晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

義経記を読んでみようと思う

私のPCの中には、いろんなファイルでいっぱいだ。

音楽ファイルは、PCを扱うようになってから、CDをファイル化していたが、その後ネットからダウンロードしてものも多い。

写真や動画などの画像ファイルは、自分で撮影したものから、ネットでダウンロードしたものまで、いろんなものがある。

ダウンロードした写真ファイルには、自作の百科事典用に収集したお城の写真や絵画のものが多い。

このようなものは、いろんな研究者のサイトからのもあるし、ウィキペディアの姉妹プロジェクトのサイトでも提供している。

 

ウィキペディアは、10の姉妹プロジェクトを持っている。

それぞれ、次のような、目的を異にしたプロジェクトを行なっている。

 

コモンズ(ファイルの集積)                              MediaWiki(ソフトウェアの開発)    

メタウィキ(全プロジェクトの議論)                 ウィキブックス(教科書や解説書)

ウィキデータ(フリー知識ベース)                     ウィキニュース(自由なニュース)

ウィキクォート(引用句集)                                ウィキソース(著作権フリー文書)

ウィキスピシーズ(生物種のディレクトリ)      ウィキバーシティ(学習支援)

ウィキボヤージュ(フリー旅行ガイド)              ウィキショナリー(多機能辞典)

 

私が気に入って、よく利用しているのは、「ウイキペディア・コモンズ」と「ウィキリソース」である

その他のプロジェクトについては、おもしろそうなのがあるようだが、私もよくは知ってはいない。

ウィキペディアコモンズは、「自由に使えるメディアファイルを集積する、誰でも参加できるデータベースプロジェクト」となっており、現在80,163,803本というとんでもない量の画像、音声、映像ファイルが集積されているという。

確かに、絵画などの画像ファイルはとても充実していた。

似たようなサイトは他にもあるが、特定の分野だけではなく、広くさまざまなジャンルを対象としているのは、このサイトの他にないかも知れない。

 

最近よく利用しているのは、ウィキソースである。

このプロジェクトは、「パブリック・ドメインクリエイティブ・コモンズ・ライセンスなどのもとで自由に二次利用できる文書(法令、文学作品、歴史資料など)、歌詞、演説文などを収録している」となっていて、日本語版には12,275の資料が収録されている。

ウィキソースは、「歴史」、「宗教」、「数学」、「音楽」、「文学、「法令」、「議会決議」、「演説」に分かれている。

PCの中のテキストファイルを整理していて、歴史書的なものを読みたくなった。

私が、日本史に興味を持ったのは、小学生の時に「義経物語」(よしつねものがたり)を読んだのがきっかけだった。

これは、軍記物語「義経記」(ぎけいき)をもとに、子ども向けに書かれたダイジェスト版だったと思うが、著者名は覚えていない。

そのせいか、私にとっての日本史はこの時代が基準点になってしまっている。

平安後期から鎌倉初期で、そこからさかのぼったり、下ったりしている。

義経記」は、南北朝時代から室町時代初期に成立したらしいが、他の軍記物語と同様に作者不詳である。

この物語の内容が後世のさまざまな影響与えて、義経やその周辺の人物のイメージはこれに準拠してるようだ。

義経記は次のように、はじまる。

 

「本朝の昔を尋ぬれば、田村、利仁、将門、純友、保昌、頼光、漢の樊■、張良は武勇と雖も名をのみ聞きて目には見ず。目のあたりに芸を世にほどこし、万ことばがの、目を驚かし給ひしは、下野の左馬頭義朝の末の子、九郎義経とて、我が朝にならびなき名将軍にておはしけり。」

「漢の樊■」は樊■(はんかい)であり、かいは口+會である。

 

義経記」の成立時期を考えると、それ以前の鎌倉時代に成立した「平家物語」の影響が大きいようである。

古文の教科書で必ず習った「平家物語」の出だしは、誰でも記憶があるだろう。

 

「祇薗精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りを顕す。驕れる人も久しからず、春の夜の夢尚長し。猛き者も終に滅びぬ、偏へに風の前の塵と留らず。遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の禄山、是等は皆、旧主先皇の務にも従はず、民間の愁ひ、世の乱れを知らざりしかば、久しからずして滅びにき。近く我が朝を尋ぬれば、承平の将門、天慶に純友、康和の義親、平治に信頼、驕れる心も猛き事も取々にこそ有りけれ(けめ)ども、遂に滅びにき。」

 

この冒頭からして、「義経記」が「平家物語」の影響を受けていることがわかる。

ウィキソースには「義経記」は収録されている。

ところが、「平家物語」は、収録されていない。

平家物語」とともに、「四部乃合戦書」とされている「保元物語」、「平治物語」、「承久記」も収録されず、外部サイト「国立国会図書館」のリンクだけがある。

しかし、国立国会図書館にあるのは画像データであり、テキストデータではない。

そういうわけで、ウィキソースはかなりムラがある。

これらについては、他のサイトを探さねばならない。

とりあえずは、このサイトになるだろう。

www.kikuchi2.com

しばらくは、「義経記」を読んでみよう。

今まで、二回ほど読み始めて挫折している。

和綴本で、全八巻のボリュームである。

それが終わったら、四つの軍記物語になるだろう。

でも、「今昔物語」も気になっている。

だいぶ前に、名前は忘れたが誰かの現代語訳を一冊読んでおもしろかった。

今回、テキストサイトを探していて、今昔物語の現代語訳のサイトを見つけてしまったのだ。

今昔物語は、軍記物語ではなく、インドや中国、そして日本の興味深い話を集めている。

今昔物語の研究者のサイトであり、現代語訳とともに解説も掲載されて充実しているようだ。

hon-yak.net

 

 

 

 

