晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

はしわのわかば⑤ 菅江真澄テキスト

十二日 (宮城県)桃生ノ郡鹿股(カノマタ)(河南町鹿又)の有隣(アリチカ)ノ翁、ところ/″\尋ねわびて、けふも又あはでむなしく皈るなンど書て、


   尋ねこしかひもなぎさにすむ鶴のこと浦遠く声ぞ聞ゆる


とあるを見て、


   たちあそぶ方こそしらね友つるのうら珍らしきこゑのみはして


けふもこゝにかたり暮て、雨マばれ、庭の面におそ桜の咲たるに月のあか/\とさし出て、軒にかけたる無窮の額の文字さへしるく、庭に彳ミよみときて、


   楽しさはいつをかぎりもなかぞらに月あり花もにほふこのやど


十三日 胆沢ノ郡にいまだ咲のこる花あらむ、いざ見にいなんと大槻清古とともに、磐井ノ郡山ノ目を出て伊沢ノ郡衣川の橋を渡る。

衣の関(セキ)は、卯の木といふ処にいにしへ跡ありといふを聞て、


   時も今咲や卯の木のほとゝぎす衣が関をたち出てなけ


タ暮近く前沢をへて、六日入になりて鈴木常雄の家(モト)に訪(ト)ふ。

いにしへ此あたりはいくさのちまたにて、『続紀』(ミフミ)卅三巻、天宗高紹天皇光仁天皇の帝を申奉る〕宝亀五年云々、

「壬戌陸奥国言ス、海道ノ蝦夷忽発発シテ徒衆ヲ、焚橋ヲ塞キ道既ニ絶往来ヲ、侵シテ桃生ノ城ヲ敗ル、其西郭ヲ鎮守府之勢不能支ル、国司量テ事興軍討之」

云々なンど見え、また七年ニ月云々、

「庚辰発陸奥ノ軍三千人ヲ伐ツ胆沢ノ賊」

云々なンど見えたる地(トコロ)也。

むかしは蝦賊(エゾ)のみ多く住(スミ)たりけむ。

此鈴木の家(ヤ)の庭にいにしへより長者神と祭る社、いかなるよしにて祭り来るとも、また長者なンどいふ家(ヤド)ありし地(トコロ)とも思はれぬなンどいへり。

是を考(オモ)ふに、いにしへは姓に長者あり、また日本にて男子七人もたるを長者といふと『盛衰記』にもいへり。

また、今いふ駅(ウマヤ)の本陣といふを長者と云ひし事も見えたり。

『軍書伊勢物語』といふものに、在原ノ業平なンど将軍(イクサノキミ)にて、胆沢ノ郡に長蛇の備へをたてられし事見え、其いくさに勝利(カチ)あるをもて神をいはひ、そを、いましかけて長者神といへるにやなンど語らひ更たり。


十四日あるじ常雄、大槻清古なンどいざなひ連て水沢にいたり、しほがまの花見てむとて出たつ。

やゝその処になれば、みやどころいと/\くひろく、いつの代ならむ塩寵の御神をうつし斎(イハ)ひて、四ツの釜さへすゑまつる。

花の木あまたうゑにうゑて、けふを盛リと咲たるを人々うちながめ、歌よみ詩つくるをりしも雨いたくふりて、ぬるとも花のかげにやどらむなンどずンじつゝ見ありけば、雨はなほ、いやふりにふれば、ほゐなう人みな帰りいぬれば、我(オノレ)ひとり大林寺に入りて此寺の曇華上人を訪ひ、去年よりつもるなにくれと語り暮たり。


十五日 雨も余波なう晴たり。

けふも、きのふのみやしろの花見んとてあるじの上人をはじめ、此近きわたりの人々とともに、かの花のもとにいたる。きのふに引かへて、けふはけしきばかりの風もなく、その楽しさ、いはむかたなし。

神ぬしがひろびさしに人々円居して歌よみて、神に手酬(タフケ)まゐらせんとて社頭花といふことをよめる。


   うすくこき色はへだてど神垣に匂ふはおなじ花の真盛リ                    寛

戡(ヒロカツ)


   あすも又手向やせまし神がきに掛てぞ匂ふ花のしらゆふ          信包(ノブカヌ)


   玉垣の光もそひて咲花は神の恵のたぐひならまし             親賢(チカヨシ)


   ちはやぶる神の恵の色そへて御垣の花やさき咲匂ふらむ        僧 曇華(ドムグエ)


   芳野山こゝにうつしてさくら花あかずや神もみそなはすらむ        氏喜(ウチヨシ)


おのれも、人々とともによみて奉る。


   神垣の花の盛りをみしめ繩ながくもがなとかけていのらむ


タぐれ近くこゝを出て、大林寺に人々うちつどひかたらふほどに、けふの花見露ばかりもしらでなンどあり。

   とひ寄らむこと葉も波のへだてなく道しるべせよわかのうら人


と、常珍(ツネヨシ)といふ人のよめる返し。


   浅からずなれこしわかの浦人にこたへも波のよるもはづかし


小夜うち更るまでよめる人々の歌ども多かれど、こゝには記(ノセ)ず。


十六日 此寺の背面(ソトモ)の小田のあとロといふ処に、焼米(ヤイヨネ)をまきありく男(ヲノコ)あり。

何の料にしかするにやととへば、こは稲田に蝗(ムシ)のゐざる咒也といへり。

かくてくるれば、れいの人とら集ひ来けり。


十七日 雨ふれば、花あるかぎりはいつまでもこゝにありてなンど、曇華上人なさけ/\しう聞え給ふ。


   よしふらば雨にかさねん旅衣花にぬる夜の数ぞすくなき


十八日 ある翁のいへらく、近き山里に婚姻(ムカハサレ)あり。

片田舎(カタイナカ)にはことなる珍らしき事のみ多し、見せ申さむ、いざたまへといへば、此翁にいざなはれて水沢を出て、その山里に道はる/″\といたりて、婦(ヨメ)の隣の窓の内(ウチ)に在りてこれを見つゝしをれば、七戸(ナゝトコ)銹鉄水(ガネ)なンどをはりて其歯黒(ハグロ)母(オヤ)も来りて、外(ト)に莚(ムシロ)しき若キ女あまた来集(キアツマ)りて、此未通女(ヲトメ)が顔(カヲ)に糸剪(イトガリ)といふ事をせり。

そは麻苧(アサヲ)の線糸(ヨリイト)を左右の指(ユビ)にて、此糸をちどりがけにとりて曳磨(ヒキスル)に、顔(カホ)の生毛(ウブゲ)剃(ソ)りたる如(ヤウ)にみな落ぬ。

剃刀(カミソリ)てふものは用ひざるならはし也。

かくて髪結はて紅粉(ベニ)、白粉(シロイモノ)なンどによそひたてば、翁さしのぞきて、はや彩色(ニゴミ)しかといふ。

こは、此あたりにて物彩色(モノイロドル)事をにごむといへば、しか戯て翁がいへる也。

その婦人(タヲヤメ)に縁綱(エニノツナ)とて、能狂言儛(ワザツギマイ)婦人(ヲトメ)の鬘布(カツラ)の如に額よりあてて、後(ウシロ)ざまにむすび下ゲぬ。そは白布あり、紅布あり、麻布や絹布あり。

福者(トミウド)なンどは此縁綱(エニノツナ)、ことさらに長し。遠きは馬、近きは歩行(カチヨリ)して婿(ムコ)の家近けば、先(マツ)あら男(ヲ)、新婦(ヨメ)を負(オ)ふ也。

その負(オ)ふに肩荷布(スクヒ)、またいふ守布(モリデ)とて八尺(ヤサカ)斗りの布をもて負(オ)ひ、また守木(モリギ)とて二尺(フタサカ)あまりの丸木〔勝軍木(カツノキ)にて作る、老いて死たる死骨を、此の木を箸として拾ふ也〕を二本(フタキ)紙二重に包て、水引もて陰結(ヲンナムスビ)、陽結(ヲトコムスビ)といふ事して、此守木(モリギ)に婦人(ヨメ)の腰掛(コシサセ)て負ひもていたれば、聟の門に菅莚(スガムシロ)重敷(カサネシキ)ぬ。

聟の莚を上へに婦(ヨメ)の莚を下タに重ぬべきを若雄等(ワカヲラ)、婦(ヨメ)の莚を上へに布(シキ)てむとあらそふ。

壻(ムコ)の莚の下になれば聟の方のいみじき恥(ハヂ)なれば、互に小刀(コガタナ)手毎に持て大あらがひせり。

老たる人出て、是を貰ひといふ事して左右(ミナ)しづまれり。

ニツ結びのあぶら少竹筒(サゝエ)、あるは守木(モリギ)のうけとり渡しに天地和合の掌(テ)、入リ手、出(ヒラキ)手なンどあり。

聟の袴もて出て、嫁を重ね莚におろして水を飲(ノマシ)め、かの袴を婦人に着ぬ。

そは前襞襀(マへヒダ)を後(ウシロ)へ、後腰(ウシロゴシ)を前へに当(アテ)て、聟の家の横座(ヨコザ)踏(フメ)ば袴は取(ヌギト)りぬ。

此夜はゆめ/\蠟燭を用ひず、みなあぶら火、巨松也。世に八寸台といふものを九寸といひ、平器(ヒラ)てふものを角(カク)といひ、その外古実(フルメケル)風(フリ)多し。

