晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

ピンポンと卓球

オリンピック・サイトで卓球の混合ダブルスの途中経過を見たら、2-0で負けていた。

相手が中国は、やっぱり厳しいよな、と思っていた。

しばらくして、見たら2-1で、取り返していた。

次に見た途中経過は、2-3になっていた。

なんということだ、これは見るしかない。

家族が見ていたバラエティ番組も終わったようだったので、卓球を見ることにした。

決勝で、中国チームを破って金メダルという、場面を見ることができるとは思わなかった。

 

卓球というものに、少しは縁がある。

小学生の時、私は野球部のマネージャーをやっていた。

中学に進学したら、卓球部に入部するつもりだった。

友達と練習の見学にも行って、素振りの練習をした記憶がある。

なにしろ、小さな学校なので、男子の部活は、野球、卓球、剣道しかなかった。

結局、中学校でもマネージャーをやることになり、卓球部に入ることはなかった。

なので、今でも遊びのピンポンくらいのことしかできない。

でも、その頃の日本が卓球では世界のトップクラスで、世界チャンピオンを何人も出していることは知っていた。

とはいうものの、選手名とか詳しいことは知らなかった。

 

そこで、かつての日本が世界の卓球界を席捲していた頃のことを調べてみた。

私の記憶は間違いではなかった。

卓球の世界選手権は、1926年ロンドンでに第一回が開催されている。

この頃は、ハンガリーが強く、ほとんどヨーロッパが中心である。

第二次世界大戦後に、日本が台頭し、そのあとに中国が全盛時代を迎えるという感じである。

男子シングルスでは、日本は1952年から7人の世界チャンピオンを出している。

佐藤博治、荻村伊智朗、田中利明、長谷川信彦、佐藤繁雄。

同様に、女子シングルスでは、1956年から7人の世界チャンピオンを出している。

大川とみ、江口冨士枝、松坂キミ代、深津尚子、森沢幸子、小和田敏子。

団体戦でも、1954年から7回世界一になっている。

 

全日本卓球選手権大会は、1935年に第一回の大会が開かれている。

卓球というスポーツが日本で普及することができたのかは、わたしにはふしぎに思えることである。

調べてみて面白いなと思ったのは、18歳以下が出場できる「ジュニアの部」というのが、1950年から設けられている。

さらに、小学校6年生以下が出場できる「ホープの部」が、1981年から始まっている。

小学校4年生以下の「カブの部」が1984年から、小学校2年生以下の「バンビの部」が1986年からと、対象を広げている。

そこで思いついたのだが、今の日本代表になってる選手たちは、この大会を経験してきたのだということだ。

 

我が家の長男が、小学生の頃に市内のスポーツ少年団の卓球チームに加入していた。

市の体育館で、ピンポン大会があるから行きたい、と本人が言うので連れていった。

大会の終わった後、スポーツ少年団の勧誘があり、加入することになった。

その後、月二回の練習日に、体育館まで送り迎えしていた。

指導者は、子育てが終わったくらいの年配のおじさんたちだった。

長男が大きな大会の選手に選ばれたので、強化練習で地元の大きな卓球クラブの練習に参加することになり、何回か連れていったことがある。

夜の7時から9時くらいの練習だった。

基本的には、大人たちの練習会で、参加者の小学生くらいの子どもたちも一緒に練習していた。

その頃、卓球の愛ちゃんが話題になった頃だったと思うが、愛ちゃんみたいな子がいっぱいいる、と思った。

それは、もう20年以上前のことだが、なつかしく思い出してしまった。

あのような卓球クラブが、日本にはいっぱいあるのだと思う。

それが、今の日本の卓球につながっているのだろう。

 

 

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