晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

アナログからデジタルへの移行の状況

先日、スマホが壊れてしまい、機種を変えたことを書いた。

ちょうど同じ頃に、ビデオレコーダーも壊れてしまった。

内蔵のハードディスクを読み込めなくなってしまった。

まったく突然で、困ってしまった。

考えてみると、時々動作しなくなって、固まってしまうことがあった。

それが、前兆であったのかもしれない。

そんな時は、電源コードを抜いて、完全に電源を落としてから、再起動させていた。

そうすれば、なんとか使えるようになっていた。

 

ビデオレコーダーは、それまでの地上波のテレビ放送が、完全にデジタルに移行して、アナログ放送が終了することになったときに、デジタル放送対応のものを買ったものである。

アナログ放送終了が2011年7月だったということなので、購入から10年以上は経っている。

同じ頃に、テレビ受像器もデジタル放送対応のものに変えている。

その頃、価格的に最も手頃だった、32インチを選んでいた。

ということなので、テレビも10年以上経っていることになるが、今のところ不具合はない。

ここで、ビデオレコーダーを買い替えても、すぐにテレビも壊れるかもしれない。

現在売られているテレビ受像器には、外付けハードディスクのためのUSB端子があって、そこにビデオ録画用のハードディスクを接続できる。

そうすれば、接続コードも不要で、テレビとビデオを一体として使える。

 

前回、ビデオレコーダーを買った頃は、ハードディスクの容量は250Gとか、せいぜい500Gというラインナップだった。

外付け用ハードディスクは、6Tまで対応しているものが多いようだったが、2Tや4Tでも値段的には、1万円前後であり、ビデオデッキを買うのに比べたら格段に安い。

いろんな機種を見たのだが、テレビはフナイの50インチにエレコムの4Tのハードディスクを組み合わせることにした。

テレビは、ディスプレイの種類によって、とんでもなく高価なものもあって、金額が何倍も違う。

我が家はそれほど、こだわるところもないので、最も経済的なものにした。

 

私はテレビに関しては、ほとんど自分で見たい番組を選んで見ることもなく、デスクトップPCのディスプレイとして使うだけである。

まあ、サッカー日本代表の試合は、家族の了解を得て見せてもらう。

妻が最もテレビやビデオを活用していて、毎日毎日録画してるので、酷使してると言ってもいいくらいで、よく10年も使えたものだと思う。

私は、PCを音楽再生に使ってるので、テレビが届いたところで、さっそくPCやアンプに接続してみた。

PCからの映像出力端子は、DーSUBというアナログ端子と、DVI−Dというデジタル端子がある。

以前のテレビは、D–SUB端子があったので、それで接続していた。

ところが、新しいテレビにはその端子がなく、デジタルのHDMI端子かアナログのRCA端子という昔からの黄色、赤色、黒色のコードを接続するものである。

そこで、DVI–D端子を変換アダプタでHDMIに変換して接続した。

今までは、テレビの音声はRCAコードで、ヤマハのアンプに接続して鳴らしていた。

新しいテレビには、その端子がなく、そのかわりに光デジタルという端子があった。

そういえば、アンプにも光デジタルという端子があったが、使ったことがない。

それで繋ぐような機種を、持っていなかったのだ。

光デジタルのコードは、端子が丸型と角形がある。

アンプもテレビも、角形端子だったので、コードを用意して接続してみた。

中央下部にあるのが光デジタル端子

アンプは、20年ほど前に購入したもので、時代がまだ大型オーディオの頃で、見るからに重厚なものである。

FM放送のアンテナを接続すれば、FM放送を聴けるので、正確にはアンプではなく、AVレシーバーといわれるものらしい。

裏面のパネルを見ると、接続端子やスピーカー端子が一面にある。

スピーカーも片チャンネルの出力が65Wとなっていて、しかも5チャンネル対応というとんでもないものである。

そんなすごい能力のあるものを、ちっちゃなスピーカーをつないで使っていた。

それでも、あたたかみのある音に満足していた。

スピーカーは2セット接続できて、同時にも鳴らせるし切り替えもできる

今回初めて、光デジタルの端子にコードを差し込んだ。

光デジタルというだけあって、差し込んだ途端に、片方の端子の先が光った。

SAT/D–TVという端子を使ってみたが、光デジタルの端子はもう一つあって、それはDVD/LDとなっている。

他にも、使ったことのない端子がいくつもあって、埃をかぶっていた。

20年間も使っていたけど、持っている能力の1割か2割しか発揮させていなかったのかもしれない。

光デジタルを使ったテレビの音声は、心持ちスッキリしている気がする。

上部中央に光デジタル端子

今時のテレビは、インターネット対応なので、WIFIに接続すればLANケーブル無しで、YouTubeを見たりできるし、ネットTVも見れるらしい。

クラシック好きな息子に教えたら、YouTubeでクラシックを聴いている。

検索するといくらでも、どんな作曲家のどんな作品も出てくる。

自分でファイルを用意したりする必要が、ないかもしれない。

録画用ハードディスクのためのUSB端子の他に、もうひとつUSB端子がある。

そこに、USBメモリーやハードディスクを接続すると、写真やビデオや音楽も再生できる。

以前使っていたテレビにも、SDカードの差し込み口があったが、それはデジタルカメラで撮影したファイルにしか対応していなかった。

スキャナーでスキャンしたファイルも、50インチで見ることができ、スライドショーもできる。

アルバムにあった小さな写真を、大画面でみんなで楽しめるのは、なかなかおもしろいと思う。

しばらくは、いろんな活用方法を試してみよう。

 

 

