晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

1970年代の記憶①

私の学生時代のアルバイト生活については、このブログで何回か書いている。

1972年から1976年なので、もう半世紀も前のことになる。

先日、吹奏楽の演奏会に、バイト仲間に誘われて行ったことがあることを書いた。

それを考えていたら、他にも記憶に残るバイト仲間がいたことを思い出した。

 

私が、アルバイトをしていたのは、夏休みと冬休みの期間だった。

夏休みが、7月中旬から9月上旬まで、冬休みが12月下旬から1月いっぱいくらいだったと思う。

今はどうかわからないが、休業の前後はやたらと休講が多く、実質的な休みが長かった。

1年間に3ヶ月はやっていたので、4年間の学生生活の期間に、1年以上はアルバイトしていたことになる。

私は、パートタイムのバイトはやったことがなく、フルタイムだけだった。

両親と同居していたので、私のアルバイトは、生活費のためではなく、あくまで小遣い稼ぎであり、趣味のオーディオと旅行のための資金になった。

 

ずいぶん昔のことになるけれど、アルバイトとして私がやっていた仕事については、よく覚えているし、面白かったと思う。

最初にやったのが、東京トヨペットの自動車部品倉庫での仕事だった。

広い倉庫の中をのんびりと、伝票を手に台車を押して部品を探し、コンテナに収納していた。

今なら、「ピッキング」というのだろうが、デジタル管理されていて部品探しも、難しいものではないかも知れない。

その翌年には、トヨタ自動車の検査工場で働いた。

ラインを3分に1台流れてくる完成車を、決められた項目について、点検作業をする。

ハンドル、ライト、オイル、ブレーキランプなど、数えきれない作業を、わずか3分間のうちに処理しなければならない。

それこそ、先日このブログに書いた「ルーティン」である。

流れ作業というのは、いくら慣れても、きつかったなと思う。

体力的には、加減がわかってくるとなんとかなるが、その頃の工場はエアコンがなく、夏の暑さは並大抵ではなく、給水器には塩分補給のための錠剤が置かれていた。

流れ作業を経験した人はわかるだろうが、やはりメンタル面のストレスが大きい。

流れが止まる休憩時間と昼休みを、ひたすら待つしかない。

 

学生生活の後半の2年間は、一変して町工場で働いていた。

オーディオメーカーの下請け工場で、メーカーに納入する部品の加工をする。

その頃は、オーディオが元気な時代だった。

赤井電気というテープデッキやビデオデッキの専門メーカーがあって、そこに納入するフロントパネルを作っていた。

今なら、音楽を聴こうとしたら、スマホタブレットから電波を飛ばして、対応したスピーカーで鳴らすことができる。

当時は、オーディオ機器もがっちりをできていて、重いものだった。

重厚長大」ということばがあって、通常は重化学工業なとの産業のことを言うらしいが、オーディオの世界も重厚長大だったと思う。

ちなみに、重厚長大の反対語は、「軽薄短小」なのだそうで、これはちょっと違うので、あまり使いたくないことばである。

赤井電気は、アナログテープのデッキ中心だったので、1980年台のCDに代表される「デジタル化」にうまく対応することができず、1990年代には姿を消したようだ。

考えてみれば、「軽薄短小」というのは、「デジタル」にふさわしいことばかも知れない。

 

ところで、その工場で何をやっていたのか。

言ってみれば、オーディオ機器用のフロントパネル用の金属板のメッキ加工である。

大きな工程は、金属板の表面を薬品で洗う、溶液に浸し通電して金属板の表面にメッキする、メッキ後の金属板表面を金属ブラシで研磨する。

今考えると、なんとも危険な作業環境である。

硫酸だか塩酸だかを使うし、溶液に電気を通しているし、かなりあぶない。

金属ブラシでの研磨は、職人仕事的だったかな。

その頃のオーディオ機器用のフロントパネルは、何ミリもの厚さだったけれど、今はそんなぶ厚い金属版は使ってないだろう。

 

そこで働いていた頃に、4、5歳年上の方と親しくなった。

彼も、オーディオ好きだったので、そういう話をしていたのだろう。

新しいスピーカーを買いに、秋葉原に行くのに誘われて行ったことがある。

三菱の「ダイヤトーン」に決めたような気がする。

新しいのを買ったからということで、それまで使っていたサンスイのスピーカーを私にくれた。

サンスイは、「山水」であり、今は無くなっているが、当時は名の知れたメーカーだった。

完全な家具調で、分厚い木材を使っていてとんでもなく重いものだった。

それこそ、「重厚長大」だった。

その後ずっと、そのスピーカーを愛用したが、子どもたちが成長して置き場に困って、処分してしまった。

後になって、捨てたことを後悔した。

 

その職場で、沖縄出身の二人の若者に、バイト仲間として出会った。

そのうちの一人は、数年後に現れた沖縄出身のボクシングの世界チャンピオンと同じ苗字だった。

モジャモジャ頭で、世界チャンピオンをもっとワイルドにした感じだった。

もう一人の相棒は、本土にもある苗字で、小柄でもの静かだった。

沖縄が本土復帰したのは、1972年のことで、2年前のことである。

アメリカ軍政下では、本土に来るのに、パスポートが必要だったと聞いたことがある。

彼らは、パスポートが要らなくなってから、本土に来たのだろうか。

そのことを、話したことは無かったな。

 

ロシアによるウクライナ侵攻は、日本にもいろんな影響が出て来ている。

台湾の周辺も、きな臭くなっている。

そんなことを考えていたら、学生時代に世界で起こったことが、現在につながっているのだな、と思った。

それは、国際情勢だけではない。

人間だって、過去のいろんな積み重ねで、現在の自分になっている。

国際連合から、「中華民国」が追放されて、常任理事国に「中華人民共和国」が迎えられたのが、1971年である。

私は、高校生だった。

突然、国交断絶である。

日本も、大使館を閉鎖したんだろう。

すごいことをやるもんだ、と思った。

それまで、常任理事国だったのに、中国の一部だからと、「中華民国」はないことにされた。

沖縄返還が1972年であり、私が秋田から横浜に来た年だ。

アメリカが、ベトナムから完全撤退したのが、翌年の1973年なのだから、連動したものだったのだろう。

 

最近は、「中華民国」ということばを見ることがない。

マスコミでも、「台湾」を使っている。

それを考えると、50年という年月を考えざるを得ない。

 

 

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