五木寛之氏のエッセイ集に「風に吹かれて」というのがあって、そのなかに「デラシネ」ということばがあった。
彼の作品を読んだのは、この著作が初めてだった。たぶん、「風に吹かれて」というタイトルに惹かれたのだと思う。
「デラシネ」は、フランス語で、日本語にすると「根無し草」である。
「根無し草」は、デジタル大辞泉では次のようになっている。
1 地中に根を張らず、水に浮いている草。浮き草。
2 浮き草のように漂って定まらない物事や、確かなよりどころのない生活のたとえ。
「根無し草」は、変なことばである。「根無し」といいながら、根はある。根を張る場所、土地がないのである。
彼は、自らのことをデラシネと言っている。
1932年、福岡県に生まれた彼は生後間もなく教員だった父とともに、朝鮮半島に渡った。
ソ連軍進駐の混乱の中で、母親を亡くし、父と幼い妹、弟とともに1947年に引き揚げている。年齢を逆算すると15歳である。
エッセイ集は、「風に吹かれて」のほかに「ゴキブリの歌」「地図のない旅」が出ていて、小説より先にエッセイの文章を読んでいたと思う。
エッセイは、内容は広い範囲にわたっているが、私の記憶に強く残っているのは音楽関係である。
ひとりは、アタウアルパ・ユパンキである。アルゼンチンのフォルクローレの歌手でありギタリストである彼のすばらしさについて書いていた。
西洋のものとは、まったく違う感性、日本人にとっては近しいものを感ずるが、しかし、同じとは言えない。歌声と同様に、ギターの音色もなんとも言えないものである。
私のレコードコレクションの中に4枚あった。
もうひとりは、藤圭子である。
彼は、藤圭子について「これは『演歌』でも『艶歌』でもなく、間違いなく『怨歌』である。」と書いている。
同時に、彼女の今の輝きは時代と交差した瞬間的なものだろう、というようなことも書いていたと思う。
宇多田ヒカルもすばらしい歌手だが、藤圭子はまったく違ったものを持った歌手だった。
彼は、「艶歌の竜」というレコードプロデューサーを描いた作品を書いていて、私は高校時代に芦田伸介が演じるテレビドラマを見た記憶がある。
藤圭子のレコードも同じく4枚持っていた。
横浜に出てきて学生生活を始めた頃から、彼の小説を読み始めた。私鉄の最寄駅の前に貸本屋があり、借りて読んで、返して借りて読むということを繰り返していた。
「さらばモスクワ愚連隊」、「蒼ざめた馬を見よ」、「海を見ていたジョニー」、「青年は荒野をめざす」など。
デラシネであることを自覚していた五木氏の作品にある無国籍的なもの、日本的なものと違うものを感じていたと思う。
1966年の「さらばモスクワ愚連隊」がデビュー作だったが、それから数年しか経っていなかったが、すぐに作品集が発売された。24巻が3年間にわたって、順次発売された。その半分は購入したと思う。
フランス語の「デラシネ」は、根無し草、転じて故郷や祖国から離れたもしくは切り離された人を意味するという。
彼もまた、その意味でデラシネだったのだろう。帰ってきたはずの祖国日本は、根を張れる土地ではなかった。だから、「風に吹かれて」だった。
根を張っていた土地から離れたことが、自分の意志であったにせよ、自分の意志でなかったにせよ、その思いは同じだと思う。
そういう思いを持った人は、世界にたくさんいることだろう。
日本にも、きっとたくさんいる。
私も、この地に住むようになって40年以上になる。
ここに根っこを張ってるか、と言われると少し微妙かも知れない。