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コロナ禍を機会になくなるだろうというもの

世の中には、なくてもいいのだけれど、長年の慣習や、しがらみで残っているものがある。

勤め人の生活をしていると、そんなものがいくつかあった。

私は、1970年代から2010年代の半ばくらいまで、そんな生活をしていた。

そのひとつが、忘年会だろう。

忘年会だけではなく、そんな宴会は年に何回かある。

私は、酒も嫌いなわけではないので、それほど苦ではなかった。

でも、お酌をしてまわるというのが苦手だった。

どうも、タイミングがとれないのである。

だから、大人数になるほど、居心地が悪かった。

そして、もうひとつは社内旅行のようなものである。

もう、そんなものをやっている所も少ないだろう。

高い宿泊料を払って、宴会をやりに遠くに出掛けるくらいならば、近い所でふだん経験できないような贅沢な宴会をやればいいのにと、いつも思っていた。

 

でも、このコロナ禍のおかげで、この2年間はどこでもこんなことをやっていないだろう。

こういうものを無くするのなら、いい機会である。

コロナ禍がなくなったからといって、また再開することはない。

ほんとに、必要なものなのかどうか、である。

かつては必要だったものかもしれないが、今は事情が変わってしまっている。

ほんとに必要なものは、他にあるんじゃないだろうか。

 

正月明けに、妻が高校時代以来の友人に会いに、東京に出かけた。

劇団四季のミュージカルを観るのだという。

ロボットが登場するミュージカルらしい。

友人の息子さん夫婦が、劇団のスタッフとキャストなのだ、という。

出かけて大丈夫だろうかと、心配しながら出かけて行った。

案の定、その翌週から感染者爆発で、ミュージカルどころではない。

 

劇団四季と聞いて、思い出した。

私も、劇団四季のミュージカルを一回だけ観たことがある。

「さようならアルゼンチーナ」という作品だった。

アルゼンチン大統領ファン・ペロンの夫人だったエバ・ペロンの生涯を描いていた。

映画化もされ、映画「エビータ」の主演はマドンナで、とても評判になった気がする。

それを、職場の忘年会のイベントとして、みんなで観たのである。

劇団四季というとミュージカル劇団だというイメージだけど、私が生まれた頃に、浅利慶太や日下武で学生演劇集団としてスタートした当初は、演劇の面白さを追求した劇団だったらしい。

それが、1970年代に越路吹雪のミュージカル「アプローズ」を上演したあたりから、劇団員が生活できる経営を志向するようになり、ミュージカルにシフトしていった。

その頃の職場は、「観劇」+「宴会」というのが、忘年会のパターンだった。

観劇は、年によっていろいろで、歌舞伎を見たこともある。

たしか、尾上菊之助だったが、歌舞伎ってけっこうわかりやすいものだな、と思った記憶がある。

まあ、考えたら江戸時代の大衆演劇である。

なんといっても、忘れられないのは、マイケル・ジャクソンの東京ドーム公演である。

観劇の企画で悩んでいる幹事に、私は半分冗談で言った。

「年末にマイケル・ジャクソンが来日するけど、今スキャンダルをかかえているから、これが最後の来日かもしれない。」

マイケル・ジャクソンは、その頃既に誰でも知ってるスーパースターだった。

ダメもとで、連絡をとってみたら冗談がほんとになってしまった。

その時は、東京ドーム近くのレストランで食事してから、公演に行った。

上司は、大音響に耐えられず、途中で帰った。

たいていの職場は、よくある宴会だけというものだが、ちょっと変わった職場もあったのだ。

その前の職場は、「寄席」+「宴会」だった。

寄席と言っても、演芸ホールで、マジックや漫才や落語だったな。

 

考えてみると、1980年代から1990年代である。

こんな機会でもなければ、出会えないようなものを観れたのはたしかである。

古き良き時代、ということだろうか。

 

 

 

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空は巨大なキャンバス

いろんな風景を見ながら、散歩するのが好きである。

樹木は、とても気になる。

自分が、山に囲まれた所で育ったせいかもしれない。

近所に、山と言えるようなものは、ほとんどないが、林や森はけっこうある。

樹木は、果実のなるのがいい。

今は、柑橘系の果実をつけた樹木をよく見かける。

よその庭の木を見ながら、こんな木が一本欲しいものだと思ったりする。

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家族の送りで、朝方車で出かけることが多い。

すると、空が気になる。

青空に、ぽっかり白い雲が浮かんでいると、それだけでうれしくなる。

帰ったら、さっそく写真を撮ろうと、帰ってくる。

そうすると、空の雲はもうまったく変わってしまっている。

空の雲は、ゆったりと優雅に浮かんでいるように見える。

でも、じっと空を見ていると、そうではないことがわかる。

雲は、とんでもない速さで流れていて、どんどん形を変えている。

何分か経っただけで、もう同じ雲は見ることができない。

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午後に、夕飯の買い物に出かけた。

ついでに、いつものように近隣センターの図書館分館に寄ることにする。

近隣センターの向かいには、麗澤大学生涯学習センターという立派なレンガ色の建物がある。

かつては、光ヶ丘団地の3階建ての集合住宅があった所を、団地建て替えの際に麗澤大学が買ったもので、とても敷地の余裕がある施設だ。

この建物の中に、図書館があるということを知って、利用方法を調べたことがある。

大学と関係ない一般者も利用できるということだったが、利用証取得の手続きが面倒そうで、後回しにしていた。

最近になって、手続きしようとしたら、コロナのために一般者の利用は不可ということになっていた。

やっぱり、思いついた時にすぐにやるべきだなあ。

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麗澤大学生涯学習センター

図書館分館で、いつもの読書をする。

「私の家族の明治日本」の第5章「板垣退助キリスト教」を読む。

宣教師トム・アレクサンダーは、板垣退助のはからいで高知県での布教を進める。

板垣退助は、江戸幕府の支配に組み込まれていた旧弊の仏教や、明治政府の中での神道のあり方に、反対の立場だった。

キリスト教の各派の中でも、トム・アレクサンダーが所属する長老派の組織に民主主義的なものを見い出し、バランスをはかろうとしたのだと思う。

この章を読み終わり、図書館を後にする。

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空は、巨大なキャンバスだな、と思う。

空がキャンバスだとしたら、地の色は何色だろう。

白ということはないから、やっぱり、青色かな。

青色もいろいろある。

真っ青な青、水色っぽい青、夜空の青もある。

そのキャンバスに、あれほど多様な雲を誰が描くのか。

八百万の神と言うくらいだから、担当の神様がいるだろう。

などと、馬鹿なことを考える。

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麻賀多神社奥宮 成田市船形 麻賀多神社本宮 成田市台方

孫娘と家族とで、初詣に行ってきた。

成田の麻賀多神社である。

孫娘を今年初めて預かる日だったので、ちょっと遠出することにした。

麻賀多神社は、2、3年前にお参りしたことがある。

印旛沼から成田に向かう道路沿いにあって、麻賀多(まがた)神社という変わった名前が気になっていた。

その時に調べたら、同じ名前の神社がその周辺に18社あるということだった。

 

