小澤征爾さんが、亡くなった。
言うまでもなく、日本を代表するクラシック界の音楽家である。
若い頃から、クラシック音楽を愛好してきた私にとっては、身近な存在だった。
とは言っても、彼の演奏会に一回も行ったことはない。
私がクラシックのコンサートに通っていた頃には、彼は海外で活動していることが多く、日本にはあまりいなかったのだろうか。
彼の得意とするレパートリーが、私の好みのものとちょっと違っていたこともあったかも知れない。
そんな私が、小澤征爾さんという人に出会ったのは、高校の図書館で彼が書いた本を読んだからである。
それが、この文章に掲げた「ボクの音楽武者修行」という著書だった。
昼食の弁当を、教室ではなく別棟の図書館近くの階段に腰をおろし、グランドを眺めながら食べることを日課にしていた。
高校生活から、ややドロップアウト気味で、あまり教室にいたくなかったのだろう。
食べ終わると、そのまま図書館で気に入った本を読む、というルーティンだった。
そんな感じで、この本を見つけ読んでいた。
それほど厚くもなく、装丁も軽い感じで、「なんだろう。」と読み始めた。
毎日、図書館に通っていたのだから、かなりの書籍を読んだと思うのだが、著者と本の名前を覚えているのは、この本だけである。
よっぽど、印象深かったのだと思う。
まだ、日本人が外国に旅行するのが、とても難しい時代に、ヨーロッパをスクーターで旅する。
そして、各地の指揮者コンクールに参加するのが目的である。
でも、その後読み返したりしたことはない。
そういえば同じ頃小田実さんという人が世界一周旅行をして書いた「何でも見てやろう」という本もあったが、これは読んでいない。
当時、私はまだクラシック音楽を聴き始めてはいない。
ギターに興味があって、とりあえずウクレレをいじったりしていた。
小澤征爾という指揮者のことも知らなかった。
タイトルからして、「ボクの音楽武者修行」で、「僕の」でも、「私の」でもない。
とっつきやすかったのだろう。
私が、この本を読んだのは、高校1年だから、1969年ごろである。
小澤さんの訃報を聞いて、もう一度この本が読みたくなって、調べてみた。
この本自体は、1962年に音楽之友社から初版が出ているようだ。
「ハナメガネ商会」という古本屋さんのサイトで、見つかったが、在庫はありませんとなっている。
おおば比呂司さんが挿絵を担当していて、表紙には蝶ネクタイの若者がスクーターに乗っている。
車輪の轍は、五線譜のよう描かれているが、旅行に携帯していたらしいギターはない。
その後、2002年に新潮文庫として発売になったが、現在は絶版になっているようだった。
図書館の分館で蔵書の状況を調べてみたら、沼南の分館にあることがわかったので、取り寄せを予約した。
検索で一冊しか出てこなかったので、柏市に分館は十数館あるけど蔵書は一冊だけということなのかな。
そういう訳で、分館に届くのを待っている。
私が、高校生だった頃、外国へ旅行するのは困難だったと、書いた。
小澤征爾さんは、1935生まれなので、1953年生まれの私より18歳上である。
その彼がヨーロッパに行ったのは、1959年である。
その頃の為替レートは、1ドル=360円である。
若い人には、想像できないかも知れない。
しかも、社会はまだ戦後の延長のような状態であり、海外旅行なんて考えられない。
池田隼人首相が、「所得倍増政策」を打ち出したのは、1960年昭和35年で、それが高度経済成長につながって行く。
為替も、1971年から変動相場制に変わっている。
スクーターは、船便で送ったのだそうだ。
そんなことができるのだから、ずいぶんと裕福な境遇だったのだろう。
幼い頃から、クラシック音楽をやるというだけで、それなりの環境にいなければできないことである。
彼の場合は、ピアノを習っていたのだが、指の故障によって、指揮の方に転換しなければならなかったらしい。
10年で所得を2倍にするという「所得倍増政策」は目標どおりに成功したのだろうか。
今の感覚で考えれば、10年で2倍というのはなんとも無謀な試みに思える。
郵便局の定額貯金というのがあって、年利6%くらいだった。
これで預ければ、10年で2倍になりますと宣伝しているのを見た記憶がある。
年利6%で計算すると、単純に計算すると、1.8倍くらいにはなる。
定額貯金は、半年複利だったので、利子に利子がつくというものだったので、2倍になったのかも知れない。
所得倍増政策は、成功したのかも知れない。
私が大学を卒業した1976年頃には、なんと若者たちもボーナスをもらえば、海外旅行が可能な状況になっていたのだから。
1980年代になって、私は結婚したのだが、新婚旅行ということになって、妻は海外旅行はどうかな、と言い出した。
私は、海外なんて行ったことないし、パスポートも持っていない。
結局、上高地と美ヶ原で妥協してもらった。
私が、クラシック音楽にコンサートに出かけていたのは、20代から30代、時代にして1970年代から1980年代の頃である。
東京にどれくらいのオーケストラがあるだろうと、数えたことがある。
たしか、八つくらいのプロのオーケストラがあった。
NHK交響楽団が、たぶんトップクラスだったろう。
これは、経営不振から解散騒ぎになって存続はしたが、脱退者が新日本フィルハーモニー交響楽団を結成した。
私がよく行ったのは、東京交響楽団のコンサートだった。
上野公園の東京文化会館が定期演奏会の会場だったので、電車に30分くらい乗れば、行けた。
東京都交響楽団というのもあったが、「都」の一字多いだけで、なぜ同じような名称なのかわからなかった。
東京と名の付くのは、東京フィルハーモニー交響楽団もあったし、東京シティフィルハーモニック交響楽団もあった。
こうなると、もうわけがわからない。
あともう一つ、読売日本交響楽団というのがあったな。
名前からわかるように、読売新聞と日本テレビのオーケストラだった。
これでは、外国人からしたら、みんな同じに見えるだろうな。
もしかしたら、この他にもプロのオーケストラは、あったかも知れない。
東京だけで、これだけあるのは、たぶん多いだろう。
それだけ、多くに人たちがクラシック音楽を楽しんでいる。
小澤さんは、若い頃、ヨーロッパでこんな辛辣な言葉を浴びせられたという。
「アジア人にモーツァルトが理解できるのか。」
これは、アジア人に対する、差別的な感覚から来たものかも知れないし、
アジアにおける西洋のクラシック音楽の受容についての、想像力の欠如かも知れない。