の宿泊は、大分県の日田のユースホステルを予約していたのだが、さすがに強行日程の疲れが出て、日田はキャンセルして帰途に着いた。

 

帰途といっても、そのあと郷里の秋田へ行って、田代岳に登る計画があった。

夜行列車に乗って、翌朝京都に着いた。

私は、高校時代、京都奈良への修学旅行は訳あって参加していなかった。今日は、観光バスに乗って、京都見物して、また夜行列車で秋田へ行こうと考えた。

結局、観光バスでは半分くらい寝ていたと思う。

それでも、秋田まで帰って目的の田代岳は登ってきた。

 

就職して、山登りの友人ができた。

だいたい季節ごとに、4人で何泊かの山行をして、最後は温泉に泊まるパターンだった。

4人でのメンバーのうち2人で、山行に出かけることもあった。

2人だと、計画も簡単に決まる。「今週どこそこ行こうか。」という感じである。

メンバーの組み合わせも、そのときどきで違う。

山へ行くようになってからは、旅行のための旅行は行かなくなった。

それでも、、やっぱりひとりで山へ行きたくなることがある。

そのころ、私は両親と住んでいた。

山にひとりで行くと言うと心配するので、友人の誰かと行くということにしていた。

友人たちと山へ行くのは、楽しい。

でも、ひとりで行く山は、時間の流れ方が違う気がする。

車窓から、景色を眺めたり、ひとりで頂上を目指して登る。

避難小屋に、ひとりで泊まる。他に登山者がいることもあるし、全くいないこともある。

全くひとりで、夜明かしするのは心細いし、こわいものである。

他に全くテントがないキャンプ場で、テントを張ったことがある。こわかったな。

時間が、体にしみこんでくるような気がする。

 

結婚して、家族ができたら、なんでも家族と一緒になる。

ひとり旅は、なくなる。

しいて言ったら、サイクリングやランニングは、ひとり旅みたいなものかな。

ひとりで、いろんなことを考えたりする。

ひとりだけで、音楽を聴く。

ひとりだけで、走る。

 

 

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ディズニーランドは夢の国

小学生時代の私が、ディズニーのテレビ番組が好きだったということは、以前このブログで書いた。

その頃は、アメリカ製のテレビ番組を、日本語に吹き替えて放送していた時代だった。

その中の一つが、口髭のウォルト・ディズニーおじさんが登場する「ディズニーランド」という番組だった。

上品なウォルト・ディズニーおじさんが、紹介する映画を楽しみにしていた。

その番組の中で、カリフォルニアのディズニーランドを紹介していたような記憶がある。1955年に、オープンしていたそうだ。

 

それから、二十数年後の1983年に、東京ディズニーランドが開園している。

柏市の旧沼南町は、手賀沼の南岸にあって、旧町庁舎に「子ども図書館」があり、その2階に「郷土資料展示室」というのがある。

そこを見ていたら、手賀沼がディズニーランドの候補地のひとつだったという、資料が展示してあった。

結局、浦安に決定している。浦安に、友人が住んでいたことがあって、埋立地に連れて行ってもらったことがある。

ディズニーランドができる何年も前である。なんにもない、ただの埋立地だった。

千葉県は、東京湾埋立地に積極的に大企業を誘致していたので、かなり有利な条件だったのだろうと思う。

 

我が家の長男が2、3歳の頃、東京ディズニーランドは創立五周年だった。

テレビでは、その紹介番組をよくやっていた。

その番組を、ビデオに録画してあげたら、長男はそれがお気に入りで、繰り返し繰り返し見ていた。

たしか、石田ひかりさんと、あと2人の女の子が出演していた。

妻と、これはディズニーランドに連れていかなきゃならないね、と話していた。

妻は、田舎育ちの私と違って、ディズニー映画で育っている。

 

いざ、ディズニーランドに行こうとすると、大変だった。

千代田線で、南柏から新松戸へ、新松戸で武蔵野線に乗り換えて、浦安駅で下車する。

まだ、舞浜駅はなかったので、浦安駅からディズニーランド行きのバスに乗らなければならない。

そのバスに乗るために、長い行列がある状態で、ずいぶん時間がかかって乗れた。

行くだけでも大変だったが、帰りも大変だった。

混雑した電車で、眠ってしまった長男を抱っこしていることになる。

何回か、そういうことをして、車で行くしかないか、ということになった。

それまでは、車で行こうという発想が浮かんでなかった。

車は車で、ディズニーランド周辺は渋滞がすごかった。でも、子どもは車だったら、なにか遊んでいられる。

 

子どもが小さいうちは、午後3時には帰途についていた。

ディズニーランドに着いたら、まず「スモールワールド」に行く。

子どもは、やっぱり「スモールワールド」が大好きだ。目をキラキラして見ていた。

そして、帰る前にもう一度、「スモールワールド」に行く。

子どもたちが、大きくなってだんだんと帰る時間が遅くなった。

そんなに、頻繁に行ってたわけではないが、最近は遠ざかっていた。

一昨年くらいに、孫娘を囲んで行ったのが久しぶりである。

まだ小さかったので、スモールワールドでは待っているうちに眠ってしまい、ボートに乗った時は、文字どおり夢の国だった。

 

 

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東京ドライブ

首都高速を初めて走った時、車間距離がほとんどなくて、しかも素速い車線変更が必要であることに、驚いてしまった。

これは、私には無理だ、と思った。

だから、東名高速や中央高速に行く時は、湾岸とか一般道を使っていた。

 

