晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

雨に咲く花

午後になっても雨は降っていたが、買い物に出かけた。

買い物を終えて、帰り道を歩いていると、道端にいろんな花が咲いている。

雨はたいしたことはなかったので、花を見ながら行く。

スマホで写真を撮ろうとすると、買い物袋と傘が邪魔になる。

梅雨入りしたばかりである。

やはり、今頃に咲く花は雨が似合うなあ、と思う。

妻の母親が入院している病院の前を通る。

病院の敷地と団地の道路の境が、細長い花壇になっている。

幅は1メートルないような、ささやかなものである。

それでもよく手入れされていて、いつも花が絶えない。

作業をしているのを見かけたことはないので、どんな方が手入れしてるのだろうと思っていた。

あらためて見ると、草花だけではなく、アジサイのようなものもかなり植えられいた。

アジサイも、色や形がよく見かけるようなものではないものが、多かった。

私の住む団地にも、アジサイが少しはある。

白っぽいもの、青っぽいもの、赤っぽいもの、そしてがくアジサイなどのよく見かける種類である。

そういうものとは、違ってるような気がする。

雨に濡れている花は、なぜか明るく見える。

太陽の光はないのに、明るさを感じる。

花びらも葉っぱにも、雨粒が見える。

雨の中を歩いていたら、子どもの頃聴いたうたを思い出した。

「雨に咲く花」という歌謡曲である。

とても大人っぽい感じで、もっと暗い夜の雨の印象である。

子どもだったのに、いい曲だな、と思っていた。

井上ひろし」という歌手だったのは、記憶がある。

「雨に咲く花」と「井上ひろし」が、頭から離れなくなった。

 

帰ってから、ネットで調べてみた。

歌詞を見たら、とても小学生が聴くような歌ではない。

およばぬことと 諦めました
だけど恋しい あの人よ
儘になるなら いま一度
一目だけでも 逢いたいの

雨に咲く花 井上ひろし - YouTube

 

「雨に咲く花」というタイトルは、2番の歌詞からきているらしかった。

雨に打たれて 咲いている
花がわたしの 恋かしら

ほとんどの歌詞は、心情を述べたもので、風景や情景はまったくない。

こんな歌をいいなと思っていた小学生だった私は、我ながらかなり変わり者だったと言わざるを得ない。

この歌を調べていたら、驚くようなことがわかった。

 

YouTubeで聴いてみたら、井上ひろしさんは、とても丁寧にうたっていた。

そんなに複雑なメロディではないので、歌の上手い人だと小細工をしそうである。

YouTubeには、歌のうまそうな歌手のものが、たくさんあった。

それは、聴かないことにする。

 

「雨に咲く花」は、井上ひろし昭和35年(1960年)のヒット曲でレコードが100万枚も売れた。

もともとは、昭和10年(1935年)の関種子という女性歌手のヒット曲で、50万枚売れたもののリバイバルである。

昭和のこの頃の50万枚や100万枚は、たぶんすごいことである。

 

井上ひろしは、1941年生まれなので、1960年にはまだ二十歳になっていない。

私は、1953年生まれなので、その年に小学校に入学している。

この曲を歌っていた頃まだ10代だったのは、信じられない。

 

井上ひろしは、「水原弘」と「守屋浩」とで、「ロカビリー三人ひろし」と呼ばれた。「かまやつひろし」とで、「四人ひろし」とも呼ばれたらしい。

ソロになる前に、ロカビリーバンドのザ・ドリフターズのメンバーだった。

ザ・ドリフターズはその後コメディ・バンドになるが、山下敬二郎坂本九も在籍していた。

ロカビリーを歌っていた頃の歌を、聴いてみたいものだ。

 

「ロカビリー」という言葉を、知ってる人は少ないだろう。

「ロックンロール」と「ヒルビリー」(カントリー音楽の別名)の合成語で、カントリー色の強いロックロールのことだった。

そのロカビリーの祭典が、「ウエスタンカーニバル」だったが、もう過去のことである。

 

井上ひろしさんは、かなりの人気歌手だったのに、その後の姿が私の記憶に残っていない。

彼は、昭和60年(1984年)に、亡くなったのだそうだ。

生涯独身で、44歳だった。

そして、私の中には60年前の記憶が、ずっと残っている。

 

 

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