ナビで検索したら、成田と佐倉の二か所が出てきた。

たしか成田市だったと思うので、成田に設定して出かけた。

距離は自宅から35キロほどで、1時間くらいだろう。

ただ、2日ほどまえに降雪があったので、残雪があるかもしれない。

神社の近くに来たのだが、神社は登り坂の上にある森の中にあって、その坂には積雪が見えた。

車で行くのは難しそうなので、遠回りをして反対方向から向かうことにする。

反対方向は、坂はなかったが車道には積雪がかなりあるので、車を止めて歩くことにする。

200メートルほど歩いて、麻賀多神社に到着した。

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麻賀多神社は、前回お参りした神社ではなかった。

前回お参りした麻賀多神社は、車の通りの多い道沿いにあったが、ここの麻賀多神社は、小高い森と住宅につながる静かな道路沿いにあった。

神社の掲示板の地図を見ると、ここが船形の麻賀多神社奥宮で、前回お参りしたのが台方の麻賀多神社本宮であることがわかった。

麻賀多神社の創始について、宮司の方がまとめた文書をいただいた。

それによると、麻賀多神社平安時代初期(10世紀)の延喜式式内社として、船形の奥宮と台方の本宮の二社とも登録されている。

創始については、奥宮の方が古く、第15代応神天皇(3世紀)により印旛国造に任命された伊都許利命(いつこりのみこと)が、稚日霊神を祭神として、真賀多真(まがたま)大神宮(おおかみやしろ)として創建した。

さらに、景行天皇(1世紀)の時代に日本武尊が東征の際に、この地に埋めたとされる七つの玉が掘り出し稚産霊神として祀られた。

台方の本宮は、第33代推古天皇(6〜7世紀)の時代に、印旛国造の広鋤手黒彦が、稚産霊神遷宮し、真賀多真大神宮として祀った。

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本宮のある台方の森

社務所でお話を聞いたら、台方の本宮まで歩いて行けるとのことだった。

社務所には、手書きの「メッセージおみくじ」というのがあった。

息子たちと孫娘は、おみくじを引いた。

メッセージは、ていねいなきれいな文字で書かれていた。

テーマの漢字一字は、毛筆で書かれていた。

孫娘へのメッセージは、次のようなものだった。

 

「心

今、あなたの心の中は、

どんな感情で、あふれていますか。

感情を表に出すことは

なかなか難しいものです。

でも、自分の心の声に耳を傾けて

正直になるのも大事なことです。

自分の心の声を聞いてみてください。

心の声は魂の声なのです。」

 

宮司の方からのメッセージなのだと思います。

 

奥宮のある船形の台地と本宮のある台方の間には、広い水田があり、その中央を江川という川が流れていて、甚兵衛広沼に流れ込んでいる。

古事記などによると、日本武尊印旛沼から上陸して、道暗山(船形手黒)の大杉に、七つに玉を埋め、鏡を掛けて祈願したとあるようなので、今は水田となっているところは印旛沼で、台地が島のようなものだったのだろう。

いや、その頃は、印旛沼手賀沼霞ヶ浦さえも呑みこむ、巨大な内海「香取海」があったはずだ。

だから、印旛沼から上陸というのは、適切ではないだろう。

 

ぽかぽかといい天気だったので、みんなで歩いて行った。

神社からの下り坂を行くと、集落があって水田が目の前に広がる。

田圃の中を通る道路を進むと、江川に架かる橋を渡り、台方の台地にぶつかる。

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台地の北になる部分には先日の積雪が残っていて、溶けずに凍っている。

湧水の溜まった池は、氷が張っていた。

孫娘が、雪玉を投げると、雪玉は氷の表面で粉々になって広がった。

台地を登る坂を行くと集落があった。

さらに進んでいくと、神社の脇を通って、車道にぶつかった。

そして、麻賀多神社本宮の鳥居があった。

たしかに、以前来た記憶のある神社だった。

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本殿の脇に、奥宮と同じように御神木の大杉がある。

社殿をぐるりとまわっていると、隣接して古民家カフェがあるのを見つけた。

長い距離を歩いて疲れていたので、一休みすることにする。

孫娘はオレンジジュース、私たちはホットコーヒー、妻は甘酒にした。

お店は、古民家というよりも山小屋という風情で、落ち着いた雰囲気だった。

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その後は、来た道を奥宮まで戻った。

奥宮には、敷地に隣接して体育館もある大きな幼稚園があった。

幼稚園としては不便な場所のせいか、近くに保護者用らしい駐車場も4か所ほどあり、神社向かいの駐車場は、幼稚園と神社の共用らしい。

もしかすると、神社が経営している幼稚園なのだろうか。

お寺が経営する幼稚園は、よく見かけるが神社関係の幼稚園は見たことがない。

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麻賀多神社の創建者である伊都許利命を埋葬したと言われる古墳が奥宮に隣接してあり、伊都許利神社がある。

