晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

そとがはまつたひ⑤  菅江真澄テキスト  

十一日 松前の島の、浪の上に遠う見やられて、しほせさしのぼる、あさ日のてりみちたるころたちて三馬屋(三厩)の浦につきたり。
かの、みたりのおほんまふけとて、三のふなよそひして磯近くつなぎ、脚艇などいつくしう見えたり。
此浦やかたに神明のみやどころあり、養信庵といふいほりあり。
御厩石のまとりよりのぼりて観世音の堂あり。
こは、むかし、越前の国足羽なにがしといふ人の夢に、われとし久しくこゝに在り、ねがはくばみちのおくの三馬屋にいたり島わたりの舟をまもり、浦のまもりとならんと見おどろきて、いそぎこの浦にをくり奉らんとおもへど、よるべなければ、すべなう月日をふるに、そのくにうど久末なにがしといふもの津軽にいきて、檜原の杣に宮木伐らせ、おほぶねにつみくとて、ふなでしけると聞て、これにたぐへて、みほとけを奉れば、久末、としごろ宿りつる問丸伊藤五郎兵衛がもとにもりいたりて、しか/″\のことありといふ。
あるじは、ひんがしのみてらのながれをくみて、ことのりのをしへにはかたぶかで、をりもあらんとて、からうづ(唐櫃)に、ふかくをさめぬ。
としへて足羽がもとより出たりける円空といふすけ(出家)、島わたりせんとてすぎやうし来りて、これも夢をしるべに、みちのくの国にいたれば三厩のほにつきてそのほとけのおましませる宿ともしらで伊藤がもとに泊りて、この浦にさることやあらん、いづこならん。
あるじこたへて、わが家にこそあなれ。
こは、ゆくりなうさちなるかなとよろこび、猶たふとく、われ御堂を建んと
此法師かくて、三厩岩の上なる磯山をひらきて、そのみほとけをおかん。
この観世音は源九郎義経のきみ、かぶとにをさめて、そのたゝかひに、しかまのかち(飾磨の搗布)をえ給ふのとこのましませし、一寸二分の、しろがねの、みかたしろなりけり。
それに、足羽がもとへのもんじやう、花押あるをそへたり。
円空みづから観音の像を斧もてつくり、しろがねのみかたしろは木のみかたしろのむねにこめて、そのもんじやうに、円空法師、ありつるゆへをかきそへて伊藤がもとにいま猶あれど、いたくひめて、この浦人すらゆめしりたるものもあらねど、ある法師のこゝにとしをへて、なりむつびたるとて、そのあるじが、このほうしにのみみそかに見せしとて、かのほうしの人にかたりていふ。
いとふるめける紙のあつ/\としたるにかいて、義経とあり。
又円空法師が書そへたるかみは新しけれど、ところ/″\しみのはみて、文字のさだかならざるもありきと。
その円空が作れる観世音を、一とせ、みとばりひらいて人にをがませ奉れば、雨風しきりにして海あれ、ひかり、かんどけしたれば、此たゝりにやと、いそぎとざしてより、いまは住僧のほか、さらに拝み奉りし人もあらじとかたり、春の末は三宝鳥もかならずきなく、もともたふときところなど浦人の話りたり。

 

「けふもかもみやこなりせば見まくほりこしの三馬屋のとにたてらまし」


と、ずんじぬ。

人もしかおもふにや、松前のきみの贐に、


「船うけて月をみまやの浦辺行らん」

 

と、太気能綾太がながめて奉るかた歌てふものを、かのきみ、盞の皿にかゝせ給ひしとなん。
この三厩の、新谷勘兵衛といふものゝ砌に在つる梨子のいとよければ、おほんつかさとやらんめして、めで給ひしあまり紅梅瓶子と名づけ給ふを、われも人も接換、寄枝とし、あるは嫩なるをうつして、いま三厩梨子とて、その果、津刈のくぬちにいと多し。
そのもとは、此宿なりしと人のいひて、その門をすぐ。
宿てふ宿にすゝとり清め、そのもふけなべてならず。
いつ/\の日、むさしをたちてこゝに至り給ふなど、人さはにいりみちて、しばしとて休らふかたもあらねば、烏銕(宇鉄)の浦にいざ行てんとて、三馬屋(三厩)のはしなる中浜といふところにしばし休らへど、此あたりも屋根ふきかへ、さうじはるなどいとなければ、磯辺にたち、渚なる冑石とてたてるを見たゝたゝずみ、朝川わたりて算用師といふ村に来けり。
この山河をさかのぼれば、小泊の浦にいづといふ山越のみちあり。
六丈間といふやかたをへて藤島といふがあり、そのやかたもありき。
あかわしりのみちに行なやみ休らひて、

 

   春は咲く花のすがたを寄る波に見せてぞかゝる浦の藤島

 

此あたり、過来しかたも、柴ふける屋に木の皮の戸さして、磯辺にかりの栖居して、夏ばかり、ひろめからん料にぞせりける。
真砂地にほしたる昆布をのしたゞし、ゆひつかねて、男女いとなう見えたり。
巌の上にのぼりて四枚橋とて、細き木をいはのはざまごとにかけわたしたるを、うちよる波のうへあやうげにふみて竈の沢村になりぬ。
このやかたの辺に、田村将軍の、ゑみしをうちたまひしころ、すへたりし釜のあととてありけり。


旧(モト)烏銕(宇鉄)川をわたりて、上烏銕(宇鉄)の浦といふやかたに巳のとき斗につく。
此浦人はもと蝦夷の末ながら、ものいひ、さらに、ことうらにことならず。
近きむかしとやらんに鬚そり頭そりて、女も文身あらでそのけぢめなし。
うらのをさ四郎三郎といふがもとに宿かる。
むかしは浦/\に蝦夷や多かりけん、にぎえぞ、あらえぞなどもはらいへり。
猶ありたりし母衣月の弊岐利婆が末の子を又右衛門といひ、松が崎の加布多以武、その末を今は治郎兵衛といひ、藤島の牟左訶以武、いまその末は清八といひ、宇?通(宇鉄)の久麼他可以武が末なるは、此宿のあるじの四郎三郎なり。
此四人の保長(ヲトナ)とて、浜名浦の七郎右衛門をいまもおやかたといひとしのくれなどには刀万府てふ、海狗(とど)にたぐふ、うなのけものを小島のあたりにとりて、その浜名のをとながもとに土毛にをくりたりしよし。
この、うてつのうらよりは家居もたえて、率土(外)の浜輪のはてにこそあらめ。
なべてうらわに、あか玉とつくるべき石のあれど、委万弊都(今別)の浜にくらぶれば、あるがあるかは。
しばしは、ひぢををりて休らひ、ふたゝび、海べたに出てあたりを見めぐり、

 

「到合浦者不求裹宝珠、登摩嶺者不染有衣香」

 

とか、家づとにもとひろひたり。
かく宝石のところ/″\に在れば、外がはまべに合浦の名をいひわたり、からうたなどに孟嘗がふるごとをひいて、もはらいへり。
やをら日の海に入て、さしのぼるタ月をたどりておきべ/\へとこぎゆく小舟は、網させりといふが、ほのかに遠ざかる。
浜風の寒ければ入て枕とる。

 

   浦づたひそことたつきもなみまくらかゝるたびねのよる/\ぞうき

 

 

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そとがはまつたひ④  菅江真澄テキスト  

八日 あめ風の猶はげしう、しほ霧といふもの窓より吹入て、いやさむきに、あるじのとうめ、なによけんとて、潜阪のかぜに青杜(森)の巨波久漬といふものをもて酒しゐぞしなど、時うつれど、つゆのあまばれもなう、え出たゝず。
このこはくづけてふものは、ほや、すぼや、いぬすぼやなど、たぐひのいと多きがなかに、酸保夜といふものをつけたる。
そのいろの、琥珀に似たれば名づけたり。

 

