晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

柳田国男と菅江真澄

菅江真澄は、それほど知られている人ではない。

私の学校生活の中でも、彼の名や作品は教科書などでは扱われていなかった。

現在は、どうなのだろうか。

だから私は、二十代になって,菅江真澄の研究者である内田武志氏の新聞記事を読むまでは、その名を知らなかった。

郷里の秋田のローカル新聞の記事によると、民俗学者である内田武志氏が血友病のために病床にあって、その研究対象が菅江真澄という江戸時代の旅行家である。

江戸時代後期に、出羽国陸奥国を旅して、さらに蝦夷地まで渡って数年滞在している。

そして、最終的に晩年の長い年数を秋田で過ごし、亡くなっている。

 

江戸時代という、旅行することがそれほど容易ではなかっただろう頃に、郷里を離れて半生をたびですごし、異国の地でその生涯を終える。

晩年の長い年月を送ったのが、私の郷里である秋田であることもあって、菅江真澄という人に興味を持った。

内田武志氏は、1980年に亡くなっているが、私が新聞記事を読んだ時はまだ存命だったので、その数年前だと思う。

私は、1976年に就職しているので、勤め始めてまもなくだったのだろう。

その頃は、まだインターネットも無い時代である。

どうやって本を探したのだろうか。

今考えてみると、図書館や書店を歩いたり、めぼしい出版社の目録でも眺めるしかなかったんじゃないだろうか。

インターネットのある今は、検索すればなんでも探すことができる。

それでも、菅江真澄に関する書籍を何冊か見つけて、手に入れることができた。

ほとんど知られていない人だと思われるのに、全集も刊行されていることを知った。

14巻からなる「菅江真澄真澄全集」は、1971年に未来社から発行されていた。

編者は、内田武志氏と宮本常一氏だった。

まもなく、私が購入した全集は、1981年の第三刷だった。

 

1971年といえば、昭和46年であり、私がまだ高校生だった年である。

この頃に、全集が編集された訳である。

しかし、調べてみると、その数十年前に、菅江真澄のまとまった著作集が刊行されている。

秋田県郷土史家であり民俗学研究家である深澤多市氏によって、「秋田叢書 別集 菅江真澄集」が編集された。

秋田叢書」は、秋田県内の郷土資料を集成したもので12巻が、1928年から1934年に発行された。

それと並行して、「別集菅江真澄集」6巻を刊行している。

昭和初期の時期に、講演会で秋田を訪れた柳田国男氏が、深澤氏に菅江真澄研究の重要性を指摘している。

それが、真澄の著作集をまとめる契機になったらしい。

柳田国男氏は、「菅江真澄」という書籍を昭和17年に刊行しているが、すでに昭和初期に雑誌等に発表した文章をまとめたものである。

その序文で、「菅江真澄について私の書いたものは、大正九年に公表した『還らざりし人』が秋風帖に出て居るのを最初にして」と書いている。

長年にわたって研究や考察を続けたのだろう。

菅江真澄」に収録されている「菅江真澄の旅」という作品では、天明3年(1783)30歳から、文化11年(1814)61歳までの、真澄の動静が年月日単位で克明に抜き出され整理されている。

「もうこの翁に對して私の抱いている感慨は、説き盡したといってもよいのである。」とまで書いている。

しかし、「二十年来の望みであった彼の身元生ひたち、どうして此様な大きな旅をすることになつたかといふ、隠れた動機はまだ少しも明らかになっていない。」と続けている。

のちに、「菅江真澄真澄全集」を編纂する民俗学者の内田武志氏は、若い頃に柳田国男氏から菅江真澄を研究対象とすることを、助言されたという。

彼が、秋田県鹿角市の出身であったからである。

それらを考えると、菅江真澄研究において、柳田国男氏の果たした役割はおおきなものだったと思う。

もしも、秋田叢書や全集が発行されていなければ、菅江真澄という人は今よりももっと知られていなかったかもしれない。

真澄は、生前に多くの著作を秋田藩の藩校である明徳館に献納している。

それは明治維新後、秋田県に引き継がれて、現在は秋田県立図書館に所蔵されている。

真澄の没後残された著作は、墓碑建立に尽力した人たちに形見分けされたが、明治期に旧藩士真崎勇助氏が収集し、現在は大館市の粟森記念図書館の蔵書となっている。

 

インターネットで、「菅江真澄」を検索すれば、書籍だけではなく、多くの研究サイトやブログを見つけることができる。

それは、真澄が旅した足跡を考えれば、理解できる。

信濃、越後、出羽、陸奥、そして蝦夷地まで、多くの文章に真澄の見た風景が残されている。

今の都道府県でいえば、長野、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、そして北海道。

真澄が立ち寄った至る所に、記念碑や説明板などがあるのだろう。

真澄の文章によって、その地の江戸時代後期の姿がよみがえる。

菅江真澄という人は、一般的にはそれほど知られてはいないが、消えてしまったわけではない。

 

ドナルドキーン氏の著作に「百代の過客」がある。

上下二巻から成り、後に続巻も出た。

サブタイトルが、「日記にみる日本人」である。

私は、興味深く読んだのだが、残念ながら菅江真澄の日記は選ばれていない。

今、手元にある下巻は、「室町時代」の日記22編と「徳川時代」の日記28編が取り上げられている。

ほとんどが、著者の名は聞いたことがあっても、読んだこともないものだ。

松尾芭蕉による数編を除けば。

真澄の日記は選ばれていないが、貝原益軒の「西北紀行」についての文章の中で、真澄の日記について記述している。

 

「彼の日記の影響も、見逃すことはできない。例えば益軒の百年あとに旅日記を書いた菅江真澄の膨大な日記は、益軒の伝統を継ぐものである。」

 

キーン氏は、「日記という最も私的な文学形式の中に表された、作者自身の言葉による日本人のイメージを発見し得たと思う。」と書いている。

柳田国男氏は、真澄の短歌は凡庸だとして、酷評している。

しかし、民俗学者の研究対象として、早くから評価していた。

そのあたりに、菅江真澄の著作の特質があるかも知れない。

 

 

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