晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

父と母のこと


誰でも、自分の両親のことをそんなに知ってるわけではないと思う。私も、父と母の若い頃の話はあまり聞いたことがない。何かの折に、話していたことを断片的に覚えているだけである。

今年、2月に母の長姉が亡くなり葬儀のために秋田に帰った。これで、父と母の兄弟姉妹は一人もいなくなった。

すでに、母は2年前に亡くなっている。父が亡くなったのはもう30年も前のことだ。父は62歳だったが、その時私は35歳で2人の息子を育てていた。翌年、三男が生まれた。

 

私の進学のために,父と母と3人で横浜へ出てきた。

私は、三人姉弟の末っ子で父が27歳母が24歳の時に生まれている。だから、横浜に出てきた時、父は45歳母は42歳だった。

私が千葉に就職してからは、すぐ上の姉も結婚して千葉に転居していたので、すぐ近くで暮らすことになった。

私は、30歳で結婚して、32歳で長男が生まれた。この年齢の時に、父は三人の子どもの父親だったんだな、とか考えることがあった。今の年齢の時に、父は何してたんだな、ということだ。

父も母も、義務教育終了後、秋田を離れて就職している。戦前戦中なので、尋常小学校高等科というのかな、確か14歳で卒業だと思う。14歳で親元を離れていたんだな。

父は、東京の工場かなんかで働いて、夜は学校へ行ってたらしい。計算すると、昭和15年くらいになる。溝ノ口と言ってた気がする。近くに親戚のおじさんがいたとか、一度、チラッと聞いただけで詳しくは知らない。何年くらいいたのか、その後秋田に帰っている。

母は、昭和18年くらいに川崎の工場に就職した。でも、戦争中だったので、だんだん空襲がひどくなった。毎晩のように空襲で防空壕へ逃げなきゃならなかった。秋田から、家族が危篤みたいな電報を打ってもらって帰ることにした。帰る列車も空襲に遭って、たいへんだった。子どもの頃に、何回か母が話してくれたのを覚えている。

 そうやって、二人とも秋田にもどってきて、結婚することになる。

 

父は、営林署の国有林の払下げを扱う仕事をしていた。木材の暴落で借金ができ、仕事をつづけられなくなった。たぶん、私が小学校低学年の頃だった。

それからは、父は出稼ぎを始めた。だから、私の子供時代の記憶は、お盆と正月に帰ってくる父の姿だ。それと、毎月届く現金書留と手紙。

記憶にあるのは、北海道が何ヶ所か、倶知安は覚えている。

山形にも、行ってた。東京は三鷹東京オリンピックのための高速道路の工事現場で働いていた。スナップ写真が残っている。

愛知県は、トヨタの工場にも行ってた。それから常滑市

大阪も行ってたが、どの辺だったか覚えてない。

30代から40代を出稼ぎ生活して、45歳で横浜で親子一緒に暮らすようになったということになる。

それから、千葉に移って、孫たちに囲まれた生活をしてきた。

 

父は、60歳前に体調を崩して62歳で亡くなった。歩くのが好きな人だったのに、そういう生活を楽しむことは出来なかった。

母は、毎年夏に秋田の長女のところに遊びに行って、自分の兄姉に会っていたが、ひとりで行けなくなってからは、ひ孫が生まれてその成長を見守っていた。

3年前、母がいちばん会いたいだろう一番上の姉さんに会わせようと、秋田行きの旅行を計画した。車2台で親子四代、泊まりは温泉にした。お姉さんや兄さんの奥さんにも会えて、母も喜んでいた。

帰って数ヶ月で、母は体調を崩して入院になってしまったので、ラストチャンスだった。88歳の誕生日まで、あと2ヶ月だった。

私もこの歳になったせいか、父や母にとってどんな一生だったのかなと思うことがある。

でも、それはだれにもわからない。

 

 

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