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古峯神社 栃木県鹿沼市草久

古峯神社は、創建から1300年、日本武尊を祭神としている。

数年前から、妻が行きたいと言っていたが、コロナ禍もあり、実現せずにいた。

正式名称は、古峯神社(ふるみねじんじゃ)であるが、神社が鎮座する地は「古峯ケ原」(こぶがはら)と呼ばれ、「こみねさん」や「こぶがはらさん」ともいわれる。

天狗の社としても知られていて、神社内には天狗の像や扁額などが至るところにある。

よく見かけるような赤い顔で鼻が長いのが「大天狗」で、黒いくちばしのあるのが「烏天狗」だ、そうだ。

実物大以上の大きさの天狗像を見たのは、初めてだった。

もちろん、天狗の実物を見たことはないが。

明治の初めに、神仏分離によって仏具が撤去されるまでは神仏習合であったので、日光全山26院80坊の僧侶は、古峰ケ原で修行するならわしだったという。

御祭神の使いとされる天狗は、山伏の装束を身につけている。

天狗は崇敬者に災難が起こった時、直ちに飛翔して災難を取り除いてくれる(災厄消除・開運)偉大なる威力の持主とされているのだそうだ。

それは、古峯ケ原で厳しい修行をしていた姿が天狗にかさねられて、そのような信仰が生まれたのかもしれない。

古峯神社の参拝法は、他の神社とは異なっている。

通常の神社では、拝殿の前に賽銭箱があって、そこで参拝する。

参拝は、拝殿の建物の外側で行う。

古峯神社では、履き物を脱いで、拝殿の中に入り、参拝する。

拝殿の中は、畳敷であり、まるでお寺の本堂のようである。

立派な天狗の像も、室内に置かれてました。

崇敬者が、心願成就の暁に奉納されたものだそうです。

こういうものは、願いをかなえるために奉納するものだと思っていたけれど、順番が違うのだな。

願いがかなったことにたいするお礼だったんだ。

拝殿に続いた建物には、食事や宿泊のできる部屋があるようでした。

古峯神社には、参拝するための講組織が全国にあるのだそうです。

なんと講の数が2万、会員が200万人というのはすごいと思う。

私の住んでいるあたりにも、かつては阿夫利神社のある丹沢の大山登山のための大山講や、もちろん富士山登山のための富士講もあったようだ。

伊勢参りや四国のお遍路さんもそうだけれど、たんに信仰だけではないようだな。

そういう名目ならば、大手をふって他の国に行ける。

自分の身の回りの限られた生活から、まったく違った世界を見ることができるってことなのだと思う。

今回は、コロナも小休止で、なんとか割引とかあるらしいから、同居の家族四人で温泉に行こうと出かけた。

温泉は、食事の美味しいところということで、妻が川治温泉の宿を見つけた。

せっかくなので、どこか寄っていこうということで、古峯神社に決めた。

車を運転しての遠出は、久しぶりである。

高速道路の運転は、いつもながら緊張する。

若い頃よりも、時間が長く感じる。

流山で、常磐道に乗り、三郷で外環道に乗り換え、川口ジャンクション東北道である。

東北道は、鹿沼で降りる。

鹿沼では、「街の駅」に寄ったが、鹿沼といったら園芸の「鹿沼土」くらいしか知らなかったが、日光街道の要所だったらしい。

妻が見つけたイタリアンのお店でランチ

鹿沼で昼食後に、大芦川をさかのぼり、その名も「古峯ケ原街道」を行く。

登るほどに緑の世界で、神社のための街道である。

道が尽きそうな標高700mほどのところに、古峯神社はあった。

こんな感じの神社は、初めてだったかも知れない。

背後に森を背負っているような神社が、私は好きである。

街道の中程に、とてつもなく大きな、ビルにしたら8階ぐらいという大鳥居があった。

そこから、さらにひたすら登ったのだから、山全体が神社の杜と言ってもいいのかも知れない。

 

参拝のあとは、街道を再び下った。

途中で、日光方向への分岐で、県道鹿沼日光線に入る。

宿の「湯けむりの里 柏屋」は、鬼怒川と男鹿川の合流地点にある落ち着いた旅館だった。

温泉と個室での食事を楽しむことができた。

 

今回の旅で、思いがけないものに出会った。

翌日、出発前に客室でくつろいでいると、目の前にある木の枝に猿がいた。

何を食べていたのだろう

帰りは、高速道路は使わず、一般道をのんびりと帰ることにした。

妻の大好きな「道の駅」に3箇所ほど寄った。

どこの、道の駅も活気があって、にぎやかだった。

「道の駅茂木」に寄って、トイレに行こうとしたら、人が建物の裏に移動していた。

なんだろうと思ったら、蒸気機関車が通る、とアナウンスがあった。

真岡鉄道SL

土曜日日曜日に、それぞれ2回しか運行しない蒸気機関車に遭遇した。

なんと、運のいいことだろう。

 

真岡鉄道沿いに南下していくと、下館のあたりで茨城県である。

茨城県ならば、かなり走りなれている。

のんびり走って、夕方には帰宅した。

総距離400km程の行程だった。

 

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おののふるさと 菅江真澄テキスト

「おののふるさと」は、天明5年(1785年)の正月を、滞在していた出羽雄勝郡柳田(湯沢市)で迎え、春になると、付近の小野小町の古跡や院内銀山などを訪れた4月末期までの日記である。

小型本で、全35丁で、これもまた、「あきたのかりね」と同様に、図絵がない。

前年10月から翌年4月までを、同じ邸宅に滞在していたのだから、時間は充分にあったのだろう。

それなのに、図絵が残っていないのは、不思議である。

まったく、図絵が描かれなかったとは思えないので、なんらかの事情で残されなかったのだろうか。

 

小野小町ゆかりの地は、日本全国に散在している。

湯沢市小野の地は、生誕地であると言われ、墳墓も存在している。

実際のところ、どこがほんとの生誕地で墓所であるかは、わからない。

少なくとも、菅江真澄が訪ねた頃には、この地が長年にわたって、小町ゆかりの地であると語り継がれていたことは確かである。

真澄は、小町の古跡といわれているものを、訪ねている。

小野小町は、「小倉百人一首」に選ばれている歌人でもあり、詩人でもあった小野篁の孫であるとも、子であるとも言われている。

小野篁は、陸奥守であった小野岑守の子であり、小町の父といわれる小野良真は出羽郡司だった。

小野氏は、陸奥国出羽国とつながり強い一族だった。

 

