晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

田代岳の思い出

田代岳は、私のとって原点となる山である。

中学一年生の時に、初めて登っている。

夏休みに、男性教師が参加者を募集して、有志の生徒が参加して登っている。

たぶん中学の二年生、三年生の男子生徒十数人だったと思う。

男子教師が数人引率して、9合目の湿原あたりで幕営した。

営林署から借用した業務用の大型テントだった。

翌朝には、頂上に登って360度の雲海を見た。

雲海に浮かぶ雄大岩木山を見たのである。

この経験がなかったら、後年山に登ることを繰り返すことはなかったと思う。

 

この2年後、中学三年生の夏に、クラスの活動として何かやろうという話し合いがあった。

みんなで、田代岳に登ろうということのなった。

クラスは全員で36人くらいだったが、参加者は男女で20人くらいだったと思う。

2泊3日の行程だったが、1日目は営林署の宿舎を使わせてもらった。

宿舎は、車道をかなり歩いた沢の奥にあった。

クラス担任は、年配の男性教師だったが、寡黙な方であまり発言はせず子どもたちを見守っていた。

2日目は、長時間の登りである。

今回も、テントは営林署の大型テントなので、かなりの荷物だった。

途中で、雨が降り始めたが、予定どおり歩きつつけた。

担任は、大丈夫かなと、心配そうだった。

9合目の湿原に着いた頃は、雨も止み、大型テント二張りで幕営した。

数多くの池塘が散らばる湿原や雲海の素晴らしさは、変わらなかった。

 

高校生になって、私は生まれ育った村を離れて、高校のある隣の街に転居した。

私の高校では、例年行事で夏休みに入ってすぐに、「強歩大会」があった。

ラソンと同じ距離を、走ったり歩いたりして、学校へ戻ってくるものだった。

2年生の時、この大会直前に、私は急性盲腸炎で入院してしまった。

手術後だったので、ひと夏静かにしていた。

夏休みが終わる頃、田代岳に登ろうと郷里の父の実家へ行った。

幼なじみの従弟は3歳下で、まだ中学生だったが、さそって登った。

幕営したかは記憶がないので、日帰りだったのだろうか。

 

その後、進学して横浜で暮らしていた。

3年生の夏、2ヶ月のアルバイトの後、広島から九州一周の旅行をした。

その頃は、就活は4年になってからするものだったので、まだ就活の段階ではない。

九州をまわって、秋田によってから帰ることにした。

田代岳に登りたくなったのだ。

郷里に帰って、高校生だった従弟とその友人の3人で登った。

湿原でテントを張っていたら、単独行の女性もやって来て近くで幕営したのを覚えている。

どこかの国立大の学生だと言ってた。

この時は、カメラを持っていたので、山の写真を撮っている。

探してみたら、写真が見つかった。

 

数年前に、古い写真をスキャナーでデジタル化した。

デジカメにする前の数十年間分である。

古い山の写真が見つかった。

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田代岳9合目湿原 右側に黄色いテントが見える 1974

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奥羽山脈からの御来光

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岩木山が雲海に浮かぶ

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五色の滝

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生まれ育った村 神社の森から見る

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就職して、千葉に移り、いっしょに山に登る友人ができた。

グループで、定期的にいろんなところに出かけた。

ときには、2人だけで出かけたり、単独で出かけることもあった。

20代の頃、山形県福島県の県境にある飯豊連峰を縦走したことがある。

その時は、メンバーのひとりの実家がある新潟市で解散した。

私は、田代岳に登るために秋田に向かった。

田代岳は、東側の岩瀬川と西側の早口川という二つの川に挟まれたように位置してる。

早口川の方は、行ったことがないので、そちらの登山道を使うことにした。

大館の旅館に泊まって、始発のバスに乗った。

バス終点から歩いて、薄市沢登山口から登り始めた。

岩瀬川からの登山道はかなりアプローチが長いが、早口川からの方が歩程は短いようだった。

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池塘群にミツガシワ 1979

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田代岳山頂

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登山の記録については、詳細についてほとんど記録といえるものを残していない。

山岳雑誌を購読していた頃は、付録に登山手帳があって、それに記録していた時期はある。

むしろ、写真がけっこう残っているので、これから整理してみた方がいいかもしれない。

山へ行って、写真を撮ってないというのは、ほとんどないと思う。

友人たちと鳥海山に登ったことがある。

下山後は、象潟の町に泊まった。

この時も、象潟で解散後、田代岳に登ったような気がするが、他の山行の記憶とごっちゃになって曖昧である。

秋田駒ヶ岳や岩手の早池峰山も行ってるはずだ。

 

何年前になるだろうか、私たちを山を登ることに導いた恩師の先生が亡くなった。

私が郷里に帰った機会に、同級生たちとお線香をあげに行った。

その後で、同級生たち5、6人で田代岳に登った。

中学生の時に、先生たちがどういう思いで子どもたちを山登りにさそったのか、詳しいことはわからない。

山で育ったからといって、山に登るようになるわけではない。

父も母も、山で働いていたから、山がどういうものかは知っていた。

でも、父は私が山に登ることを、楽しみとして、趣味とすることは理解できないようだった。

父にとっては、山はあくまでも仕事の場だったからである。

先生たちは、君たちが育ってるこの山には、違う姿もあるよ、ということを知って欲しかったのかもしれない。

中学一年生のあの山行がなかったら、その後の私はずいぶんと違った生き方をしたのかもしれない。

 

 

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