妻の伯母さん夫婦が、私たちの結婚式の媒酌人をやってくれた。

住所は、東京の北区滝野川というところだった。

お祭りなどがあると、お誘いがあるので家族でよく行った。

私は、運転が得意ではないので、あまり東京へ車では出かけないのだが、唯一車で行く東京の街だった。

JRの板橋駅がすぐ近くで、池袋のサンシャイン60のビルがよく見えた。

 

国道6号を東京方面に向かって、松戸を過ぎ、江戸川を渡る。

金町を過ぎて、中川を渡り、青戸で環七通りに入る。

あとは、ひたすら道なりに進む。途中、右手に「西新井大師」というのがある。

いつも、通り過ぎるだけだったが、最近になって初めて行った。

さらに進んで、荒川をこえると、北本通りで左折して、王子駅に向かう。

王子駅の突き当たりで、右折して飛鳥山公園を回り込んで、次の信号で右折すると、明治通りである。

飛鳥山公園は、江戸時代からの桜の名所であるのは知っている。何回も、その脇を通っているのに、いまだに行ったことがない。

明治通りを進んで大正大学を過ぎて、右折すると板橋駅に向かう道である。

板橋駅の近くは、下町っぽい昔ながらの店が並んでいる。

お祭りだと御神輿も出るので、子どもたちも楽しみにして行ってた。

朝、まだ混まない時間に出発すれば、1時間かからずに着くことができた。

 

その後、姪っ子が結婚して江戸川区に住むようになった。

船堀というところで、中川のすぐ近くだった。

今まで、青戸で右折してたのを、左折して環七通りを反対方向に進んで、一乃江で右折して、船堀に向かって、何回か行った。

長男が、学校の関係で八王子に1年間住むことがあった。

引っ越しや何やらで、何回か八王子にも通った。

浅草の河童橋六本木ヒルズも車で行ったし、少しずつレパートリーは広がっている。

 

3年前に、妻の母が北千住に転居した。

北千住駅から徒歩3、4分の公団住宅だった。駅から近いので、電車でもいいのだが、みんなで移動することを考えて、ほとんど車で行ってた。

国道6号を、松戸、金町、青戸を過ぎて右折して、下町っぽい狭い道をすすんで、荒川を渡れば北千住である。

北千住は、宿場町であったので、古い店が多い。

今は、駅のすぐ近くに東京電機大学東京学芸大学があり、高校もいくつかあるので、若者向けの店も多い。おもしろい街である。

母は体調を崩して、今は我が家にすぐ近くの病院に入院しているので、北千住に行く機会はなくなってしまった。

 

数年前に、家族で東京の神社めぐりをした。

根津神社から、不忍通りを進んで、不忍池に行く。

ここには、弁天堂と大黒天堂がある。

次は、湯島天神、そして神田明神

その時は、こんな感じだった。

私のスマホには、「大江戸今昔めぐり」というアプリが入っている。

今の地図、江戸時代の地図、そして航空写真が簡単に切り替えられる。

東京の街歩きには最適の優れものである。

このアプリを活用したいものである。

東京は、駐車料金がとんでもなく高いのが難点なのだが、家族みんなで出かければ、交通機関の料金と比べればまあまあということになるかな。

とりあえずは、世の中が落ち着いてほしいものだ。

 

 

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成人式に思ったこと

テレビで、成人式のニュースをやっていた。

今年は、自治体によって成人式を開催したところと、中止したところがあったようだ。

本人にとっては、人生一回の成人式だけど、世の中は何があるかわからない。忘れられない成人式になるだろう。

今回のコロナは、人類にとっても経験したことのない事件だと思う。

今までも、ペストやらスペイン風邪やらいろんなことがあった。

でも、全世界全人類が、今のような情報を共有できる状況の中で、体験することはなかったことである。

 

そのせいか、ニュースで毎年見る、あまり目にしたくない映像を見なかった。

単に、私が見逃しただけかもしれない。

「私たちは、幼くて、成人に値しません」と言うのを、世間にふれ回っているような、悪ふざけの映像である。

さすがに、今はやるべきではないと思ったのだろうか。

そうでなければ、救いようがない。

 

私の郷里の秋田では、ずいぶん以前から成人式を夏のお盆の頃にやっている。

1月の今頃は、雪の世界なので成人式などやるのが無理なのだ。

大雪が降ったら、会場に集まることが困難である。

夏のお盆の頃なら、遠くへ働きに行ってたり、学校に行ってる人も帰ってくる。

夏の暑い頃に、暑苦しい晴れ着を着ることもなく、華美にならない。

一石二鳥である。

たぶん、雪国はどこもそんなふうになっているじゃないかな。

 

自分が成人式の時は、横浜で学生だった。

住民票は横浜に移していたので、郷里の秋田からは、成人式の連絡などはなかった。

横浜市は、マンモス都市のせいか個人個人に成人式の招待状はなかった。たぶん、広報などには掲載されていたのかもしれない。卒業した学校などを通してなんらかの連絡などがあったのかはわからない。

今は、どうなっているのだろう。

私は、成人式には行かなかった。

招待状をもらったとしても、成人式には行かなかったと思う。

気分的に、成人式どころではなかった。

学校へ行けば、学内封鎖という時代だし。

 

成人というのは、ふつうは身体的、精神的に充分に成熟している年齢だそうだ。法的には単独で法律行為ができる年齢のことである。

日本では、民法上は20歳で成人となっているが、婚姻していれば成人と見なすことになっており、婚姻適齢は、女性16歳、男性18歳である。

また、公職選挙法では、18歳以上に選挙権が認められていたり、道路交通法では、16歳以上に普通自動二輪車等の免許証取得が認められているように、他にも例外的な規定がある。

労働基準法では、15歳の年度終了前の雇用を禁止している。つまり、義務教育終了後に雇用可能ということだ。

 