菅江真澄の旅日記を読んでいると、気になることがある。

どのような所に、宿泊していたのだろう、ということである。

半月や一月くらいの旅であれば、旅籠のような宿泊施設に泊まればいい。

しかし、真澄は30歳近くになって、旅に出て旅の途上で亡くなる。

いくら旅行資金を準備したとしても、そんなに何年ももつものではない。

最初の目的地であった信濃あたりでは、知人宅に泊まっていたようだ。

信濃はすでに、何回か旅したことがあったのだろう。

そして、次の目的地では、知人に紹介してもらって、訪ねていたように思われる。

 

「あきたのかりね」の旅日記に、出羽国の湯沢で宿を確保する様子が書かれている。

 

御物川(おもの川といふ〕を渡りて柳田村といふ、さゝやのやのみ多くならびたるに入て、草彅〔いにしへ源よしいゑ公いで羽の国に入給ふのとき、弓もて、のもせの草のつゆなぎはらひしとて、くさなぎと呼給ひしとなん〕なにがしといふ、なさけある翁に宿こへば、雪消なんまでこゝにあれなど、ねもごろにいひてけるをたのみて、けふは暮たり。

 

草彅なにがしという、人情味のあるおじいさんに泊めてくれるようにお願いしたら、「雪が消えるまでここにいればいいよ。」とやさしく言ってくれたので、泊めてもらうことにした、というのである。

なんと、十月下旬から翌年四月までなので、五ヶ月もお世話になっている。

真澄は、この後もいろんなところで、その土地の有力者らしい方の客人として、長期に滞在していたようである。

その際には、真澄が持っていた文学や短歌についての知識が、共通の趣味を持つものとして、歓迎されたのだと思う。

 

ここで登場する「草彅」という苗字を見て、思い出したことがある。

この「草彅」という苗字は、SMAPの草彅剛さんと同じである。

草彅さんは埼玉県春日部市の出身であるが、インタビューで、自分の父親が秋田県出身である、と言ってた記憶がある。

「草彅」という苗字は、秋田県でもレアなので、私は知らなかった。

真澄は、この苗字が源義家出羽国に遠征したときの由来のある苗字であることを、記載している。

「草彅」という苗字は、秋田県で500人ほど、全国の合計でも700人しかいないらしい。

真澄が旅をしていたのは、200年以上昔のことであるが、日記を読んでいると現代につながる風景が見えることがある。

おもしろいな、と思う。

 

 

 

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ハート・アンド・ソウル

YouTubeのコメント欄で、このことばを見つけた。

あるバンドのメンバーを表現するのに、このことばを使っていた。

彼女は、バンドの「ハート・アンド・ソウル」(heart and soul)だと、英語で書いていた。

バンドの創設者であり、バンド自作の曲の作詞のほとんどを担当している彼女を、そのことばで表現していた。

ボディ・アンド・ソウル」(body and soul)なら、ジャズのスタンダートな曲のタイトルにもあったし、目にする機会がある気がする。

 

ところで、「ハート」は、日本語にすると「こころ」とか「心臓」である。

そして、「ソウル」は、「たましい(魂)」とか「霊魂」となっている。

どちらも、人間や生きものの精神的な活動についてのことばである。

それぞれに、多様な意味を持つことばであり簡単なものではない。

私は、ことばというものについても、とても興味のある人間である。

「こころ」と「たましい」は、どのように違うものなのか気になって調べてみた。

 

「こころ」の語源は、「コル」や「ココル」で、動物の内臓をさしていたが、人間の体の見えないものを意味するようになったというのだが、読んでみても何のことかわからない。

古代中国でも、「心」は、心臓や腹部や胸部に宿るとされていたようだ。

「ハート(heart)」も、心臓や胸という意味を持っていることから、その辺りに心はあると思われているのだろう。

つまり、洋の東西を問わず、心は肉体の中心である心臓や腹部や胸部にあるということになる。

 

これに対して、「ソウル」や「たましい」は次のようになっている。

「たましい」は、「生物の肉体に宿り心の働きをつかさどると考えられるもの」である。

「ソウル」もまた、「人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在」とされる。

「たましい」も「ソウル」も、肉体から離れても存在することが可能であるが、肉体に宿ることによってのみ、生命力を発揮できるということだろうか。

どちらも、永遠に存在するということで、生まれ変わりが可能だという考え方は共通している。

 

世界中の神話とか昔話などには、同じような似たものが存在するらしい。

それを考えてみると、おおもとは一緒だったのだろうか。

言語だって時代を遡ってゆくと、どれくらいの時代に、どの言語から枝分かれしたのだろうということが、わかるものらしい。

現在の人類につながるホモ・サピエンスは、アフリカに起源を持ち、世界中に広がっていったという。

現在、世界には肌の色や身長や容貌などの大きく異なる、いろんな人種が住んでいて、とても単一種から分かれていったとは思えないほどである。

長い時間をかけて、今のように変わっていったと思うと、言語や文化も、変わったもの、変わらなかったものがあってもおかしくはない気がする。

 

 

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スマートフォンの寿命

愛用のスマホに寿命がきた。

気がついたら、本体と画面の間に隙間ができていた。

そう言えば数日前から、挙動がおかしかった。

「カバーを閉じて下さい」というような表示が出て起動しない。

電源を入れ直せば、起動した。

隙間はかなり広いので、水分でも入ったらいつ使えなくなるかわからない。

それよりも、たぶんバッテリーの膨張が原因だろうから、このまま充電を繰り返していたら何が起こるかわからない。

バッテリーが爆発したというニュースを見たこともある。

すぐに、機種を交換しないといけない。

数年前、長男の使っていたiPhoneのバッテリーが膨張したことがあった。

その時は、隙間は出来ずに本体自体が膨れていた。

 