かくて夜ふかく、馬にて水沢に皈りつきたり。
かねて、一夜をやどりねなンど、ねもごろ聞えたりしかば祥尚(ヨシヒサ)の家(ヤド)を訪(ト)へば、あるじ、まちわびつるなンどかたらひ更て、祥尚。


   いひ出む言葉は露も夏ノ夜の庵にやどれる月の涼し


とありける返し。


   ことの葉のつゆの光もなほはえて心涼しき月の小夜中

 

 

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難しくて面白い漢字の世界④ 漢字文化圏の国々

ウィキペディア」の中国語版である「維基百科」の関連サイトの「維基文庫」が、中国の古典書籍の宝庫であることを、先日書いた。

これを、このところ眺めていたが、中国の古典だけではなく、中国の周辺の漢字文化圏の国々に関わる書籍も数多く収録されているのである。

先日、漢字について書いたときに、ユニコードという文字コードの中の漢字に関する集合について、「CJKV統合漢字」と呼ばれていると書いた。

もちろん、これは、漢字を用いている言語、中国語、日本語、朝鮮語ベトナム語の頭文字から取られたものである。

それぞれの言語において、漢字との関わり方は、大きく異なっている。

中国との関係が深かった朝鮮やベトナムの歴史書は漢文で書かれて残っている。

 

ベトナム語は、かつては日本語と同様に、漢字を応用した独自の文字チュノムを使って、漢字と混ぜて表記していたという。

それでも、フランスの植民地になったこともあり、ラテン文字が使われるようになっている。

同じように、朝鮮語においても、表音文字であるハングルを作り出した。

上流社会はもっぱら漢文を用いて、ハングルは下流社会で使われていたようだ。

しかし、ベトナムも朝鮮も、第二次世界大戦後に、漢字の使用を禁止していて、漢字は使っていないようである。

日本もまた、漢字から表音文字であるカタカナとひらがなをつくりだして、漢字とともに使うようになった。

 

「維基文庫」の史書の部の中心をなすコンテンツは、中国の各王朝の正史である。

司馬遷の「史記」が、最初にあって、

そこからずっと降って、最後の方に周辺国の歴史書が並んでいる。

さらに、周辺国の下の方に「越南」(ベトナム)、「朝鮮」とあって、次に「日本」がある。

でも、これで終わりではなく、「琉球」、「南洋」と続く。

南洋のリストに、「蘭芳年冊」とあるが、「蘭芳」というのは、中国からの移民が18世紀ボルネオに作った共和国ということである。

中国語を母国語としない国々が、漢字とどのように付き合ってきたかを考えると、興味深いものがある。

とは言っても、ベトナムも朝鮮も漢字とは決別していて、いまだに漢字を使っているのは日本だけである。

漢字を捨てたとは言っても、ベトナム語朝鮮語も語彙が漢字語から来ているものが、圧倒的に多いようである。

それは、日本語のことを考えてみても、わかる気がする。

もしも、日本語をひらがなとカタカナだけで表示してみたら、どういうことになるか。

表意文字の漢字からできた言葉を、表音文字のひらがなで書いてあったら、たぶん理解が難しい。

同音異義語で、あふれてしまうだろう。 

ベトナム語朝鮮語は、どうなっているのだろうか。

 

私は、名字、苗字など、人に名前に興味があるので、世界各国の状況を調べたことがある。

ベトナムも朝鮮も、姓は中国式である。

朝鮮では、高句麗新羅百済三国時代に、唐の姓を採用したが、それまではまったく違うものだった。

「世界各国姓事情」のサイトから、最初の部分をコピーした。

阿首至(アシュチ)、夷他(イタ)、夷呑奚(イドンケイ)、伊羅麻酒(イラマス)、

久取柔利(クスヌリ)

そういえば、日本書紀とか古事記だったかに出てる半島からの帰化人の名前は、こんな感じだった気がする。

まだ中国式ではなかったな。

いくら、漢字と決別しようとしても、名前まで元に戻すことは難しいのだ。

 

周辺国の歴史書のリストを眺めていた。

台湾の項に、「台湾通史」、東北の項に、「渤海国史」、

蒙古に、「蒙古秘史」(元朝秘史)、越南に、「越史略」、朝鮮に、「三国史記」。

書名は見たことがある気がするけれど、読んだことなどない。

つい、ダウンロードをしてみた。

全文漢字なのに、そんな気になってしまったのは、中国語から日本語への翻訳が、ブラウザで可能なことに、しばらくまえに気がついたからである。

使いものになるかどうかはわからないが、やってみる価値はありそうだ。

 

こんなことをやっていて、思い出したことがある。

学生時代に、中国語を勉強しようとしたことがあった。

第二外国語を選択する必要があったのだが、私は中国語を選んだ。

第一外国語は、必修なのでもちろん英語にした。

第二外国語は、必修ではなかった。

国語学部のある学校だったので、フランス語とかドイツ語、そのほかにもあったかもしれない。

でも、私は迷わずに、中国語を選んだ気がする。

どうしてだろうかと考えると、「時代」だった気がする。

その頃は、日中関係が、今では信じられないくらいに良好だったと思う。

日中国交回復がいつだったのか、調べてみたら、1972年9月に田中首相が北京を訪問し、日中共同声明を発表してからである。

私が入学したのは、1972年4月だからその時点では、日本は中華民国(台湾)と国交があったわけで、正確には「国交回復」ではなく、「国交正常化」である。

 

その頃の私は、西洋史にはあまり興味がなかった。

フランス語やドイツ語について考えてみることもなく、中国語に決めた。

ところが、必修ではない中国語は、すぐに諦めてしまった。

田舎から上京したばかりの、新入生にとっては負担が大きかったのだと思う。

二回か、三回講義に出ただけで、終わってしまった。

中国語について、私の記憶に残っていることは、ほとんどない。

中国語では、

「父親はパーパで、母親はマーマである。」こと。

四声という声調があって、音の高低がある。

「マーマ マ↘︎ マ↗︎」

これで、「母が馬に乗る」だったと思う。

 

もしも、私が中国語の講義を、しっかりと二年間受けていたら、どの程度のものを身につけていたのだろう。

まあ、今さら考えてもしょうのないことである。

今は、翻訳機能というPCの力を借りて、やってみることにしよう。

 

 

 

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はしわのわかば④ 菅江真澄テキスト

十日 けふもさるがう舞あり。

こよひまた一夜なンどあれど、風なぎたれば、此あたりの花のちり残るも見まほしく、また春のころ見し逹谷(タツコク)ノ窟(イハヤ)、桜原といふ処は名さへおもしろければ、ふたゝびとて平泉を出たつ。

むかし悪路王ひそかに都に登り、葉室(ハムロ)ノ中納言某ノ卿の御娘ひとところおはしけるを盗みとりて、此窟(イハヤド)に隠れ住けり。

都人あまた尋ね来つれど、一とせ花の盛に飲(ノミ)に呑(ノミ)て酔(ヱイ)ふしたるに、姫君桜原を逃出て、人にいざなはれ都に皈り給ひしよしを云ひ伝ふ。

また出羽ノ国雄勝ノ郡にも阿具(アグ)呂王が窟あり。

また此達谷(タツコク)が岩屋といふは達谷麿(タカヤマロ)が栖家(スミ)し窟(イハヤド)ならむかし。五串(イツクシ)村(達谷の西南ニキロ)に来る。此村名は五十櫛の(イグシ)こゝろもこもり祓串のよしもあらんか、美麗(ウツクシ)てふ名にして山水清く、飛泉(タキ)のさま、たぐひなう儼然(イツクシ)ければしかいへるにや。

厳美(イツクシ)ノ神ませり。

此神の神社(ミヤシロ)とてはあらねど、瑞玉山(ミヅタマヤマ)の奥に旧(フル)き宮地(ミヤドコロ)の跡残れり、今はそのあたりを水山邑(一関市瑞山)の山王が窟といふ。

此奥に平泉野といふ地(トコロ)あり。

大日山中尊寺の趾、高林山法福寺の蹟、栗駒山法範寺の跡、尼寺の趾、円位法師の庵の趾あり、骨寺の跡あり。此あたりの寺々を、むかし七十四代鳥羽院の御宇(オホムトキ)、天永、永久のとしならむか、此平泉野より今の関山にうつし給ひしかば、そこも平泉の里となれり。今の平泉に逆柴山といふ名あり、是も旧(モト)平泉に在る山(ヤマ)の名也。

