晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

思えば遠くへ来たもんだ

C.W.ニコルさんが、昨年亡くなって1年になるそうだ。

ニコルさんのことは、テレビで見かけるだけだったのであまり知らない。

自然保護の活動をしていて、黒姫山のふもとに住んでいる。

あとは、やさしそうな笑顔と、おだやかな語り口である。

生まれ育ったところを離れて、まったく違うことばや文化のなかで生きることを選択するのは、どうゆうことなのかなと、私は考えていた。

なにかとても、気になる人であった気がする。

ニコルさんだけではなくて、生まれ育った所を離れて、日本に暮らす人はたくさんいるだろう。

日本から離れて、世界のいろんな所で暮らしている人もたくさんいる。

そのような人の暮らしを、いろんな機会に見ることもある。

 

ニコルさんのことを調べてみた。

ウィキペディアの経歴を読むだけで、映画を観たり、小説を読んだような気になった。

簡単な経歴についての文章なのに、ドラマチックである。

1940年、イギリスのウェールズにて生まれ、私よりひと回り上である。

そして、職業の欄を見て、驚いた。

小説家、随筆家、環境保護活動家、ナチュラリストイラストレーター、音楽家

多くの著作があるのに、私は一冊も読んでいない。

音楽も記憶がない。

でも、リストを見ていたら、CMで2012年サントリー「オランジーナ」とある。

なんか、見たような聴いたような気がする。

 

イギリス軍人だった父は、太平洋戦争中にシンガポールで、日本軍の捕虜になり処刑された。

10歳の時に母が再婚し、やはりイギリス軍人だった再婚相手の養子となりニコル姓となる。

クライヴ・ウィリアム・ニコル(Clive William Nicol)である。

13歳で、YMCAの柔道クラブに入部、14歳でイギリス柔道の父と言われた小泉軍治を知る。

17歳でカナダに渡り、数度に渡り局地探検に参加する。

両親の説得で帰国して、セントポール教育大学に進学する。

しかし、大学を中退し、再度カナダに渡り北米北極協会で助手として働く。

カナダの水産調査局や環境保護局で技官を務めたあと、空手道を学ぶために22歳で来日し、空手初段を習得する。

カナダに戻り調査捕鯨の仕事に従事したあと、エチオピアシミエン国立公園の狩猟区管理官を務める。

再度来日し、日本大学で日本語及び水産学を学ぶ。

2年後、バンクーバー環境保護局の緊急対応事務官に昇進し、カナダの国籍を取得する。

1975年、35歳で沖縄国際海洋博覧会のカナダ館副館長として来日する。

1978年、カナダ政府の官職を辞職し再来日し、捕鯨の物語を書くために、和歌山県の太地で1年間あまり生活する。

このあとは、日本で生活していたようである。

1980年、長野県黒姫山の麓に居所を定める。

1995年、日本国籍を取得し、イギリス国籍とカナダ国籍から除籍される。

 

イギリスとカナダと日本という三つの国の間で、揺れ動いている。

ニコルさんが、後半生の生活の場として、日本を選んだ決定的なものがなんだったのかは、わからない。

人は誰でも、自分が生まれ育つ場所を選んだわけではない。

ただ成長する過程で、自分が生きる場所を選択することはできる。

それには、多くの困難をともなうかも知れない。

私も、今ここで生きているということは、自分が選択した結果である。

生まれ育った場所を、生きる場所として再度自ら選ぶことも、可能だったはずである。

 

私などは、生まれ育った所を離れたといっても、ことばや文化が大きく違った国にいるわけではない。

この国の多くの人たちも、同じように生まれ育った所を離れて生きている。

でも、世界には、自分の住む場所を選択することが困難な状況にいる人たちが、多くいる。

それは、いったいなぜなのだろう。

そのような苦難を、人間に強いてしまう言語や、文化や、宗教や、国家はいったいなになのだろう、と考えてしまう。

 

「思えば遠くへ来たもんだ」は、1978年の海援隊の曲である。

テレビドラマや映画にもなったらしいが、見たことはない。

ときどき、この曲が頭の中を流れる。

 

 

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