「おののふるさと」は、天明5年(1785年)の正月を、滞在していた出羽雄勝郡柳田(湯沢市)で迎え、春になると、付近の小野小町の古跡や院内銀山などを訪れた4月末期までの日記である。
小型本で、全35丁で、これもまた、「あきたのかりね」と同様に、図絵がない。
前年10月から翌年4月までを、同じ邸宅に滞在していたのだから、時間は充分にあったのだろう。
それなのに、図絵が残っていないのは、不思議である。
まったく、図絵が描かれなかったとは思えないので、なんらかの事情で残されなかったのだろうか。
小野小町ゆかりの地は、日本全国に散在している。
湯沢市小野の地は、生誕地であると言われ、墳墓も存在している。
実際のところ、どこがほんとの生誕地で墓所であるかは、わからない。
少なくとも、菅江真澄が訪ねた頃には、この地が長年にわたって、小町ゆかりの地であると語り継がれていたことは確かである。
真澄は、小町の古跡といわれているものを、訪ねている。
小野小町は、「小倉百人一首」に選ばれている歌人でもあり、詩人でもあった小野篁の孫であるとも、子であるとも言われている。
小野篁は、陸奥守であった小野岑守の子であり、小町の父といわれる小野良真は出羽郡司だった。
菅江真澄の旅日記を読んでいると、気になることがある。
どのような所に、宿泊していたのだろう、ということである。
半月や一月くらいの旅であれば、旅籠のような宿泊施設に泊まればいい。
しかし、真澄は30歳近くになって、旅に出て旅の途上で亡くなる。
いくら旅行資金を準備したとしても、そんなに何年ももつものではない。
最初の目的地であった信濃あたりでは、知人宅に泊まっていたようだ。
信濃はすでに、何回か旅したことがあったのだろう。
そして、次の目的地では、知人に紹介してもらって、訪ねていたように思われる。
「あきたのかりね」の旅日記に、出羽国の湯沢で宿を確保する様子が書かれている。
御物川(おもの川といふ〕を渡りて柳田村といふ、さゝやのやのみ多くならびたるに入て、草彅〔いにしへ源よしいゑ公いで羽の国に入給ふのとき、弓もて、のもせの草のつゆなぎはらひしとて、くさなぎと呼給ひしとなん〕なにがしといふ、なさけある翁に宿こへば、雪消なんまでこゝにあれなど、ねもごろにいひてけるをたのみて、けふは暮たり。
草彅なにがしという、人情味のあるおじいさんに泊めてくれるようにお願いしたら、「雪が消えるまでここにいればいいよ。」とやさしく言ってくれたので、泊めてもらうことにした、というのである。
なんと、十月下旬から翌年四月までなので、五ヶ月もお世話になっている。
真澄は、この後もいろんなところで、その土地の有力者らしい方の客人として、長期に滞在していたようである。
その際には、真澄が持っていた文学や短歌についての知識が、共通の趣味を持つものとして、歓迎されたのだと思う。
ここで登場する「草彅」という苗字を見て、思い出したことがある。
この「草彅」という苗字は、SMAPの草彅剛さんと同じである。
草彅さんは埼玉県春日部市の出身であるが、インタビューで、自分の父親が秋田県出身である、と言ってた記憶がある。
「草彅」という苗字は、秋田県でもレアなので、私は知らなかった。
真澄は、この苗字が源義家が出羽国に遠征したときの由来のある苗字であることを、記載している。
「草彅」という苗字は、秋田県で500人ほど、全国の合計でも700人しかいないらしい。
真澄が旅をしていたのは、200年以上昔のことであるが、日記を読んでいると現代につながる風景が見えることがある。
おもしろいな、と思う。