過去の日本では、男子は数え年の12歳から16歳で元服している。

その、年齢で成人として、扱われたれたということである。

元服したら、一人前として扱われて、一人前になった。

今よりもずっと若くして、一人前だった。

子どもは、一人前として相手してれば、一人前になるよ、という言葉を聞いた事がある。

そのとおりだな、と思う。

社会が、人が成人することをどのように考えているかが、大事なことなんだと思う。

 

 

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自転車とサイクリング

日本には、自動車よりも少し少ないくらいの台数の自転車が走っているらしい。

最近の調査だと、自動車が約8100万台、自転車が約6700万台くらいになってる。

自動車は世帯で、自転車は個人で使うものだろうから、この数字をどう考えるかは難しい。

自転車保有率としては、ヨーロッパの自転車大国、オランダ、ドイツ、デンマークノルウェー、スェーデンに次いでいる。

ほとんどがヨーロッパの国々であるベスト10に、アジアの日本だけが入っている。

 

子どもの頃、自転車は必需品という訳ではなかった。

田舎の村にも自転車はあったが、砂利がゴロゴロした道を、隣り村まで自転車で行くのは現実的ではなかった。

村の中の移動には、自転車がなくても大丈夫だった。そんなに広いわけではない。

それよりも、子ども用の自転車がなかった。

大人用の自転車は、高くて1月分の給料ぐらいしたらしいので、今で言うとオートバイくらいかな。

どうしても、自転車に乗りたい子どもは、「三角乗り」という、曲芸みたいな乗り方をしていた。

サドル下のフレームが三角形で、そこに片足を入れてペダルをこいでいた。

器用な子どもは、スイスイ乗っていた。

我が家には自転車がなかったので、私もよそのを借りて何回か練習してみたことがある。

でも、たぶん乗りこなすところまでは、いかなかった。

そのあと、自転車に乗る機会もなかった。

 

就職して、自宅から勤務先まで徒歩で通った。

ところが、転居したら、だいぶ遠くなってしまった。

バス、電車を使うとかなり遠回りで、時間もかかってしまう。

最短の直線距離だと、歩ける距離だったのでしばらく歩いていた。

でも、いくら歩くのが好きでも、暑い最中に長距離歩くのはつらい。

これは自転車にするしかないな、と思った。

そんなわけで、自転車を買った。

子どものころに、三角乗りの練習はしていた。

もう、サドルに普通に腰掛けて座れる。

ところが、なかなか思ったようには走れなかった。

子どもの頃だったら、すぐに上達しただろうが、けっこう苦労した。

おかげで、20歳過ぎてから自転車に乗るようになったのだ。

あんまり、そういう人いないだろうな。

通勤時間は、3分の1くらいになったし、その後また転居してからは、江戸川の土手の行くための足になった。

江戸川の土手は、ランニングコースだった。

山登りのトレーニングのために、走っていた。

 

車の免許を取ったが、ずっとペーパードライバーだった。

結婚して子どもが生まれて、車が必需品になった。

でも、子どもとは自転車で出かけていた。

子どもが2、3歳までは、自転車に乗せて近所の公園めぐりをしていた。

新しい公園を探して、かなり遠いところまで、出かけた。

子どもは、自転車に乗るのが好きだ。きっと、気持ちいいんだと思う。

我が家は、男の子3人で3歳違いなので、しばらくの間いつも誰かを乗せていたことになる。

後ろの座席のチャイルドシートの子どもがやけに静かだなと思ったら、

コックリコックリ眠っていた。

今のチャイルドシートほどしっかりしたものじゃなかったので、びっくりした。

しょうがないので、降りて押して歩いたことがあった。

 

私は、職場との通勤は、ずっとバスと電車を使っていた。

退職前の4年間の職場が、自宅から直線距離だとかなり近かった。

バス、電車、バスで乗り継ぐと、遠回りで、時間的にも、乗り換えもあり時間がかかってしまう。

そこで、自転車通勤にした。

通勤時間も、半分以下だし、運動にもなるし一石二鳥だった。

 

今は、自転車は私の楽しみの道具である。

私のスタンスとしては、

歩いて行けるところは、歩いていく。

自転車で行けるところは、自転車で行く。

車でしか行けないところは、車で行く。

 

通勤のためにも使えるし、

買い物やお出かけのためにも使える、

スポーツとしても使える、

こんな便利なものはない。

自転車は、最高の必需品だな。

 

4歳の孫娘は、幼児用の自転車を持ってる。

ペダルのない、キックして進むやつ、名前なんて言うんだろう。

でもあまり興味ないのか、乗ってる様子がない。

練習するには広い場所じゃないと、危ないしなあ。

乗れるようになっても、それはそれで心配だよなあ。

 

 

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冷や飯と冷酒

「ひや飯食い」ということばがある。

辞書によると、他人の家に寄食する人又は冷遇されている人、となっている。

冷や飯を食わされている、というニュアンスで使われている。

私は、たぶんことば本来の意味で「ひや飯食い」である。

自分の意思で、冷や飯を食べる人である。

あつあつのご飯と、つめたいごはんがあったら、つめたいご飯を選ぶ人なのだ。

つめたいごはんが好きというよりは、あつあつが苦手なのだ。

だから、あつあつでない方がいい。

熱い食べ物や飲み物はさまして、食べたり飲んだりすることが多い。

無理すれば食べれないことはないが、選べればそっちを選ぶ。

世の中には、つめたいものは食べたくない人が多いと思う。

私の場合は、熱いものも食べられるが、熱くないもののほうが好きということで、対応する範囲が広いということだと思う。

 