骨寺の事、尼寺の事は選集抄に見えたり。そは、こと処につばらかに記(ノセ)たり。

五串の滝とて人みなめでくつがへる飛泉(タキ)にのぞめば、玉の滝、またの名を小松が滝ともいふあり。

京田滝、あたら滝、大滝、童子滝、はかり滝、魚屋滝(ナヤタキ)、麻一挊(ヲガセ)の滝なンど滝は平ラ飛泉(タキ)ながら、こゝら立するどき岩にせかれて、はざま/\に、しらねりかけたるがごと白淡涌キかへり、日影うつろひて紫の波うち寄る岸には、桃、山吹、柳、さくらの枝さし交りて、世にたとへつべうかたなし。なほあきたらず見彳(タゝズミ)て、


   落滝の水いつくしく画(ウツス)ともいろどる筆のえやは及ばむ


ふたゝびこゝにいたりて、奥ふかく、ねもごろにたづね見まく、こたびは田面(タヅラ)の路を来に、しめ引はえたり。


   水ナ口に立てぞ祈る時は来ぬ五串(イグシ)の小田にもゆるなはしろ


山ノ目の駅(ウマヤ)(一関市)に出て大槻清雄の家(ヤド)を訪(ト)へば、しばらくありて清古筆をとりて、


   珍らしなけふに待えし時鳥聞もはつねのものがたりして


返し。


   此宿に聞クもめづらしほとゝぎすけふをはつ音の人のことの葉


小夜すがら語らひふしぬ。


十一日 大槻の屋戸よりはいと/\近き配志和神にまうづ。

杜(モリ)の梢は花ちり若葉さし、まだ咲やらぬかた岨の木々もめづらし。

鳥居の額は土御門泰邦卿の真蹟(カキ)給ひしといふ、手風(テブリ)ことにめでたし。

そも/\此神社(ミヤシロ)は、斎(イツキ)奉(マツ)りしよしを云ひ伝ふ配志和ノ社ノ内は皇孫彦火瓊々杵ノ尊、左方は木花開耶姫命、右方は高皇産霊尊也。

また神明ノ御社をはじめ八幡ノ社、鎌足ノ社、安日ノ社、神星ノ社、土守ノ社、かゝるみやしろ/\にぬさとりくま/″\見ありくに、菅香梅とて、よしある梅も青さして、こゝにも老姿(ウバ)杉とて千年(チトセ)ふりけむ、枝のなからに山桜の寄生(ヤドリキ)ありて花いたく咲たり。

なほ木(コ)のもとにふりあふぎて、


   いつまでもちらでや見なむ杉が枝の花もときはの色にならはヾ


此処(コゝ)に菅神の御子ひとゝころさすらへ給ひしよしを云ひ伝ふ。

むかしは梅のいと/\多かる地(トコロ)にて乱梅山といひ、蘭梅山と書(イ)ひ、また梅が嶺といひ梅が森といふ。泰邦卿の歌に、


「みちのくの梅もり山の神風も吹つたへこしわが心葉に」


此御神は『文徳天皇実録』四巻、仁寿二年八月乙未云々「辛未陸奥国伊豆佐咩ノ神〔宮城郡、式、伊豆佐売神ませり〕登奈孝志神〔気仙郡、式、登奈孝志神ませり〕志賀理和気ノ神〔斯波ノ郡、南部にませり〕並加正五位下ヲ、衣多手(キヌタテ)〔気仙郡、式、衣太手(キヌタテ)ノ神マセリ〕石神(イハカミ)〔桃生ノ郡、式、石神ませり〕理訓許段神〔気仙郡、式、理訓許段ノ神ませり〕配志和ノ神〔磐井郡、式、配志和ノ神ませり〕儛草ノ神〔磐井郡、式、儛草ノ神ませり〕並ニ授ヲ」云々と見え恵恵マツ)らむ、安日ノ社は、神日本磐余彦天皇の官軍(ミイクサ)をそむき奉りし長髄彦ナガスネヒコ)の兄なる安日、其御代に津軽の十三ノ湊に流(ナガ)さる。

其後(スエ)阿陪(倍)ノ頼時出たり。

貞任、衣が柵(タテ)にすめり。

此梅森山霊地にして、おのが館もいと近ければ、上祖(トホツミオヤ)の安日を神と斎奉(イツキマツリ)りけむものか。

神星ノ社はしらず。

また貞任の男(コ)高星二歳(フタツ)のとき、乳母がふところに抱て乱レを避(サケ)て、津刈(ツガロ)の藤埼に隠れてそこにすめり。

高星子あり、月星といふ。其塚ども河岸にありしかば、崩(コボレ)うせて水ナ底に棺(ヒトキ)の落たるが井桁の如(ヤウ)に見ゆれば、そこを井戸淵(ブチ)といひしが今は名のみ也。

また河越某なる畠の字(ナ)に高星殿、月星殿と、近きまで云ひしといへり。

阿倍ノ高星の旧跡(アト)は藤崎に残れり。

土守ノ社はゆゑよしもあらむ、いとふるめける神ノ号(ミナ)也。

また津軽の妙見ノ社の枝神五十嶋(イガシマ)ノ社あり、蝦夷を斎(マツ)るといふ。是(ソ)は斉明紀(ミフミ)に在る問■(少+免)(トヒウ)ノ蝦夷胆鹿嶋、■(少+免)(ウ)穂名といふ、其功(イサヲ)あるをもて葬し、塚に祠や建けむ。伊賀志麻といふ夷ノ名今も有なり、いがしまとは物の余(アマ)る事にて、十有(イガシマ)某(イクラ)といふ詞也。

蝦夷人名を付るに、其童(ヘカチ)、又女童(カナチ)が癖を見て付れば、世にいふ醜名(シコナ)多し。

又問(トヒ)■(少+免)(ウ)といへるところ、同津刈(軽)の比良内(ヒラナイ)〔夷語(エゾコトバ)のヒルナヱのうつりたる也〕の藻浦といふ処の畠字(ハタナ)になりて、いまそこを太夫と云ひ、その近きに蛇口(ジャグチ)といふ蝦夷住し処といふ。

かゝる事をおもへば、恐(カシコ)き事から、神に勲位のおましませるがごと、忠誠(イサヲ)ある人とらは神と、むかしは斎(マツリ)たらむかし。

いざ皈りなむとて出たつに、人あまた居ならびてうたうたひ酒のむを見て、


夫木集「もろ人の岩井の里に円居してともに千とせをふべきなりけり」


と清古ずンじつゝ語らひ連て、大槻のもとにつきたり。

 

 

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欧米人のおなまえ④

サッカー日本代表の2次予選の試合をテレビで見た。

アウェーのミャンマー戦だった。

試合は、力の差が大きく、ホーム戦と同じスコア、5-0で日本が勝利した。

名前好きの私が、試合を見て感じたのは、ミャンマー選手の名前である。

こんな、スタメンだった。

チョウ ジン ピョー   エイン ピョー ウイン   ソー モー チョウ   

ズヴェ テッ ミン   テッ エイン ソー   チョウ ミン ウー   

ルイン モー アウン   マウン マウン ルイン   ネイ モー ナイン  

ウェ リン アウン   オーカー ナイン

だいたい、三つの音節?からできている。

これって、ベトナムの名前に似ているじゃないかな。

ベトナムの、「ホ チ ミン」 とか 「グェン バン チュー」 とか、漢字からきているということだった。

ミャンマーも、同じなのだろうか。

 

調べてみたら、まったく違っていた。

ミャンマー人は個人名のみで姓を持たない者が大多数である。」(姓氏語源事典)

そんな国があるということは、どこかで聞いたことがある気はするが、現在でもあるのだ。

姓の総数というか、個人名の総数が、たったの6920個なのだそうだ。

でも、ミャンマーは、人口6000万人近い国である。

おんなじ名前だらけに、なるんじゃないか。

そこで、名前に敬称をつけることで、区別する。

たぶん、もっとも知られているミャンマー人は「アウン サン スー チー」さんだろうか。

「アウン サン」は、「日曜日生まれ」ということで、日曜日生まれの「スー チー」さんなのだそうだ。

ミャンマー国内では、「アウンサンスーチー」というようにひとまとめで表記する。

各曜日ごとに、名前につける音節がある、となってる。

男女共通の名前が多いので、地位や年上年下のよる敬称をつける。

子どもの頃、国連の「ウ・タント事務総長」という有名な人がいた。

この人は、ミャンマー人(当時はビルマ人)で、第3代国際連合事務総長だったが、「ウ」は敬称で、男で年が上の「タント」さんということらしい。

 

 ヨーロッパにも、姓の無い国があるのを読んだ記憶があるのだが、思い出せない。

調べたところ、「アイスランド」だった。

姓を持たないので、個人名が43026個であるが、姓の代わりに「父称」を用いる。

父の個人名に、「〜の息子」の-son,-ssonと「〜の娘」-dottirをつける。

ステファンの息子であるパウロは、「パウロ・ステファンソン」というように。

ヨーロッパに姓が普及する以前の10世紀前後に、先祖がアイスランドに移住したために姓が普及しなかったということのようだ。

ということは、10世紀以降にヨーロッパでは姓が普及していった。

そのほかの姓のない国は次のとおりだが、イスラム系では、イスラム教徒名に準ずる形の複雑なものが使われる。

アフガニスタン イスラエル エチオピア カンボジア チベッット ブータン モンゴル ルワンダ

 

