「かすむこまかた」は、天明6年(1786年)正月から2月にかけての日記である。
天明3年春に、故郷の三河を離れて旅に出た菅江真澄にとっては、旅の途上の三回目の正月である。
天明4年は、信濃国東筑摩郡洗馬に滞在して、初めての正月を迎えた。
そして、翌年天明5年は、出羽国雄勝郡柳田で、二回目の正月を迎えている。
いずれも、正月の頃は同じところに長期滞在をしていたようである。
冬季の移動は、避けるようにしていたのだろうか。
駒形では、村上良知宅に居留していて、そこから中尊寺や毛越寺を何度か訪ねている。
中尊寺、毛越寺は、円仁によって創建されたが、その後焼失し、奥州藤原氏によって再興されたと言われる寺院である。
現在は、岩手県であるが、菅江真澄が訪ねた江戸時代は、仙台藩の領内であり伊達氏の保護を受けていた。
天台宗の本山である比叡山に赴く僧がいることを知り、その僧に故郷への手紙を依頼したことが記載されている。
2月下旬に、同じく胆沢郡前沢の鈴木常雄宅に移っている。
「かすむこまかた」の体裁は、大型本で、全31丁となっている。
万葉仮名での表記は、「迦須牟巨麻賀多」である。
この日記にも、図絵はない。
この頃の日記には、図絵が含まれていないものが多い。
中尊寺や毛越寺に行ってるのだから、まったく絵を描かなかったとは思えないのだが、どうしたことだろうか。
原本は、私の郷里である大館市立粟森記念図書館に所蔵されている。
図書館のウェブサイトにも、PDFファイルがあるので見ることはできる。
現在は、岩手県となっている胆沢郡がこの頃は、仙台藩領であったことを知ったので、令制国と藩のことを、調べてみた。
江戸時代の政治は、幕藩体制だったと教科書には書いてあった。
しかし、 江戸幕府は「藩」という言葉は使っていなかったらしい。
伊達氏については「伊達侯」、佐竹氏については「佐竹侯」と呼んでいたそうだ。
「藩」という言葉は、儒学者が中国の例に倣って使っていた学術用語だった。
それが、明治時代になって、廃藩置県のようにその実態が無くなってから使うようになった。
真澄が旅をしていた頃は、東北地方は「陸奥国」と「出羽国」の二国しかなかった。
真澄が滞在していた「胆沢郡」は、陸奥国胆沢郡だったわけである。
同じく現在の岩手県南部に属する「江刺郡」や「磐井郡」も仙台藩の領地であった。
それが、戊辰戦争に敗れた「奥羽列藩同盟諸藩」に対する処分として、陸奥国と出羽国の分割が行われた。
陸奥国は、「磐城国」、「岩代国」、「陸前国」、「陸中国」、「陸奥(りくおう)国」の五国に、出羽国は、「羽前国」、「羽前国」の二国になった。
東北地方の諸藩も、廃藩置県によって、大中小なんと34もの県が成立している。
多すぎる県の統合によって、結局は令制国の領域と近いものに落ち着いた。
磐城国と岩代国が、「福島県」になった他は、陸前国が「宮城県」、陸中国が「岩手県」、陸奥国が「青森県」、羽前国が「山形県」、羽後国が「秋田県」となったのである。
江戸時代には、大中小の藩だけでも300ほど、他に幕府の直轄地、旗本領などがあったという。
それぞれが、他国のようなものだから、そういう所を、旅するのは大変なことだったろう。
「往来手形」というのが、今の「パスポート」だったらしく、お寺や村の庄屋が発行していたそうだ。
江戸時代は、檀家制度だったので、それが戸籍や住民票などの役割をしていたのだろう。
真澄の文章には、関所など国越えについてのことはほとんど書かれていない。
真澄の旅をみていると、ただ思いつきで移動してはいないようだ。
逗留してお世話になった方から、紹介状をもらって次の目的地に旅しているのではないかと思われる。
「伊勢参り」のような明確な目的があるわけではない真澄の旅は、受け入れる人にとっては謎ではあるけれど、知らない所を旅したいという誰でも持ってる夢を満たしてくれるものでもあったのだろう。