九日 山背風いやふけど日のほのかにてれば、油川の泊を出て瀬田糸川をわたる。
むかし、皐(水岸)に鶴の子うめるが野火のかゝりてやけわたるを、めづる、子をおもふの心せちに翅やかれたれば、おづるも飛来て羽をふためかし、ともに死たり。
その鳥のあぶらの流たれば、大浜の又の名を油川とはいふとなん。
鶴神といふ山のゆんでに見えたり、そこにすくひたらん。
十三森をへて十曲川をわたり、田沢、夏井田を過て飛鳥といふ浦のあるに、ともなへる人の、

 

「きのふといひけふとくらして」

 

と、くちずさみつゝたゝずめるは、細きながむしに女の物あらふにこととへれば、

 

「飛鳥川せゝの玉藻もうちなびきこゝろは妹によりけるものを」

 

ととなふ?れば、はとわらふ。
かくてわれもたゝずみて、しほ浪に水のへだてられたるを、

 

   これも又うらの名におふあすか風ふくにまかせてふちせとぞなる

 

瀬戸子(トシ)などの浜をくれば、れいの道つくるとて、蝦夷人の、木の皮の糸して織なせる阿通志(あつし)てふ衣に?したるを着、あるは、この浦の乙女らがをりたる、はなだの麻布に、背のあたり斗ふときしら糸して、あやにぬひものしたるをも着て、男女さはに入まじり、手ごとにかなべら、てんすき、たち、かつさびなどをたづさへてむれり。
瀬戸子(トシ)、奥内、前田、清水、内真部(ウチマツエ)、左堰、小橋、六枚橋、後潟(ウシロカタ)の浦にいたる。
行人嶽とていと高山の見えたり。
四斗(戸)橋(以上青森市)、中沢(以下蓬田村)、長科をへて阿弥陀川といへる村あり、小橋かけたり。
此ながれに、むかし、すぎやう者の、あみだほとけをゆくりなうえて、浪岡村(南津軽郡)に庵つくりて、をこなひをりし物語のあり。
村をさかふくゐせに、蓬田村とかいつけたるをうちまもれば、来かかる人の、よごみだ村とさふらふといふ。
此あたりのうら人は、蓬をよごみとぞいふめる。
すみしやたぞならん、大館のあととてありけり。
かつ行て郷沢といふ村のあとあり卯辰のうゑに、いさりするに魚だにあらで、犬をつくり馬を屠りてくらひたりしころ、人身まかりやけたりしと。
瀬戸(ヘ)(辺)地をへて広瀬といふところの細き流にのぞみて、

 

「ひろせ川袖つくばかりあさきをやこゝろふかめてわがおもへらん」

 

と、おなじ名あればこゝにずんじて、蟹田(東津軽郡蟹田町)のうまやをこゆるに川あり。
つな舟くりわたせり。
中師、石浜、深泊、小館(以上蟹田町)、ニツ屋(以下平館村)、杉の浦に至る。
もとこゝなん

 

「見し人はとふのうら風音せぬに」

 

と聞えしところにて、そのむかしは菅といひしかど、いまし世には、なべて杉てふことを村名とはよぶなどいへる人あれど、うべなりともおもほえず。
今津を過て野田の村に泊をさだむ。

村中に小川のふたつながれたり。

そのひとつをいひて、

 

「しほ風こしてみちのくの」

 

と、もはらこゝにながめたりし歌といひながし、仙台はさらなり、南部路にいふすら、うたがはしと、うら人のいへれど、いかゞあらんか。
こゝともこゝろゐざれど、月のかげおちてすゞしうおかしければ、見たゝずみて、

 

   ゆふ月のかげこそみつれしほかぜの越てふ野田の玉川の水

 

しほ風こして氷る月かげ、と、ずんじて更たり。

 

十日 あさ日、島かげよりさしのぼるころ宿をたちて、みちしばしくれば根岸といふところに至る、又の名を根榾(ネツコ)とぞいへる。
此浦人は、いむべきやまふいと多し。
むかしはかく家居の数なかりしかど、いづこならんか、男女いくばくの人の船にのり来て、こゝに住つきて、男はすなどりをわざとし、女は割織(さきおり)とて、麻苧のいとをたてぬきに、毛布のやうにあつ/\とをりぬ。
出羽の淳(能)代にをる割織とはおなじからじ。
こは新保先織といふものに似たりと。
あるはいふ、此浦人は越前の国なにがしの庄より来るともいへれば、さもありぬべし。
くにうどの諺に、ねつこかみ衆といふ。
うべならん、ものいひぶりの、ところ人とおなじからざる也。
この磯山かげに湯泉あり、根榾の湯といふ。
そのほとりに長屋形やま、あるは丸屋形、腰懸などいふ山どもの見えたり。
平館(タヒラダテ)に来けり。
石崎の浦をへて転々(コロ/\)川(頃々川)といふ浦やかたあり。

 

「うなひ子が氷の上をうちならすいしなつぶてのころ/\の里」

 

とおもひあはせたる歌あれば、うち戯れ、うちずんじて、小石ながる、小河のへたに休らひて、

   ときもいまかじか鳴らしころ/\と名にたててゆく秋の川波

 

宇田といふうらに来る。

 

「みちのくの■田の小浜のかたせ貝あはせて見たき五瀬(伊勢)のつましろ」

 

とよめるは、宇田の郡にてやあらん。
なべて、みちのおくに宇田といふ処のいと多し。
いくほどなう伝治が宇田(以上平館村)てふ磯辺をつたふ。
鉾が碕といふに、そのさま、人の蹲りたるすがたの石あり。
磯近うふりかへりて見れば鷹人の狗飼、あるは山だちなどの居たるにひとし。
門建岩といへるあり、窟の観音とて鳥居あり。
むかし、鬼のこもりたるいはやどなりと。
鬼泊川(以下今別町)などわたり、かたがり石を見過て、又、綱不知てふ名の聞えたる浦に来る。
南部のやま/\霧の中に仄に見えて、舟どもの見えたり。

 

   ふねあまたかけしいかりのつなしらずをちのなみまにながめかる海士

 

岩摺(ワシリ)といふ処の磯山の白滝とて、おかしうおちたり。
鉾が岬のこなたなる、清水の沢の滝よりは猶こそまさらめと、

 

   音せずばありともそことしら滝のいとくりかへしながめてぞゆく

 

 

 

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そとがはまつたひ③  菅江真澄テキスト  

綱不知、原別(ここより青森市街)、作リ道などの村をへて、群松のあるを五本松とかいひて名だたり、茶屋町といふ処より、塘川とていと大なる流に長橋をかけたり。
岸のこなたに遠う、ゆんでに、麁脛滕(あらはばき)の神の杜といふが見ゆ。
めてのきしべに木の高う茂りたるは、武南方富神を祀り奉るといへり。
河は、みなとのいと近し。


かつ渡り青盛(森)になりて、市中をはる/″\と、米町とかはつれば烏頭の杜あり。
かくて、ふたたび烏■(童+鳥)(うとう)のみやしろに、ぬさ手向奉る。
つたへきく、延喜の御代とやらん、善知鳥、悪鵆のいたく群れあさりて、浜田、浦田の早苗ふみしだき稲のみのらざれば、国人うれへて都にうたへ申しかば、か(狩)らしめ給ひて、その鳥のむくろを集て山とし、高く塚したりとも、あるは、烏頭大納言藤原安方朝臣といふやんごとなき君の、いづれの御世になにのおかしありてか、さすらへおましましてこの浦にてかくれ給ふたるが、そのみたまの鳥となりて海にむれ磯に鳴てけるを、しか名によび、その君を斎ひ祀て鴪(うとう)大明神と唱ふなど、浦人の耳に残たる物語どものあり。
今は棟方明神とあがめ奉る。