この「欧米人のお名前」は、ユダヤ人の名前一覧のサイトを見つけて、いかに欧米人が聖書由来の名前を使っているかに気がついて、書き始めた。

聖書に登場する人名、つまりユダヤ人の名前が、キリスト教の普及とともに、まったく文化の違う社会に普及して行ったのだ。

途中のままで中断していたことに気がついたので、再開する。

イスラエルには、姓が無いということだが、なるほど、聖書に登場する人物には、姓がなかったと思うが、現在も無いのだろうか。

 

Levi(リーバイ、レビ)
ヘブライ語では、「固着する」という意味だが、聖書では、ヤコブイスラエル)の息子でモーゼの先祖になった人の名前。

私にとっては、リーバイスといったら、「ジーンズ」だな。

リーバイス社は、サンフランシスコで、帆や幌用の生地で、作業用パンツの製造からスタートしたらしい。

 

Leviathan(リヴァイアサンレビヤタン
ヘブライ語、Livyatan で、正体不明の巨大な水棲動物。

歴史の教科書でおなじみの、哲学者ホッブスの有名な政治哲学書の書名。

 

Mary,Maria, Marie(メアリー、マライア、マリー、マリア)
ヘブライ語、Miryam (ミルヤーム)が、ギリシャ語では Mariam (マリアム)になる。

旧約聖書では、モーゼの姉の名前 。

初めて見たミュージカル映画「ウエストサイドストーリー」で、ナタリー・ウッドが演じたのが、「マリア」だった。

メアリー・ホプキンは、私が中学生の頃に、「悲しき天使」という曲が世界的なヒットになった。

ポール・マッカトニィーがプロデュースしたことは知っていたが、原曲はロシアの曲で、英語の歌詞をつけたものだったということは今回はじめて知った。

この名前の有名人は、何人いることだろう。

 

Matthew(マシュー、マタイ)
ヘブライ語、Mattityah あるいは Mattanyah で、「ヤハ(神)の贈り物」。

ギリシャ語では、Maththaios (マッタイオス)になったという。

マタイ受難曲」のマタイなのか。

 

Messiah(メサイア、メシア)
ヘブライ語、Mashiach (マーシーアハ)より、「(頭に)香油を塗られた人」。

独立を失った古代ユダヤ人が待ち望んだのは、王のような救い主だったので、「メシア」が「救世主」の意味になったとのこと。

「メシア」のギリシャ語訳が、Khristos (クリストス) で、イエスを 「キリスト」 と認める宗教がキリスト教なのだそうだ。

そうか、ヘブライ語からギリシャ語に置き換える時に、だいたいは似た響きのことが多いけど、この場合はまったく違った響きになっている。

 

Michael(マイケル、ミヒャエル、ミカエル、ミシェールミハイル)
ヘブライ語、Mikha'el (ミーカーエール)より、「誰が(ミー)、神(エール)」

もとは、同じなのに、「マイケル」と「ミシェール」とは、ずいぶんと違った感じがする。

もっとも有名な「マイケル」は、「マイケル・ジャクソン」か?

 

Moses(モーゼズ、モーゼ、モーセ
ヘブライ語では、Mosheh (モーシェ)。「(水の中から)引き上げられた者」の意味で、古代イスラエルの指導者。

はじめて「モーゼ」って名前を知ったのは、映画「十戒」かな。

モーゼが、海を割って道を作り、後から来た追手は海に呑み込まれた。

高校生の頃、映画少年だったけど、やたらとエジプトとか聖書ものとかの映画が多かった。

それも、ずいぶん金をかけたスペクタクルなヤツ。

エリザベス・テーラーとか、リチャード・バートン、それに若かりしユル・ブリンナーもその頃見たような気がする。

 

Naomi(ナオミ)
ヘブライ語、No`omi (ノオミー)より、「快い」。

「ナオミ」は、日本にもある名前だ。

まず、思い浮かぶのは、冒険家、登山家「植村直己」。

マッキンリーで、消息不明になったのが、1984年か。

その前に、彼の著作を何冊か読んでいた。

「ナオミの夢」という曲があって、日本でもヒットした。

「ヘドバとダビデ」というイスラエルの男女デュオだった。

この曲は、1970年というから、俺は高校生か。

ヤマハ主催の東京国際歌謡音楽祭の第1回のグランプリだったのか。

インターネットも無いのに、おもしろい時代だったのだな。

ナオミ・キャンベルが有名になったのは、ずっと後かな。

 

Nathan(ネイサン、ナタン)
ヘブライ語、Natan (ナーターン)より、「(彼は)与えた」。

Nathan East「ネイザン・イースト」は、エリック・クラプトンのバックバンドのベーシスト。

何回かの来日ライブや、2年ほど前の映画「ロックダウン・セッションズ」にも、彼の姿があった。

 

思いつくままに、とりとめもなく、書き連ねてしまった。

落書きのようなブログなので、ご容赦ください。

 

 

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難しくて面白い漢字の世界③ 「三国志演義」と「封神演義」

 若い頃に、横山光輝さんの「三国志」を読んでいた。

なんと、全60巻という大作である。

タイトルが、「三国志」となっているが、原作となっているのは、史書である「三国志」ではなく、説話である「三国志演義」である。

同じ頃に、「水滸伝」や「項羽と劉邦」も、横山さんの作品で読んでいた。

漫画が先で、その後に文庫版で原作を読んでいたものだ。

私が小学生の頃読んでいた漫画の「鉄人28号」や「伊賀の影丸」も横山光輝さんの作品だった。

そして、20年ほど前に、横山さんは自宅の火事で亡くなって、それを新聞記事で知った。

ウィキペディアの記事によると、彼の遺作は「殷周伝説」である。

殷周伝説」は、中国の伝奇小説「封神演義」を題材にしたもので、『武王伐紂平話』をベースに、『史記』も参照にして描かれている、となっている。

封神演義」で思い出したのは、我が家の息子たちがまだ子どもの頃に、横山さんではない漫画家が描いた「封神演義」という作品が、我が家でブームになっていて、私もいっしょに読んでいた。

調べてみたら、「藤崎竜」さんという漫画家だった。

伝奇小説がベースなだけに、「三国志」とは趣の違う、荒唐無稽と言っていいような作品だった。

全22巻のこの作品を、横山さんは死の前年まで、描き続けていたそうだ。

それを知ったら、読んでみたくなってしまった。

困ったものである。

近所からレンタルショップが、どんどん無くなっていて、漫画好きの妻は困っている。

できれば、これからは本は買いたくない、とは思っているのだが。

 

三国志」などの歴史書を、ネットで検索していると、中国語のサイトが出てくることがある。

中国や台湾の大学だったり、研究者らしいものだったりする。

かつては、外国語のサイトの文章を読みたいときは、翻訳サイトを利用していた。

外国語の文章をコピーして、翻訳サイトに貼り付けて、翻訳ボタンをクリックすると、日本語に翻訳した文章が表示された。

英語のページを翻訳すると、不思議な日本語なってしまっていた。

読んでいると、気持ち悪くなってしまう文章であることが、ほとんどだった。

なぜだろうか。

英語と日本語が、あまりにも構造的に違いすぎる言語だからだろうか。

ブラウザ自体に翻訳機能が組み込まれていることに、最近気がついた。

そこで、中国語のページを翻訳してみた。

そうしたら、ほとんど違和感のない、自然な日本語になっていた。

読んでいても、あまり変な表現に出会わない。

昔よりも、翻訳の能力が上昇したのだろうか。

最近は、AI、AI、とうるさい。

AIというのは、「人工知能」のことということなので、その性能が良くなっているのだろう。

それとも、中国語と日本語の相性の問題だろうか。

 

ウィキペディアの関連サイトである「ウィキソース」には、「フリーコンテンツ」が収録されている。

日本語版のサイトは、次のように分類されている。

歴史、宗教、数学、音楽、文学、法令、議会決議、演説

 

ja.m.wikisource.org

 

ウィキソースの歴史ジャンルのリストを見ていて、気がつくのは、漢文で書かれてたはずの文献がほとんど収録されていないことである。

かろうじて、「古事記」と「日本書紀」はある。

しかし、そのページを開くと、国立国会図書館のデジタル映像データへのリンクがあって、テキストデータへのリンクは、なんと後で述べる中国語版「維基文庫」になっている。

続日本紀」、「日本後紀」など、「六国史」については、書名もない。

鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」や、江戸幕府編纂の「本朝通鑑」も、同様である。

そのようなものは、まだ整備されていないのである。

漢文表記でないものが、なんとか収録されている状況であるということになる。

 

ウィキペディアの中国語版は「維基百科」である。

そして、フリーコンテンツを収録しているウィキソースにあたるものが、「維基文庫」である。

zh.m.wikisource.org

日本語版のウィキペディアは、収録項目数が142万を越えているが、中国語版「維基百科」も現在すでに140万を越えているらしいので、近いうちに逆転するだろう。

これに対して、ウィキソースは、14727本の資料数であるが、中国語版「維基文庫」は、460494篇と、圧倒的な収録数である。

内容の分類も

典籍 | 史書 | 小说 | 诗歌 | 散文 | 演讲 | 歌词 | 經書 |

となっていた、具体的なリストを見ると、まだまだ不十分な整備状況である日本語版に比べて、さすが漢字の国であり、書名だけは知ってるもの、はじめて知るもの、とにかくすごい。