翌日、スマホは、それまでの左側だけではなく、右側も大きな隙間がパックリと広がっていた。

とても使える状態ではない。

私の使っているスマホは、Huaweiの「Nova 2 lite」という機種で、4年前から使っている。

それまでは、SIIの「SOCIUS」というストレートタイプのガラケーを使っていた。

スマホショップで、機種代の安いものというので相談したら勧めてくれたものだった。

中国製というところで、ちょっと引っかかったが、使えればいいということで決めた。

auのロゴ入りの箱入りで、説明書類や付属品もしっかりしていて申し分なかった。

何よりも、スマホ本体がスリムで使いやすいものだった。

考えてみたら、私にとって5代目のスマホ・ケータイだったが、4年も使ったことは今までなかった。

 

さっそく、スマホショップに出かけた。

近くのモールの中にある代理店で、どこの業者のものも扱っている。

2年前に、この店で今のスマホにyモバイルのSIMカードの差し替えの手続きをした。

店員さんに、私のスマホを見せた。

今のスマホは、底部と側部が一体になっているので、バッテリーが膨張すると画面を押し上げて、このようなことになる、ということだった。

今回も、機種代の安いものをお願いした。

候補は、ソニーの「Xperia」と富士通の「Arrows」とシャープの「Aquos」だった。

Xperiaに惹かれたが、「Arrows」に決めた。

機種代が、ほとんどただのように安かったので。

結局、またauに戻ることになった。

 

基本料金が、月額980円で3Gまでということで、1年間は5GまでOKのサービス付きである。

まったく、動画やゲームはやらないので十分だ。

通話もほとんどしないのでどうしようか迷ったが、24時間かけ放題のオプションが月額1780円のところ、60歳以上には1000円の割引があるので、780円になるというのでオプションをつけた。

なんと、月額2000円以下なので、今までよりも安くなってしまった。

機種代もほとんどただ、手数料3000円ほどで、ほんとにいいのだろうか。

 

今度の富士通「ArrowsWe」は、ちょっと厚ぼったい。

調べたら、2021年12月発売で、それほど古くはない。

それに比べれば、Huaweiの「Nova 2 Lite」は、スリムで軽かった。

バッテリーの問題さえなければ、もっと使っていてもいい気がしていた。

やはり、バッテリーは消耗品なので、適宜に交換しないといけないのだろう。

使い方にもよるのだろうが、充電回数が500回を越えると、劣化が進んで行くらしい。

2年から3年がめどなのだろうが、私の場合、バッテリーの持ちもそれほど短くはなっていなかったので、気にはならなかった。

それで、4年になってしまったわけである。

 

同じAndroidスマホなのに、ずいぶんと違いがある。

これは、通信キャリアの問題なのか、スマホ製造会社の問題なのか。

特に、メールアプリの流儀がまったく違っていて、機種変更するたびに使いこなすまでとても苦労する。

もう少し、なんとかならないものだろうか。

今は、メールに画像ファイルを添付するのがうまくいかず、四苦八苦である。

そんなわけで、今回は写真は使えなかった。

 

私が、初めてスマホを使うようになって、10年以上になる。

最初は、WindowsCeを搭載したシャープのzero3で、ウイルコムのPHSだった。

そして、東芝のDynaPocketで、同じくWindowsCeの機種だった。

3台目で、やっとAndroidスマホ、シャープのその名も「ガラバコス」。

初めてのケータイは、SIIの「SOCIUS」。

5台目が、Huaweiの「Nova2lite」。

日本は、iPhoneのシェアがAndroidと拮抗している数少ない国らしい。

なんと、アメリカよりも高いらしい。

我が家も、長男と三男はiPhone派である。

アップルのように、ソフトとハードを一体にして作っていくやり方は、この先も存在できるのだろうか。

 

 

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欧米人のおなまえ②

テレビのバラエティ番組を見ていたら、ペットのおなまえランキングというのをやっていた。

イヌとネコのベスト10が紹介されていた。

なんと、イヌとネコとも1位は同じで「ムギ」ちゃんということである。

昨年に続いて、二連覇だそうだ。

いったいどうして、「むぎ」なのだろう。

そういえば、最近活躍している個性的な女優さんの名前が、「麦」さんだった。

年齢が20歳位で、たぶん本名らしかった。

これを、女の子に名付けた両親のセンスにおどろいた。

それが、ペットの世界まで及んでいた。

2位以下は、イヌの方は、「ココ」、「モカ」、「マロン」、「チョコ」、「こむぎ」。

ネコの方にも、「きなこ」、「ココ」、「ラテ」が入っている。

「ココ」は「ココア」からきてそうだし、なぜか、食べ物、飲み物系である。

そして、名前のひびきがかわいいというのが重要なのだろうか。

 

私は、田舎の農家育ちなので、子供の頃は犬やネコや、ヤギもうちにいたことはあるが、ペットとはいえなかったろう。

犬は番犬だったし、ネコはちゃんとネズミを獲る役割があった。

ヤギから絞ったミルクは、かなりクセのあるものだったな。

私には、ペットを飼おうと言う気はない。

ただ、我が家には、息子たちが世話してるメダカと小エビがいる小さな水槽がある。

目を近づけないと見えないくらい小さなやつである。

名前もつけてないようだし、これは、ペットと言えるのだろうか。

ペットの名前は、飼い主がつける。

でも人間には、親がつけた名前、自分でつけた名前、亡くなったあとで残された人がつけた名前というのもある。

 

「欧米人のおなまえ」は、「日本人のおなまえ」にならったものである。

聖書からきているヘブライ語由来の名前の続きを、あげてみる。

 

Emmanuel(エマニュエル)
ヘブライ語、`Immanu 'El (インマーヌー エール)より、「神(エール)は我らと共に」。

キリストのことをいうらしいが、むかし「エマニュエル夫人」という映画があったが、有名人の名前では他に覚えがない。

 

Eve(イヴ)、Eva(エヴァ
ヘブライ語では Chawwah (ハッヴァー)で、「生きているもの(女性)」。

「アダムとイヴ」で知られる、アダムの妻で、人類最初の女性ということになる。

クリスマス・イヴなどの前日や前夜のことをいう「イヴ」は、これと何か関係があるのだろうか。

イヴという名前を考えていたら、イヴ・サンローランが浮かんできた。

 