宗像の神は、三女神を祀りてけるもゆへやあらん、いさしらぬひの筑紫なる、■肩(宗像)の郡などの物語もやあらんか。
此みやどころは、ふたもゝとせのむかしとやらんに、こゝにうつしたり。
もとも、そのふるあとのありと聞て見まく、新町といふ処を出て里のやかたのはし、安潟町のすぢよりこなたに在る大みちを左に入て、田の畔つたひて、いづこならんと、草刈る翁に銭とらせてあないさすれば、?沙門天王の杉村をいくばくならず離れて、耕田山をゆんでに遠う、岩樹(木)の嶽をめてにむかひ見てゆく/\至れば、あれ田の中に小高く木のふたもとならび立るに、草のふかうしげりたる処あり。
一もとの木は、いたやとていと多かる木なれど、いま一もとは、なにの木と、さらに杣山賤すらつゆしらざる木にて、たゞ山の木といひ、山の木ばやしといふ。
こゝなん、そのむかしの跡なりとをしゆ。


此木も近きとしまで、ふたもとありしかば二本木ともいひたり。
いにしへ青森といひ初たりし名も、こゝや山口たらん。
その一もとの、名もしれざりし木の、としをへて朽たふれしかど、板屋の木を植つぎて二本木の名はかれしなど、はた、此二本木のほとりより、いまの、うとふの林のあたりまで大沼のありたりけん。
それをうとふぬまとて、うとふ鳥のむれすみ、この山の森にも多かりけん。
こゝに来鳴たるといひつたふその鳥は、今七里ともつなぎともいふ。
都奈耆は觜に鍼のごときものありて、うるめ、いはしなど、さゝやかの魚をひしひしとさし貫きあさり、斯知里は、七里の灘も磯辺も見えぬまで多ければしかいふとも、又、しちりとつなぎとはおなじからじとも申き。


われわかかりしころは沖のりわざをのみして、一とせ、風にはなたれて小島といふ処にからくしてつき、舶にずりを加へ風まつほどに、かて(糧)つきてすべなう、此鳥の此嶋に多ければ、日の入て海より島にむれ帰り来て、つちのそこにふかく、こゝらの穴あるをたどりて、さばへの如くむらがるをたのこひ、小綱のはしもてうちおとして、あぶりくひて、やゝ命いきて松前のわたりしたることあり。
松前の沖べには、その鳥のいと多しと語りもて翁を別たり。
翁がものがたりのしかすがにおかしう、うべも聞えたり。
善鵆をゑがきしかたなどを見れば、?のすがたしていろいと黒く、觜を赭黄にいろどり、足は、うす墨にゑがく。
頭はたかべ、あぢむらなどにことならずして、眼のあたりに白き羽のまだらに生たてり。
おもふに、みちのおくの人、わきてこのあたりにて、空(ウツボ)なるものをさしてうとふといひ、うつぼなる木をうとふ木といふ


南部の山里に至りたるとき、のりたる駒の、とゞと、ふみとゞろかせば、いたく鳴りひゞくところあり。
いかにととへば、こゝは、うとふ坂なれば、かく鳴りて侍るといらふ。
ところ/″\に空坂(ウトフザカ)、うとふ山てふ名も聞えたり。
さりければこの鳥の、うな(海)のほとりに穴をほりうがちて巣つくれば、しか、とりの名を空鳥(ウトフドリ)とやいへらんかし。
善知鳥沼は、鳥の多くむれあさればいひつらんか。
この沼も潟にてやあらん。
海士、山賤等が、いやしくも潟と湖と沼とを、おほぞう、おなじさまに呼ぶたぐひのいと多し。
さる潟のきしべあたりに、椰須(ヤス)てふ木などの生ひたらんを潟の名と、むかし人の呼たらん。
はた、弥栖潟にてやあらん。
ふるき歌に、

 

「みちのくのそとがはまべの喚子鳥鳴なる声は善知鳥やすかた」

 

このこゝろばへも、鳴こゑは空鳥(ウトフドリ)にてや、すめらんところはいづこなるよ、安潟ならんとおもひやり給ふたらんか。
又もかい聞えたきことのくさ/″\なれど、猶ひがごとの、かたはらいたげなれば、かいもらして、ことふみにのせつ。
沖館、新田を過て大浜のはまやかたに宿かる。
こうじてけるにやあらん、とく休らひてよとて、なさけ/\しう湯などひかせて暮たり。

 

   星会の空やあふがん雨もよの雲ふきはらへ外がはま風

 

ひよゝ風ふき雨さへふりしきり、浪の音の高う聞え、衾(ふすま)にすだく蚤のうるさく、雨の、あと枕にもりしたゝりて、とりは鳴たり。

 

   ねられずよ泉郎(あま)のとまやの波まくらぬるゝならひとかねてしりても

 

かくてあけたり。

 

 

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そとがはまつたひ②  菅江真澄テキスト  

 

七日 ひんがしよりしほ風のはげしう吹ば、けふも又やませの吹てと、ゆもりの、あさゆあみしてけり。
みちは山路ありて馬かよひ、浜路ありて、かち人磯づたひしたり。
うたうまへ(善知鳥崎)のかけはしを渡る。
国人は、とうまへのかけはしともはらいへり。
高岸の岩つらに、尋(ひろ)斗の板をわたしてあやうげ也。
ふりあふげば木の中に婀岐都が窟とて、むかし、あら蝦夷人のこもりて、行かふふねをうちとゞめて宝をうばひたりしと、げにやさかしき処に、人さらに至らぬいはやど也。

 

「おくの海夷がいはやのけぶりさへおもへばなびく風や吹らん」

 

など聞えて、蝦夷はかゝる処に多く栖たらんを、むかし人もしかながめ給へり。
蛇塚の浦に来つれど、うらのながめのいとおかしければ、ふたゝびかけはしをふみて、さいのかはらをゆんでに千貫石のあたりより馬みちをわけ、山にのぼりて見やる。
うべも清少納言の、浜はそとがはまと、名さへめづらしう、かいなし給へるもあはれ也。
ゆのしま、かもめじま、はだかじまなど波の中にたゞよへり。
わけ/\て蛇塚のやかたをそなたに、潜戸川をわたり笊石の浦に出たり。
又の名を根井といひ、くゞり(久栗)坂とよぶ。
うづきよりさつきをかけて、くゞりざかの海栗(カゼ)(きたむらさきうに)てふものをとりて、しほからとせり。
こは、あはび、さだおか(さざえ)にならびて、催馬楽にうたふのひとくさ也。
旅人、さかどのにしりうたげして、これをさかなにゑひ、ほうしばらは海味噌と名附て、ひたなめになめ、たうびゑひたり。
いそのかみは小豆沢のほとりより山路をめぐり、あるは、童子山中をわけ神木の坂といふをおりて、ふしたる岩の、はざまをくゞりて行かひをせり
そこを潜戸といひ潜坂といひし名をこゝにうつして、磯辺の不動尊の岡のしたつかたなる石を、わらはべくゞり通へば、しか浦の名におへりと。
その神木の坂のほとりより、むかし、雌雄の槻とて、大なるみや木のふたもとたてるを、都にひかれて、お木を、いづれのみかどにや、ゆんでの御柱とし給ひしと、杖にかゝりたる翁の、しらぬむかしをつばらに伝へかたりぬ。
こゝは何の庄とかいふととへば、横内組といらふ。
おほむかしに津軽の郡の名たれど、今はなに組、かぐみと、親村の名をもて組とさだめて、庄とおなじう聞え、なかむかしより津刈(軽)の五郡といふあり、田舎郡、平賀郡、花輪郡、馬郡、入馬郡、庄ととなへしとも、今はもはらとはせざりけり。
峠越れば雄元の形をせし大石の立たり、浦島森といふ。
大浦、小浦、冠山とておもしろき磯山也。
関のこなたの、みさかいと高う、社のあるにまうづれば、神ぬし、御前をきよめけるがかたりて、これは山城の貴船の神を、いにしへうつし奉る。
弁財天といはひまつる末社あり、これなん鬼が女十郎姫のみたまなりとも、又義経のをんなめにてやあらん旭の前といへるが、此君をしたふのこゝろせちに、寄りたる船の中におもき病をして身まかり給ひしを、こゝにけぶりとなし、しらほねは山おくの玉清水といふ村に埋み、塚してしるしをたて、その寺を朝日山安養寺常福院といふ。
又神の社あり、神明をあがめ奉る。
貴布禰(貴船)の御前にかしこまりて、

 

「おく山のたぎりて落る滝つ瀬の玉ちる斗ものなおもひそ」

 

