晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

菅江真澄を旅にかりたてたもの

菅江真澄を旅にかりたてたものは、何だったのだろう。

天明3年(1783年)、30歳の春に、真澄は故郷三河を離れている。

30歳という年齢は、当時どういうものだっただろう。

江戸時代の平均寿命は、30歳とか40歳と言われる。ええっと思うが、これは今では考えられないような乳幼児死亡率の高さのせいらしい。12代将軍家慶には、27人の子どもがいたが成人したのはたった1人だったという。

だからこそ、七五三で子どもの成長をお祝いした。

葛飾北斎90歳、曲亭馬琴82歳、伊能忠敬73歳、水戸光圀73歳、杉田玄白83歳、近松門左衛門72歳という享年を見ると、かなり長生きの人もいる。

 

菅江真澄が、郷里を出た30歳という年齢は、その頃、町民の隠居年齢が45歳から50歳というのを考えると、もう自分の将来というか老後が見えてくる頃ではないだろうか。

「いなのなかみち」の書き出しで、「たびごろもおもいひたち父母にわかれて」とあるので、この時点では父母は健在である。通常なら既に妻帯している年齢であるが、家庭は持っていない。この状況で、故郷を離れている。

故郷を離れたい事情があったのか、それとも、年老いた父母を残してでも北の国へ旅することがどうしても必要だったのか。

 

このあと、真澄がふたたび三河に帰った形跡はない。

秋田に、定住するまで漂泊の旅を続ける。

信濃  1783年5月〜1784年7月  

越後  1784年7月〜9月         

庄内  1784年9月             

秋田  1784年9月〜1785年8月   

津軽  1785年8月〜10月

陸奥  1785年10月〜1788年6月

津軽  1788年6月〜7月

蝦夷地  1788年7月〜1792年10月

下北      1792年10月〜1795年3月

津軽      1795年3月〜1801年11月

秋田  1801年11月〜1829年7月

こうしてみると、長く滞在してるのは、信濃の1年2ヶ月、陸奥2年10ヶ月、蝦夷地4年3ヶ月、下北2年5ヶ月、津軽(3回目)6年8ヶ月である。

真澄は、40代後半に秋田に再度来て定住する。晩年の長い年数を過ごすことになる。

 

この漂泊の日々に、真澄が何をしていたのか。

菅江真澄が見た日本」という本を、最近読んだ。菅江真澄の業績を、さまざまな視点から研究してきた33人の論文からなっている。

そのうちの1人の方が次のように述べている。

菅江真澄はただの風流人ではない。」

この言葉で、私は思い当たることがあった。

柳田國男宮本常一の両氏が、菅江真澄の短歌を酷評していたことを知ったときに感じた違和感である。

風流人とは、「俗世間から離れて、芸術、詩・歌に、興ずる」人である。(wikitionaryより)

両氏は、菅江真澄が風流人であるかのように扱っている。彼の歌は凡庸である、上手でないと言っている。

菅江真澄は、俗世間から離れて、独立した芸術作品を作ろうとした人ではない。松尾芭蕉は、一つの旅を俳句を含んだ紀行文として完結した作品にしようとしたと思う。

しかし、菅江真澄は、むしろそれとは対極にある態度で、旅をしていたと思う。短歌は、彼にとって重要なものではあったが、彼が目指していたものの要素のひとつであったにすぎない。俗世間から離れてではなく、俗世間に入り込んで、細やかに観察し、写生画を描き、歌を歌った。

彼は、神社・仏閣、年中行事や民間信仰など東北・北海道の庶民の暮らしを克明に記録し続けたが、中央から地方を訪れたものが、ともすれば見せる地方を見下す態度はない。

むしろ、古(いにしえ)の雅(みやび)なものが、鄙(ひな)に残っている、と思っていたのではないだろうか。真澄は、賀茂真淵の流れを汲むらしいが、そのような態度があるらしい。彼の文章からは、観察する対象に対する愛情を感じる。ことばや風習などに、いにしえのものがあることをを確認していることがある。それこそが、彼をかりたてたものものだろうか。

彼の旅日記が、細やかな観察による文章、短歌、繊細な写生画からなっていることや、後に秋田藩の依頼により、藩内各地の地誌作成の依頼を受け、克明で膨大な成果を残していること考えるべきである。

彼は、ただの風流人ではなく、真摯な研究者である。庶民の生活を、そのままに記録することを自らの使命とした人ではないだろうか。

 

真澄が、ふたたび故郷に帰ることがなかったのは、単に父母がいなくなった故郷に帰るべき理由がなかったのかもしれない。

われわれが知らない、もっと別の理由があったのかもしれない。

 

 

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