廿八日 あるじにいざなはれて、阿部(安倍)のふる館のあと見にとて行ぬ。
加志といふ処に、黒沢尻四郎政任のありしいにしへを偲ぶ。
北上河をへだてて、国見山のいとよく見やられたり。
国見てふ名はところ/″\に聞えたり。
神武の帝八十梟を国見丘に撃給ふのとき、
「かん風のいせの海の大石にや、いはひもとへるしたヾみの」
とながめ給ひしことどもありけるをおもひ出、はた
「やまとにはむらやまあれどとりよろふ、あめのかぐやまのぼりたち、国見をすれば」
とずしたり。
里人のいへらく
「音に聞くにみの山の霍公鳥否背の渡くり返しなく」
又いふ
「みちのくの門岡山の時鳥稲瀬のわたりかけて鳴也」
此ふたくさ、いづれをまことといひもさだめん、歌はれいの西行にたぐふ。
むかし和賀郡、江刺郡の境をあらそふこと、とし久しかりける。
その頃白狐、にぎてをくはへて駒が嶽にさりぬ。
これなん稲荷の神の、その筋をしへ給ふにこそあらめと、あらがへるものらが中うちなごみ、あなかしことかたりあひ、相去と鬼柳(ともに北上市)の辺まで水落をあらため、さかひには二股の木を植え、あるは炭を埋みたり。
これなん炭塚といふ。
さりければ、その川を稲荷の渡、あるは飯形瀬といひつるを、いまはいなせの渡といふ。
又西行上人といひはやすうた
「みちのくの和賀と江刺のさかひこそ河にはいなせ山にまた森」
といふあり。
いなせの渡を岩城川〔同名ところ/″\におびたヾし〕といふ。
廿九日 きのふの夕つかたよりの雨、けふのあしたに猶ふりまさりてければ出たゝず。
この日三九日とて家ごとにいはひ、わきてすゑの九日なればといひて、茄子の羹ものくはざるはなし。
雨はいよゝふりくれて、つれづれとひとりともし火をかゝげて、人の書おける冊子どもありけるを見れば、いづれのおほんときならん、むつきのはじめつかた春日山に鹿の鳴たるは、いかなるためしにやあらんとけいし奉るよしを、この南陪(部)十二代にあたる政行の君、そのころ都におはし給ひて、
「春霞秋たつ霧にまがはねばおもひわすれてしかやなくらん」
とながめ給ひたるを人ごとにずしつたへて、はて/\は叡聞に達し、主上あさからずやめで給ひけん、松風といふ硯を政行の君にたばひ給ふ。
此松風の硯は、むかし本三位中将重衡受戒し給ひけるとき、法然上人にまゐらせられたるのちは、うちに在りたりけるを、こたび信(政)行にたうばりて、ながく南部のたからとはなりぬ。
硯の大さ、いつき(五寸)、むき(六寸)ばかりにして、青き石もてつくり、世にたぐひなき器なりけるとなん。
又いはく、この廿九代にあたり給ふ(南部)重信の君は、あやしう歌にこゝろざしふかく、天和三(一六八三)年五月七日、五月雨の晴ままち得て大樹公(将軍綱吉)ものになんまうで給ふに、五位下にてしたがひ給ふに、不忍池の辺に逍遙し給ふをりしも、雨一とをりふり過てけしきことによかりければ、重信やある、此ながめいかヾとありしかば、
「飛かねて上野の池の五月雨にみの毛もうすき五位のぬれ鷺」
公あさからずめで給ふのあまり、その夜四品になり給ふければ、重信の君、そが鳥の羽色の衣ぬぎかへて、たもとゆたかにかへり給ふたるなどありけるを、めづらしく見つつ、
家の風ふきもたゆまず水ぐきのあとさへ花と匂ふことの葉
三十日 けふも雨をやまず。
あるじの云、冬のすゑよりむつきのはじめに、この西なる後藤野といふひろ野の雪のうへに、狐の館(蜃気楼)見ゆ。
又
「七戸の三本木平(タイ)といふには、きさらぎの末つかた狐の柵ふるなりと」
これなん山市のたちけるを、後藤野にはきつねのたてといひ、さんぼんぎたひには、きつねのさくといふと也。
こしの海の海市を、狐の森といふたぐひ也けり。
或は地市ともいひけるものか。
かんな月の一日 晴たれば黒沢尻をいづ。
あるじも、いでそのあたりまでとて、ふたゝび政任のうし(大人)の館あと近く送り来りてけるに、かいやる。
冬来ぬと身にも時雨の零(ふり)そめぬわかるゝ袖をしるべとはして
しばしその筆をとこひて、あるじ、看山。
今朝ぞしる手をわかつとき日のさむみ
とかいて、いかがあらんと見せけるに、
袖にきのふの露氷る也
といひて別ぬれば、北上河をふねにてさし渡し行に、やなかけて鮏(さけ)とる人々水の辺にゐならぶが、いとさむげに河風吹ぬ。
男岡、国見山を見つゝ過れば、橘(立花)村といふあり。
すむ人の衣手寒く立花の実さへ枝さへ霜やおくらん
寺坂を越れば門岡村(北上市)也。
南陪(部)を離れ、江刺郡に入て鎮岡神社をたづね、ぬさたいまつらんと鶴脚(鶴羽衣)、倉沢(江刺市)といふをへて、片岡てふ処に宿かりたるあかつき。
ねられずよ枕に霜や岡の名の片しく袖の冴る冬のよ