菅江真澄を知ったのは、私が20代後半のころだった。
私の郷里である秋田県のローカル紙「秋田魁新報」の記事を通してだった。
記事は血友病のため長く病床にある民俗学者の内田武志氏についてのもので、内田氏の研究対象が菅江真澄だった。
菅江真澄は、江戸後期宝暦4年(1754年)生まれの国学者・紀行家である。
真澄は、天明8年(1783年)郷里三河を出て、信濃、越後、出羽、津軽、南部、蝦夷地を旅行し、多くの著作を残した。
長年の遊歴のあと、享和1年(1801年)に秋田領内に移り、秋田藩より地誌の編纂を依頼され、編纂にあたった。
そして、文政12年(1829年)角館で没した。
まだ20代だった私は、真澄のように人生を漂泊のなかにおくることに魅力を感じないではいられなかった。
真澄の著作は擬古文といわれる平安時代の文体を模したものにあわせて写生画が添えられている。
真澄の関心は、単に名所旧跡に限らず、庶民の生活なども細やかに観察し記録している。
そこに、柳田国男が貴重な民俗資料として早くから注目していた。
秋田出身である内田武志に菅江真澄の研究を薦めたのは柳田国男だった。
真澄が晩年を秋田で定住し、秋田藩校明徳館に著作を献納したことにより、多くの著作が散逸することなく残ることになったらしく、私の郷里である大館市の粟盛記念図書館にも菅江真澄の多くの自筆本が蔵書となっているとのことだ。