興味をそそられるが、なにしろすべて漢字である。

この中で、「史書」については、王朝ごとの分類のほかに、地域別の分類もある。

漢字文化圏の、ベトナム、朝鮮、に続いて、日本の文献も収録されているし、さらに琉球をも含んでいる。

 

「小説」のジャンルは、次の様に分類されている。

奇怪、恋愛、話本、神魔、歴史演義、英雄伝奇、公案、世情、古典白話、風刺、譴責、、

このうちの、歴史演義に、「三国志演義」や「封神演義」もある。

神魔には、「西遊記」があるが、このほかに「続西遊記」など関連してものが8編もある。

北遊記」、「東遊記」、「南遊記」もあるのに驚いたが、これは「北への旅」という様な意味らしく、「西遊記」とか関係なさそうだ。

水滸伝」は、英雄伝奇のなかにあるし、「金瓶梅」は世情というジャンルだった。

 

中国語の世界では、これらの漢字文化圏の文献は、すでにテキスト化されているので、自国の歴史的な文献と同様に対応できる。

中国、台湾、日本と、漢字とは言いながら、現代では違う字体を使用している。

しかし、過去に遡れば、すべて繁体字であり、共通の漢字であり、共通の財産として、共有できるという気がする。

遡るほど、朝鮮、ベトナム琉球、モンゴル、チベット、と広がっていく。

そう言えばヨーロッパでは、「ラテン語」というのがあったな。

似たようなところが、あるものだろうか。

 

 

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電化製品の壊れ方

電気炊飯器が、壊れた。

いつものように、予約機能で、炊き上がり時間を選んで、炊飯ボタンを押す。

ところが、エラーマークが出て、セットできない。

エラーは、「中ぶたが閉まっていない」ということらしい。

なかぶたを確認すると、しっかりと閉まっていた。

もう一度やってみるが、同じ結果である。

どうしても、前に進めない。

強制的に、炊飯してしまう、ということができない。

ひとつつまづくと、どうにも前進できなのだ。

なんか、世の中に、他にもありそうな事態である。

どうしたことだろう、と考えてみる。

たしか、前日、妻が中ぶたをはずして、掃除をしていた。

 

さっそく、象印のサービスセンターに電話をしてみる。

担当の方に、状況を話すと、「それは、センサーの不具合だろう。」ということだった。

修理を依頼すると、基本料金が5000円で、それに部品代がかかるという。

お得意様登録をすると、部品代はほとんど負担なしになる。

どうするか、考えてみた。

この炊飯器は、かまどだき風が売りの製品で、中釜が黒くコーティングされている。

「南部鉄器極め羽釜」となっていて、中釜が重めなので、鉄製なのだろう。

しかし、コーティングは寿命があるらしく、2年ほど使ったら、剥がれて交換したことがある。

たしか、ご飯好きの次男が買ってくれたもので、かなり高めのものだと思う。

www.zojirushi.co.jp

 

そう言えば、以前にも電気炊飯器が壊れたことがある。

東日本大震災の日、私は人間ドックの当日だったので、病院からそのまま帰宅した。

最寄駅で下車して、歩き始めたら、突然大きな揺れがきた。

しばらく、駅前でしゃがみ込んでいた。

やっと揺れが治って、歩き始めたら、途中で何度か揺れた。

自宅は、そんなに被害というものはなかった。

ただ、電気炊飯器のフタが空いていた。

フタを閉めようとしたが、壊れていて、閉まらなかった。

地震の揺れで、揺さぶられて、壊れて開いてしまったのだろうか。

それとも、しっかり閉まっていなかったのが、空いてしまって、その状態で揺さぶられて壊れたのか。

いずれにしても、想像を超えた壊れ方だった。

そのままでは使えないので、買い換えるしかなかった。

 

私たちは、電化製品に囲まれて、生活している。

身近な、冷蔵庫や洗濯機も、今までに何回も、壊れたことがある。

毎日必要なものなので、切羽詰まって、買い換えている。

でも、突然壊れてしまうということは、ないな。

なんかの、前兆はある。

たいていの最近の電化製品は、コンピュータが組み込まれている。

それによって、メニューを選べば、決まった動作をしてくれる。

炊飯器も、修理となれば、結局は基盤ごと交換ということになるのだろうな。

あらためて、身の回りにある電化製品をながめて見る。

電子レンジも、パン焼き器も、小さなディスプレイがついている。

こんなのは、コンピュータ内蔵だろう。

オーブトースターは、ボタンとダイヤルがついていて、アナログだ。

古いオーディオ・アンプ、これには一応ディスプレイはあるが、ボタンとダイヤルが、やたらと多い。

コンピュータが組み込まれるようになる、その前の段階なのかな。

 

帰ってきた妻に話すと、とりあえず今日は土鍋で炊いてみる、ということになった。

そういえば、前日土鍋で炊き込みご飯を作っていた。

それにならって、やってみるということだ。

とりあえず、なんとかご飯は炊けた。

翌日は、土鍋ではなく、普通の鍋でやってみた。

我が家にには、「ビタクラフト」という、長年愛用の鍋がある。

表面的には、普通のステンレスの鍋で、中、小の鍋、フライパンがある。

やや厚手で、多層構造になっているようだ。

無水調理、無油調理ができるということで、高価だったと思う。

最初に高温にすれば、あとは火を消しても、保温の状態で調理できる。

40年近く使っているので、取っ手のネジが緩みやすくはなっているが、鍋本体はまったく問題がない。

www.vitacraft.co.jp

 

中の鍋で、ご飯を炊くことにした。

米を研いで、水を加えて、用意する。

ガステーブルで、やや、強火ではじめて、ふっとうして、ふたがガタガタしたら、弱火にする。

弱火で10分、それから火を止めて15分蒸らす。

たった、これだけで、ご飯が炊けた。

焦げてもいないし、ふっくらとふつうのご飯である。

電気炊飯器だと1時間近くかかるが、ガスだと30分くらいだ。

やっぱり、ガスの方が火力が強いのかな。

思ったよりも、簡単で、手間要らずだ。

二、三回やってみたら、これなら電気炊飯器いらないや、と思った。

沸騰して、弱火にするまで、4、5分だけ気をつければ、あとは手間はない。

 

子供の頃、「はじめてチョロチョロなかパッパ」などと、言われた記憶がある。

これは、本物のかまどで、お釜使った炊き方だろう。

たぶん、鍋の中を高温に保つのが、ポイントらしいので、ふつうの鍋だと気を使う必要がありそうだ。

我が家の場合は、無水鍋を使えたので楽ができる。

という訳で、たぶんこの先、電気炊飯器を買うことはないだろう。

 

 ところで、先日の記事で、日本初のOSを発信しようという「トロン・プロジェクト」というものが、あったということを書いた。

そして、パソコン用のOSとしては、Windowsに敗れたけれど、全てが過去形ではない。

坂村健氏が掲げた「どこでもコンピュータ」という「組み込み用OS」は、現在かなりの電気電子機器の中で、生きているらしい。

「Nintendo Switcthやプリンタのカラリオをはじめ、主に炊飯器・洗濯機・カメラ・ゲーム機などと言った日本メーカーの家電製品に搭載されたマイコンを制御するための組み込み用OSとして、広く使われている。」(ウィキペディア日本語版)

monoist.itmedia.co.jpv

 

 

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難しくて面白い漢字の世界② 「超漢字」と「今昔文字鏡」

何万字、いや、十万字を越えるという漢字のことを考えていて、思い出したことがある。

ずいぶんと昔のことだけれど、ほとんどすべての漢字を使えるということを売りにしたアプリが、話題になったことがある。

たしか、そんなアプリが二つあったと思うのだが、どうしてもその名前が思い出せない。

思い出せないということは、その後表舞台から消えてしまって、記憶に残っていないということだ。

何か手がかりがないかと考えていて、そのうちのひとつが、「トロン・プロジェクト」というものから生まれたらしいことを思い出した。

 