古墳といえば、このあたりには古墳が多い。

成田市と隣の印旛郡栄町のあたりには、竜角寺古墳群があり、「千葉県立房総の村」という体験型博物館がある。

この中の、前方後円墳を訪ねたことがあるが、立派なものである。

龍角寺古墳群には、114基の古墳が確認されているのだそうだ。

なんとそのうちの37基が、前方後円墳なのだ。

調べてみて、驚いたのだが、48都道府県で前方後円墳が最も多いのが千葉県である。

古墳全体では、千葉県が13,112基で全国2位であるが、前方後円墳は677基で全国1位なのだ。

前方後円墳については、茨城県が445基で全国2位である。

茨城県石岡市は、かつて常陸国府のあったところだが、その近くに舟塚山古墳という前方後円墳があって、訪ねたことがある。

そういえば、埼玉県行田市にも「さきたま古墳公園」という古墳だらけの公園があって、行ったことがある。

ここにも、立派な前方後円墳があった。

 

話が、古墳に飛んでしまった。

でも、日本の古代を考えると、こんなに関東に古墳が多いのは重要なことだろうな。

古墳の宝庫であるような所に住んでるのだから、見て歩くのもおもしろそうだな。

 

 

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くめじのはし⑨ 菅江真澄テキスト

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久目路乃橋より 秋田県立図書館デジタルアーカイブ

かくて、此寺に近き家に宿つきぬ。

女の童雨ふれ/\といふに、いろはにやあらん、かまけるな、こよひはふりなん、雲のたたずまゐいとよし。

ことかたは、をり/\ふりけれど、此山は水無月十日斗にふりたるまま、小雨だにそぼふらで、ものみなかれうせなんとと(外)に立ていへば、わらは、わがうへたる山桜草、玉すだれもかれ行ぬとて、ちいさき岩のあはひにあるに、水もてそそぎありく。

 

いく世々といはねに生る玉簾かけて久しき根さしなるらむ

 

くれ行ば、あるじの翁、くろ木のをまくらとり持ち投出して、そべれといへば、ふしたり。

廿七日 つとめておき出れば、高根のしら雲ふかうかかりて、ひま/\に、岩群のもりあらはれたるは風情こと也。

 

日の光四方に見づらし明らけくあけ初にけり戸隠の山

 

けふは御射山祭のいはひとて、紅豆の飯を家ごとにたきて、青箸とて薄、あるは、かやの折はしにてものくひ、神のみまへ、阿伽棚にも尾花をり手向たるは、此国のならはし也。

やを出て、ひのみこのふた桜とて二本ある桜あり。

この樹、春ごとにも花さかねど、としふり名ある木也とて、人のあなひしてをしゆ。

この祠には栲幡千千姫をいはい、宝光院の祠には表晴命をまつり奉るとなん。

鷹ひとつ鳥をかけ落し、よこぎる羽音すさまじ。

こや、けふあへるは、

 

「苅て葺く穂やの薄の美作山にかまはやぶさや御鷹なるらん」

 

と、ながめありける歌の如く、鎌鶻といふものにてやあらん。

かまはやぶざは、翅の羽すゑに鎌のごとなるところありて、鳥の頸かいくるとも、又はやぶさの八の、やいがまの、とがまのやうにて、よく鳥をがき切ける一メJjやぶ

ゼピ∵けポのみさやまに、むかしはかならず出て諏訪の神の賛になれば、この名を賛鷹ともいひ、手向丸とも

いひて、かならず逸物のいでくもの也と世にいひつたふる、それにてやあらん。

 

鷹の名のかまはやぶさは刈てふくほやのめぐりにけふや出らん

 

飯繩山の麓の原に雨ふり出て、たどる/\そぼぬれて、みちふみ迷ひほそぢに入れば、子ひとつ連れたるあら熊の、高草をけたてて、あが行前をよこぎれてはしり過る。

おそろしさ、たましゐ身を離れたるここちながら、猶その行かたを見やりつつ、

 

月の輪のかげ見るほどもあら熊のさし入かたは山ふかくして

 

軍陀利村をいづれば、谷ふかう、おかしく落くる滝あり。

揚屋村をへて、桜といふところあり。

 

村の名のさくら麻苧を糸によりていとなく衣をらん乙女子

 

雨いたくふれば、日たかく越といふ里に宿とる。

ぬれたる袖をほしねと人のいへば、

 

このままにかたしきてねん露雫雨に沾れこしたびの衣手

 

廿八日 山本晴慎のやをあしたにとぶらひ、あるじとしばしものかたらひて、妻科神社にぬさとり奉らんとて出ぬ。

此かん籬を里人は、妻梨子ともはらいひき。

路のかたはらの井は、戸隠山にて人の語たる、鳴子清水にこそ。

 

夜な/\は月やすむらんやがて又秋も半になるこ井の水

 

海なきくにながら、此とは井の水みな鹹しといふ。

社の辺に立たる石を、いやし、をがむ人あり。

いかなる神にてかととへば、いらへて、こは北むきの道陸神とて、ひのもとに、ただ三のおましある其ひとつなりとか。

いはくらになりて、

 

いもとせの中まもりませと行末を祈やすらん妻科の神

 

さきの宿に帰りてくれ行ころ、毘義といふ人もとぶらひ来て、夜ひとよ歌よんであけたり。

廿九日 ここを出たつに、

 

越の海の波路行とも更級の月の頃には立かへり見よ

 

となん、あるじ晴慎のいへる返し。

 

こしの梅浪へだつとも立帰り来て更科の月は見なまし

 

かくて此処を出て風間神社を尋れば、かざま村におましあり。

神代といふ村あり。

ここのかんがきこそ伊豆神社なりけれ。

相之木といふ処の南の森に、鳥居の三ッ立たりける、そこを三輪村とよぶ。

すなはち美和神社にて、粟野神社は横山の郷に近し。

揚ケ松といふ処の山中に到れば、石脳油の涌づるをくむ井、川をへだてて二までならびたり。

このあぶらは、越後路の臭水に凡似たりけるよしをいへり。

かた岨のいと高き処に、不落堂とて、斐陀のたくみらが、一夜のまに柱一もとにて建たるに、薬師ぶちをおき奉るといふ。

伺去といふ村に来てやに入てうちやすらふに、ニッ子のわがもとにはひよりくれば、ものとらせんとすれば、あとさりにさりてなき出ぬ。

母かかへて、わにたるか、死たる兄とはたがひて人めせり。

いまは是ひとり力草とて、めでくつがへしぬ。

名は何といふととへば、砌に小松の生たるを手さしして、それにて侍るといふは、松といふ名にこそ。

戯れて、

 