とずんじて、かみぬしとともにみさかおりく。
その鬼が娘とはいづこの鬼にてか。
云、蝦夷などのたけきをいひしにや。
朝日の前も、いづらの人ともさらにつたへもさふらはず。
こなたへとて径にさしいざなへるに、あやしうさし出たる岩どものあり、名を竜(タツ)の口といふ。
とは、あら垣を波の中までもうちめぐらせてまもりたり。
磯山かげに、けさもりといふあり。
むかし、すぎやう(修行)者のけさかけたるいはれあり。
艮のかたに、自呂左久といふ蝦夷人の栖し家のあとあり。
たゝみ石、わしり岬、はた祖母石といふは、その立石の又の名也。
じろさくが妻の老たるころ、わが子の遠島わたりしたるをこひわび、山にたてるが石とくゑ(化)したるすがたなりと、望夫石とおなじ物話をせり
はた、水江の浦島が子のふるごとをこゝにひいて、むかしがたりあり。
網屋場(アジヤバ)といへる処に、義経の車にのりて、真くだりに磯にくだり給ひしふるあとあり。
はた、よしつねのこゝに船つながせ給ひし巌を、はなぐり岩とて猶あり。
山の名もしかり。
かくて野内の関のくいぬきに入て、せきて(関手)わたして越ぬ。
かみぬし柿崎なにがしがもとに休らふ。
あるじの云、乃南以(のない)とはもと蝦夷の辞にして、まことは鷲の尾の港といふ。
むかしこゝに、鷲の尾羽落したるためしもありてなど聞えき。

 

「人とはぬ太山の鷲も哀なり誰にむくひの羽おとすらん」

 

といふ歌のこゝろにも、かなひつらんかしとおもひ出て、ずんじ、風のいやたつに、

 

   なれも来て身をやぬらさん鷲の尾のこはみなと風うしほふくなり

 

 

 

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そとがはまつたひ①  菅江真澄テキスト  

そとがはまつたひ 率土か浜つたひ

 

南部路を過る、いはてやまてふ日記にかいつきて、此冊子を、《そとかはまつたい》とせり。
津軽さかひに入て青盛(森)にいたり、うら/\をへて、うてつの埼より、松前わたるのみちゆきぶりをもはらのせたり。


(天明八年七月六日)かくて狩場沢(東津軽郡平内町)のやかたになりて関手とりつ。
いづこの誰れ、着がへ、わきざしあり、たがかたへさして行べきものにて、此せきぐちをあらため通すとかけり。
ふみてのしろ、はかまのしろとて、いさゝかのあし(銭)おきて、このとひまろ(問丸)があないして、せき手わたして越ゆ。
いづこもふりことならず。
村はしに、おはしかた(陽根)なせる石を、ほぐらにひめて祀る。
しかたぐひの、みちのおくにはいと多し。
手酬したるをりしも真上に鷹の羽うつを、行つるゝ友のふりあふぎ見たり。
ゆく/\、

 

   たはなすか秋のかりはの沢水にかけもさしはのみそらとぶなり

 

路いさゝかくれば堀刺川をわたり、口広(以下平内町)、清水(シヅ)川のふた村をへて雷電山といふ額の大鳥居あり。
大同(八〇六?八一〇)のむかしに田村麿、かん(神)ときまつりして、なる神を、こゝに斎ひ給ひたるといひ伝ふ。
その御前の入江などにて、あさり、はまぐりやとらん、そのかひつもの、いと多くみちのへに捨たり。
おなじ林のうちにかんみやどころ見えて、神明の鶏栖(とりい)たてり。
この流江のあなたより浦々のやかたつゞきて、田沢(夏泊半島北端)とかいへるに椿山ふたつまで磯輪に在りて、うづき八日の頃はひし/\と花咲き、そのまさかりは波も紅に寄せ返り、あさ日、ゆふ日の、海にかゞよふひかりのみち/\て、巨勢の春野はいざしらず、世にたぐふかたなきよしをいへり。
そこに神の在して椿明神と申と、こは五瀬(伊勢)の国にもおなじみなの聞えたり。
潮立テ川の橋にたちてしばしは見渡し、小湊に来る。
なべての名を比良奈以(平内)とよべり。
こゝのふる翁の云、むかし、此ところに槻の生ひたるあたりを、錦樹の里といひよし聞つたへて侍る。
さりけれど南部路にもありといへり。
こゝに七不思議のあり、聞たまへや申さん。
一には猫に蚤集(タカラ)ず、ふたつには水虎(カツパ)の人をとらず、みつには玉味贈、汁と煎て泡たゝず、よつには、稗の実ふたつならびてみのり、いつゝには雨そゝぎの音なし。
むつには、なる神とけず、なゝつには男女のかためほそしと、手ををり、ゑまひしかたりて別たり。
この里にせき手をとりて小豆沢、藤沢、山口、中埜(野)といふ山里をへて、土屋の浦(夏泊半島の西岸)の関屋に、せき手あらためて槲木(かしわぎ)峠を下る。
なかむかしの戦ひのときは、一の木戸すへたりしあととて、いとさかしきみち也。
かくて鍵県といふ坂うち越る、木のひともと立るに木の鍵をかけたり。
こは、わが、けさう(懸想)しける人あればその人を心におもひて、いもせむすぶの神をいのりて、もぎ木の枝をかぎとして投やるに、ふと、うちかけたらんものは、おもふおもひのかなふしるしをう。
ふたゝび、みたびなげやれど、えかけざれば、それが願ひのむなしかりけるとなん。
みちのおくにはところ/″\にありて、如もはら人のせり。
岩の上に小石うちあぐるも、おなじためしとか。
かくて浅虫の浦(靑森市)になりて、煤川のへたに馬あらためとて、つがひのえだちの宿あり。

 

   秋たちていくかもあらねどたびごろも袖にすゞしき外がはま風

 

出崎に近う、いくばくか高き岩の立たるを肌赤(裸)島といへり。
その鳥の形したるを?嶋といひ、磯に近う木々ふかく鳥居見えたるは、湯の島とて弁天を祀る。
しうりこといふ貝つものとる女の、しほ声たかく、

 

「名所/\と痣虫(浅虫)は名処、前に湯のしま霞に千鳥、みやこまさりのはだか島」

 

と唄ふ。
出湯のやかたに宿つきたり。
湯は滝の湯、目のゆ、柳のゆ、おほゆ、はだかゆなどのいときよげにわき、はた、軒をつらねたる家々のしりにも、ゆのありてやよけん。
里中に烹坪(ニツボ)とて、ふち/\とにへかへる温湯あり。
この月の末ばかり、そのふの麻刈もて糸釜といふものにて、いづこにてもむしとゝのへれど、この浦ばかり、かゝる、につぼにひたして時の間にむしぬ。
さりければ麻烝といふ名はをのづからなれど、をり/\火のわざはひにあへれば、火にしたがふ文字をいみて、浅虫とは近き世にいへると、老たる長の語り。
こや、ゆげたの数はいくらかあらん、いよのゆげたをたどるこゝちぞしたるといへば、ゆぶねのこゝほど多き処も侍らず、わきて此津軽には湯泉の数のいと多し。
いづこ/\にととへば、しり給つらんか関の湯の沢(南津怪郡碇が関村)、碇が関の湯、大鰐(同郡大鰐町)、蔵館(大鰐町)、嶽(ダケ)(中津軽郡岩木町)、湯谷(ユダン)(岩木町)、切リ明ヶ(南津軽郡平賀町)、酸ケ湯(青森市)、下モ湯(青森市)、温湯(ヌルユ)(黒石市)、板留メ(黒石市)、叶目(カナメ)(黒石市)、沖浦(黒石市)、二升内(ニシヤウナイ)(黒石市)、大河原(黒石市)、田代(青森市)、根子(ネツコ)(東津軽郡平館村)、猿(西津軽郡深浦町)、佐々内(西津軽郡岩崎村)、追良瀬山(深浦町)、しか浅虫にて侍る。
又涌し湯とてもはらあり、川水のさし入ればくみもてたきぬ。
そのところ/″\は、今別のほとりの湯の沢(平館村根岸)、金木の河倉、尾別内(ヲベツナイ)(北津軽郡中里村)のゆ、浪岡のほとりなる本郷(南津軽郡浪岡町)のゆ、戸門(青森市)のゆにて侍るとかたり、いざたまへ、あない申さんとて衣うちふるひ着て、八幡のみやどころの、山のかた岨にありけるにぬさとる。
をがみどのめけるかたに観世音をおきて、くぬちの寺めぐりとて三十三番をうつせり。
こゝなん廿三番にあたれりと。
かけたる札に、