Gabriel(ガブリエル)
ヘブライ語、Gavri'el (ガヴリーエール)より、「神(エール)の勇士」。

聖母マリアに受胎告知した天使の名前なので、絵画のタイトルにあったような気がする。

私がおぼえているのは、フィル・コリンズが在籍していたロックバンド「ジェネシス」のリーダー?がピーター・ガブリエルだったことである。

これだと、ファミリーネームということになる。

 

Hannah(ハンナ)
ヘブライ語、Channah (ハンナー)より、「慈しみ」。

預言者サムエルの母の名前だそうだ。

聖書がギリシャ語に翻訳された際、Anna (アンナ)になり、そちらの方が世界で使われている。

ハンナのいう名の女性の画家いたような気がしたので、考えてみたが思い出せない。

ウィキペディアで調べてみたら、女優や歌手やモデル、政治家など何十人も掲載されていたが、私が思っていた画家のハンナさんは見つからないかった。

 

Isaac(アイザック、イサク)、Isaak(イザーク
ヘブライ語、Yitschaq (イツハーク)より、「笑い」。

スペイン語で「イサク」、ドイツ語で「イザーク」、英語で「アイザック」となるが、日本人の感覚だと、「アイザック」というのはずいぶん違った印象になる。

私が、クラシック音楽を聴き始めた頃の、バイオリニストの第一人者は、アイザック・スターンだった。

彼は、ユダヤ系でポーランドで生まれたが、現在はウクライナになっているらしい。

 

Jacob(ジェイコブ、ヤコブ)、Jacque(ジャック)、James(ジェームズ)
ヘブライ語、Ya`aqov (ヤアコーヴ)より、「足のかかと(`aqev、アーケーヴ)を掴む者」。

旧約聖書では、ユダヤ人の伝説的先祖の名前、後にイスラエル (Israel) という名を与えられたそうだ。

なぜ、英語ではJamesになってしまったのだろう。

フランス語では、ジャック(Jacque)らしいのだが、英語でもジャック(Jack)はある。

私が好きだったエリック・クラプトンのいたロックバンド「クリーム」のベースストでボーカルをやっていたのはジャック・ブルース(Jack Bruce)だった。

個性的で好きなミュージシャンだったけど、何年か前に亡くなった。

 

Jesse(ジェシー、エッサイ)
ヘブライ語、Yishay (イシャイ)より、ギリシャ語で、Iessai (イエッサイ)になる。

ダビデ王の父の名前だという。

私にとっては、ジェシーは、大相撲のジェシー高見山と、ジェシー・ジェームズである。

どちらも古くて、中学生の頃である。

ジェシー・ジェームズは、ビリー・ザ・キッドと並ぶ西部の無法者だが、テレビの連続ドラマで放送していた。

気に入って見ていたが、カッコいいい俳優だったのは覚えている。

でも、名前は記憶がなかったので調べてみた。

クリストファー・ジョーンズだった。

確かに、カッコいい。

映画監督とトラブルがあって嫌気がさしたのか、若いうちに引退してしまったらしい。

どうりで、名前が記憶に残っていなかった訳である。

ja.wikipedia.org

 

ヘブライ語由来の名前が、ヨーロッパで使われるようになったことを、調べているとギリシャ語が、キーポイントになってる気がした。

旧約聖書」はヘブライ語で書かれたが、その後ギリシャに支配されるようになり「新約聖書」は最初からギリシャ語で書かれたという。

もちろん、「旧約聖書」もギリシャ語に翻訳された。

そして、ローマ帝国が支配するようになって、ラテン語に翻訳された。

そのような経緯を経て、ヨーロッパに広がってゆくわけで、やはり政治が及ぼす力は大きいのだなあ。

 

とりとめのないことを、書いてしまった。

 

 

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あきたのかりね⑨ 菅江真澄テキスト

霜降月のなかば、湯沢(湯沢市)〔いにしへ出湯ありしといへり。

いまも山はたけの畔より湯いづるところあり。かくちといふ。

たばこいづる里也〕のうまやに行ば、雪は五六尺にあまりて、かた岨、谷などをのぞむがごとくおぼへたり。

かく、しみ氷りたる雪の上に小供らあつまりて、はきぞりとて、細き木の二尺斗なるにつなをわがね付て、くびにかけて、軒ひさしの上よりいくたびも/\くだりてあそぶ。

又わらは、狗引いでて、かゝるむく/\とこへたる犬子はあらし〔荒キならん、ちからつよくふるまふ也〕といふに、いな、其犬子は、みのこなし〔いとよはく、こといぬにそるゝを、みのこなしといふ〕さはらまけな、あが犬子。

そがいぬ、きのふふられて小たぐりしたり。

(空白)せしそ。

いな、それがこそはなたなれ、比しろ子は、ありまなにがしのかみめし給ひし狗のためには、むまごなるよとあらがひけるに、いぬはみな、家のうへに高雪をつたひてかけのぼれば、おなじう、わらはべもはせのぼりたり。

日くれて、ある山里に宿かれば、やのあげまき灯の本にありて、松やにぶて〔火くらくまたゝけば、かねばしにて打ぬ〕いとくらしとて、こうみ八寸、はな六寸とて、たばかりして、しなだといふものを繩によりて、馬のおもづらといふものをあむ。

門を叩て入来るうばとらく、こは、六日をこなひたる柴燈(さいとう)の護摩の御札なり。

是おしてとさしいだし、比うばそく、こうじたるにや、いとはや、はなうちならしてふしぬ。

あさとく出たちてけれど、みちのいと遠くて暮ぐれ近く来れば、あらぬすぢに、ふみまよひこし。

からうじて、行かひあるすぢに来たりて、

 

   けふこゝに雪の山路まどひくとふる里人や夢にしるらん

 

又ほのかに行方見えたるは、ひねもす雪車引たるが、いくすぢも見えてありければ、十もじ七もじいひつゞきぬ。

 

   そりのあと一筋見えてくれにけり

 