「トロン・プロジェクト」は、日本のコンピュータ界の第一人者の「坂村健」さんという方が推進していた活動だった。

私は、インターネットについて知りたくて、彼が書いた岩波新書を読んだような気がする。

たまたま、その本が「坂村健」さんの著書だった訳で、そんなすごい人とは知らなかった。

だから、20年以上前のことになるはずだ。

そこで、彼について調べてみたら、漢字がなんでも扱えるのは、「超漢字」というものだったことがわかった。

超漢字」はアプリではなく、これ自体がOSだった。

マイクロソフトWindowsやアップルのiOSと同じような、OSである。

「トロン・プロジェクト」は、日本発のOSを開発する幅広い試みだったらしいが、私には難しすぎて、理解が困難である。

超漢字」は、このプロジェクトのうちのBTRONをパーソナル・メディア社が移植し、32ビットパソコン用のBTRON3.0仕様OS「B-right/V」を発売し、1999年にバージョン2以降より、多漢字を扱えることをアピールする名称に変更した、ということだ。

ja.wikipedia.org

パーソナル・メディア社のサイトを見ると、「超漢字」は現在も発売している。

最新版は、「超漢字Ⅴ」であり、サポートページも生きている。

しかし、「超漢字Ⅴ」は2006年発売されたもので、2011年のバージョンアップ版が無償ダウンロードできる。

そして、Windows上でも動作するようになっている。

かつては、Windowsに対抗するOSとして出現したものだったが、Windowsに敗れたということだ。

当時は、多漢字を使用できるということで、「漢字研究者やお坊さん、人名を扱う官公庁や自治体関係者などに主な需要があった」(ウイキペディア日本語版)、らしい。

www.chokanji.com

超漢字の製品紹介より

18万種類以上の漢字が使えることになっている。

 

もうひとつの、アプリはなんだったのか。

考えてみて、思いついたのは、「万華鏡」みたいな名前だった、ということだ。

ネットで、いろいろあたってみて、やっとわかった。

今昔文字鏡」というアプリだった。

エーアイ・ネットという会社が、発売していた漢字検索ソフトと印字用フォントと組み合わせたソフトウェアだった。

初版は、1997年発売で、単漢字8万字ということで、Windows 95版だった。

2010年のものが最終版で、単漢字16万字で、Windows10で使えるらしい。

私の記憶では、学者の方々が開発されたものという感じだったが、確かに「文字鏡研究会」という名前がメインにある。

ja.wikipedia.org

しかし、調べてみると、中心人物はエーアイ・のネットの「古家時雄」という方だったらしい。

「文字鏡研究会」の副会長でもあった彼が、2018年に亡くなった後、会社は解散し、ウェブサイトも無くなっている。

検索してみたら、かろうじてアーカイブライブラリに、かつてのデータが残っていた。

 

https://archive.md/D7zJv

 

 

このアプリケーションソフトについての、法的な権利については、曖昧なままになっているらしく、使用がむずかしいような印象である。

「文字鏡研究会」には、多くの研究者たちが関わっていたようなので、その成果がそんな状況にあるのは、気の毒な気がする。

 

超漢字」も、「今昔文字鏡」も、開発が始まったのは、1997年とか1998年頃である。それがなぜか、2010年ごろには、進展が止まってしまっているようだ。

だから、私の記憶からも消えてしまった訳だ。

いったいこの間に、なにが起こったのか考えてみた。

思い当たることが、二つあった。

一つは、前回の記事で取り上げた、経済産業省がやっていた「文字情報基盤整備事業」である。

このサイトの中に、こんな図があった。

文字情報基盤についての図

この図から分かるように、住民基本台帳や戸籍について、コンピュータ処理において表示できない文字がないように、政府として整備を進めた事業である。

これは、2011年には一応終了したようで、IPAexフォントとIPAフォントがダウンロードできて、使用できるようになったようだ。

つまり、それまでのJISコードのよる文字が10050文字だったものが、58862文字使えるようになったらしい。

 

もうひとつは、「Unicode」の整備である。

Unicode」は、「文字コード」の業界標準規格である。

OSやメーカー、国や言語に違いを超えて、互換性を目指したもので、1991年にスタートしたらしい。

漢字を使う言語は、日本語の他に、中国語、朝鮮語ベトナム語である。

これらの国で使われている漢字は、「CJK統合漢字」(又は「CJKV統合漢字」)と呼ばれているようだ。

その、整備の状況は、次のとおりである。

 

CJK(V)統合漢字の整備状況

現在のところ、Unicodeで表示できる漢字は、97668文字ということらしい。

これは、日本語、中国語、朝鮮語ベトナム語で今までに使われた漢字を網羅したものである。

超漢字」も「今昔文字鏡」も、CJK統合漢字に対応したとしていることを考えると、それぞれに18万字とか、16万字を収録しているということは、重複している文字があるということであると思える。

 

結局のところ、多漢字が問題になるのは、過去の遺産を活用しようという時に、生ずることである。

現在も漢字を使用している、日本語と中国語でも、通常使用している漢字は、どれくらいの文字数なのだろうか。

日本語だったら、常用漢字が2136字であるが、その他にどの程度の漢字が使われているのだろう。

中国語でも漢字が使われている訳だが、中国本土では「簡体字」が使われているので、ネットでウェブサイトなどを見ると、日本人としては違和感を感じる。

とは言っても、日本だって昔ながらの「繁体字」を使っている訳ではない。

中国の「簡体字」ほどではないが、簡略化された「新字体」を使っているのだから。

簡体字」は、2235字あるというが、実際に使っている漢字は他にもあるわけで、「通用規範漢字表」に定められているのは、8105字だという。

中華民国(台湾)は、昔ながらの「繁体字」を使っているので、調べてみた。

それによると、「常用国字標準字体表」( 別名「甲表」4808字)と「次常用国字標準字体表」( 別名「乙表」6341字)が使われているようだ。

罕用字体表」( 別名「丙表」18338字)は、まれに使われる程度らしい。

 

こうしてみていると、中国語については1万字前後の漢字があれば大丈夫そうだし、日本語は、かなやカタカナがあるにしても、もっと少ない文字数でも、なんとかなりそうだ。

多くの漢字を使えることを謳っていた「超漢字」と「今昔文字鏡」が、2010年ごろに失速してしまったのは、Unicodeがカバーできる文字が充実した、ということが大きかったんじゃないだろうか。

 

ところで、世界の中で、漢字のような表意文字って、他にもあるのだろうか。

聞いたことないけど、あったとしたら、面白そうだな。

 

 

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はしわのわかば③ 菅江真澄テキスト

八日 つとめて、里の童を道あないとして、きのふの路をいさゝか分て、大金(オホガネ)といふ処の岨に、桜の二三本(フタモトミモト)たてるが朝風に吹さそふをうち見やり彳めば、童の小河に臨(ノゾミ)てものうかがふさま、何ならむとおもへば石斑魚(カジカ)の鳴なり。

水におりたち、ころ/\といふ声をしるべにすくひ上たり。

此石ふしは秋に鳴くものならずやといへば、をりとして時もさだめず鳴(サカブ)もの也と方言(イへ)り。

なほ此花を見やりて、


   汝れも又をしみやすらむ桜ちる山した水にかじか鳴也


童をさき立て拈花山正法禅寺(水沢市)にまうづ。

此寺の署扁(ガク)は光明皇后の真翰(ミフデ)也、吾国の鳳来寺の額(ガク)にひとし。

けふは釈迦仏(サカブチ)誕生(アレマシ)し日とて、れいの花葺(フケ)るさゝやかの堂の内に、あめつちをさして香水盤(ウブユ)の中にたてり。

大衆居ならびて、一日経ならんか、また、なきたまの名にや、いと細き卒堵婆に書(シタゝム)れば、この灌仏会にまゐりたるあまたの人とら、手毎にうけさゝげて皈る。

いにしへ此寺は法相三論宗などにや、いと/\ふるき精舎(テラ)也。

今曹洞にうつりて、南朝の頃、開山禅師の高弟無等良雄和尚は万里小路藤房ノ卿なるよし、其世は世にひめて語りしといへり。

此寺の庭に、源頼朝公実種(ミウエ)し給ひしか槲とてあり。

また大なる梅ノ樹あり、さるよしをもて大梅捻花山ともいへり。

此寺の辺(ワタリ)に石灰木石(イシワタ)あり、石麪(せきめん)あり、また黒蠟石(コクラウセキ)といふもの多し。

黒蠟石(コクラウセキ)あるをもて此あたりを黒石(クロイシ)ノ荘とよべり。

また山内(サムナイ)といふ処に出たり、妙見山黒石寺とて修験寺あり。

もと太上神仙を斎(マツ)りし寺にて、大同元年二月斐陀の番匠(タクミ)が集りて一夜の間(ウチ)に建し堂とて、いとふりし堂あり。とみなる事とて板なンど敷キもわたさず、残(タラ)はぬ処あり。

正月八日の神祭(マツリ)は祇園の削残(ケヅリカケ)、尾張の天道ノ社の祭の如(ゴト)、夕ぐるゝより小夜中カまで誰れとなう互に罵詈(ノゝシリ)、根もなきあだ事に枝葉(エダハ)付て、まが/\しう能リ■(ノリ)てうち笑ひ、堂をうち叩(タゝ)き火をたきたつれば、さばかり積りし大雪も、きさらぎ、やよひのごとく、みなけちはつる音せりといふ。鶏の初こゑたつころ、其長(タケ)三四尺斗リの級栲(シナ)の二重布(フタエノ)の長袋の内に、蘇民将来の神符(マモリ)を三四寸(ミキヨキ)斗の木に書(カイ)て、そを千札(チゞ)まりも入レて、袋には蠟を流し油をぬりて神武神仙の御前に備へ、山臥梭尾螺(カヒフキ)、経よみ、いのり加持してその長袋(フクロ)を群集(ヒトムレ)の中カへ投ゲやれば、左右に方(カタ)分ケて素裸(マロハダカ)に出(イデ)たち、犢鼻襌(タフサギ)もつけず、その袋をわが方へ取らむ、此方(コナタ)へ奪(ウバ)ひてむと上へを下へ捻(ネヂ)あひ、ひこしらふ。