 

「月も日も波間に浮むはだかじまふねに宝をつむこゝちせり」

 

みやつこの、うばそくがもとにしばしはかたらひて、山路のたみたるかたを出くれば、夢宅庵といふもに、薬師ぶちをあがめて湯の神とせり。
ふたゝび浴して、あつさわすれたり。

 

 

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そとがはまつたひ  菅江真澄テキスト

率土が浜つたひ

 

天明8年7月6日から、同月14日までの日記である。

真澄は、南部領から津軽に入り、関所のある狩場沢東津軽郡平内町)を越えて、青森に着き、さらに津軽半島を東岸沿いに北上し、宇鉄(三厩村)から乗船し、松前へ渡る。

小型本で、全三七丁、図絵は二六図である。

菅江真澄全集第一巻の巻頭にも、多くの写真が掲載されている。

柳田国男の文章でも、「此一卷は殊に沿道の寫生畫が多い。」となっている。

なるほど、巻頭の写真は、旅の途上で描かれた多くの図絵がある。

そのなかに、その土地の産物や農具の写生画あって、いかにも真澄らしいと思わせるものもある。

小さな集落のたたずまいを描いたものなどは、見ていてほっとさせるものである。

惜しむらくは、これが白黒の写真であることだ。

真澄の図絵は、色彩鮮やかなものであるはずなので、それを見たくなった。

たしか、秋田県立図書館で菅江真澄の著作を原本をデジタル公開していたはずである。

 

探していたら、リニューアルしているようだったが、残っていた。

実際使ってみたら、とても使いやすく、菅江真澄の自筆の著作が89作品見つかった。

adeac.jp

秋田県/図書館・公文書館・文学資料館デジタルアーカイブ

 

「率土が浜つたひ」のページを検索してみた結果が次の写真である。

図絵入りの真澄の作品を、楽しむには最適のサイトである。

図絵は精細なので、拡大しても細部までしっかりと確認できる。

 

くくり坂の産物

たつ・かつさび

野田のうらやかた

天明3年春に、郷里の三河を出発した菅江真澄は、信濃、越後、羽後の国々を経て、北上した。

蝦夷地に渡るべく、青森に到着したのは、天明5年の夏であった。

しかし、青森には着いたものの、蝦夷地は飢饉が続いていて、渡ることができなかった。

時期を待つために、真澄は陸奥の国の各地を、放浪していたことになる。

この夏に蝦夷地に渡った真澄は、4年の歳月をそこで過ごすことになる。

 

 

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初詣と絵馬

正月があけて、次の週末に都内へ初詣に出かけた。

わが家では、初詣は例年の行事ではない。

思い付きで、出かけたり、出かけなかったりである。

車を出せば、子供たちの七五三のお参りをした廣幡八幡宮に行ける。

かなり大きな森がある諏訪神社もあるし、香取神社もある。

歩いていける範囲だと、西に浅間神社、南に八坂神社、北に白山神社がある。

それぞれ、このあたりの集落の神社として昔から守られてきたのだと思う。

 

今年は、電車で都内に出かけようということになった。

わが家のJRの最寄り駅は、南柏である。

この駅は、常磐線の各駅停車の駅であるが、これで都内へ向かうと、北千住から先は地下鉄の東京メトロに乗り入れてしまう。

上野駅に行きたい場合は、松戸で常磐線快速に、乗り換えなければならない。

そのまま乗ってると、北千住から先は、町屋、西日暮里、千駄木、根津、湯島、新お茶の水となり、そこで総武線に接続する。

さらに、二重橋、日比谷、霞が関、赤坂、乃木坂、表参道、明治神宮前、代々木公園、代々木上原となり、その先は小田急に乗り入れている。

つまり、千葉県から、東京を越えて、神奈川県に至る路線である。

 

今回は、日比谷で都営地下鉄三田線に乗り換えて、内幸町、御成門と行き、芝公園で下車した。

この駅の近くにある増上寺が、今年の初詣である。

増上寺の近くまでは、何度か行ったことはある。

まだ勤めていたころ、メルパルク東京というホテルの中に大きなホールがあって、そこが会場の研修会があった。

近くで、食事をして、夜の東京タワーにのぼったこともある。

それなのに、その近くの増上寺には足を踏み入れていなかった。

アクセスを調べようとしたら、メルパルク東京は3年前に閉鎖されて、解体中であるということだ。

郵政省の施設だったメルパルクは、全国に15か所ほどあったらしいが、郵政民政化による事業見直しとコロナ禍などにより、ほとんどが閉鎖しているらしい。

考えてみると、私がメルパルク東京に来ていたのは、退職前の数年のことなので、十年以上も前のことだ。

世の中は、大きく変わっているのである。

 

最寄りの芝公園の駅を出ると、すぐに「芝東照宮」があった。

芝東照宮

上野の東照宮は行ったことがあるが、芝にも東照宮があるのは知らなかった。

芝東照宮は敷地もそれほど広くもなく、参拝客もちらほらだった。

とりあえず、お参りをして、増上寺に歩いた。

東京タワーをバックにした本堂は、いかにも東京ならではの眺めである。

長く続く参拝客の列に並び、お参りをする。

境内には、外国人参拝客も多くみられる。

子育て地蔵がずらーっと並んでいたので、近づいて行った。

赤い帽子をかぶった地蔵はいろんなところで見るけれど、ここの地蔵は全身に赤い毛糸の装束をまとっていた。

その地蔵たちの前に、絵馬掛所があった。

掛けられた絵馬を見ていると、外国人によって書かれた横書きの絵馬が多くあった。

そういえば、お寺や神社の御朱印も外国人観光客に人気であるというのは知っている。

日本人もなかなか行かないような所に、外国人が行くようになっている、というのも聞く。

いまや時代は、SNSの時代である。

今までのマスメディアと違って、SNSは1対1で情報が伝わる。

どんな小さな情報でも、確実に伝わるのである。

増上寺と東京タワー

絵馬を見ていて、思い出したことがある。

私の郷里の村にあった絵馬についてである。

村の中央を流れる川があって、集落を囲む東側の山の中腹に、村の神社があった。

30メートルほどの参道も、階段ではなく、ただの山道だったし、もちろん社務所などの施設はなく、拝殿だけだった。

それでも、境内には土俵があって、お祭りに奉納相撲のようなことをやっていた。

夏休みのラジオ体操の会場だったので、毎朝橋を渡って、村はずれの神社まで走っていた。

それも、小学校の中学年くらいまでで、その後橋を渡ってすぐの公民館前に会場が移った。

思い出すのは、神社ではなく、村はずれの田んぼと川岸の近くに、絵馬堂のようなものがあったことである。

しかも、最近の神社にあるような小型の絵馬ではなく、大判の木版に書かれた絵馬である。

願い事の祈願のためのものではなく、馬の絵そのものが書かれていた。

絵馬堂といっても、それほど立派なものではないが、壁面に何枚もの絵馬が飾られていた。

中学卒業後に、村を離れてしまったので、絵馬堂の由来など、詳しいことは聞いたことがなかったが、その中をのぞいた時のことは、記憶に残っている。

https://www.tezukayama-u.ac.jp/application/files/7016/8118/2368/web.jpg

今井堂天満神社 絵馬堂   令和5年4月9日奉納絵馬

 

よく覚えてないけど、こんな感じの絵馬だったかな。

こんなには、色鮮やかではなくて、もっとくすんだ感じだったな。

 

