2週間ほど前に、「雨上がりの手賀沼サイクリング」に出かけた際に、サイクリングの途中で大井の福満寺に寄ってみた。
「将門王城跡」を訪ねた際に、福満寺の山門前には行っていた。
王城跡は、福満寺の近くにあるのは確かなので、あわよくば見つかるだろうと思ったのだが、やっぱりわからなかった。
福満寺の境内を、ひとまわりしてみた。
記録は保留にしていたので、今回のブログに載せる。
福満寺は、柏市大井の地に、奈良時代に創建されたという天台宗の寺院である。
寺の由緒書によると、
福満寺は、1200年ほど前の第50代桓武天皇の御世(781〜806)に創建され、開山はは権大僧都法印尊慶上人です。
承和11年(844)の薬師堂の棟札に「下総国相馬郡南相馬庄大井郷別当福満寺」とあり、天台宗の寺院として周囲の神社を統括する別当寺院であったことがわかります。
となっている。
天台宗の開祖最澄が、天台宗を開宗したのが、延暦25年(806)であるので、福満寺の創建はもう少し時代が下るのではないだろうか。
平将門は、生年903年没年940年と言われているので、すでに福満寺はあったことになる。
福満寺の境内は、竹林に囲まれた窪地にあった。
今回は、寺院の裏から登っていった。
福満寺には、他の寺院では見たことのない光景があった。
斜面一面に、境内社それともお堂?、が並んでいる。
その前面に、本四国八十八ヶ所高野山巡拝記念碑があるので、参加者が境内社を寄贈したのだろうか。
いや、このような場合は、寄贈ではなく、奉納?というのだろうか。
ひと回りしてみたのだが、なかなか経験できない感じのものだった。
他の寺院にも、あるものだろうか。
将門大明神が、境内にあることがわかったので、戻って探してみた。
本堂の隣に、小さな祠があって、それが「将門大明神」だった。
福満寺のある大井の地は、古くから栄えたところであったらしく、奈良時代の正倉院の記録にも残っている。
「和名抄」下総国相馬郡六郷の1つ。正倉院調庸関係銘文の両口布袋に「下総国相馬郡大井郷戸主矢作部麻呂 調并庸布一端 天□(平)十七年十月」「下総国相馬郡大井郷戸主矢作部弟荒戸口矢作部広足調并庸布一端」とあり,当郷の住人2人の名が見える(正倉院宝物銘文集成)
大井郷の矢作部麻呂さんと矢作部広足さんが、庸として布を納めた、ということだろうか。
平将門王城の地に比定されている大井の地であるが、これについては角川日本地名辞典では、次のように述べている。
「将門記」「今昔物語集」巻25によると平将門が新皇となった折,都を下総国狭島郡の亭南に定め,「相馬郡大井の津」を京の大津としたという。「地理志料」は大井の津を現在の沼南町大井付近とみているが,「地名辞書」は現在の茨城県藤代町配松付近に推定し,当郷もその近辺かという。
また、福満寺山門脇の幟にには「大井の七人影武者伝説の里」と書かれている。
北斗七星の妙見信仰にちなんで、七人の影武者がいたとされるもので、
坂巻、石原、石戸、吉野、富瀬、久寺家、座間の七家がそうであるが、何家かは子孫の方が住んでいるらしいが、地名として残っているものもあるらしい。
私の知ってる限りでは、このうちの富瀨は柏市の東端に地名としてある「布瀨」であり、「久寺家」は手賀沼を挟んで北岸に「久寺家」という地名として残っている。
その他は、柏近隣ではよく見かける苗字である。
福満寺の南方には、「車の前五輪塔」がある。
五輪塔自体は、室町初期に建立されたものらしいが、この場所については伝承があるらしい。
平将門の側室車の前が、遺児とともに隠れ棲み、将門の信仰していた妙見菩薩を祀るお堂を建てその菩提を弔ったと伝えられている。
森と畑に囲まれてひっそりとあるみたいです。
さらに、福満寺のかなり東方に「将門神社」がある。
将門の次女如春尼、又は三女如蔵尼によって、創建されたとされる。
所在地は、柏市岩井で、「岩井」は将門の本拠地だった猿島郡岩井からつけられたといわれている。
「将門神社」を称する神社は、全国にあまりないらしいが、手賀沼を挟んで我孫子市日秀(ひびり)にも、将門神社がある。
こちらは、将門の母が相馬郡の「県犬養枝女」でこの地で幼少期に育ったという伝承があるためである。
どちらの地にも、将門調伏を祈った成田山新勝寺に対して対抗する風習が残っているらしい。
サイクリングで行ける範囲内なので、そのうちに足を伸ばしてみたい。