かゝるあらそひに、むかし犢鼻褌(タフサギ)の前垂(サガリ)を、袋の端(ハシ)に持からみて力まかせに捻(ネヂ)合ひ、曳(ヒキ)に引ほどに陰囊(フグリ)破れて死たる人(モノ)あれば、犢鼻襌(ハダマキ)てふものはゆめ/\身にまとはずとなむ。

蘇民将来の神符(ミフダ)を掌(トリ)得たる組(カタ)には、その年田畠(タナツモノ)の能ク豊登(ミノル)といへり。夜しら/″\くとなれば袋を摑破(ツカミヤリ)、また取り持(モ)て雪踏みしだきはせ出て、小河の氷ふみ破(ヤブ)り飛入て、淵(フチ)に身を潜(カク)レむとするを曳(ヒキ)止めなンど、世にめづらしきあらがひ祭也。

妙見山黒石寺には、慈覚円仁大師の作の薬師仏ノ仏形(ミガタ)をひめおける寺也。

野道しばしへて黒石(クロイシ)ノ郷(サト)に出たり。

路の傍(カタハラ)に四阿(アズマヤ)めける小屋建(コヤタテ)て、その軒に貨銭(ゼニ)二貫を長緡(ナワ)につらぬいて掛たるに、童(ワラハ)、老人(オユ)などの居て、ひるさへいみじう守りぬ。

此銭あやまりて盗れたらん時は、母貨(オヤゼニ)に子(リゼニ)あまた添へて、これをもてその禍(ツミ)を贖(アガ)ふ、つぐなひ貸(オヒタミ)也といへり。

あないせし童は此里なれば、ものとらせて別たり。

伊(胆)沢ノ郡に渡るに加美川(北上川)の舟とくも出ず、暮てのりぬ。

月おもしろくつきたり。

六日入村(前沢町川岸場)にきて相知る鈴木常雄の家(モト)に入りて、  


   旅衣月と花とにかたしきて楽しき宿に又こよひねむ


夜もすがら、あるじとともに語りぬ。

 

八日 けふの初午ノ祭見に中尊寺にいなんと、六日入りをたちて前沢(マヘザワ)駅(ウマヤ)に出(デ)て、霊桃(レイタウ)寺に訪(ト)ひて寺の上人をいざなひ漆寺の前を過るに、朽たる桜の蘖(ヒコバエ)花咲たるを、


   枯れし枝も花の恵をうるし寺となふ御法のしるしならまし


うまやのはしなる大桜見てむとていたる。

大桜ノ社あり、不動尊を祭る。

いと大なる一重の山桜あり、此さくら、人たけ立ッところにてはかれば三丈四五尺めぐるといふ。

信濃ノ国市田(下伊那郡高森町)の大桜には勝りぬべし。

こは秀衡時代の花也といへり、此木あるをもて此村を大桜とはいふ也。また遠田郡に大桜あるてふ、そはいかならむ。


   雪をつみ雲をあつめてひともとにかゝるさくらの花をこそ見れ


衣川村(平泉街)に来る。世に衣といふ処多し、近江の志賀ノ郡も衣河あり、その外国々にも聞えたり。此処(コゝ)に検断(ケムダム)桜とて名あるさくらあり、秀衡の世に、検断の役するもの置(オカ)れたる処也。

またいにしへ、安倍ノ貞任の館ありし跡にて、義家公


「ころものたてはほころびにけり」


と弓に箭をはぎ、むかひ給へば、


「としを経て糸の乱れの古(フル)しさに」


と貞任、矢つぎぱやに返しまをしたりしなンど語らひ、やをら其処にいたれば、


   衣川みぎはの桜きて見ればたもとにかゝる花の白浪


此衣川も、今はむかしと大に流のさまかはりたりといふ。

高館落城(オチ)のとき武蔵坊弁慶、衣河を渡らむとてわたりしが、をりしも洪水(ミヅデ)て、みなぎる波を分ヶわづらひ、うちものを杖につき中の瀬といふ処にしばし彳ムほどに、きしべよりは矢ぶすま作リて射かくる箭をひし/\と身に射たてられて、中ノ瀬にふし流れたり。

きしに立たるうまいくさども是を見て、こと武者は流にしたがふ、いかに弁慶一ト人リ水上に流れ行事、見よ/\ふしぎさよと、寄手の兵等(ツワモノラ)あきれたりといへり。

そは、いにしへは衣川の末、北上川〔古名加美川也〕の上の方へ落たり、今は加美川の下に落ぬ。

その洪水(オホミヅ)のとき、衣河も上(カミ)川もひとつになりて大海のごとなれど、弁慶はつねに見なれし中の瀬にのぼりつれど、多くの軍に射(イ)立られて、衣川水筋にしたがひて衣川の下へ流レたるを、今の世かけて、弁慶は川上に流(ナガレ)しとのみいひ伝へ、また、あぶり串さしつかね釣(ツ)りおく巻藁(マキワラ)てふものを、出羽、陸奥の方言(コトバ)に弁慶といふも、武蔵坊が、箭を蓑(ミノ)のごとくおびたるさまを、まきわらに串さしたる姿に似たるよりいふとなん、里の翁の語りぬ。

かくて中尊寺にいたれば、あるとある堂の戸みなおしひらきて、白山(シラヤマ)姫ノ神社(ミヤシロ)の拝殿は、かねて、かゝる料に間広げに作りなしたるに、白き幌(トバリ)ひたれ、白き帽額(モカウ)引わたしたり。

おひとつうまといひて白き神馬(ジメ)、獅子愛しとて、ぼうたん手ごとにもたる童子(ワラハ)なにくれとねり渡りはつれば、白山ノ神の御前に幔(トバリ)うちまうけたる舞台にのぼりて、そうぞきたつ田楽開ロ祝詞をはれば、若女ノ舞、老女ノ舞なンど、いと古風(フル)めかしきさま也。やをら衆徒集りて、さるがうはじまりぬ。

法師(ホフシ)の頭(カシラ)に宿髪(ツケビン)てふものにして髮髻(カミユイ)、墨衣(スミゾメ)の袖をぬぎかけ、あるは、まくりでにつヾみうち、笛吹囃しぬ。

この田楽、をとめ舞、うば舞などに事かはりて今めかしけれど、舞(マ)へる装束(サウゾク)は国ノ守より寄附(ヨセ)給ふものとて、めでたく奇麗(キラ)をつくしたり。

今朝より風たちしがいよ/\吹つのりて、あまた立ならび茂りあひたる大杉のうれもゆら/\吹れ、枝葉の落散れば、人みなふりあふぎ空のみ見つつ、頭にものおほひ、もの見る空もなく、法師の附髮(ツケガミ)も吹やられ、かなづる扇も風にしぶかれて、こゝろのまに/\さしもやられず。

いざ帰りなむと立騒ぐ上に、大なる杉の枯枝の落て頭うち、ぬかより血の流レたりなどなか/\の騒ぎ也。経堂、光堂の方へ逃ちる人もあり。

また老嫗(ウバ)杉(スギ)とていと/\大なる空樹(ウツホギ)あり、此木としふりて香馥(ニホヒ)はなはだしければ、国ノ守めして「みちのく」と銘給(ナヅケ)ひしといふ。

その木も今は吹折レ、今はたふれなんなど、人みなをしみ語らふ。

中尊寺に、薄墨桜(ウスズミザクラ)とていとよき花のありしが、枯て今はなし。

そを弁慶ざくらといふ、むかし武蔵房やうゑたりし花にや。中尊寺を出て義経堂にのぼりて人々ぬかづく。

源九郎判官の由来(ユエヨシ)はこと処にもしるし、また、『清悦物語』とはいさゝかことなれり。

また、此君の事をつばらかに記(シル)したる『義経蝦夷軍談』といふいくさの書(フミ)には、泉三郎忠衡、また金剛別当秀綱、亀井、片岡をはじめ、御家人ひとりも残りなくみな松前に渡り、秋田ノ治郎尚勝兵粮を運送(オクリ)、此人とら大に戦ひ蝦夷治りて、上ノ国といふ処にて、御台所若君ひとところ誕生ありて、嶋麿君と申事なンど見えたり。

人々を別れて、此平泉の相知りたる民家に泊る。

 

 

 

