菅江真澄の旅の日記は、全体に自作の短歌が織り込まれている。
短歌があって、菅江真澄の旅の日記は成り立っており、短歌のない文章は考えられない。
しかし、菅江真澄の業績を高く評価してきた研究者の柳田國男は、菅江真澄の短歌を酷評している。
「思い切った私の批評を申しますと、真澄翁の歌には殆と一首として名歌がありません。
単に凡庸だといふのみで無く、其吟詠の態度にも、文章の方に現れて居るやうな真率味がありませぬ。
・・・・・強いて感心するならば即興の軽捷、千首万句口を突いて出るといふ点で、之を要するに唱和の雄でありました。」(「秋田県と菅江真澄」『菅江真澄』〔創元社、1942年〕所収)
さらに、宮本常一は後に内田武志と「菅江真澄全集」〔未来社 1971〜1981年〕を編集するが、それに先立って真澄遊覧記を現代語に訳し、「菅江真澄遊覧記 1〜5」〔平凡社 1965〜1968年〕を共編訳する。
しかし、宮本は、「この紀行文には、あまり上手でない歌が多数に挿入されて」いるので、「それらの和歌の多くを除」いたと述べた。
長年、菅江真澄の文章を研究してきた方たちならば、菅江真澄において短歌がどのような位置付けのものであったかよく理解しているはずである。
旅を続けながら、土地の人たち、特に名士といわれるような、教養のある人と親しくなり住居を提供して貰うまでには、お互いに歌を歌うことがいかに大事なことであるか。歌や古典に対する知識が、共通のことばであったのではないだろうか。
単純に、歌の巧拙や優劣だけが大事なことではなかったはずである。
柳田國男は、幼少から和歌の教養を身につけた人だったらしいが、あのように上から目線で研究対象の短歌を酷評するというのは、研究者としての基本的な姿勢から外れているように思われる。
その姿勢を受け継いだ宮本常一に至っては、菅江真澄の作品集から、「上手でない短歌」を、削除してしまっている。こういうことを、平気でやってしまうということは研究者としてはどういうことなのだろう、と思わずにはいられない。
すばらしい学者の方々も、時には目が曇ってしまうことがあるんだろうか。
このお二人の考え方は、私には理解できない。
うたは、それぞれがそれぞれの有り様で受けとめるものである。
おなじうたでも、受けとめ方はおなじではない。
何をもって凡庸というのか、何をもって上手でないというのか。
その前の段階で余分なことをする必要はない。
偉い先生が、「なにがしの歌は拙い。」と言えば、そのことばが独り歩きする。
不要な先入観を与える。
そこまで酷評されている菅江真澄のうたはこういうものである。
「いなのなかみち」では、このように続いていく。
風越の山は名のみぞをさまれる御代の春とて花の静さ
人ごとにながるる霞たちさらで花のかげくむ春の盞
吹来るはいとふものから桜花かぜの宿の松としらずて
春霞よきてよしばしたつ坂に盛まばゆき花のあてりは
諏方の海汀にむすぶひもかがみとくながれ行あめの中川
咲花にそむく心はあさ衣の袖はにほはん風越のやま
したつ枝はさはらんもうしとまくり手に花を分こし木曽の麻衣
あくがれてながき春日もくれなゐのうす花桜色見えぬまで
春雨にあすはうつらんさくら花いざ木のもとにぬれつつも見ん
くれて行春をとゞめて松が枝にかかるはうれし花の藤波
いくばくの日数を旅にふるさとのなごりも夏にうつるころも手
うの花の咲とし見れば夏山の梢もたはにふれるしら雪
かぞへうる日数もしらじけふいくか市田の里にあかしくらして
山吹の花の盛は又たぐひ世にあら神のもりのしたかげ
花はみなちりはてぬとも山振の里の名めでて蛙鳴らし
遠近の山分衣たゞひとりたつはわびしきかしはらの里
これも又きつにはめなでくだかけの身につけ渡るためしさへうき