門のとの松にたぐえん里の名のしさりてあそぶちごの行末

 

 

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銭形平次捕物控という時代小説

昨年の2月ごろに、「銭形平次捕物控 野村胡堂」という記事を書いた。

青空文庫には、「銭形平次捕物控」が第1話から第376話まで、収録されている。

作品リストを見ると、第320話以降は番号が欠番になっているのが多い。

記事を書いた頃は、第50話くらいを読んでいたと思うが、現在読んでいるのは第227話「名画紛失」である。

いいペースで読むこともあれば、途中で何週間か遠ざかってしまうこともあるが、最近また読み始めている。


一年とちょっとで、200話以上読んだことになる。

テレビで毎週放送するとすれば、4年くらいの内容になる。

父親がテレビの時代劇が好きだったので、私はよく一緒に見ていた。

銭形平次」は、映画やテレビでいろいろな俳優が演じているらしいが、私にとっては大川橋蔵である。

大川橋蔵主演の「銭形平次」は、フジテレビが1966年から1984年まで、なんと888回放送されたという。

私が父親とテレビを観ていたというのは、1970年代から1980年代なので、「銭形平次」の中期から後期になるだろう。

野村胡堂による「銭形平次捕物控」の原作は、1931年から1957年まで長編短編あわせても383編ということなので、テレビドラマの半分以上は原作にないも独自の脚本だったと思われる。

 

銭形平次」は、テレビで大川橋蔵が演じる前に、映画では嵐寛寿郎長谷川一夫も演じていた。

テレビでも、TBSが若山富三郎や安井昌治主演で放送していた。

平次の脇をかためるのが、女房の「お静」と下っ引の「八五郎」である。

テレビでは、「お静」が、初期は八千草薫、鈴木紀子で、その後香山美子となる。

八五郎」は、最初のシリーズだけが、佐々十郎ですぐに林家珍平となっている。

この一年以上、「銭形平次」を読んでいると、自分の頭の中でドラマが進行している。

私の頭の中のドラマの配役の顔は、どうもこれらの役者の顔とは違うような気がする。

平次も、お静も、八五郎も、やっぱり違う。

野村胡堂さんが書いた文章から、自分が受けとって、頭の中でつくり上げている。

銭形平次だけではなく、小説はそういうものなのだろう。

読む人それぞれに、違う世界が見えるのではないかな。

 

小説の世界には時代小説というジャンルがあるが、そのサブジャンルとして、伝奇小説、剣豪小説、市井小説、股旅物、そして、捕物帳がある

伝奇小説は、中国の伝奇小説にならって、時代背景や実在の人物を借りながら、架空の人物を登場させたりするものらしいが、吉川英治の「三国志」などはこれになるだろうか。

架空の人物はどうなのかわからないが、登場人物の行動や発言などは、本当のところは不明なことが多いだろうから、作者の創作なのだろう。

剣豪小説は、宮本武蔵佐々木小次郎など実在の剣豪を描いたものもあるし、「眠狂四郎のように架空のものもある。

市井小説は、職人や商人、下層の人たちを主人公にしている。

山本周五郎の「さぶ」という小説を読んだことがあるが、これは経師屋で働く若者を描いていた。

股旅物は、渡世人や侠客を主人公にしていて、国定忠治清水の次郎長を描いたものが代表的であるが、テレビ放送していた笹沢左保の「木枯らし紋次郎」もある。

 

そして、「銭形平次捕物控」は、捕物帳である。

捕物帳は、主に江戸時代を舞台に、江戸市中でおこる様々な事件を、江戸町奉行所の与力や同心、彼らから十手を預かる岡っ引きが解決していく。

捕物帳は、岡本綺堂シャーロック・ホームズの影響を受けて、「半七捕物帳」を執筆したのだが、現代物だと西洋の模倣になりやすいので、江戸時代に設定したのだそうだ。

その後、佐々木味津三が「右門捕物帖」、野村胡堂が「銭形平次捕物控」を書き、この三作が三大捕物帳と言われる。

さらに、陣出達朗の「伝七捕物帳」、城昌幸の「若さま侍捕物帳」、横溝正史の「人形佐七捕物帳」もあるし、池波正太郎の「鬼平犯科帳」は、さいとうたかをのコミックの原作となっているが、これも捕物帳だろう。

 

銭形平次捕物控」を読んでいると、平次と八五郎の掛け合いは、まるで落語である。

落語のような会話をしながらも、血生臭い事件や欲のからんだ盗みなどを解決していく。

やはり、落語にはならない。

野村胡堂という人は、岩手県の農家で育っている。

盛岡中学で、金田一京助石川啄木と同窓だった。

そういう人が、江戸の街を舞台にした話を書いている。

銭形平次を読んでいると、たぶん他の捕物帳ではあり得ないことが、ときどきある。

平次は、事件の犯人がわかっていても、捕まえないことがあるのだ。

犯人がわからなかったことにしたり、さりげなく逃がしたりする。

それができたのは、彼が奉行所の与力や同心ではなく、岡っ引であったということがおおきいかも知れない。

野村胡堂には、「銭形平次捕物控」を執筆するにあたって、こだわる原則があったらしい。

できるだけ明るい健康的な作品ということは、平次と八五郎の関係に現れているだろう。

そして罰することだけが犯罪の解決ではない、ということがある。

特に、加害者が被害者でもあったことが、事件につながっているような同情の余地のある場合である。

江戸時代の刑罰は重く、死罪や島流しになることが多い。

 

 

あと100話ほど、残っている。

楽しみながら読むことにしよう。

 