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難しくて面白い漢字の世界① 漢字辞典と異体字

菅江真澄のテキストを校正していて、苦労するのは正確な漢字を探すことだ。

OCR、つまり「光化学文字認識機能」によって、文字画像から文字データに変換させているのだが、時にはとんでもない文字として認識されている間違いがある。

そんな時には、まず、漢字の読みがわかっていれば、かな入力をして、漢字変換してみる。

だいたいは、これで解決するが、それでも、正しい漢字が出てこないことも多い。

次に、ウィンドウズ付属の「IME Pad」を使う。

これには、「総画数検索」、「部首検索」、そして「手書き検索」がある。

「総画数検索」は、画数を数えるのも面倒だが、候補の文字数が多すぎてそこから目的の漢字を探すのはむずかしい。

「部首検索」は、「へん」「つくり」「かんむり」「たれ」「かまえ」「にょう」「あし」の7種類あるという部首から絞っていく。

総数で、214種類あるというが、それでも候補の漢字が多すぎて探すのは困難だ。

この、部首を複数使って絞ることができればいいなあ、とずっと思っていた。

漢字は、この部首の組み合わせでできているのだから、複数の部首を使えば、候補の漢字はずっと少なくなる。

 

最近になって、だったらそれができるアプリかサイトがあるんじゃないかと、気がついた。

探してみたら、いろいろとあった。

その中から、使いやすそうなのを選んでみた。

「漢字辞典オンライン」というサイトがあった。

 

kanji.jitenon.jp

 

検索の入力欄に、とりあえず、部首名か部首そのものを入力すると、その条件を満たす漢字を教えてくれる。

たとえば、こういう具合になる。

「鹿」と「鳥」を入力して、検索ボタン。

「鸝」という字が出たので、この字をクリックしての情報を開き、コピーボタンをクリックすれば、好きなところに貼り付けできる。

 

菅江真澄の文章を読んでいると、意味は同じ漢字なのに、字体の違うものをよく使っている。

異体字」というものである。

同じ意味を表す漢字が、同じ文章の中で、いくつも使われている。

 

さらに、「万葉仮名」というような使い方もしている。

漢字を必ずしも意味に関係なく、表音文字としてだけつかっている。

アルファベット的な使い方である。

菅江真澄は、先日の記事にも書いたが、賀茂真淵の流れを汲む国学系の人である。

旅先でいろいろなひとたちにお世話になって、別れにあたっては、互いに和歌を贈ったり、それに答えたりしている。

それでも、江戸時代のひとにとっては、教養の基礎にあるあるのは、漢字、漢文なのだな、と思う。

漢字に対する感覚が、現代の私たちとはまったく違うのだ

 

この異体字というのを、簡単に調べられるサイトを見つけた。

「漢字検索 異体字検索」というサイトで、FUKUIさんという人が運営している。

どうも、経済産業省がやっていた「文字情報基盤整備事業」で整備していた漢字データを利用したものらしい。

https://code4fukui.github.io/mojikiban/

ここで、知りたい漢字を入力すれば、異体字を教えてくれる。

私の住んでる、千葉県東葛飾の「葛」を検索すると、こうなった。

葛の字 検索結果

なんと、9文字もある。

ついでに、「下総国」の「総」の字を検索。

「総」の字 検索結果

これは、なんと14字もあるのだ。

たしか、かつて読んだ文章では、漢字は10万字を越える種類があるということだった。

でも、日本人が、学校で習う「教育漢字」は、現在のところたったの(?)の1026字だけらしい。

一般の社会生活で必要とされる「常用漢字」でも、2136字だそうだ。

これだけあれば、とりあえずは、だいたいの表現はできるということだろう。

このことから、考えてみると、10万字を超える漢字のかなり多くの数は、「異体字」であるということなのだろうか。

もう少し、調べてみると必要がありそうだな。

 

 

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ボクの音楽武者修行 半世紀を経て再読する

三ヶ月ほど前に、小澤征爾さんについて書いた。

逝去のニュースを知って、高校生の頃に、彼の若かりし頃の著作を読んだことを、思い出したからだ。

とても印象深い本だったのは確かだが、なんといってももう50年以上前の記憶である。

もう一度読んでみたくて、近所の図書館分館で予約した。

市内には、新田原分館にしか蔵書がないようで、すでに3人の予約が入っていた。

のんびり待つしかないようだった。

最近になって、やっと入荷の連絡が来た。

かつて私が読んだのは、昭和37年音楽の友社から刊行されたものだったが、手元に届いたのは新潮文庫版である。

昭和55年刊行で、平成27年に第47刷として発行されている。

www.shinchosha.co.jp

本を読んで感じたのは、小澤さんの文章はとても読みやすいことだ。

話を聞いているように、自然な文章である。

小澤さんが、家族や友人、そしてお世話になった方へ書いた手紙を資料として、文章を書いたということだ。

四人の男兄弟のうちの末っ子の弟さんが、これらの手紙をノートに書き写していたらしい。

手紙そのものも、この本のなかで、使われている。

この手紙を読んでも、とてもオープンで仲の良い家族の中で育ったのがわかる。

それほど裕福でもないし、音楽一家というわけでもなくて、でも家族みんなに送られて、武者修行に出かけたのだ。

あの時代に、スクーターで出かけるなんて恵まれてるなあ、と思ったのも、そういうわけでもなかった。

バイクかスクーターを無償で提供してもらおうと、東京中を駆けずり回って、富士重工に話をつける。

条件が、1、日本国籍を明示すること。

    2、音楽家であることを示すこと。

    3、事故をおこさないこと。

そのために、富士重工の工場でスクーターの分解法や修理法を習って準備したというから、準備周到である。

ちなみに、スクーターは新型のラビットジュニア125ccという。

こういう発想が、出てくるのはすごいと思う。

今なら、エベレレスト遠征のための装備を、メーカーに無償で提供してもらうことがあるということは、聞いたことがある。

こういう内容は、私の記憶には全く残っていなかった。

なにしろ、初めて読んだ頃の私は、車についてもクラシック音楽についても、ほとんど知識のない高校生だった。

 

新潮文庫版のこの本は、あとがき、解説を含んで250ページほどで、定価430円である。

新潮社のウェブサイトを調べてみたら、まだ絶版にはなっていなくて、定価649円になっていたので、その後新刷版が出ていることになる。

内容は、こんな感じである。

履歴と貨物船での船旅篇

ヨーロッパ篇

アメリカ篇

日本、ヨーロッパ、アメリカについての考察

1959年2月1日に、貨物船淡路山丸で神戸を出港し、3月23日にフランスのマルセイユに到着する。

そして、2年半後、ニューヨークフィルハーモニックの一員として、航空機で帰国するのである。

まったく無名の駆け出し指揮者だった青年が、わずか数年で、世界的交響楽団の副指揮者となる。

 

読んでみて、面白いのは、小澤さんの何事にも対しても前向きなポジティブな姿勢である。

だからこそ、どんな状況であっても、それを楽しんでいるように思える。

そして、人を巻き込んで、問題に対処してしまう。

というよりも、彼を取り巻く人たちが、道をひらく手助けをしてくれる。

 

ヨーロッパに渡ってパリにいた頃に、ブザンソン国際指揮者コンクールに参加して、第1位になった。

この時も、応募にあたって、いろいろ問題があったが、さまざまな人たちの協力で解決している。

このコンクールの実績によって、ドイツのカラヤン指揮者コンクールに参加し、第1位となり、カラヤンに師事することになる。

さらに翌年には、アメリカのボストンで行われたバークシャー音楽祭に招待されるようなかたちで参加し、クーセヴィツキー賞を獲得し、シャルル・ミンシュに師事した。

そして、レナード・バーンステインが指揮者だったニューヨーク・フィルハーモニニックの副指揮者として迎えられ、来日公演に同行するのである。

 

彼が、どうして無謀とも言えるようなヨーロッパへの武者修行に出かけたのか。

彼は、このように書いている。

桐朋学園の短大の卒業直前に、ブリュッセルの青少年音楽コンクールに学園のオーケストラが参加する計画があった。

しかし、渡航費用の問題から、取り止めになってしまった。

その時に、自分ひとりだけでも、行こうと思った。

日本のスクーターでも宣伝しながら旅行すれば、できるのではないかと考えた、と書いているので、後のスクーター旅行は前々から思い描いていたことになる。

フランスの国費留学の試験に落ちたことで、この計画に踏み切ったということのようだ

 

もしも、彼がこの「武者修行」に出かけなかったら、どうなったのだろうと考える。

日本で、指揮者としてのキャリアをつづけていたとしたら、きっと小澤さんの生涯は大きく違ったものになっただろうという、気がする。

もしかすると、小澤さんだけではなく、日本のクラシック音楽界も違っていたかも知れない。

ヨーロッパ、アメリカ、日本のオーケストラについての考察の中で、アメリカと日本は似ているかもしれない、と言っている。

それは、歴史、伝統が短いから、守るべきものが多すぎるヨーロッパに比べて、新しいもの取り組んでいく可能性がある、というようなことである。

それでも、アメリカに比べて、日本のクラシック音楽の歴史はもっと短い。

だけれども、日本は年功序列社会である。

この本を書いた後に、小澤さんはNHK交響楽団の指揮者に就任する。

しかし、楽団員からボイコットされ、半年ほどで辞任する。

まあ、詳しいことはわからない。

遅かれ早かれ、海外に重心を置くようになっただろうな。

 

 

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