これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしている。
「出羽国」は、「羽前国」と「羽後国」に分割されたが、京から距離で前と後に分ける前例に則っている。
この時点では、飽海郡、秋田郡、川辺郡、由利郡、仙北郡、雄勝郡、平鹿郡、山本郡が所属していた。
明治4年の廃藩置県により、羽後国は秋田県、岩崎県、本荘県、亀田県、矢島県、松嶺県となる。
これは、羽後国内にあった藩を廃止し、国直轄の県としたものである。
明治5年の第一次府県統合により、飽海郡は酒田県、残部が秋田県の所属となる。
それをさかのぼること、1000年以上の708年(和銅5年)に、越後国出羽郡を出羽国に昇格させ、さらに陸奥国の置賜郡と最上郡を出羽国に譲渡した。
当時の出羽郡は出羽柵があった庄内地方であり、現在の山形県北西部であり、酒田市や鶴岡市のある日本海に面した地域である。
その後、927年(延長5年)に完成した延喜式では、出羽国は、出羽郡、田川郡、飽海郡の3郡となっており、中世以降出羽郡は田川郡に編入され消滅している。
さらに遡って、出羽郡について調べてみると、708年(和銅元年)に越後国に出羽郡を設置し、出羽柵を築造している。
越後国は、7世紀後半に越国が、磐船、淳足の2郡を分割して発足した。
淳足郡には、647年(大化3年)に淳足柵を、磐船郡には、648年(大化4年)に磐船柵を築造している。
大和朝廷は、蝦夷の住む土地に柵を作り郡を設置して、支配版図を拡大していく政策をとっていた。
淳足柵(新潟市)、磐船柵(村上市)、出羽柵(庄内)、と日本海沿いに前線を進めていくのをみるとよくわかる。
733年(天平5年)には、出羽柵は秋田村高清水岡(秋田市)に移される。
「出羽国」の出羽ということばが何からきたのだろうというのが、疑問だった。
今まで調べたことから、「出羽郡」からきていることがわかっている。
そして、出羽郡が、山形県北西部であったこともたしかである。
今は、「でわ」と読んでるがかつては「いでは」と読まれていた。
令制国の国名で、「出」という字を使っているのは、「出雲国」だけのようだ。
出雲は「いづも」と読むので、「い」は、重なっている。
出雲には、「出雲国風土記」が残っていて、国名の由来が述べられている。
出雲と名付けるわけは、八束水臣津野命がおっしゃったことには、「八雲立つ」とおっしゃった。
だから、「八雲立つ出雲」という。
読んでも、わからない。
いろんな学者の方が、出雲の語源を解明しようとしている。
アイヌ語説やら、いろいろであるが、すべて「いづも」という音から考えている。
読んでもいても、よくわからない。
漢字に、意味があると考えている人はいない。
でも、私が思うのはやはり漢字には意味があるのではないか、ということだ。
「いづも」についても、ただ音を表す当て字なら、
のようにできたはずなのに、そうはしていない。
漢字で音を表すなら、いくらでも漢字はある。
出と雲を選んだのは、それなりの意味があると思う。
出羽についても、同じように考えていいのじゃないかな。
白鳥などの羽ではないか、と考えがあるようだ。
この地方にある出羽三山の羽黒山には、羽黒神社ではなく、出羽神社があるそうだ。
「いでは」という音の響きと「出」と「羽」という漢字から、導き出されるものがあるような気がする。