かくて草彅が家にかへりぬ。

久保田(秋田)の里にてかうがへたる暦も、廿日あまり巻残りて、ことしもくれんとす。

唯あけくれ雪の中に冬ごもりして、手を折て日数つもりき。

たが、いひしならん、

「大雪やまどから見ゆる人のあし」

まことや、高まど、軒ひさしなどの上より、行かふ人のわらぐつのみ見えたり。

わらはべ、かまくらあそぶとて、やよりたかき雪をうがち大なる穴をほり、そが中に笹のともし火して、あらぬさまかたりて更ぬ。

雪の曙のおもしろさは花に見たらんに増りて梢もなき山の遠かた、たとへんかたなし。

里ごとに年の市とてさはげども、ゆづる葉、うらじろなければ、雄松、五葉などを、高雪の下よりからくしてほり起してうりたり。

人の家居はゆきのふり入ぬ料に、いなむしろかけて、是にくゞり入ぬるは、穴などにおりめぐるこゝちせり。

みそかになりたるあした、かくぞおもひつゞきたる。

 

   月も日もつもりて雪のなかに行雪車のはやをの早き一とせ

 

夜くだち行ころ、めのわらは、きどころ寝〔うたゝねをいへり〕したるを、やよ、せやみ〔せをやむとは、人にしたがはで、はか/\゛しからぬをいへり〕

おきよ/\、風ひかんに。

あけなば、いねつむ日なれば、とくふさせんいひて、

、ともに、はなぞよめかして、ひぢまくらにうたゝねたり。

比いねつむといふは、

「秋の田のかりそめふしもしてけるがいたづらいねを何につまゝし」

と、藤原成国の聞え給ひし歌のこゝろにかなひたり。

秋田のあがたにてあれば、

ことさらおかし。

鶏もとしやおしむらん、声のかぎり聞えたり。

故郷を思へば二百余里をへて、玉くしげふたとせ、旅に、としをむかふならん。

 

 

 

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雨に咲く花

午後になっても雨は降っていたが、買い物に出かけた。

買い物を終えて、帰り道を歩いていると、道端にいろんな花が咲いている。

雨はたいしたことはなかったので、花を見ながら行く。

スマホで写真を撮ろうとすると、買い物袋と傘が邪魔になる。

梅雨入りしたばかりである。

やはり、今頃に咲く花は雨が似合うなあ、と思う。

妻の母親が入院している病院の前を通る。

病院の敷地と団地の道路の境が、細長い花壇になっている。

幅は1メートルないような、ささやかなものである。

それでもよく手入れされていて、いつも花が絶えない。

作業をしているのを見かけたことはないので、どんな方が手入れしてるのだろうと思っていた。

あらためて見ると、草花だけではなく、アジサイのようなものもかなり植えられいた。

アジサイも、色や形がよく見かけるようなものではないものが、多かった。

私の住む団地にも、アジサイが少しはある。

白っぽいもの、青っぽいもの、赤っぽいもの、そしてがくアジサイなどのよく見かける種類である。

そういうものとは、違ってるような気がする。

雨に濡れている花は、なぜか明るく見える。

太陽の光はないのに、明るさを感じる。

花びらも葉っぱにも、雨粒が見える。

雨の中を歩いていたら、子どもの頃聴いたうたを思い出した。

「雨に咲く花」という歌謡曲である。

とても大人っぽい感じで、もっと暗い夜の雨の印象である。

子どもだったのに、いい曲だな、と思っていた。

井上ひろし」という歌手だったのは、記憶がある。

「雨に咲く花」と「井上ひろし」が、頭から離れなくなった。

 

帰ってから、ネットで調べてみた。

歌詞を見たら、とても小学生が聴くような歌ではない。

およばぬことと 諦めました
だけど恋しい あの人よ
儘になるなら いま一度
一目だけでも 逢いたいの

雨に咲く花 井上ひろし - YouTube

 

「雨に咲く花」というタイトルは、2番の歌詞からきているらしかった。

雨に打たれて 咲いている
花がわたしの 恋かしら

ほとんどの歌詞は、心情を述べたもので、風景や情景はまったくない。

こんな歌をいいなと思っていた小学生だった私は、我ながらかなり変わり者だったと言わざるを得ない。

この歌を調べていたら、驚くようなことがわかった。

 

YouTubeで聴いてみたら、井上ひろしさんは、とても丁寧にうたっていた。

そんなに複雑なメロディではないので、歌の上手い人だと小細工をしそうである。

YouTubeには、歌のうまそうな歌手のものが、たくさんあった。

それは、聴かないことにする。

 

「雨に咲く花」は、井上ひろし昭和35年(1960年)のヒット曲でレコードが100万枚も売れた。

もともとは、昭和10年(1935年)の関種子という女性歌手のヒット曲で、50万枚売れたもののリバイバルである。

昭和のこの頃の50万枚や100万枚は、たぶんすごいことである。

 

井上ひろしは、1941年生まれなので、1960年にはまだ二十歳になっていない。

私は、1953年生まれなので、その年に小学校に入学している。

この曲を歌っていた頃まだ10代だったのは、信じられない。

 

井上ひろしは、「水原弘」と「守屋浩」とで、「ロカビリー三人ひろし」と呼ばれた。「かまやつひろし」とで、「四人ひろし」とも呼ばれたらしい。

ソロになる前に、ロカビリーバンドのザ・ドリフターズのメンバーだった。

ザ・ドリフターズはその後コメディ・バンドになるが、山下敬二郎坂本九も在籍していた。

ロカビリーを歌っていた頃の歌を、聴いてみたいものだ。

 

「ロカビリー」という言葉を、知ってる人は少ないだろう。

「ロックンロール」と「ヒルビリー」(カントリー音楽の別名)の合成語で、カントリー色の強いロックロールのことだった。

そのロカビリーの祭典が、「ウエスタンカーニバル」だったが、もう過去のことである。

 

井上ひろしさんは、かなりの人気歌手だったのに、その後の姿が私の記憶に残っていない。

彼は、昭和60年(1984年)に、亡くなったのだそうだ。

生涯独身で、44歳だった。

そして、私の中には60年前の記憶が、ずっと残っている。

 

