この何ヶ月か、近隣の図書館を所蔵の古地図のために訪ねていた。
柏市立図書館、流山市立図書館、松戸市立図書館、鎌ヶ谷市立図書館、千葉県立西部図書館。
このすべての図書館まで、歩いて行ってきた。
このブログでも、何回も書いている「フランス式彩色地図」を求めてである。
その成果として、柏近隣の地図のカラーコピーを、合計25枚手に入れることができた。
そのうちの一枚を、じっくりと眺めようと思う。
地図の上部に、この地図のタイトルが書かれている。
今回は、私にとってはサイクリングやウォーキングでよく訪れている大津川を含んだ地図を見てみようと思う。
この地図のタイトルは、次のとおりである。
大津川が地図の南から北に流れ込み、地図の上部で手賀沼に合流している。
現在は、この地域は柏市になっている。
大津川の東部は、かつては沼南町だったが、平成の大合併で柏市となっている。
この地図は、明治13年に作成されているが、この時点では旧沼南町の地域は南相馬郡であった。
ちなみに、同じ南相馬郡に所属していた我孫子市の地域の北部の利根川の川向こうは、下総国北相馬郡であった。
下総国と常陸国の境は、利根川ではなく、鬼怒川とその支流の小貝川であったらしいからである。
この地域の地図は、フランス式彩色地図原図の復刻版として発行されたもののうちの、千葉県北西部E3という7枚のセットである。
他の6枚のタイトルは、こんな感じである。
そして、左側の欄外上部に測図の年月が表示されている。
それを見ると、地域の西部の4枚は明治13年10月となっていて、東部の明治14年10月が1枚、11月が2枚である。
欄外下部には、担当者の所属・職名・氏名が記載されている。
測手と副手との二人での一組の編成である。
測手は、すべて「少尉」である。
少尉というのは、将校の最下級の位らしい。
調べてみたら、連隊付もしくは中隊付、又は小隊長に充てられるとなっている。
少尉も、歩兵少尉、工兵少尉とある。
手書きで書かれているので、判読の難しいのがあったがどうも「砲兵少尉」らしかった。
副手は、軍曹や伍長もあるが、半分くらいは測量課雇となっている。
軍人ではなく、アルバイトということなのだろうが、どういう人が雇われていたのだろうか。
もう少し詳しく知りたくて、ネットを検索していたら、「日本の測量史」というサイトを見つけた。
上西勝也さんという方によるサイトで、詳細な情報を豊富な写真とともに知ることができる。
このサイトから、次のようなことを知ることができた。
西南戦争の結果、正確な地図の重要性を感じた日本陸軍が、地図の作成に着手し、それが迅速測図であること。
明治13年に、日本陸軍は士官学校卒業生のうち30余名を迅速測図の要員として、参謀本部測量課附に任命したこと。
「フランス式彩色地図」は、地図表現方法について、ドイツ式と比べて、色彩豊かに手書きしたものを言ったもので、測量そのものは違いが無いこと。
明治17年(1884年)から、迅速測図を元にした地図が出版されたが、縮尺は2万分の1で変わらず、墨一色刷りのドイツ式の一色線号式図式だった。また、測量原図が一面当たり縦25×横20センチメートルだったのが、出版図では合計240面、横長の縦37×横46センチメートルが64面、縦長の縦53×40センチメートルが176面と混在していた。
この一面の地図には、多くの情報が網羅されている。
たとえば、村名を拾ってみる。
柏村、戸張村、名戸ケ谷村、増尾村、逆井村、高柳村、藤心村、塚崎村、藤ヶ谷村新田、若白毛村、大井村、箕輪村、五条谷村、
寺院では。
長全寺、正光寺、妙林寺、少林寺、万福寺、妙蓮寺、慈本寺、宗寿院、宗森院、妙照寺、
神社は、同名もある。
羽黒祠、香取祠、香取社、聖社、八幡社、八幡社、八幡社、熊野祠、神明祠、稲荷社、三峰社、浅間祠、稲荷社、香取社、
河川や道路は、ほとんど自然にできたままのように、細くて曲がりくねっている。
村落には、住居が□の記号で表示されている。
これで、その戸数や村の住居がどのように配置されていたかがわかる。
北部の地図の左上に、戸張村がある。
手賀沼湖畔にあって、古くは戸張城もあった古い村である。
戸数を数えてみたら、50戸以上はありそうだった。
柏村方向に道が続いていて、正光寺というお寺があり、香取祠と羽黒祠という神社もある。
集落の周辺は、畑になっているが、水田は北部の手賀沼湖畔に一ヶ所だけである。
村はずれの山に、梨の表示がある。
地図の全体を見たが、梨という表示は他に、藤ケ谷村新田に一ヶ所だけあった。
果樹系はほとんど無く、茶畑は旧沼南側にかなり点在していた。
フランス式彩色地図の魅力のひとつは、欄外のスケッチである。
もしも、このスケッチがなかったならば、この地図の印象は違ったものになったろう。
この地図セットの7枚のうち、1枚にはスケッチがなかった。
この迅速測図のメンバーにも、絵画の不得意な人がいたのだろうか。
これだけの地図を作るために、測量をするのにどれだけの日数を要したのだろう。
たった2人のチームで、どのようにして一面を埋めるだけの情報を集めたのかと思うと、信じられない気がする。
どういうふうにして、作業をしていたのか、のぞいてみたい。
この測量に関係していた人たちによる記録は残されていないか探してみたが、見つからない。
やはり、この測図は陸軍の軍人が行ったもので、最高機密だったのだろうから仕方ないかも知れない。