人間も動物なので、体温よりもうんと熱いものが、体にいいわけがない。

野生の動物は、煮炊きするわけじゃないし。

自然界の温度、常温でいいんじゃないかな。

せいぜい、体温、ひとはだってことかな。

どうして、熱い食べ物が苦手になったのかわからない。

寒い所で育ったので、寒さは平気だけど暑さには弱い。

でも、これは食べ物は関係ないし。

子どもの頃、あまりあつあつのものを食べなかったってことはあるかも知れない。

 

日本では、あつあつがごちそうというふうになってるようだ。

でも、おにぎりとかお弁当は冷たくても食べれるように作ってある。

たいていの人は、そのまま食べる。

おにぎりやお弁当を電子レンジであっためたりすると、変ににおって気持ち悪くなったりする。

日本は、生の魚や肉を食べる習慣もあるので、出来るだけ食材そのもの旨さを生かそうとする食文化がある。

そういう意味では、温かい食べ物から、つめたい食べ物まで受け入れることができる。

 

お酒についても、日本酒などはいろんな飲み方をする。

冷酒、ぬる燗、そして熱燗。ひとはだというのもあった。

私は、それくらいしか浮かんで来なかった。

でも、ちょっと調べたらすごいことになった。

5℃:雪冷え   10℃:花冷え   15℃:涼冷え

30℃:日向燗   35℃:人肌燗  40℃:ぬる燗

45℃:上燗    50℃:熱燗   55℃:飛び切り燗

15℃〜25℃が常温ということらしい。

ふだんは、常温でいいとして、他にもこんなに楽しめるんだなあ。

冷たい日本酒は、ついクイクイとすすんでしまう。

飲み過ぎて次の日がつらい、そんなことがよくあった。

燗酒は、酔い心地がいい。すぐに効くので飲み過ぎない。

燗酒が体にいいよ、って昔よく言われたような気がする。

 

ビールは、やっぱり冷たいほうがいい。

でも、ドイツやベルギーでは、特に冬にはホットビールが飲まれてるらしい。

これは、きっとまったくの別ものになりそうだ。

まだ飲んだことがない。

うんと、熱燗がいいらしく、香ばしくなる、とのこと。

一度、試してみないと。

 

最近、夕食を作るのに台所に立っていると、つい日本酒をちびちびやってしまう。

でも、食事中ビールは飲むことあるけど、日本酒は飲まない。

亡くなった母親が、やっぱり料理しながら台所でちょっと飲んでいた。

ふだんは、全然飲まない人なのに。

そういうところは、親に似てくるんだな。

でも、「キッチンドランカー」とか「キッチンドリンカー」というのは、ことばが嫌だなあ。

なんか、呑兵衛か呑んだくれみたいで。

もう少し、いい響きのことばはないのかな。

 

 

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わかこゝろ① 菅江真澄テキスト

天明三のとしの春より、科埜の国つかまの郡に在て、この秋、更科や姨捨山の月見てんと、おもふどちうちものがたらいて、葉月の十三日、いまだ明けはてぬより旅よそいして、もとせんばの里を出て野はらになれば、
 
   さらしなの月おもふとてしるべなきやみにぞたどる野辺のなかみち
 
ある人、むしも、あかつきは声うちよわるかなど聞きつゝいふに
 
   夜とともにてる月影を霜と見て虫の声なづむ明くらの空
 
山の端ひき離るゝよこ雲のけしき、面白さ、ものに似ず。
萩薄かいわけ、あさ露にぬれて、きちかうが原をゆく。
 
   身におはぬ色とや見なん秋萩のにしきにまじる旅の衣手
 
それよりも、がれよりもなど、花折、ものいひかはして、
 
   さらしなの月のことのみかたりもてゆけば心のくまものこらず
 
ひんがしの高き山を鉢伏といふに、雲のかゝりたれば、たはれて、
 
   ほかはみな吹はらひても秋風に雲ぞ集る蜂ふせの山
 
とく、野村といふところにつきぬ。
あさいする男女、戸をおし明てさしのぞき、あるは水くみありく。
 
   軒近きのべのむら萩露深くおき出て見んやごと/\に
 
あなたに茂りあひたる森のあなたは、村居といふとなん。
 
   秋風の吹もさそはで山かげに雲のむらゐの里ぞなみたつ
 
ちいさき河に渡したるを不二橋といへり。
此あたりより不尽の見えけるにや、いがゞ。けふは雲ふかければ、
 
   はしの名のふじこそ見えねくもる日はそこと心をかけて渡りぬ
 
平田をさくれば、塘のうへに、大なる柳いくもとも立るが風にちりくを、ちる柳の風情ことにおかしと、人のたゝずみぬ。
 
   秋風のざそへる露の玉柳ちるもしづけし御世のひかりに
 
うるし桶、になふたる男あまた行けり。
 
   時もいま世のあき人のはこぶらし市にうるしのところせきまで
 
松本の里になりて、
 
   いつの世に植てちとせを松本の栄え久しき色をこそみれ
 
行ほどなう雞栖のありけるは、岡田のかんやしんとてあり。
こは、式内のおほん神と申たいまつれば、
 
   賢木葉にむすびし玉と見てしかな露を岡田の神のみづかき
 
こゝの関屋をこゆとて、
 
   夜な/\の月のうさぎはとゞめえず御世を守りの関のくいぬき
 
あださかをのぼれば身にあせし、暑さにえたえで、
 
   峰遠み麓をたどる旅人の身にあだ阪ぞあゆみくるしき
 
みちは、たぐなはのやうにめぐり/\て、おりのぼりて、はる/\と行すゑながし。
ふかき谷をへだてて、いかめしきいはほのたてるを、猿飛の岩といへり。
げにやあらん、むれさるの木のみにあさり、梢をつたふ。
 