 

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国名について調べてみた13 陸奥国比内郡

今朝、団地に咲いていた紫陽花

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。

 

息子が、小学校で使う郷土学習の副教材を見たときに思った。

自分も、こういう教材を使った勉強をしたかった。

私の小学校中学校時代は、こんなものはなかった。

副教材どころか、郷土学習の時間もなかった。

それが昭和30年代から40年という時代的なものだったのか、秋田県田代町という地域的なものだったのだろうか。

だから、自分が育った秋田県というところが日本の地理や歴史の中でどんな位置付けにあるのかを、学んでいない。

まして、育った田代町という地域が、どのような所なのかも、知ることはなかった。

今、自分で勉強していると、驚くことが多い。

 

私は、昭和28年に秋田県北秋田郡山瀬村で生まれた。

秋田県北秋田郡は、明治11年(1878年)の町村編制の施行により、それまでの出羽国秋田郡北秋田郡南秋田郡に分割され発足したものである。

北秋田郡が、鷹巣町など3町120村で、南秋田郡が秋田町など2町157村だった。

秋田郡は、天正18年(1560年)、豊臣秀吉朱印状によって、陸奥国比内郡を編入している。

比内郡は、概ねのちの北秋田郡と一致する。

比内郡、北秋田郡は、現在の秋田県の北東部にあたるが、16世紀までは、出羽国ではなく陸奥国であったということである。

 

山瀬村は、昭和31年に早口町と合併して、田代町となった。

山瀬村の「山瀬」というのは、明治22年の町村制の施行の際に、山田村と岩瀬村を合わせて発足したことから、それぞれの一字をとって命名したもので、よくあるパターンである。

田代町の「田代」は、町域の最高峰である田代岳の名称からとったものである。

田代岳は、その名のとおり頂上直下の九合目に120もの池塘がある高層湿原を持っており、伝説の白鬚大神を祀る田代山神社もあり、町名としてふさわしかったのだろう。

平成の大合併で、田代町大館市と合併して、消滅した。

明治22年北秋田郡発足の際に、3町120村だったのが、現在は上小阿仁村(かみこあにむら)1村だけになっている。

 

秋田郡がどのように発足したのかさかのぼると、延暦23年(804年)である。

出羽国の前線基地であった秋田城には、出羽国司の一人が出羽城介として赴任していて、後に秋田城介と呼ばれる。

秋田城自体は残ったが、制度が廃止され、秋田郡が置かれたのである。

この頃、出羽国府は、現在の山形県酒田市あたりにあった。

陸奥国府は宮城県多賀城にあり、前線基地である紫波城(岩手県盛岡市)に鎮守府将軍が赴任していて、比内郡はその支配下にあったのだろう。

 

その後、陸奥国は「俘囚上頭」を称した奥州藤原氏の支配するところとなり、比内郡もその勢力下にあった。

三代目当主藤原秀衡は、出羽国陸奥国押領使鎮守府将軍、そして陸奥国司を歴任した。

しかし、四代目当主藤原泰衡の時に、鎌倉の源頼朝は、泰衡が源義経の逆心に同心しているとして、追討しようとした。

そこで、泰衡は義経を襲撃し自害に追いやり、義経の首を鎌倉に送ったが、許されなかった。

泰衡は蝦夷ヶ島に渡ろうとし、長年の郎党である比内郡の領主河田次郎のもとに逃れる。

河田次郎は、泰衡を殺害しその首を頼朝のもとにとどけるが、頼朝は、主君を弑したのはゆるせないとし、河田を斬首した。

比内郡の贄柵は、大館市にあった二井田村のあたりだと思われる。

 

鎌倉時代に成立した歴史書吾妻鏡」は、日本における武家政権の最初の記録とされているが、その中に次のように書かれている。

 

読み下し文

文治五年九月小三日庚申。泰衡數千の軍兵(ぐんぴょう)に圍被(かこまれ)、一旦の命害を遁(のが)れん爲(ため)、鼠(ねずみ)の如く隱(かく)れ、退くこと鶃(げき)に似たり。

夷狄嶋(えぞしま)を差(さ)し糠部郡(ぬかのべぐん)へ赴(おもむ)く。
此の間數代(すうだい)の郎從(ろうじゅう)河田次郎(かわだのじろう)を相恃(あいたの)み肥内郡(ひないぐん)贄柵(にえのき)于(に)到る之處(のところ)、河田忽(たちまち)ち年來之舊好(きゅうこう)を變(へん)じ、郎從等泰衡を相圍(あいかこ)み梟首(きゅうしゅ)令(せし)む。

此の頚(くび)於(を)二品(にほん)に献(けん)ぜる爲(ため)、鞭(むち)を揚(あ)げ參向(さんこう)すと云々(うんぬん)。

原文

文治五年(1189)九月小三日庚申。泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴糠部郡。此間。相恃數代郎從河田次郎。到于肥内郡贄柵之處。河田忽變年來之舊好。令郎從等相圍泰衡梟首。爲献此頚於二品。揚鞭參向云々。

 

私は、日本の歴史に興味のある人間だが、特に自分の育ったので東北地方の歴史はおもしろいと思う。

それは、日本という国がどのようにして成り立っていったのか、ということとも深くつながっているだろう。

今回調べたようなことを、もっと早くに知っていれば、日本の歴史についての態度も違ったものになっていたかもしれない。

私のもう一つの関心の対象である菅江真澄という人も、北への興味から蝦夷地まで渡っている。

これが、私の興味とつながるものかどうかは、もっと調べていかなければならないだろう。

 

 