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テレビはどう変わって行くのだろう

晦日に、「紅白歌合戦」を見ていた。

昔ほどではないが、すこし楽しみにしていた。

知ってる曲もあるし、知らない曲もある。

まあ、それはしかたない。

30分くらいで、見ている元気がなくなってしまった。

なぜだろうか。

1時間しないうちに、脱落した。

布団に入って、タブレットを眺めていた。

私は、音楽はけっこう好きなほうだと思う。

紅白歌合戦は、楽しみにしている。

それなのに、見る意欲が持続しない。

まあ、しょうがないか。

 

先日、ラジオはどのように変わっていくのだろう、ということを書いた。

テレビの世界も、Netflixのようなスクリーミングサービスの企業が存在感を増している。

これがテレビの世界となるかどうかは、微妙である。

DVDレンタルからスタートしたというこの会社は、今や映像コンテンツの制作と配信を行なっている。

言ってみれば、映画会社とテレビ会社を兼ねたような存在である。

配信に、電波を使うか、インターネットを使うかの違いなのだろう。

 

テレビの業界の最近の大きな出来事と言ったら、2011年の「地上波デジタル放送」の導入だろう。

最近といっても、10年も経っている。

アナログによる放送を完全にデジタル放送に切り替えた。

それまでのテレビ受像機やビデオデッキがそのままでは、完全に使えなくなったのだから、よくやったものだと思う。

「電波の有効利用」ということだったのか、民放は空きチャンネルを埋める形で、チャンネル移行している。

10チャンネルだった「テレビ朝日」が5チャンネルに、12チャンネルだった「テレビ東京」が7チャンネルになった。

この二つのテレビ局は、ちょっと変わった会社である。

どちらも、教育放送のテレビ局としてスタートしているのだ。

 

私の学生時代は、1972年から1976年である。

その頃、「テレビ東京」は、「東京12チャンネル」という名のテレビ局だった。

1964年に、日本科学技術振興財団による「科学テレビ」を開局している。

同時に、科学技術学園高等学校を立ち上げ、そのための通信制の授業を放送していた。

しかし、1967年の免許条件の緩和により、娯楽番組を放送できるようになり、娯楽番組を制作を請け負う「東京12チャンネルプロダクション」に日本経済新聞社日本生命毎日放送が出資する。

1973年には、財団は免許権を12チャンネルプロに譲り、社名を「株式会社東京12チャンネル」に変更し、他のテレビ局と同様の体制となり、教育放送は翌年に終了した。

学生だった私は、「科学テレビ」だった頃の記憶はないが、東京12チャンネルを見ていたことは覚えている。

時代劇好きだった父が、杉良太郎主演の「大江戸捜査網」という見ていたし、私は、東京ボンバーズという日本人チームが登場する「ローラーゲーム」という格闘系のローラースポーツの番組が気に入っていて見ていた。

東京12チャンネルは、他のテレビ局とはちょっと変わったテレビだったが、1981年に社名が「株式会社テレビ東京」になっても同様であるらしい。

どんな大事件が起きても、なかなか緊急番組を放送することなく、通常の放送を続けるという独自性を維持している。

 

テレビ朝日」は、私が学生の頃は「NETテレビ」だった。

NETは、Nippon Educational Television ということである。

1956年の開局時は、「日本教育テレビ」であった。

東映、日本短波放送とその親会社である日本経済新聞、そして旺文社などの出版業界が中心となって設立している。

営利を目的にした教育専門局であったが、業績不振のために1960年には名称を「NETテレビ」に改称し、事実上の総合局に方針を変化する。

だから、私が学生時代にNETテレビを見ていた頃に、教育テレビの面影はほとんどなくなっていた。

そして、1973年には総合局免許を交付される。

朝日新聞社は、開局当初より東映と合弁し「朝日テレビニュース社」を設立して、同社が制作したニュースを放送していた。

その後、東映の持ち株の半分を譲り受けるなど、資金面や経営面で結びつきを強化して、傘下におさめていく。

1977年には、名称を「全国朝日放送株式会社」とし、略称を「テレビ朝日」とした。

 

地上波での民放局は、関東だけでも何局もある。

でも、番組構成などを見ると、みんな似たり寄ったりで、変わり映えしない。

地元にケーブルテレビ局ができた時に、数年契約したことがある。

ケーブルテレビには、その頃でも20くらいのチャンネルがあったので、びっくりした。

私の好きな歴史などを扱った「デスカバリーチャンネル」や子どもたちのためのアニメなどのチャンネルもあったので、契約していた。

ニュース専門だったり、スポーツ専門だったり、ジャンルごとに専門チャンネルがあるのだ。

見たい時に、見たいものを見ることができる。

ところが、ジャンルのグループ分けが変わって、料金的に割高な契約しかできなくなって、契約をやめた。

NetFlixなどスクリーミングサービスの契約は、どのようになってるのだろうか。

見たい番組を見たい時に見れる、というのが視聴者のニーズだと思うので、それに近いのであれば将来性がある、と思う。

その点で、地上波デジタルなどは、限界を抱えてるのではないだろうか。

 

 

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2022年 元旦

2022年は、どんな一年になるのだろうか。

 

元旦も、午後になって思いつきで出かけた。

富士山でも見て来ようと、思ったのだ。

富士山を見ると言っても、江戸川の土手へ行けば見えるかな、と考えた。

 

子どもの頃は、一月一日は出かけるものではない、と言われて育った。

だから、出かけるのは二日からだった。

私は、親のお使いで、父と母の実家に年賀のものを届けて、お年玉をいただいていた。

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我が家から、最も近い江戸川の土手である流山橋に出かけた。

流山街道には人の集まりそうなお店があるので、かなり混んでいた。

大規模な電気量販店と衣料販売の店舗の駐車場に駐車して、土手に向かった。

その前に、近くにある赤城神社でも寄って行こうかと、寄り道した。

神社の周辺は、初詣の人が集まっていて、整理の係員も出ていた。

 

