晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

利根川は千葉と茨城の県境である

先日のブログで紹介した関宿城博物館は、江戸川と利根川の治水や洪水そして水運史が主な研究分野となっている。

江戸川や利根川の流域は、長いあいだ洪水に悩まされてきた。

それに対して、洪水の原因となっていた蛇行する流れを、できるだけ真っ直ぐにし、広い河川敷を確保している。

その結果、基本的には利根川が千葉県と茨城県の県境であるが、いくつかの川を挟んでの飛び地がある。

私は我孫子市に住んでいたことがあるので、利根川の南岸の我孫子側に、取手市の飛び地があることは知っていた。小堀地区には、川向こうの取手市に渡るための「小堀の渡し」という渡し船がある。

かつての利根川の蛇行部分の本流は、古利根沼として残っている。

 

取手市小堀地区

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アプリ古地図散歩 2000〜2015年 小堀地区

これが、明治初期にはこんなに、蛇行していた。

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アプリ古地図散歩 明治13〜19年 小堀地区

これが、明治44年(1911年)から大正9年(1920年)にかけての改修工事で、次のようになった。

 

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アプリ古地図散歩 1900〜1930年 小堀地区

改めて、利根川の地図を見ると他にも飛び地が見つかった。

 

野田市木野崎地区

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アプリ古地図散歩 2000〜2015年 木野崎地区

茨城県守谷市常総市坂東市側に、千葉県の野田市の飛び地がある。

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アプリ古地図散歩 明治13〜19年 木野崎地区

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アプリ古地図散歩 1900〜1930年 木野崎地区

流路変更した時点では、かなり広い沼が残っているが、現在はほとんど残ってなくて、わずかに用水路となっている。

 

利根川下流香取市は、大きく水郷地区が茨城県側に飛び地となっている。

現在の県境は、常陸利根川となっているので、新しい利根川ができる前の頃からの境なのだろう。

 

香取市水郷地区

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アプリ古地図散歩 2000〜2015年 水郷地区

明治初期の地図では、利根川の流路は狭く、大きく蛇行している箇所もある。

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アプリ古地図散歩 明治13〜19年 水郷地区

川や沼や湿地帯も色々とありそうである。

これが、流路の改修により次のようになる。

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アプリ古地図散歩 1900〜1930年 水郷地区

この改修で、流路はかなり真っ直ぐになっているが、それほど広くなってはいない。

 

江戸幕府ができた頃の利根川は、関東平野を南下し、荒川や入間川と合流して、下流では浅草川や隅田川となって東京湾に注いでいたのだそうです。

江戸の街が洪水にならないように、川と川をつないだり、新しい流路を作ったりしたのです。

何もないところに、川を作るというとんでもないことをやっている。

そして、利根川東遷といわれるように銚子の方まで流れるようになった。

この結果、霞ヶ浦印旛沼などを含む広大な「香取の海」は、土砂の堆積が進んで、陸地となり、穀倉地帯となった。

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利根川下流河川事務所サイト 約1000年前予想図