2024年1月20日、JAXAの無人探査機が月面に着陸した。
アメリカ、ソ連、中国、インド、に次いで日本が5カ国目ということになるらしい。
とは言っても、アメリカとソ連の探査機が着陸したのは、1966年であり、なんと半世紀以上昔のことである。
またまた、はるか昔の話になるが、私の少年時代は1960年代であり、アメリカとソ連による宇宙進出の時代だった。
私は、1960年に小学校、1966年に中学校、1969年に高校に入学している。
考えてみると、1960年代はそのまま少年時代だった訳である。
宇宙開発については、アメリカは慎重だったようで、ソ連の方が主導権を握っていた。
1961年に人類最初の有人宇宙飛行を行ったのは「ガガーリン」だったし、1963年に初の女性宇宙飛行士となったのは「テレシコワ」だった。
二人とも、子供たちのあいだでは、超有名人だった。
「地球は青かった。」はガガーリンで、「私はカモメ。」というのが、テレシコワの宇宙でのことばだったと思う。
その頃には、テレビの衛生中継もできるようになったので、ニュースなど宇宙の映像が放送されるようになっていた。
ソ連に遅れをとっていたアメリカは、ケネディが大統領になってそれまでの方針を変換したらしい。
私が高校生になった1969年に、アメリカは有人探査機を月に着陸させた。
アームストロング、コリンズ、オルドリンという乗組員の名前とともに、月面で行動する映像はテレビで盛んに放送されていた。
とは言っても、インターネットもない時代なので、それなりにということである。
その頃、日本の科学者は何をやっていたのか。
私の記憶にあるのは、糸川英夫博士というロケット研究家が、ペンシルロケットの打ち上げ実験をしているというニュースである。
ペンシルロケットというから、ほんとにおもちゃのようなロケットだったのだと思う。
それが、なぜか私が住んでいる秋田県の日本海側の海岸でやっているのだというので、とてもよく覚えている。
たしかに、東京大学生産技術研究所の附属施設能代ロケット実験場が、1962年に開設されている。
でも、今になって考えてみると、とても不思議に思える。
かたや、ソ連やアメリカは有人宇宙飛行できる人工衛星を打ち上げ、月に着陸しようという時代に、おもちゃのような小さなロケットを打ち上げることを必死でやっていたのだ。
あまりにもレベルが違いすぎるのにめげることなく、自分たちの力で実現しようとしていたのである。
そして、1966年の月面着陸から半世紀以上遅れて目的を実現している。
着実に問題点を解決していこうとする科学者たちの姿勢には、感心してしまう。
1972年にそこを離れて、首都圏に住むようになった。
そして、1976年に就職するのだが、どうもその年に郷里の町の山奥にロケットの燃焼実験場が建設されたらしい。
話には聞いていたが、詳細は知らなかった。
先日、郷里の幼なじみと電話していたら、仕事の関係でその実験場の敷地に入ったということだった。
どんな所かと、JAXAのサイトを調べてみた。
JAXAの関係の施設は、全国に20ヶ所くらいあった。
能代ロケット実験場というのはあったが、私の郷里の施設はのってなかった。
そこで、Googleマップを見たらあった。
郷里の山「田代岳」の登山口の先に、実験場が見える。
拡大すると、こんな感じである。
ここには、戦後の短期間、農業集落があったらしいが、離農してしまったらしい。
中学生の時に、この近くの登山道を使って田代岳に登ったことはあるはずだが、集落までは行ったことがなかった。
大館市のサイトを見たら、この施設が縁で、ロケット発射場のある南種子島町と友好町締結しているとある。
無地探査機が月面着陸して、数年後にはアメリカは有人の探査機を着陸させた。
果たして、JAXAはこれから、どんな計画を立てているのだろうか。