元旦に出かけるなんて、しばらくしたことがなかった。

初詣で、ごった返していて、赤城神社の境内は参拝客で行列だった。

これは駄目だと、見切りをつけて、素早く江戸川に向かう。

江戸川の土手に出て、富士山方向を見る。

富士山は、江戸川のやや下流方向にあるはずである。

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地平線に近い下の方は、すでにかすんでいて富士山は見えなかった。

富士山を見たいなら、朝早く出かけるべきであった。

そして、江戸川土手よりも、富士山を見るのにふさわしい場所もありそうである。

おもいつきではなく、もう少し準備をするべきである。

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しかし、江戸川上流を見ると、筑波山が見えた。

この辺りは、筑波山ならだいたい見ることができる。

さっそく、筑波山にご挨拶とお願いをした。

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かすかに筑波山

とにかく、土手の上は冷たい風が強かったので、早々に退散した。

あとは、新潟県泊漁港を売り物にした鮮魚専門店が近くにあるので、寄ることにする。

ところが、店舗の中は人がごった返している。

予約のお寿司を受け取るためのお客が長蛇の列である。

とても、ゆっくり買い物していられない。

ひと回りして、あきらめて帰ることにする。

 

帰り道はコースを変えて戻ったのだが、とんでもない渋滞に巻き込まれた。

やっぱり、やり慣れないことはすべきではない。

思いつきではなく、計画的に行動すべきである。

元旦は静かにすべき、という親の教えは守る意味がある。

 

 

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百科事典はネットの世界にあるのだろうか

私は、百科事典のようなものが好きである。

小学生の頃に、学習雑誌の付録の人名辞典を熱心に読んでいた記憶があるので、そういう素地はあったのだろう。

私が最初に手に入れた百科事典と言えるものは、「マイペディア」というWindows用の百科事典ソフトだった。

2002年、デアゴスティーニが創刊した「週刊ピーシー・サクセス」の付録だった「マイペディア PC Success版」を手に入れた。

当時、私はソニーPDA「クリエ」を使い始めていた。

PDAは、「携帯情報端末」(Personal Digital Asisitant)であり、今になって考えてみると、電話通信機能のないスマホのようなものであるクリエは、PalmOsを搭載していた。

テキストを書籍のように読むことができて、音楽も聴くことができた。

それに、百科事典も加えようと思ったのだ。

www.heibonsha.co.jp

PC用「マイペディア」は、1994年の電子ブック版、1997年のEPWING版を経て、1997年に発売されている。

元になった書籍版は、1954年初版発行の「小百科事典」で、A版の一冊ものだったようである。

1960年代からの高度経済成長とともに、「百科事典ブーム」があって、日本の家庭の必需品のようになった。

我が家では縁がなかったが、応接間に数十冊の百科事典が並ぶというイメージが残っているのは、テレビのコマーシャルなどでもやっていたのだろうか。

私も、もう10歳くらい上の世代で、家庭を持っていたら、たぶん百科事典を買っていたかもしれない。

しかし、「百科事典ブーム」は、長くはなかったようだ。

1990年代になって、PCの普及とともに百科事典もCD-ROM版に移行していく。

書棚の何段かを占めようという百科事典は、一枚か数枚のCDに収まってしまった。

でも、書籍としての百科事典は、ステータスシンボルとして売れたものも多かっただろうから、実際の需要はそれほどでもなかったのだろう。

CD-ROMとは言っても、それなりの価格である百科事典ソフトは、それほどは売れなかったようだ。

 

「マイペディア」は、平凡社が発売した小型百科事典である。

百科事典ではあるが、一冊ものの小型なので、総項目数約65,000であるが、説明文は簡潔である。

「クリエ」は、「メモリースティック」というメモリカードを使っていたが、最大容量が128MBだった。

GBではなく、MBである。

「マイペディア」には、静止画、動画、アニメ、サウンドなどが、12,000点収録されていたが、テキスト部分だけにすると、かなりサイズを小さくできてメモリースティックに入れることができた。

pc.watch.impress.co.jp

もっと本格的な百科事典ソフトが欲しくなって、いろいろ探した。

小学館が発売していた「日本大百科全書」というものが見つかった。

書籍版は、1984年に初版が全26巻が刊行されている。

寄稿者6000人以上、総項目数130,000以上という膨大な情報だ。

電子版は、1996年に電子ブック版が出ているが、私が買ったのは2001年発売の「スーパーニッポニカ・ライト」というCD-ROM版である。

ネットで探していて、どこかの大学生協で見つけて手に入れた。

これは、日本大百科全書に国語大辞典をセットにしたものである。

併せると、項目数は38万を超える。

項目によっては、記事は長いものがあり読みごたえがある。

 

その他にも、平凡社の「世界大百科事典」を手に入れた。

電子版は、NEC、日立デジタル平凡社、日立システムアンドサービス、を経て、最近はセイコーインスツルの電子辞書に収納されている。

私が持ってるのは、日立デジタル平凡社の頃のもので、総項目数約90,000である。

pc.watch.impress.co.jp

その頃、マイクロソフト社も、「エンカルタ」という百科事典ソフトを発売していた。

ポプラ社の「ポプラディア」、小学館の「ジャポニカ」、そしてブリタニカ・ジャパンが「ブリタニカ国際大百科事典」というものを出していた。

それらは、現在は最新版がほとんど発売されていないし、存在感がなくなってる。

紙に印刷された書籍版はほとんどが絶版となっている。

調べた限りでは、2007年刊行の平凡社「改訂新版 世界大百科事典」が最新のものであるようだ。

 