   そびへたついはほの末をとぶといふ馴しましらの身さへあやうき
 
苅谷原といふところに鴈の鳴けれど、つらは見えざれば、
 
   声斗そこともしらぬはつかりやはらはで霧の中に行らん
 
桐光寺といへる寺の前に、たか札さしたるを見れば、くにはいづこの、たれともしらぬ、としは三十あまりなりける女の、この葉月の四日、草の上にふし死にしたるを、こゝに埋みおきぬ。
五六にてやあらん、ちご、ひとり残したりとかいつけたるをよんで、なみだ、ながさゞる人はなかりけり。
 
   ふる里の草にはおかでたつきだにしらぬ山路の露と消えぬる
 
いざない来つる直堅のよめる。
 
   うき旅に消る其身のなみだをやつかの草葉の露とおくらん
 
会田のうまやに至りて、ゆふべ近ければ宿つきたり。
 

わかこゝろ 菅江真澄テキスト

 天明3年、菅江真澄は、東筑摩郡洗馬村の医師可児永通宅に滞留中だった。

8月の名月を、更級郡八幡村姨捨山で眺めるために、風流な同好者数名が誘いあって出かけることにした。

8月13日に出発して、29日に帰着している。

この年の日記「いなのなかみち」から、この一週間の部分を抜き出して別冊にしたものである。

巻末に13名による歌がのっているが、これは戻った後で、同行者を含め洞月上人を中心にした歌会での歌をまとめたものと思われる。

 

原本は、全27丁、図絵は2図。

 

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半七捕物帳 岡本綺堂

この何週間か、「半七捕物帳」を、読んでいる。

青空文庫には、69編の「半七捕物帳」シリーズが収録されているが、現在その半分近くまできた。自分では、今までにけっこう読んだつもりでいたが、ほとんど読んだ記憶がなかった。

たぶん、新しく公開されたものから読んでいて、古いものを読んでなかったのかもしれない。

「半七捕物帳」は、大正6年(1917年) に雑誌に連載が始まり、中断しながらも昭和初期まで書き続けられたという、時代小説・探偵小説草創期の傑作と言われている作品である。

この作品が成功したことにより、「捕物帳もの」が、定着したようである。

 

「五大捕物帳」と言われるものがあって、「半七捕物帳」のほかに、次の作品が挙げられる。

野村胡堂の「銭形平次捕物控」。これは、時代設定が遡って、寛永である。

佐々木味津三の「右門捕物帳」。同心近藤右門が主人公である。

横溝正史の「人形佐七捕物帳」。美男子の岡っ引き人形佐七が主人公だ。

城昌幸の「若さま侍捕物帳手帖」。「若さま」と呼ばれる、名前も身分も不詳の侍が主人公である。

これらのうち、岡本綺堂野村胡堂佐々木味津三の作品は、青空文庫には収録されているが、横溝正史城昌幸の作品は著作権保護期間の関係でまだ収録されていない。

これらの5つのシリーズは、いずれもテレビドラマ化されているようだ。私も、見たような気がする。

でも、はっきりしてるのは、大川橋蔵銭形平次である。これはもう、大川橋蔵と言ったら銭形平次だし、銭形平次と言ったら大川橋蔵だ、というぐらいのものである。

その他は、かなり曖昧で、ぴんとこない。

「半七捕物帳」は、尾上菊五郎とか、里見浩太朗真田広之がテレビでやってるらしいけど、小説を読んでいて私の頭の中に浮かんだ顔は、中村梅之助だった。

と言うことは、見てないのかな。

「右門捕物帳」は、中村吉之助杉良太郎あたり。

これは、中村吉之助と岡っ引きが左とん平ということなので見ている。

「人形佐七捕物」は、松方弘樹林与一

林与一の人形佐七は、見ていた気がする。

「若さま侍捕物帳手帖」は、主演が、林与一東山紀之

こうなると、よくわからない。

 

「半七捕物帳」は、化政、幕末期に御用聞きとして難事件・珍事件に関わった半七老人を、明治の中期ごろに新聞記者である「わたし」が訪問して、茶飲み話のうちに手柄話や失敗談を聞き出すという設定になっている。

半七老人は、「わたし」と知り合った頃は、隠居して赤坂に住んでいる。

「捕物帳」は、町奉行所に勤める同心与力の報告を書記が筆記した捜査記録のことである。

半七老人の語る事件は、血なまぐさいものもあるが、人間の愚かさや、弱さからのものだったり、少し笑えるものだったりする。

半七老人は、温厚で粘り強く、ユーモアもある。物語は、私が老人を訪ねて、昔話を聞くという構成である。

事件ものであるが、後味はそんなに悪いものではない。

 

私は、Androidスマホで、「読書尚友free」というアプリを使って、青空文庫のテキストを読んでいる。

アプリは、青空文庫と連動しているので使いやすい。

フォントサイズ20、9行で、80ページくらいである。15分から20分くらいで読み終える。

こんな文明の利器で、江戸時代を舞台にした物語を読んでいる。

 

かつて、ソニーPDAであるclieでテキストを読んでいた時は、将来こんなに手軽に読書できると思ってなかったな。

21世紀って、子ども頃は果てしなく遠いところにあった。

 

 

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大堀川散歩

先日、サイクリングの時は、天気があまりよくなかった。

今日は、通院で手賀沼の近くに来てるのだか、青空が気持ちいい。

駅の方に用事があって、その帰り大堀川沿いを遠回りして帰った。

大堀川は、おだやかで、おじさんがのんびり釣りをしていた。

カモの親子が、泳いでいた。

 

