晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

ペーパードライバーから運転する人になる

結婚した時、妻も私もペーパードライバーだった。

2人とも、免許を取得してから、ほとんど車に乗ったことがなかった。

妻は、まだ東京に住んでいた頃に、教習所に通ったらしい。

私は、結婚する前年に苦労して免許を取ったが、車の運転が自分に向いてないことを自覚していて、あまり車に乗る気は無くなっていた。

その頃は、まだオートマ限定なんてなかった時代なので、もちろんマニュアル車だけである。

みんな、苦労してマニュアル車を運転していた。

今考えても、半クラッチなどという人間わざとは思えないような職人的な操作をやっていた。

坂道発進などは、最悪だった記憶がある。

あの頃に、オートマ限定があったら、もっと楽に教習を終わらせることができただろう。

オートマ限定免許ができたのは、1991年なのだそうだ。

 

長男は、1985年に生まれたのだが、通院などどうしても必要な時はタクシーに乗っていた。

ある時に、知人が車を買い替えようとしていて、それまで乗っていた軽自動車を処分するのに、年数が経過していて値段がつかない、という話をしていた。

その頃、我が家ではまだ車の購入について、まったく具体的に考えていなかった。

廃車にするくらいなら、私が譲り受けようと思って、お願いして譲ってもらった。

知人には謝礼をして、車検は自分で通した。

妻は、車の必要を感じていたので、自転車代わりのつもりだった。

 

妻は、すぐに運転の勘を取り戻した。

もともと、運転も好きらしく、すぐに乗りこなすようになった。

私は、助手席で赤ん坊を抱っこしていた。

それぞれの実家に、それで帰っていた。

 運転は妻にお任せで、私は運転する気はなかった。

そのうちに、次男が生まれることになった。

さすがに、妻は運転できなくなるので、私が運転するしかなくなった。

運転が苦手とは、言ってられなくなった。

私のほうは、運転に慣れるまでずいぶんと時間がかかった。

 

いづれにして、子育てするには車は必需品だったので、遅かれ早かれ購入することになったと思う。

おかげで、行動範囲が広がり、手軽にどこでも出かけることができた。

車も何回か、買い替えた。

妻の実家が、九十九里の方の山武町に引っ越した頃に、ホンダのオデッセイという車にした。

その頃流行りのワンボックスカーほど車体は大きくないが、座席が3列あって7人乗りで、2列目、3列目の座席が折りたためた。

ホンダの主力だったアコードがベースになってるので、運転もしやすく駐車も楽だった。

実家からの帰りは、2列目のシートをたたんで、マットを敷いて寝て帰ったりした。

姉がいた秋田の郷里には母親もいっしょに何回か行ったし、長男が就職して京都に赴任していた時には、家族で遊びに行った。

 

その頃のオデッセイの難点は、燃費の悪さだった。

エコ減税とか騒いだ頃に、コンパクトで燃費のいいのに買い替えた。

その後、退職したのでもう買い替えることはないので、数えると5台目の今の車が最後である。

昔から思っているが、車というのは金食い虫である。

維持費が、なにかとかかる。

とは言いながらも、今の生活を考えると、当分は車のある生活を続ける必要がある。

 

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