晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

ルールと危機管理のこと

日本人は、交通ルールをよく守るとかいうけど、日々生活していると、そうでもないんじゃないか、と思うことが多い。

ルールをよく守るって言ったって、100%というわけじゃない、比較的ということである。

全てにおいてそうだと思うが、物事の実態を考えたら、一筋縄ではいかない。

あれもあれば、これもあって、それもあるし、なかなか決めつけることはできない。

でも世の中では、なんとかは何であると、すべてがそうであるかのような表現が多い。

いろんなものが、まぜこぜになっているのが実態である。

 

私が利用している私鉄の最寄駅近くに、信号のある交差点がある。

一本は、駅前に向かう道路である。

もう一本は、鉄道と並行している道路であるが、20mくらいで、不思議に直角に曲がっている。

この2本の道が交差していて、スクランブル歩道になっている。

駅を利用する歩行者は、交差している道と並行する脇道を、多くの人が利用している。

その脇道から出てきたら、わずか10mも歩けば信号のある交差点である。

ところが、かなりの高い確率で、信号を使わず、停車している車と走り去る車をかき分けて車道を渡るのである。

それが、性別年齢問わずである。

高校生から、おじいさんおばあさんまでなのだ。

 

私は、この光景を何年も横断歩道や車窓から見てきた。

停車中の自分の車と、前の車の間を我が物顔で通り抜けて行く。

ときには、見てるだけで腹が立つことがある。

いつかは、きっと事故が起きるだろう。

もう、事故が起きてるかもしれない。

自分の身には、事故は起きないと思ってるのだろう。

世の中は、そんなものかも知れない。

 

通学のこどもたちが、信号待ちをしている前を、そうやって渡っているのだ。

自分の子どもや孫と一緒のときは、どうするのだろうか。

子どもや孫の手を引いて、こうやって渡るんだよ、と車の間をすり抜けるのだろうか。

交差点まで、10mほど信号の待ち時間だって、長くて1分くらいのものだろう。

きっと、本人は自分の責任で判断してやってるから、大丈夫ということなんだろうな。

毎日、毎日、そうやってなん百人の人が、車道を渡る。

 

今日も、繁華街の人出が昨年より多かった、とかやってた。

観光地の駐車場は、県外ナンバーでいっぱいだ。

これもきっと、自己責任で判断してます、ということなんだろう。

自分の判断で自分がどうかなるのはしょうがないけど、問題はそれに巻き込まれる人がいるよ、ってことだよなあ。

今まで、こんなに大変なことを経験してないのだから、試行錯誤でやってくしかないのだろう。

 

今こそ、試されているような気がする。

人間の、想像力がどの程度なのか。

かつて、危機管理とか研修会でやった気がする。

あらゆる事態を想定して、対処する準備をしておくことが大切だ。

そうしないと最悪の事態で、ドタバタしてしまう。

現状から、どういうことが予想できるのか。

できるだけ、いろんな状況を考えてみる。 

オリンピックだって、やり方だけじゃなく、止めかたの準備をしてるんだろうか。

いつの時点で、こうだったら、こうするという、目に見える準備ができてれば、それに沿ってやってけばいいんだよな。

登山でもいわれたな、いかに引き返すかが大事だって。

勇気ある撤退とかいうけど、勇気じゃないよね。

どちらが最終的に、良い状況になるかを計算してるだけだ。

余計な心配を、してしまう。

 

 

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