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大堀川は、北柏ふるさと公園と柏ふるさと公園のあいだを通って、手賀沼に流れ込む。

手賀沼が見えるところまで、来てみた。

手賀沼に流れ込むところは、中洲に囲まれて、しかも流れが蛇行してよく見えない。

でも、白鳥が何羽かいるのは見えた。

おだやかな手賀沼が遠くに見えた。

やっぱり、天気がいいと気持ちいいし、散歩日和だなあ。

 

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手賀沼を望む

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北柏ふるさと公園

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柏ふるさと公園

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運転免許証にまつわること

4年後の2024年が、運転免許証の次回の更新時期になる。

もう、免許証は返納だなあ、と思っていたのだが、よく考えてみると返納してほんとに大丈夫か心配になってくる。

定期的に、病院に行かなければならない家族がいる。その、通院が問題なのだ。バス電車乗り継いで行くのは、かなり大変だ。

行動範囲が、狭くなってしまうのはしょうがないとしても、何か緊急なことが起こった時が心配である。

高齢者の事故のニュースを見たりすると、どこかで思い切らないといけない、とは思う。

 

もともと、車の運転があまり得意な人間ではない。

でも、運転免許を持ってて良かったと思うことはいっぱいあった。

子どもを育てていた時とか、両親が病気で入院していた時は、ほんとに助かった。

何度、病院へ通ったことだろう。

真っ暗な中を、救急受付に駆け込んだことも何度もある。

 

免許証を見ると、29歳の時に取得している。

ずっとバス電車で通勤していて、あまり運転免許の必要を感じていなかった。

山仲間でもあった友人たちも、誰も免許を持っていなかった。

友人のお兄さんに、4人もいて誰も免許持ってないのか、と呆れられたこともある。

そのうち、ひとり、またひとり、と免許を取ったので、私も取ることにした。

合宿免許が出始めた頃で、「二週間、最短10日」というふれこみにひかれて、行ってみた。

ところが、私はブレーキとアクセルもわからないような人間だったので、途中で脱落してしまい、結局自宅近くの教習所に転校して、免許証を取得した。

 

子どもたちがまだ小さい頃、妻の実家が成東の隣りの山武町というところへ引っ越しした。

月に2回ぐらいは、遊びに行っていた。

そこから、車で30分くらいで九十九里海岸の中心部の本須賀海岸に出られた。

山武をベースにいろんなところに、出かけた。

銚子、成田、茂原、勝浦、鴨川、、、、、

柏から、片道60kmくらいあったけど、よく通ったものだ。

夕飯を食べた後、帰る途中で子どもたちは眠ってしまっていた。

妻も運転するので、どこへ出かけてもきつくはない。

妻の母が、松戸に転居するまで、10年以上続いたと思う。

 

私は、そんなに運転が好きでもないかもしれない。

それでも、秋田まで車で行ったこともあるし、京都も行った。

東日本大地震の後、高速料金が定額1000円になったことがあった。

ちょうど長男が転勤で京都に行ってたので、思いつきで遊びに行こうということになった。

ネットで簡単に、ホテルも予約できた。

長男の案内で、きれいな桜の名所を案内してもらった。

京都市内は、一方通行だらけである。妻はそういうところは得意なので、運転はお任せしていた。

平安神宮近くのホテルに泊まって、帰ってきた。いい思い出である。

でも、京都まで500kmくらい、秋田の大館までは700km近くある。

京都の方が、遠そうな気がするけどな。ただ、どこまで行っても混雑する。

東北道のように、どこどこ過ぎたら空いてくるというのがない。

 

スキーに新潟の津南まで、行ったこともある。チェーンも付けて大変だった。

津南といえば、最近、テレビで積雪2メートルってやってた。

私たちが行った時も、一晩で積雪1メートルだった。朝、みんなで車を掘り起こして、なんとか帰ってこれた。

車でスキーに行けたのは、妻の弟二人のおかげだった。

うちの車の、前と後ろをサポートしてくれた。

 

年をとると、人間の個人差は大きくなる。

寿命に、その差がはっきり出てしまう。

80なっても、90なっても、元気な人は元気だ。

免許更新まで、あと4年ある。

まあ、ゆっくり考えてみよう。

 

 

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サイクリング 江戸川〜利根運河〜利根川

朝から、天気は今ひとつだった。雲が多くて、青空は、あまり見えない。

昨日までは、ずうっといい天気だったのに。

そんなに、寒そうでもないので出かけることにした。

先日自転車で利根川の土手に出かけ時に気が付いた、利根川と江戸川を繋ぐ利根運河にサイクリングコースがあるのが、気になってしょうがなかった。

そこを使えば、江戸川、利根運河利根川と、ぐるっとまわってこれる。

今日は、ためしにちょっと様子を見て来ようと思う。

 

とりあえずは、江戸川東岸の流山橋を目指す。

いつものように、旧水戸街道、根木内で国道6号を渡り、北小金でJR常磐線を越える。

本土寺参道を横切り、流山方面に向かう。

総武流山電鉄平和台駅の踏切を渡ると、流山街道である。

流山街道は、よく使うので知ってるが、野田方面はずっと行くと関宿に出て橋を渡ると、茨城県の境町につながるのは知っている。

起点は、松戸からだと思うがどの辺から始まるのだろうか。

流山街道を渡れば、江戸川の土手はもうすぐだ。

今日は、利根運河方面に向かうので、流山橋からだいぶ離れたところで土手に上がった。

「海から28km」の表示板があるところから出発する。

 