絵馬の由来を調べてみると、本来は、神事の際に神馬として、馬を奉納したものらしい。

それが次第に、木や紙や土などで作った馬の像で代用されるようになり、奈良時代には木の板に描いた馬の絵が見られるようになったとある。

小型の絵馬は、室町時代に個人が現世利益を求め、奉納するようになり、江戸時代には、現代のように家内安全や商売繁盛といった身近なお願い事を書く風習が広がった、ということらしい。

歴史ある神社には、絵馬をおさめるための絵馬殿や絵馬堂という立派な建物があるようだ。

www.konpira.or.jp

神事のために奉納ということだから、絵馬は神社のものだけれど、今はお寺にも絵馬掛所がある。

神仏習合の名残だろうが、日本らしいといえるかな。

 

郷里の絵馬堂について考えていると、どうにも不思議なことがある。

神社に奉納するための絵馬だったら、どうして絵馬堂が神社の境内ではなく、村はずれの田んぼの中にあるのか。

なぜなのか、考えてみた。

わが家には、牛が1頭いて、父の実家には、馬が3頭いた。

40戸ほどあった村に、馬が全部で何頭いたのだろうか。

農耕のために、馬はどうしても必要だったろうから、かなりの頭数いただろう。

農耕の仕事を終えた馬を、農家のおじさんが川原で、きれいに洗ってあげているのをよく見たことがある。

思いついたのは、絵馬は神社に奉納するためのものではなかったのだろう、ということである。

農家が馬を購入したり、仔馬が生まれたときに、その健康を祈願して、絵馬をつくったのではないか。

まあ、言ってみれば、こどもの七五三のようなものなのではないのかな。

馬も牛も、同じ屋根の下に住む家族のようなものだったのだから。

でも、それだったら、神社にあってもおかしくないか。

こんな感じで、思いは堂々巡りである。

たぶん、それほど何回も訪ねたわけではない絵馬堂の光景が、六十年以上経った今、甦ってくるのである。

 

 

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いわてのやま⑧  菅江真澄テキスト

五日 つとめて相坂をたち、三本木平(タイ)といふひろ野に出て、こしかた行末のはる/″\と見やられて、ひんがしは、さめ、しろがね、いま河、あか、根井、三沢など、南は三戸のやま/\つらなり、遠きたけ/″\くのさかひは雲と霧とこへだてられてしらず。
こは、わがくにのもとのゝはら(本野原)、しなのぢのきちかうがはら(桔梗ヶ原)、遠つあふみの、みかたがはら(三方ガ原)などにたとへつべう。
行かふ人もまれに、朝.つゆふかくわけ来るに、つぶねつれたる法師けぶりうちくゆらせて、休らひてよとて語る。

 

「故郷の人の佛月に見て露わけあかす真野の萱原」

 

とながめたるは、此野良也とてたち別ぬ。
しか、このあたりの人のもはらいへれど、尋ね見たりし牡鹿郡石巻の港ベなる、零羊埼(ひつじざき)のかん籬のほとりに在りける舎那山長谷寺といふ寺の池の面に、片葉の葦とてありけるは、むかしのしるべばかり残りたる処とは、いづれいづれとも、えおもひわいだめず。

 

   いづこともおもひまどひてしら菅のまのゝかやはらわきてさだめん

 

七戸といふ里にいたる。
西にいなきあり、その名を槲木(かしわぎ)といふ。
そのしりなる鶴の子平(タヒ)といふところありて、きさらぎ斗、のこんの雪のやゝ氷たるをふみて山に雪舟(ソリ)ひき、春木こるとてわけ行、そのかへさは、そりひき捨て、もゝあまりの人むれ立休らふに、春風いさゝかもなう長閑なれば、夕日さしかげろふをりしも、三本樹平のあたりに、人のたけよりはいと高う、ふたつらに立て、幡ある?などの見えたることもあり。
これを狐の柵をふるといふ。
きつねは人のかげをかりて、かく戯れ遊ぶ。
ことしも五度見きなど里人の語るは、山市てふものにや。
和賀の郡の后後埜(後藤野)のあたりにて、師走より、むつきに至るまで山市あり、これをきつねの館(タテ)といふ。
越の海に海市あり、狐の森といふにひとし。
はた、枯杉よりはこなたならん影沼平(タヒ)といふところありて、春雪うち霞たるを遠う見やれば、行かふ人、引かふ駒などの波をかいわくるかと迷ふも、蜃気楼、気見城のたぐひにこそあらめ。
かくて馬やとひのりて中野を行て、ひんがしに沼の見えたり。
むかし都のはらからの女、いかゞしたりけんしづみたりけるとなん。
あねがこがら、いもとがこがらといふ、又の名を小荒沼といふ。
坪(上北郡天間林村)といふ邑に来る。
つぼ河かちわたりして石ふみやいづこにかととへば、石文村へいきてたづねよといふ。
さらばとて馬を野はらに引やらせて至れば、家二、おちくぼなるところにありてけるに、とび入てとへど、碑ありたるはいづことも、その、ありつる址だにしらじとて笠縫ぬ。
日のもやゝかたぶくころ、千曳明神(上北郡東北町)のおましませる尾山とかいふにわけ入ば、千曳大明神の?栖の額は、盛岡の東皐文真といふ人の手也とか。
ひろ前に至てぬさとり奉る。
この社の下に、千曳の石は千重のあらごもにつゝみて、ふかく埋て神とはいはひ奉る。
その千引の石や、壺の碑ならんと人のいへり。

 

   くりかへしいのるこゝろ綱手縄おもきちびきの神もうけひけ

 

宮城郡浮嶋邑のさかひにたてるいしぶみ多賀城の碑にて、この坪村にか石文村に、まことの碑やありつらんかし。

 

「おもひこそ千島の奥をへだつともえぞかよはさぬ壺のいしぶみ

 

「碑やけふのせばのゝはつ/\に逢見ても猶あかぬ君かな」

 

いしぶみ津軽の遠にありときくえぞ世中をおもひはなれぬ」

 

顕昭、仲実、清輔などの、ながめ給ひしをおもへば、蝦夷がちしまも、毛布の郡も、津刈郡も近くよみ聞えたり。
もとも名所などは、遠きさかひもおもひあはせてよみつべけれど、壺のいしぶみ、外がはま風など、みな、近となりのみながめたる歌のいと多し。
さりけれど碑のすがた見ざれば、何をもて家つとと、見ぬ友がきに語らん。

 

   水くきのあとかきたえてそことしもよみとかれえぬつぼのいしぶみ

 

と、馬の上にてくちずさみ、ふたゝびこゝに来て、ひねもすつばらに尋ねてんと、あしとくをはせくれば、日ははや烏帽子山におちかゝり、清水目(スヅノメ)(東北町)、久田(クンタ)などをへて、みちもさりあへず牛にものつけて追来るが、みな、ときはなちて野がひをせり。
遠う釜臥が嶽(下北半島恐山の主峰)の雲の中にあらはれ、横浜のやかた(上北郡横浜町)にかゝりて田名部のあがた(むつ市)にゆくといふすぢのありと、馬ひきのいふ。

 

   ゆふ月のかげもほのかにみちのくのおくのうら/\浪の遠しま

 

霜松川とかいふを渡て野辺地の港になれば、うまさくれの水に、馬のすねがらふかくふみこみたり、おりてよといふ。

 

「数ならぬ身にしられぬる駒さぐりさのみやおなじあとをふみみん」

 

といふこゝろばへもありし。又、

 

「みちのくの賤が繩手のこまさぐりあやしの月の宿りところや」

 

といふこゝろに猶かなへりと、おかしう宿つきたり。
こゝをも十府の浦と人のいへば、

 

「見し人は十府の浦風音せぬにつれなくすめる秋の夜の月」

 

「むべさへけらしとふのすがこも」

 

と。
ふして砧の聞えたるを、

 

   浪のよる十府のうら風身にぞしむ三府にねもせでころもうつこゑ

 