インターネットの普及によって、何か知りたことがあれば、ネットで手軽に検索できる。

それによって、自分の必要とする情報を手に入れることができる。

適当なサイトを見つけるだけである。

わざわざ、百科事典ソフトを使って、調べる必要はない

百科事典ソフトをいくつか持っている私も、ほとんどそれを使うことがない。

知りたい項目、知りたい人名を、入れてネットを検索すれば、なんでも出てくる。

百科事典には収録されていないような項目や人名でも、大丈夫である。

特に、ウィキペディアだったら、まとまった情報を得ることができる。

ja.wikipedia.org

ウィキペディアの問題点は、いろんなところで指摘されている。

名誉毀損著作権侵害、責任の所在、編集合戦、など、あげればキリがない。

ウィキペディアの仕組みについては、私はあまり知識がない。

でも、誰でも編集に参加できるのは基本なのだろう。

ということは、インターネットの世界が抱える問題が、そのままウィキペディアも抱え込まざるを得ないということになる。

一企業たる出版社が、百科事典を刊行しようとしたら、会社の命運がかかる一大事業である。

責任者を決め、編集や執筆についての基本方針を込め、ジャンルごとの執筆項目を決めることも必要だろうし、多数の執筆者に依頼しなければならない。

ウィキペディアには、そのようなものはないのだろう。

書きたい人が、書きたい項目について書く。

だから、全体としての統一性がない。

やたらと膨大な項目もあるし、中身のうすっぺらなものもある。

現在、ウィキペディア日本語版は、1,300,000項目を超えている。

このページを、EPWINGという電子辞書ファイルに変換したものを提供しているサイトがあるのだが、そこにあるのは23.4GBというとんでもない大きさである。

これが英語版になると、6,430,000項目をこえている。

sites.google.com

 

こうなると、ウィキペディアを利用するにも、インターネットに対する姿勢と同じように、対していかなければならない。

宝の山でもあり、ゴミ溜めでもある。

玉石混交の世界なのだ。

かつての百科事典をはじめ、さまざまな情報のデータベースを利用できるサイトがある。

けっこう、おもしろいものだ。

kotobank.jp

www.weblio.jp

 

 

 

 

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白黒写真の時代があった

子どもの頃の写真を、私はあまり持っていない。

年に一回の学校の記念写真や、修学旅行の写真くらいである。

あとは、数枚のスナップがあるが、これはおじさんが撮ってくれたものである。

自宅近くの田んぼなどで撮ってもらった。

おじさんと言っても、10歳以上20歳近く離れた従兄弟である。

札幌で勤めていて、お盆や正月に帰ってきた。

8ミリ映写機も持っていて、自分で撮った8ミリフィルムをみせてくれた。

障子かシーツをスクリーンにして、上映会をやった。

 

小学校高学年の担任の先生が、遠足などのスナップを撮ってくれたものも、数枚ある。

先生は、自分で現像や焼付けをやって、クラスのみんなに配ってくれた。

代金を集めることはなく、無料だったと思う。

そのかわり、とても小さいサイズだった。

クラスの30人以上の子どもたちにあげるのだから、自腹を切るにも大変である。

もともと理科専攻の先生だったので白衣を着ていることが多かったが、理科室あたりで、焼付けした印画紙を水洗いしてるのを、見たような気がする。

放送室のとなりに、放送室付属の小さなスタジオがあって、そこの小窓をに暗幕すれば真っ暗になったから、そこで現像焼付けしたのかも知れない。

 

私や姉たちも、写真館で撮ったような写真は持っていない。

写真館に行くような余裕がなかったのだろうか。

父親や母親は、何枚か写真館で撮った写真がアルバムにあった気がする。

何かのの機会に、街の写真館で家族で写真を撮ることは、私の田舎のようなところでも当たり前のことだったのだろう。

何回かの転居の際に、両親のアルバムは紛失してしまった。

父と母の若い頃の写真は、手元にはない。

 

母親には、3歳年上の兄さんがいた。

母親が、いつか言ってたことがある。

兄さんが若い頃に、写真の現像や焼付けを、押し入れの中でやっていた。

そう言えば、妻の父親も、自分で写真の現像や焼付けをやっていたという話を聞いたことがある。

二人とも、大正の終わり頃生まれの世代である。

その頃の新しいもの好きの人は、そういうことを独学でやっていたのだろう。

写真館で写真を撮ることは、贅沢なことだろうから、そんなにたびたびできることではなかったから、自分でやるしかなかった。

 

写真が、誰にでも身近なものになっていったのが、高校生の頃だった。

1970年前後になる。

カメラは持ってなかったが、カラー写真が出始めた。

そして、学生時代にアルバイトをやって、旅行に出かけるためにカメラを買った。

オリンパスペン」という商品名は覚えている。

いくら位するものだったのか、調べてみた。

オリンパスペンEE-2」というものだったらしい。

価格は、11,000円ということなので、アルバイトで買える範囲だ。

でも、フィルムやプリントは、それほど安くはなかったと思う。

その点で、この機種はハーフサイズで、フィルムを2倍に使える経済的なものだった。

これが、私にとっては、はじめてのカメラだと思っていたのだが、考えてみたら、そうではなかった。

小学生の時に、おもちゃのようなカメラを買ってもらった。

おもちゃのようなものだったが、ちゃんとフィルムが入れられて写真が撮れた。

写真屋さんで、写真にしてもらった。

最初の被写体は、我が家で飼っていた子ヤギくんだった。

鳴き声のかわいいヤギだったけど、写真は残っていない。

 

その後、私にとっては山登りの時代を経て、子育ての時代になる。

1980年代後半には、フィルムも安価になり、プリントもクリーニング店や薬屋さんなどの取次店を利用できるようになって、しかもかなり安くなった。

さらに、PCの時代になってデジタルカメラが使われるようになる。

考えてみると、デジタルカメラにしてからは、ほとんどプリントをしていない。

写真はディスプレイで見て、必要であればプリントということになった。

我が家の場合、子育てのアルバムが40冊くらいになっていた。

数年前に、スキャナーを使って、アルバムの写真をデジタル化したのだが、大変な作業だった。

 

昨年は、孫娘の七五三だった。

写真館で撮った記念写真をいただいた。

我が家も、子どもたちの七五三や、入学、成人などに写真館で記念写真をとってもらっていた。

いくら手軽に写真が撮れるようになっても、節目には写真館で記念写真を撮る。

かつての写真館というイメージよりも、もっとおしゃれな写真スタジオとなって、定着している。

 

 

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