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江戸川土手より三郷方面を望む

江戸川東岸を北上するのは、久しぶりだった。

以前にはなかった巨大な物流倉庫が2棟もできていた。

考えてみれば、常磐自動車道の流山インターのすぐ近くである。

さらに、利根運河方面にすすむと、やはり物流倉庫らしきものが建設中で、巨大なクレーンがいくつも立っていた。

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巨大クレーン

利根運河と江戸川の接合部の近くに、休憩用の東屋があったので、ひと休みする。

 

ここから、運河の土手にある遊歩道を東に進む。車やバイクは進入禁止である。

 

しかし、いちおう舗装されているが、表面は小石をセメントで固めた感じで、ゴツゴツして自転車で走るのは難しい。ゆっくり進むしかない。

利根運河は、明治時代に作られた人工運河である。全長8.5kmで、野田市流山市柏市の境界に沿っている。

運河が作られた頃は、水運が物流の中心だった時代である。銚子から船で利根川をさかのぼってきた船は関宿で、江戸川に入って東京に下っていく。

木下で荷を下ろし、木下街道で船橋を経由して陸送するという方法もあるが、いずれにしても日数もかなりかかってしまう。

利根運河によって、かなりのショートカットになったと思う。

しかし、常磐線東武野田線などの鉄道網が整備されて、利根運河が活躍できる時代は長くはなかった。

運河が境界線かと思っていたが、地図を見ると、運河自体はほとんど流山市柏市の領域にある。

人工運河ではあるが、それなりに河川敷も作られている。

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利根運河

運河の真ん中あたりを、流山街道と東武野田線が通っている。東武野田線は、東武アーバンパークラインというのが正しいらしい。

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蔵元 窪田酒造

土手のそばに、老舗の割烹のお店があった。向こう岸には、日本酒の醸造蔵元が見える。

こんど、ゆっくり来よう。

 

運河駅は、東京理科大学の最寄駅であり、賑やかだ。その周辺の河川敷は、運河水辺公園になっており、遊歩道や歩行者用の横断橋も整理されていた。

餌づけをしているのか、鴨がたくさんいて、小さい子どもを連れた家族が散歩をしていた。

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鴨が集まっている

 

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なぜか氷が しみ出た水が凍ったのかな

運河駅を過ぎて行くと、柏市に入る。

土手の道も、普通のアスファルト舗装になり、柏市サイクリング道路の表示があった。

 

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運河の外側の風景も、奥深い野山という感じで、どこに迷い込んだのだろう、と思ってしまう。

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そのうちに、運河の流れは遠くなるが、土手は続いている。

突然、「海から95.5km」の看板が現れる。銚子の海からということだ。

いつのまにか、利根川の土手になっていた。

利根運河利根川の接合部は、広い河川敷になっていて、何がどうなってるのかわからない。

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対岸は茨城県

常磐自動車道が見えてくる。

その後を走っているのは、ツクバ・エキスプレスである。

この橋に近づいたところで、ようやく利根川の水面が見えてくる。

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右手には、柏の葉の高層ビルが何棟も集まっている。

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柏の葉の高層ビル

第一の堤防である土手の上から、対岸の茨城県側の土手を見ると、かなり遠い。

何100メートルかの河川敷が両側にある。

 

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それでも、第二の堤防が必要ということは増水がいかに恐ろしいかということだろう。

第一堤防と第二堤防の間は、広大な農地だが、農業用道路が通っていて一般の車もいっぱい走っている。信号が、とても少ないので走りやすいいのだ、と思う。

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さらに、進んでいくと先日来た時に見つけて集落跡が見えてくる。その後には、新大利根橋が見える。

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集落跡

この橋を、途中から渡って帰ることにする。

橋の上から、先日お参りした布施弁天が見えた。

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布施弁天を望む

こんもりした丘の上にあって、お城に最適な立地である。

まあ、城としては高さ、広さとも少し足りないかも。

創建は1000年以上昔らしいので、お城ができるような時代のはるか以前からあったのだ。

 

ここから、自宅に戻ることにする。

もう少し近ければ、よかったのにな。

かなり走った後だったので、帰りはきつかった。

朝天気がいまひとつで、様子を見ていたので出発が遅くなってしまった。

9時45分くらい出発で、自宅帰着が2時半ごろだった。

距離は、どれくらいかなと気になった。

Fitという万歩計アプリがスマホに入れてある。これは、自転車にも対応してた。

21.84kmになってた。もっと、あると思ったけど。

地図も記録されている。GPSが、はたらいているんだ。

すごいね、文明の利器。

天気のいい時に、もう一度行きたいな。

 

 

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少年ジェットがヒーローだった

「少年ジェット」が、私のヒーローだった。

今でも、なんかのおりに、その名前が出てきてしまう。パスワードを考える時とか。

これを見ていたのは、小学校低学年から中学年のあたりだ。

ヒーローものの時代だった。考えていたら、いっぱい出てきた。

少年ジェット、月光仮面七色仮面ナショナルキッド白馬童子、隠密剣士、マグマ大使、ふしぎな少年、仮面の忍者赤影伊賀の影丸、怪傑ハリマオ

もっと、あったと思う。なんといっても、地方だったので、テレビ局がNHKの他は民放が1局しかなかった。雑誌で知ってるが見てはいないのもある。

少年ジェットを放送していたころ、どう考えても我が家にはまだテレビが無いはずである。どうやって、テレビを見ていたのだろうか。

その頃は、村の数軒にしかテレビがなかった。よそにお邪魔して見ていたのだろうが、その辺の記憶が曖昧だ。

不思議である。

 

少年ジェットは、名探偵なんとかの助手で、少年ながら(?)オートバイにまたがり、白いマフラーをひるがえし、名犬シェーンを従えて悪と闘う。

宿敵は、ヒゲをたくわえたブラックデビルである。

ライバルの探偵頓田紋太(とんだもんた)も、愛犬を従えているが、私の記憶だと、少年ジェットの愛犬シェーンがコリー犬だったのに対し、ダックスフンドであまり役に立たない。