六日 朝たちづる宿のあるじに、をぶちの牧やいづこならんととへど、さはしらで、左井の港(下北郡佐井村)のこなたに大馬(間)の浦、奥戸(おこつべ)の浦(下北郡大間町)とて大牧ふたつあり、そのあたりにや。此牧の二とせのあら駒を、葉月のころとりてけるなど語れり。
此南部路には九牧十二野といへり。
九牧とは三戸の住谷(スミヤ)の牧、同相内の牧、五戸の木崎のまき、同又重(マタシゲ)のまき、野辺地なる有戸(アリド)のまき、野田の北野のまき、同御崎(ミサキ)のまき、田名部の大馬(オホマ)、同奥戸(オコツヘ)のまき。
十二野とは、この九まきに七戸たちの里馬、八戸のまき、遠野のまきをあはして、十あまり二の、うまきとはなれりとつたへかたらふ。
津軽郡にありといふは枯木平(タヒ)、入内(ニフナイ)、母谷(モウヤ)、滝の沢、津軽坂、おしなべて五牧なりけり。
ある人のいふ、むかしありたりし尾駁の牧は、この、のへぢよりもいと近き、泊の浦(上北郡六カ所村)のほとりにあらんと。
はた、梶原ののりし磨墨は住谷のまきにたち、佐々木ののりたりし生?は七戸よりいで、熊谷がのれる権太栗毛は、一戸の里うまのうちたりし。

 

「みちのくのあら野のまきの駒だにも見るはみられてなれ行ものを」

 

あら野は、小荒沼のきしべより木崎牧といふ、そこにやあらん。秋ぎりの立のゝ牧とよみしは、つがろなる滝の沢てふところと人のいへり。
立野てふ名は、武蔵にもしか聞えたり。

 

「吾妻路の奧の牧なるあら駒をなつくるものは春のわかくさ」

 

などよめるは、こゝらの牧をや、おしなべてもいへらんかし。
秀衡の、ほとけのしろにひかれしといふ、糟部(カスべ)の駿馬とかいたるはあやまれり。
糠(ヌカ)の部(ブ)の郡にて、いまの五七の戸のあたりをさして、いひけんこととこそおもほゆれ。
かくて浜づたひしてくれば、老たるわかき女、むたりなゝたり、馬門(マカト)(野辺地町)なる、いで湯に行たり。
近き明前(ミヤウマヘ)の浦に皈るとて、いたく酔て、

 

「わかいときやア、岨(ヒラ)も大地とあゆみたが、いまは、だいちもひらと見る」

 

とうたへば、又うたひつぎて、

 

「しづ/\と清水(シヅ)もたひらに井戸をほれば、水はわかねでこがね涌く」

 

と、足のほうし(拍子)、手のはうしをとりて、はとわらひ、あぐり子よ、にがつれてこ、乳のませんにと。
科野(信濃)路などにても、女子あまたもてば、末の子をあぐり女郎、おあぐりと名づく。
さりければ、かならず男の子生れくとて、もはらありき。
こゝにても、うめるも/\みな女子なれば、女子にこそあきたれとて、阿栗子とはつくといへり。
安久利は飽たるこゝろにや。
ものゝ盈るをもあくるといへり、あふれたるこゝろならん。
爾賀は五十日子(イガてふことにてやあらん。

女に、子文字つけていふならひ、いにしへぶりの残たり。
馬門のせきのあら垣に入て、野辺地にとり来りたるせき手いたして越えて、つがろぢになりぬ。

 

 

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年末年始に思い出したこと

餅つき

 

年末に、妻と買い物に出かけた。

だいたい、買い物が決まったところで、まだ「おもち」がないことに気がついた。

売り場を探していたら、伸し餅が積んであるところを見つけた。

一枚2,100円だった。

妻は、おもちが大好きである。

もちとせんべいがあれば、ごはんはいらないんんじゃないかと思うくらいである。

妻の育った東京では、おもちは和菓子屋とか米屋で買うものだったのだろう。

秋田の農村で育った私にとっては、もちは家でつくものだ。

父が出稼ぎで不在だった我が家では、母と私で餅つきをやっていた。

たぶん小学生のころから、私が杵をもってついていた。

年末の30日、何臼ついただろうか。

普通の白いおもちのほかに、小豆入りのもちもついていた。

その他に、干しもちという乾燥餅もつくることもあった。

ひと臼で、かなりでかい押しもちになった。

それを、切り餅にするけれど、売ってるものの2,3倍の大きさだったな。

だから、正月からしばらくは、おもちをよく食べた。

そのせいか、今はおもちは、嫌いではないが、あまり食べない。

子どものころに嫌になるほど食べたから、もう食べなくていい、と妻には言ってる。

とはいっても、もちろんお雑煮をちょっとだけ食べる。

 

紅白歌合戦

 

晦日、年越しそばのためにてんぷらを揚げた。

生協で届いたエビは小ぶりだったので、エビかき揚げにした。

てんぷらを揚げ終わったら、もう7時のニュースだった。

紅白歌合戦が始まるのだなあ、と思ったが、あまり見る気もしない。

そのうちに眠くなってしまい、寝てしまった。

この数年、紅白歌合戦はちらちら見る程度だった。

今回は、結局全く見なかった。

かつて、毎年欠かさずにしっかり見ていたことが、うそのようである。

それなりに音楽は好きなのに、見る気がしないというのも、年のせいだろうか。

現在のように多様化した時代に、全てを網羅しようということに限界があるのかな。

もっと、違った音楽番組がつくれないのか。

番組表をチェックしてないけど、なんかあったんだろうか。

 

1月1日

 

冬休みと言えば、私の住む千葉県では、年末年始の2週間である。

12月24日から1月6日、ということである。

私は雪国である秋田で、生まれて育った。

秋田では、冬休みは1月20日までだった。

その分、夏休みは短かった。

日本全国で、夏休みと冬休みの期間が、どのような具合になっているかはわからない。

でも、夏休み+冬休みの合計は、同じなのだろう。

私が育ったころ、1月1日は学校の登校日だった。

雪の山道を歩いて、学校まで行った。

体育館で全校集会があって、それから教室で紅白の饅頭をもらった。

それが、毎年の正月の行事だった。

それが、いつごろまで続いたのか、覚えていない。

小学生の頃は確かだが、中学生のころもあったのか。

あの紅白の饅頭の代金は、どこから出ていたのだろう。

 

お屠蘇

 

結婚して妻の実家に出入りするようになって、初めて「お屠蘇」を飲んだ。

マンガやテレビで、お屠蘇というものがあることは知っていた。

妻の実家には、お屠蘇用の用具がそろっていた。

そこで、お屠蘇というものが、「屠蘇散」という漢方薬味醂とで、作られていることを知った。

秋田には、正月にお屠蘇を飲む習慣はなかった。

妻の母が健在の頃は、我が家では、とくにお屠蘇を用意しなかった。

でも、この数年お屠蘇を飲むようになった。

今年は、私がお屠蘇を作った。

屠蘇散の袋に書いてあるレシピどおりに作ってみて、驚いた。

今までに、屠蘇散味醂だけで、できていると思っていたのだが、違っていた。

主たる材料は、日本酒で、それに屠蘇散を浸し、さらに味醂と砂糖を加えていた。

このやりかたが、古来の方法であるかはわからい。

 

きりたんぽ

 

正月の3日、きりたんぽを作った。

その日、スーパーに行ったら、野菜の売り場に「セリ」があったのである。

セリがあるのなら、今日はきりたんぽにしよう。

秋ごろになって、鍋の季節になると、真空パックのきりたんぽが売り場に並ぶ。

たいていのスーパーに、きりたんぽはある。

ところが、「セリ」が並んでいるスーパーは、ほとんどない。

きりたんぽの真空パックに印刷されているレシピには、きりたんぽの材料として、セリ、ゴボウ、マイタケなどが書かれている。

それなのに、セリを多くのスーパーでは置いていないのが、現実である。

むかし、どうしてもセリがないので、ミツバを使って作ったことがある。

結果は、まったく「きりたんぽ」ではなかった。

以来、セリがないときは、あきらめることにしている。

野菜売り場で、セリらしきものが見えたので、急いでいくと、それは「パクチー」だった、ということもあった。

そんなわけで、これがこの冬三回目のきりたんぽだった、のである。

 

