晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

国名について調べて見た④ 出羽国の考察

 これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしている。

 

令制国の国名が、どのように命名されたのか考えている。

私の郷里である秋田県は、令制国としては「羽後国」である。

しかし、これは明治元年に「出羽国」が分割され、制定された。

出羽国」は、「羽前国」と「羽後国」に分割されたが、京から距離で前と後に分ける前例に則っている。

この時点では、飽海郡秋田郡、川辺郡、由利郡、仙北郡、雄勝郡平鹿郡、山本郡が所属していた。

明治4年廃藩置県により、羽後国秋田県、岩崎県、本荘県、亀田県、矢島県、松嶺県となる。

これは、羽後国内にあった藩を廃止し、国直轄の県としたものである。

明治5年の第一次府県統合により、飽海郡は酒田県、残部が秋田県の所属となる。

 

それをさかのぼること、1000年以上の708年(和銅5年)に、越後国出羽郡を出羽国に昇格させ、さらに陸奥国置賜郡と最上郡を出羽国に譲渡した。

当時の出羽郡は出羽柵があった庄内地方であり、現在の山形県北西部であり、酒田市鶴岡市のある日本海に面した地域である。

置賜郡は、現在の山形県南部であり、米沢市山形市がある。

また、最上郡は、現在の山形県北東部であり、新庄市がある。

出羽国が発足した当時、支配地域は山形県全域である。

秋田県は支配地域ではなく、蝦夷の住む土地だった。

その後、927年(延長5年)に完成した延喜式では、出羽国は、出羽郡、田川郡、飽海郡の3郡となっており、中世以降出羽郡は田川郡に編入され消滅している。

 

さらに遡って、出羽郡について調べてみると、708年(和銅元年)に越後国に出羽郡を設置し、出羽柵を築造している。

越後国は、7世紀後半に越国が、磐船、淳足の2郡を分割して発足した。

淳足郡には、647年(大化3年)に淳足柵を、磐船郡には、648年(大化4年)に磐船柵を築造している。

大和朝廷は、蝦夷の住む土地に柵を作り郡を設置して、支配版図を拡大していく政策をとっていた。

淳足柵(新潟市)、磐船柵(村上市)、出羽柵(庄内)、と日本海沿いに前線を進めていくのをみるとよくわかる。

733年(天平5年)には、出羽柵は秋田村高清水岡(秋田市)に移される。

 

出羽国」の出羽ということばが何からきたのだろうというのが、疑問だった。

今まで調べたことから、「出羽郡」からきていることがわかっている。

そして、出羽郡が、山形県北西部であったこともたしかである。

今は、「でわ」と読んでるがかつては「いでは」と読まれていた。

令制国の国名で、「出」という字を使っているのは、「出雲国」だけのようだ。

出雲は「いづも」と読むので、「い」は、重なっている。

出雲には、「出雲国風土記」が残っていて、国名の由来が述べられている。

 

出雲と名付けるわけは、八束水臣津野命がおっしゃったことには、「八雲立つ」とおっしゃった。

だから、「八雲立つ出雲」という。

 

読んでも、わからない。

いろんな学者の方が、出雲の語源を解明しようとしている。

アイヌ語説やら、いろいろであるが、すべて「いづも」という音から考えている。

読んでもいても、よくわからない。

 

漢字に、意味があると考えている人はいない。

でも、私が思うのはやはり漢字には意味があるのではないか、ということだ。

「いづも」についても、ただ音を表す当て字なら、

「伊豆毛」古事記)、「伊弩毛」日本書紀

のようにできたはずなのに、そうはしていない。

漢字で音を表すなら、いくらでも漢字はある。

出と雲を選んだのは、それなりの意味があると思う。

 

出羽についても、同じように考えていいのじゃないかな。

白鳥などの羽ではないか、と考えがあるようだ。

この地方にある出羽三山羽黒山には、羽黒神社ではなく、出羽神社があるそうだ。

「いでは」という音の響きと「出」と「羽」という漢字から、導き出されるものがあるような気がする。

 

 

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