とんだもんたは、ドジなところが愛嬌があって、とっても好きだった。

少年ジェットは、正義の味方なので、悪人を殺すことはない。

武器のスーパーコルトは、相手をしびれさせることができる。

「ウー ヤー ター」というウルトラボイスは、大きい声の振動で敵を失神させることができる。

 

オレたちひょうきん族」というのを、私はほとんど見てない。

結婚して子育てに忙しい頃だった。

でも、ブラックデビルマンというのが、出てるのはチラッと見ていた。

ブラックデビルマンって、ブラックデビルのことかな、と思ってた。

少年ジェットは、いないのか。

ブラックデビルマンは、初代が高田純次さんで、2代目が明石家さんまさんだそうだ。

高田純次さんは、私より五つ、六つ年上なのでリアルタイムで見ていたと思う。

明石家さんまさんは、私より二つ年下なので、「少年ジェット」見てたのかな。

まあ、あまり関係ないか。

 

仮面ライダーあたりから、興味がなくなってほとんどヒーローものを見なくなった。

ウルトラマン戦隊ものも縁がなかったのだが、また見る機会ができた。

姉のところの姪っ子が、戦隊ものにハマっていたのだ。

たぶん、チェンジマンのころだったな。

女の子だったけど、背中に刀を背負って走ってたな。

戦隊モノは、毎年毎年コンセプトが変わる。

どうして、人気があるのに変えるんだろうと思っていた。

そうか、ものを買わせるためか、と気がついたらなんかガッカリした。

 

我が家は、男の子が3人だったけど、あまりヒーローものを見ていた記憶がない。

それぞれ、好みがバラバラだった。

ドラえもんゴジラ、サンリオ。

そのうち、ゲームの時代になっていった。

今の子どもたちに人気のヒーローってなんだろうな。

 

 

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茨城県は行動範囲だ

チーバくんというのが、千葉県のマスコットキャラクターである。

プロフィールでは、「千葉県に住むふしぎないきもの」となっているが、犬にしか見えない。

真っ赤な姿で、横向きの姿は千葉県の形をしている。

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よくできているなあ、と思う。千葉県民としてのひいき目かもしれないけど。

耳は東の銚子、足のつま先は舘山、舌が西の浦安あたりなので常に舌を出しているらしい。

黒い鼻は北の野田で、鼻の付け根あたりが私の住む柏である。

鼻から耳までが、茨城県との県境である利根川ということになる。

 

頭の上は、茨城県である。

むかしの国名でいうと、脚が安房国(あわのくに)、胴体が上総国(かずさのくに)、頭が下総国(しもうさのくに)になる。

顔のあたりに住んでると、頭の上にある茨城県は、利根川を渡るだけなのでとても近い。

脚のほうにある館山などは、今は高速道路があるとはいえ、渋滞しがちな千葉県の中央部を越えなければならないので気持ち的にも遠い。

柏からは、新大利根橋を渡ってしまえばつくば市には、1時間かからずに行ける。

国道6号で北東に進めば、霞ヶ浦の西端の土浦、そして水戸である。

 

毎年、都道府県魅力度ランキングとかいうのが話題になる。

2020年は、万年最下位の茨城県が、最下位脱出ということで話題になった。

茨城県を身近に感じて、よく行ったりしている私としては、茨城県が最下位というのを目にするたびに、それはないよなと思っていた。

このランキングのあり方自体に疑問がある。

このランキングは、ブランド総合研究所という一企業が、地域ブランド調査というものを行なっていて、そのうちの都道府県分である。

具体的に、どのような調査をしているのかこの企業のWebサイトを見てみたが、調査項目も概要しか分からず、結果はともかく調査内容も有料で購入しないと手に入らないようだ。

しかも、インターネット調査で、有効回答数は 合計31369人、1人の回答者は20地域にのみ回答なので、地域あたり平均591人なのだそうだ。

1人の回答者が、全地域に回答していないのである。これで、比較ができるのだろうか。

どうしてこんな調査に、マスコミが問題提起しないで、都道府県も一喜一憂しているのか、私には、よく理解できない。

Webサイトにある、調査概要には、調査項目として次があげてある。

 

調査項目  認知、魅力、情報接触、観光意欲、居住意欲、
  情報接触経路(「旅やグルメに関する番組」など14項目)、
  地域コンテンツの認知(「海・山・川・湖などの地理的名称」など16項目)、
  訪問経験(「行楽・観光のため」など16項目)、
  地域資源評価(「街並みや魅力的な建造物がある」など16項目)、
  まちのイメージ(「歴史・文化のまち」など14項目およびイメージ想起率)、
  産品購入意欲、産品想起率(食品、非食品をそれぞれ自由記述)
  …計84項目

 

最も大きな問題は、全国のその地域をよく知らない人も調査に関わっているイメージ調査であることだ。

だから、1位が60.8ポイントで、最下位が11.4ポイントという、あり得ない数字が出てくる。

それなのに、あたかもこの調査内容がその地域の実態であるかのように扱われてしまっている。

調査する方も、それを受け取る方も、この調査がいったいなんであるかをしっかりと把握すべきだと思う。それだけのものとして、扱えばいいんじゃないかな。

大騒ぎすることではないと思う。

 

茨城県は、多様な魅力を持った地域である。

山あり、川あり、海あり。

城下町もあるし、古墳もある。

茶畑、ミカン畑、リンゴもある。

笠間稲荷に笠間焼もある。

あげようとすれば、いくらでもあるけどこのへんで止めとこう。