三ばか大将

 

正月早々、南米ベネズエラが大変なことになった。

それに続いて、コロンビアやグリーランドも、巻き込まれそうである。

歴史や国際法をしっかり踏まえればありえないことが、起こっているのである。

でも、太平洋の向こうの大国では、それほどの大問題ではないらしい。

同じような状況が、我が国の隣の大国や、北の大国にも存在している。

それを考えていたら、頭に浮かんだことがある。

小学生の時に見ていた、「三ばか大将」というアメリカ製のコメディ番組である。

ja.wikipedia.org

調べてみたら、日本では1963年から1964年に放送されたというから、私は小4から小5だろうか。

おバカな三人のオジサンが主演のドタバタコメディだった。

きっと私の世代の多くの小学生は、この白黒ドラマを見て大笑いしていただろう。

でも、現代の世界の「三ばか大将」は、笑えない。

 

 

 

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いわてのやま⑦  菅江真澄テキスト

四日 夜や明なん、とりの鳴づるころ雨のいたくふれり。
きのふ聞しなる神は、かゝる雨もよにてなど、相やどりのたび人の語れば、やのあるじも寝ざめして、はたけのくさ/″\に又なきくすりの雨や、ありがたのなもあみだぶととなへ、あくびうちせり。
はや女の起出て、麻機をる音のしたり。

 

「かけて織る賤が麻はたあましやまとをにだにも君が来まさぬ」

 

とずんじて、この宿をたちて黄金橋(コガネバシ)をうちわたる。
むかし長者どのといふがありて、こがねあまたもてかけたりしかば、しか名におへり。
その末いまもありとか。
三戸を放れて浅水(三戸郡五戸町)のうまやあり。
遠きむかしは家二三ありて、よべ宿しつる旅人を、うむすといひ人しらずころして、その人をあさ見ざる名なりなどいへれど、こと処にも浅水の橋などいふ名どころも聞えたり。
過来つる村はいづくならんと、古町、小向、清浄寺(正寿寺)、宮沢(以上南部町)、この浅水にて侍ると人のいらふ。
前なる水の細くながれたるを、

 

   里の子が汲ほすばかりあさ水のながれつきせぬものにぞありける

 

五戸に来けり。
八幡坂のしたより西に別れて、種原村(十和田市)にかゝりて十和田山に行の路あり。
一本松(以下十和田市)、伝法寺村、藤島に来て、以地川といふに木の皮の綱をひきはへて、くり舟の渡りしたり。
この水上は、十湾(トワタ)のぬまとていと大なる湖のありて、盛岡なる奈良崎といへる処の永福寺の僧侶南層といふが、弥勒ぶち(仏)のいでませるを見奉らまくほりして、ふかくいのりて夢のをしへにまかせて、たうばりたるわら沓さしふんで、此、やりたらんところをもとめありくに、十曲(トワタ)(十和田)の水海にいたりて沓のやりはててければ、こは、わがねがひこゝにいたれりと、あめにむかひ、つちにふしてぞよろこぼひ、こゝにすみつる八郎太郎といふ、みづちをおひやらひて、われあるじとなりしといふ物語をせり。
しかはあれど、いつの世のことならん、みかしほの幡摩(播磨)かた、書写の山かげに難蔵といへるすけ(出家)ありて、あけくれ、ほくゑきやう(法華経)をとなへ、うちには経典をずんじて露のいとなう、外には権現をいのることのおこたらずして、さうじん(精進)のとこあり。
みずきやうのいさおし、つもり/\て三千部にみち、神まうでの日数三十度になりぬ。
しかるに難蔵おもへらく、わがいのち世にながくいきたらましかば、猶みずきやうし、弥勒のほとけをもをろがみたいまつりてんと、熊野に三とせばかり山ごもりしてひたぶるにいのり、浦のはまゆふ、もも重に日数のかさなりて、すでに千日にあたれるの夜半うち過るのころ、夢となううつゝにもあらで、みあらかのうちより白髪の翁のいでおはして、いかに、いましが願のいとかたけれど、あがいふについてあづまにくだりて、陸奥の国と出羽の国とのさかひに言両(コトワケ)といふ山のあんなり。
そこにわけ入てすまば、みろくほとけのいでらんその暁にもいたらんと、みさかありつることのうれしう、いでとて旅だちはる/″\といたり、八重山遠くわけ入て見れば、大なる池のほとりにたてる、としふる松のもとに、窟のあるをたよりに草ひきむすび、木の菓をとりくひ水をむすびて、みどきやうのみして、やま人にことならず。
かゝるに、かほかたちきよげなる女のいづこよりか来て、みのりをきくこと日久しかりき。
難蔵あやしみながら、さらにことなう猶ほくゑきやうをよみてけるに、この女の云、われ希有に得がたき妙典にあひ奉りて、五障の雲みのりの風にたちまちに晴て、心の月いとすゞしくすめり。
あふぎ願はくば、あが棲に来てみどきやうして、群類をも化導し給ひてよ。
難蔵、われ神の告によてこそかゝる山おくに入たれ、女がもとにいたらんこと、かなふまじきよしをいへれば、女、わがすめるかたとて遠からじ、この池のこゝろなりといふ。
難藏がおもふ、これも神のをしへにて、千仏の世に値ふのたつきならんか。
女のふたゝび、われといもとせのかたらひをしてながくこゝにましませ。
難蔵、わが此女におちて菩提心のうしなひて、などか悪趣の底にしづまんゆめ/\とおもへれど、はた、これも神のみちびき給ふことならん。
かくて、慈尊の出ませる世に会ふことの山口にやと、女のいふについて、いざなはれて、はかりもしらぬ太池の面にうち入ぬとぞ。
そのをりしも女、かの僧にむかひていふ、この山の西に、奴可(ヌカ)の嶽(タケ)とて、いと高き山の麓に又池あり。
この、ことわけの嶽より、みちはつか三里ばかり、かの池に八頭の大蛇ありて吾れを妻として、月ごとの上の十日あまり五日は、ぬかの池にすみ、月のなからより下は、このことわけの池に来りてすめり。
いますでに来らん、こゝろへたまへお僧、といふ。難蔵さらに怖れたるいろなう、八まきのきやうをかうべにふりかざせば、かしら九のたつとくゑしたり。
とく風ふき雨のふりしきりて、八かしらの竜のさと飛来りて、このふたつ竜七日くひあふ。
といきの音は、なる神のごとくなりひかり、雨かぜいよゝはげしう、つゐに八竜のくはれおはれて、もとの池に皈りいなんとせしかど、大松の生ひ出たるにへだてられて、しほ海のかたへにげうせてけるといふもの語りは『三国伝記』にも見えたれど、此ふみにはみちのくと、ひたちとをかいあやまれり。
かゝる物話は、みちのおく、出羽にてまち/\にいへり。
言両(ことわけ)は十曲の湖にてやあらん、奴可は、糠部(ヌカノブ)など郡の名に、むかしこのあたりをいひしかば、いまいふ八ツ耕田の嶽をやいふらん。此たけのなからに大なる湖のあり。
春雪氷たるを通路として、そのたけのそがひのかたにあるいで湯浴に、此あたりよりも津刈(軽)郡よりも、きさらぎ、やよひには、人あまた行といへり。
かくゆきゆきて、相坂(十和田市)といふさゝやかの村に泊りてと、ゆきずりに人のいへば、その名たよりに、霧にこめて、屋根のみはつかばかりみゆるを、しるべにたどる。
河にそひたるこなたかなたは、みな六戸の郡なりけりとか。
川霧に猶くらくその村にいたる。

 

   里遠みそこともしらぬ霧のうちにみちとひまどふタぐれの空

 

 

せんだびつ(千駄櫃)やうのものをおひ行翁あり。
かゝる五七の戸の山里のあたりに、嫁入のとき、かく、木匱てふものを女のなにくれと調度入とし、その女の身まかれば、この木匱にむくろををさめ、わがへのそのに埋むとなん。

 

 

 

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