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昭和のアルバム

妻の父親と母親の古いアルバムをデジタル化している。

長年、空き家だった妻の実家の建物を手放すことになり、古いアルバムや写真がいろいろ出てきたけどどうしようと、妻の弟から連絡があった。

貴重なものだから、みんなが見れるようにデジタル化するということで、私が預かることにした。

先日、弟が茨城県の結城からはるばる持ってきてくれた。

大きめの段ボール箱に、ぎっしりの写真とアルバムだった。

妻の父は30年前に亡くなっていて、妻の母は入院中である。

体を動かすこともできず、会話もできなくなって、もう退院することはできないだろう。

妻の父と母の若い頃のアルバムが、それぞれ数冊ずつあり、それはかなり傷んでいた。

台紙が黒い厚紙で、直接台紙に糊づけしたものもあるし、コーナーを使っているものもある。

なぜか、同じアルバムで混在している。

最も古いものは、台紙を糊付けで製本していたが、ほとんどばらばらになっていた。

もう少し新しいのは、ハトメの穴があり、紐で綴じられている。

妻が就職した1970年代からカラープリントになり、アルバムも透明フィルムに挟むタイプや、手軽なポケットアルバムになっていて、これはかなりあった。

写真をスキャナーにかけて、デジタルファイル化するのだが、今までに我が家の数十冊のアルバムや、妻の古いアルバムを処理してきたので慣れている。

複数の写真をまとめて一括スキャンしても、それぞれに分割してファイル化する機能が今のプリンタ複合機にはあるので、楽なものである。

ひたすら地味な作業を繰り返していればいい。

自分がそういう作業に向いた人間であることは、自覚している。

むしろ、そういう作業が好きなのだと思う。

とりあえず、手をつけやすい新しいものから始めて、手のかかりそうな古いものは後回しにした。

妻の父は大正14年、母は昭和6年生まれで、私の父が大正15年、母が昭和4年生まれとほぼ同じ世代である。

この頃は、義務教育は高等小学校までで14歳で卒業である。

妻の父は、14歳から働き始めていることになる。

終戦の頃には、5、6年目になっていただろう。

その頃の話をあまりしたことがないが、定年までカメラ会社で働いていた。

一般用のカメラではなく、産業用のカメラの会社だった。

妻の母は、終戦の頃に卒業だと思う。

戦時中は、田舎に疎開していたということを話していた記憶がある。

大正14年は、1925年らしいので、残っている最も古い写真は、90年前のものということになる。

古いアルバムは、台紙をバラバラにして写真を貼ったままでスキャンして、ページごと写真ファイルにする。

このままだと、分割したファイルにならないので、一枚一枚台紙からはがす。

台紙も印画紙も劣化してボロボロなので、気をつけないと破れてしまう。

台紙に直接糊付けしてあるものと、コーナーで固定しているものもある。

コーナーが印画紙と一体化してはがれないものもあるので、できるだけけずり取るようにするが、どうしても取れないものはあきらめる。

そういうものは写真の角に、模様のように残ってしまうので、一括スキャンの分割の際にジャマになりそうだがしょうがない。

古いアルバムは、戦前、戦中のまだ10代の頃の写真である。

それを、処理していて気がついた。

とても、ハイキングや登山の写真が多いのだ。

その頃の東京の若者にとって、ハイキングや登山は身近なレジャーだったのだろうか。

アルバムの写真には、ほとんど説明がないが、ときどき場所や月日のあるものもある。

驚いたのは、昭和16年7月の日付入りで、山頂での数人での記念写真である。

この年の12月に、太平洋戦争が始まるのである。

そして、翌年昭和17年の夏にも、登山の記念写真があるのだ。

満足そうな若者たちの中に、生真面目そうな表情の父がいる。

妻の父も母も、東京で生まれ育っている。

10代、20代という時期は、戦前、戦中、戦後という時代であるが、いかにも街の男の子、街の女の子という服装で、写真の中にいる。

スキャナーの原稿台に、写真を並べてスキャンするのだが、写真のサイズはまちまちである。

集団の記念写真のような大きいものだと、せいぜい2枚くらいだし、普通のプリントだと、4、5枚である。

ところが、写真館以外で焼き付けたような自家製の写真だと、サイズも形も様々だ。

3センチ×4センチなどという、まるで将棋の駒のようなものが、いっぱいある。

これだと、20枚以上並べることができる。

その代わりに、すべてを認識して分割することは稀である。

ファイル化できないものが、何分の1かは出てくる。

失敗したものを確認して、成功したものを除き、再度新しいものと並び替えてスキャンする。

その繰り返しだ。

枚数はかなり多いが、まとめて処理できるので、それほど大変ではない。

1週間、暇をみては取りかかってみて、なんとか目処がついた。

残りは、写真館製の結婚式や七五三のアルバムくらいである。

これは、みんなに相談するしかない。

普通のサイズの写真は、300dpiという解像度でスキャンしている。

これだと、ノートパソコンのディスプレイにいっぱいの大きさのファイルになる。

とても小さなサイズの写真は、目を近づけないと表情などはわからない。

そこで、小さなサイズの写真は取り分けておいて、倍の解像度の600dpiでスキャンすると,ディスプレイで見るには充分なサイズになる。

なんとか、デジタル化はできたのだが、これをどうするかが、問題である。

とりあえずは、簡単にフォルダ分けしている。

フォルダの中身を見たら、1934の画像ファイルになっていた。

それなのに、容量がたったの197MBしかない。

スキャンしたものは、容量が小さく、普通の写真サイズでも、せいぜい90KBくらいで、100KBないのだ。

ところが、スマホなどで自分が撮影した写真ファイルを見ると、サイズが一枚で2MBから6MBとなっている。

これはどうも解像度の違いらしい。

ファイルの大きさを見ると3968×2976で、カラープリントをスキャンしたものが1816×1248であるのと比べると、とても大きい。

4Kというのが、3800×2160らしいので、これに対応してるのかもしれないが、よくわからない。



これを、USBメモリかCDにして配ることはできる。

今のテレビは、USBやSDカードの端子が装備されているみたいなので、手軽に写真ファイルを見ることはできると思う。

2000枚近くのファイルから、これはというのを選んで、プリントしたアルバムを作るのが、親切かもしれない。

コロナ禍になってから、妻の弟たち夫婦や甥っ子姪っ子にも逢えていない。

これを機会に、会う機会をつくりたいものだ。

 

 

 

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